「声でつづる昭和人物史」で「奥むめお」1回・2回を聞くーー101歳まで生涯現役の婦人運動家の肉声に感銘を受ける

NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」で「奥むめお」1回・2回を聞く。

私は「昭和史を語る会」を主宰するノンフィクション作家・保阪正康が解説するこの番組のファンで毎週必ず聞いている。

数回のインタビューや発言を聞いたが、理路整然とした堂々とした語り口で感銘を受けた。池田首相や、佐藤首相の評価。男は与野党を問わず女には耳を傾けない。生活を守るという意味から「しゃもじ」を主婦の象徴として運動を展開したこと。すべてを、生活からの視点、消費者の視点から、考えるという方向。この人に関する資料は読んだことがあるが、肉声を聞くと、人格までも理解できた感がある。

奥むねおは非常に優れたリーダーだったから3期18年の参議院議員を全うできたのだろう。その退任は69歳だったが、それから101歳で亡くなるまで30年以上の生涯が続いている。

 

奥 むめお(おく むめお、本名:奥 梅尾(読み同じ)、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本婦人運動家政治家。享年101。

奥むめおは、本を読むことによって「かえって大事なものからどんどん遠ざかってゆくようないらだち」にとらわれるようになり、真理は実践のなかにあり、本を読みすぎたと考え、姓名を偽り女工として紡績工場に入り、一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。

息子をおんぶしながら婦人参政権運動に取り組み、ねんねこ姿の婦人活動家として評判をよび、1947年の第1回参議院議員選挙で当選。「わたしは国会議員になったその日から、日本中のおしゃもじの心を心として働こう」と決心する。

1948年(昭和23年)に「不良マッチ退治主婦大会」が開催され、主婦たちは配給された不良マッチへの不満をぶつけ、マッチの配給制度を廃止に追い込んだ。奥むねおはエプロンとしゃもじを旗印に「台所の声を政治へ」結びつけるべく、全国の主婦たちの力を結集させ、主婦連合会をつくり、台所と政治の直結を訴えた。「平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすること」を信念として女性や毎日の暮らしのための運動に尽くしたのだ。主婦連合会の創立当時の合言葉は「くらしのつらさは政治の悪さからくる、私たちの自覚の足りなさからもくる」だった。

主婦会館初代館長をつとめた主婦会館のサイトには「人間 奥むめおの軌跡」という写真集が掲載されている。奥むねおは、90歳を超えても主婦連の会長を務めており、92歳で自伝を発刊。そして100歳では、主婦会館建設の挨拶で次のようなメッセージを発している。「私の百歳の年に再び会館建設のご挨拶を申し上げる慶びを感謝いたします。叩けば門は必ず開くことを信じ、この世に生きる限り、世の中に役立つ人間として励みたいと思います。どうぞ皆さまのお力ぞえをお願いいたします。 主婦会館 名誉館長 奥むめお」。

これが公に残した最後の言葉となり、翌1997年(平成九)年七月、新しい会館を見ることなく死去した。国立女性教育会館奥むめおコレクションがある。

「平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすること」を信念として女性や毎日の暮らしのための運動に尽くした人である。台所の声を政治に反映させるためには、「行動しなければダメ」が口癖だった。奥むねおは生涯現役で女性解放運動に取り組んだ。この人は100年人生の生き方のモデルだ。

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明日の「幸福塾」の準備。

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明日の週刊誌のインタビューの準備。

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「名言との対話」7月12日。西竹一「「We won.」

 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐。愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト

府立一中では小林秀雄迫水久常、陸軍幼年学校では辻政信と同期であった。華族だったこともあり、西は乗馬を好み、騎兵を選ぶ。そして陸軍士官学校を卒業する。

 欧米出張中に西はイタリアで名馬・ウラヌス号と出会い、自費で購入する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは馬術障害飛越競技で優勝し、金メダルを獲得する。今日まで馬術で日本人が獲得した唯一の金メダルである。

このとき、ウラヌスは自分から後足を横にねじって障害をクリヤした。この優勝インタビューで西が答えた言葉が「We won」である。Weとは自分とウラヌスを意味していた。この言葉は人々に感銘を与えた。

175Cm の長身で美男であった西はバロン西(男爵)と呼ばれ、欧米の社交界アメリカで排斥にあっていた日系人だけでなく、欧米人の間でも人気を集めた。西はロサンゼルスの名誉市民にもなっている。

戦車に転向した西は満州の戦車連隊の連隊長から硫黄島に向かう途中で乗船が撃沈され、一時東京に戻った。この時に、馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会いにいく。このときウラヌスは西の足音を聞いて狂喜し、首をすり寄せて、愛咬をしてきた。生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていた。

『帝国陸海軍 軍人列伝』(マイウェイ出版)を読んだ。栗林忠道中将率いる硫黄島では、西大佐はアメリカ軍の戦車を奪い反撃したり、アメリカへの手当てをしたなどの逸話がある。戦力でまさるアメリカ軍は「馬術バロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西大佐は黙ってこれに応じなかったという証言もある。

クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」にも西は登場していおり、私もみたのだが、残念なことに私は気がつかなかった。

私(I)が勝ったのではではなく、私とウラヌスの我々(We)が勝ったと西は優勝インタビューで答えた。最高の舞台に立ったときの西竹一の言葉が、西伝説を生んだのだ。