村上春樹『職業としての小説家』を聞き終わったーー村上さんとのエピソードを思いだした。

村上春樹『職業としての小説家』(新潮社)をオーディブルで聞き終わった。

 

耳で聴く読書は快適だ。一つだけ欠点がある。大事なところに線を引けないことだ。後で、内容を思いだすのに苦労する。以下、思いだすキーワードを並べる。

  • 寛容。文学賞。オリジナリティ。何を書くか。登場人物。誰のため。、、、
  • 早起き。1日5時間。10枚。午後は音楽。夕方1時間のジョギング。習慣。継続。多読と観察。29歳の天の啓示。本と音楽。フィジカル。英語。長く書き続ける。幸福な時間。持続力。基礎体力。身体を味方に。普通の生活。バッシング。日本脱出。海外の読者に活路。欧米中。マテリアルは日常。イマジネーション。河合隼雄。心の闇。頭のキャビネット。集積。長編。翻訳。運。、、
  • 留保。穏やかな語り口。謙虚。、、、、

時系列で村上春樹さんの軌跡を追う中で、思いだしたことがある。1980年代後半だったろうか、JAL広報部時代に村上春樹さんから会いたいと連絡があった。赤坂の「重箱」という鰻屋を指定すると、五木寛之との対談をやったところだという。

二人で対座したが、素朴な青年という印象だった。ギリシャにしばらく住んで、機内誌「ウインズ」にエッセイを書きたいという申し出だった。村上さんならどんなマガジンでも書けるでしょうというと、裸の女性が登場する雑誌には書きたくないということだった。私が企業の中で毎日闘っているというと、村上さんは、自分もそういう圧力と闘っていると応じた。

村上さんの志を理解したので、社内調整をした。しばらくして、ウインズにギリシャからの連載が始まった。その後、なにかのエッセイで、JALには世話になったと書いていたから、それはこの時のことだなと思ったことがある。

この本の中で、バッシングのひどい日本から脱出して海外に活路を求めたときのことが詳細に語られている。そういう背景の中での小さなできごとだったことがわかった。

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「名言との対話」7月11日。吉田洋一「零の発見」

吉田 洋一(よしだ よういち、1898年明治31年7月11日 - 1989年(平成元年)8月30日)は、日本の数学者

東京出身。東京帝大理学部数学科卒業。旧制一高教授、東京帝大助教授を経てフランスに留学。1930年に帰国後、北海道帝国大学教授に就任。1949年からは立教大学教授。定年退官後、埼玉大学教授。

経歴をながめると、数学一筋の堅物に思えるが、もう一つの顔があった。1952年には『数学の影絵』で、第1回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した名随筆家であり、また俳人でもあった。

『零の発見』(岩波新書)は現在も読みつつがれている名著だ。『函数論』(岩波新書)は数学書の模範と言われている。『微分積分学』(培風館)は大学教科書の決定版である。

有名な『零の発見』を読んでみた。

「武見太郎氏にささぐ」と最初にある。「はしがき」では、畏友中谷宇吉郎氏のすすめで、長い病後静養中の楽しみとして書いたとある。中谷宇宇吉郎は二つ下の北大教授で「人工雪」を降らした人で、同じく随筆家としても有名だ。日本医師会の会長で政治力があり、かつ名医であった武見太郎にみてもらったのであろう。

「この小冊子は数学を素材とした通俗的読物集である」とし、数式をかかげることを極度に避ける、数学者の名前もできるだけ出さないようにつとめている。

この本は17年後の1956年に改訂版が出て、また40年後の1978年にはコンピュターの登場も記した再改定版がでており、長く読まれていることがわかる。

インドにおける零の発見、人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。その事実および背景から説き起こし、エジプト、ギリシャ、ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫、ソロバンや計算尺の意義にもふれながら、数学と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った、数の世界への楽しい道案内書。以上が出版社のこの本の解説である。

インドで「零」の概念が発見され、発達したのはなぜかという問いを発している吉田はインド哲学の「空」と結びつけて論じることに賛成しない。もっと技術的な方面から眺めようとする。それはインドの名数法と零の発見の因果関係を探るところから始まっている。

学生時代に、名著『零の発見』を手にしたことがある。そして「ゼロ」の観念の不思議さに驚いた記憶がある。そのことを平易に書いたのが偉大な数学者であり、優れた随筆家であった吉田洋一だったのだ。