『巨人 出口王仁三郎』(天声社)を読んだ。
出口王仁三郎は戦前の最大の宗教団体「大本教」の聖祖だ。大本教の本拠地は二つある。その一つが京都の丹波地方の亀岡市である。この丹波からは、弓削道鏡、足利尊氏、明智光秀、出口王仁三郎が出ている。これは逆賊の系譜だ。この地は反体制の大物がでる。
大本教については、梅棹忠夫が中央公論に書いた「大本」という論文がある。梅棹は「日本探検」で取り上げている。日本が生んだ世界宗教である大本教の教義、国家権力による異常な弾圧、そしてエスペラントによる世界の交流の可能性について論じている。その時から興味を持っていた。
先日、亀岡を訪問する機会を持った。その時、『巨人 出口王仁三郎』(出口京太郎)を購入た。533ページの大部の書物を読み終わった。この人は、確かに「巨人」だと思った。
呼ばれ方:スーパーマン。スフィンクス。一世の怪物。孫悟空。大怪物。巨人。千年にひとりの人物。ゆくとして可ならざるはなき底の人物。天馬空をいく。宗教的的天才。異色の芸術家。異端の思想家。山師。妖教の指導者。大逆賊。、、、、。
予言者:日本帝国の滅亡。天皇の人間宣言、日中戦争から日米戦への推移や大戦の主要な筋書き。満州事変。原敬暗殺。1931年をイクサハジメ、ジゴクハジメ。
芸術家:楽焼を絶賛した新村出。短歌は最大量の歌集。絵画は白に比肩。その他、狂歌・狂句・冠句・川柳・和歌・浄瑠璃・音頭・書画・油絵・彫刻・陶芸・演劇・文章・義太夫・能楽、、、。「ようわん」は2年で3000個つくった。
人材の宝庫:教祖の輩出集団。谷口雅春(生長の家総裁)。岡田茂吉(世界救世教教主)。植芝盛平。しかし「人がない」と嘆いていた。
人を巻き込む魅力:秋山真之中将。浅野中将。板橋少将。内田良平。頭山満。野間清治。久原房之助。下中弥三郎。加藤秀俊。青地慎しん。吉川英治。小山内薫。今東光。金重陶陽、北大路魯山人。谷川徹三。熊谷守一。
世界宗教:普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教、の一部からなる世界宗教連合会の結成。エスペラント:「世界のいろはが一つになるぞよ」
愛善会:10年で支部総数は1247。内地962、満蒙207、、、。
団体との親善:イスラムのシベリア協会、ラマ教、道教、万国道徳会、孔教会、紅十字会、、、、、。
『霊界物語』:全81巻。120巻を想定していた。宇宙創造から死後の世界、天上界から地獄までを描いた古今未曽有の大著。
性向:一つの目標にむかうと、全力をかたむけ、猛烈な情熱を集中して突撃する。
言葉:「わしはふつうの者の10年を1日でいきとんのじゃ」「在家の菩薩が道を説くようにならな、みろくの世はこない」
教義:宇宙の創造者は一つ、キリスト、弥勒、神々など様々の神という姿であらわれる。「一つの神、一つの世界、一つの言葉」。芸術と宗教と生活のハーモニーを大事にする。「かんながらたまちはえませ」
二度の大弾圧:裁判で無罪を勝ち取ったが、国家賠償の権利を放棄した。
4月2日に訪問。出口王仁三郎の曾孫である出口篁さんにじっくりと解説をしていただくという幸運に恵まれた。
万祥殿でお祓いを受けた。大本の神は、大天主大神。宇宙創造の神。唯一神。仏教の阿弥陀如来も、イスラムのアラーも、キリストも世界の宗教は皆この神が姿を変えたものだということになる。もちろん日本の八万の神もこの唯一神の表れである。この教義では他の宗教とは争いがない。いわば世界宗教である。大本はエスペラント語の普及に熱心な団体だという事は知っていた。エスペラント語の碑であった。
「かむながらたまちはへませ」。神、霊幸、倍。神様を全面的に信頼をするというお祈り。
能舞台が右手にあった。信仰と芸術は両輪である。大自然は神が作った芸術である。そこから宗教が生まれる。芸術によってそのことを感じる感度が上がる。「芸術は宗教の母である」。
四大主義。「清潔主義。楽天主義。進展主義。統一主義」。楽天主義とは、天命を楽しむという意味だそうだ。四大綱領。政。教。慣。造。
朝陽館という公館でお茶をいただいた。大本では教主は歴代女性である。
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「名言との対話」5月7日。柄沢とし子「帝国主義戦争の犠牲者になった引揚者救済予算の貧困」
柄沢 とし子(からさわ としこ、本名:松島 登志子(と志子とも)、1911年5月7日 - 2013年12月2日)は、日本の政治家、労働運動家。享年102。
海道札幌市出身。北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、道庁でタイピストをしながら日本労働組合全国協議会に参加]。三菱美唄炭鉱などでストライキに関わるが、非合法活動により1929年以来数度検挙される。
上京。ゾルゲ事件に連座して検挙されるが起訴猶予。日本で最初に女性参政権が認められた、1946年総選挙で北海道1区から当選した日本最初の女性国会議員(39人)の一人となった。2期つとめた。夫は日本共産党の松島治重。
1946年4月10日に行われた戦後初の衆院選に共産党から北海道1区で出馬し初当選を果たす。同年に行われた大日本帝国憲法改正案(日本国憲法案)の審議では、衆議院本会議において、他の日本共産党議員とともに反対の青票を投じた。
議会で柄沢とし子は、「帝国主義戦争の犠牲者になった引揚者救済予算の貧困」として兵士の残留問題を取り上げている。「侵略戦争に国民をたくさん動員しておいて、えらい人だけは飛行機で帰ってきて、兵士は南の島なんかにたくさん取り残されている。食料もなくて大変だろうから、政府が連合国に働きかけて一日も早く祖国へ帰れるようにしてほしい」。「“侵略戦争”と言ったのがいけない」といって、ひきずりおろそうとした自民党の議員に妨害されている「その後の報道でわかったことですが、外地の戦死者の七割が飢え死にだったそうです」と、95歳の時のインタビューで語っている。
1946年、女性参政権が認められた初の衆院選では、39人の女性議員が誕生した。近藤鶴代(科学技術庁政務次官)、山口シズエ(「下町の太陽」。経済企画庁政務次官)、山下春江(厚生政務次官、経済企画庁政務次官)、、。1946年の参院選では、奥むめお(主婦連会長。主婦会館初代館長。101歳)、赤松常子(厚生政務次官)らが当選している。この流れは、1947年の中山マサ(女性初の厚生大臣)、1953年の神近市子、市川房江へと続いていく。
女性初の議員の柄沢とし子は、102歳の長寿を保ちながら、初志を貫いている。このような先頭に立った人たちの努力によって、男女平等を実現しようとする女性たちの長い列ができたのだ。
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