「図解塾」:梅棹忠夫「文明の情報史観」の図解化にチャレンジ中ーー「放送」「消防」「都市」「教育」、、

20時から22時まで図解塾を開催。

以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日の「情報の文明学」図解のパワポ化では、「放送」や「消防」「都市」「教育」などの分野について、「情報」という視点からの 興味深い分析・見解に触れることができました。その中で、日本人はビジョンは持たないと言われるが、固定ビジョンを持たないが故に、創造も模倣もできるところがよい、といった話や、創造していく際には、目標や結果ではなくて「原型」をつくることが大切、といった話が印象に残りました。また、パワポ化した図を説明することが、言葉の関係性や納得感を考えることにつながり、理解が深まるということも実感できました。「情報の文明学」もいよいよ終盤。 久恒先生から、 次の図解塾のテーマについて、いくつかご紹介がありましたが、どのプランも大変興味深く、後の講義が楽しみです。また、「図解塾」第2期レポートも大作となって刊行される見込み。こちらも大変楽しみです。引き続きよろしくお願い致します。
  • 本日もみなさまありがとうございました。講義内容をまとめたものは、講演されるそれぞれの土地や場所について情報産業論の観点から説かれていて、いろいろなものを情報産業に結び付けて、新しい見方を教わった気がいたします。情報論語録では、放送について、電波には編集権がないとか、BGMは無意味情報だとか、研究者に発想料だとか、見えないもの流してしまっているものについて、情報の観点から論じられていて、なるほどと思わされることばかりでした。また来週も、また、今後も何をやられるのか楽しみです。図解塾の2期のレポートももうすぐできそうですね。垣内さん、鈴木さんどうもありがとうございました。完成するのが楽しみです。
  • 久恒先生、今日もありがとうございました。第2期図解塾の記録集、編集作業に入られたとのこと、超大作に感銘を受けました。第3・4期図解塾の記録集も再始動しなくては。。。「専門家とは、自分の立場からあらゆるものをみる」ということを地で行く梅棹先生の情報の文明学の図解では、さまざまな業界での講演をまとめた情報論語録のパートでした。「パーティ学、要素をひとつにまとめること、経済的秩序の殻を脱げ!」というキーワードは、ダイバシティの重要性を指摘していたのだなと本日も先見の明に触れることができました。これからの人は人生に目的(金儲け)がなく、生きている中で少しずつ未来を感じながら、未来を創っていく人なのではという考えもなるほどと思いました。原型があり、発展していく時代。ゴールを決めて始めると発展せず、うまくいかないというプロセスも、現代人の体質改善から取り組みが必要な課題ですね。次回もよろしくお願いします。
  • 久恒先生、皆様、本日もおつかれさまです。いやぁ、本日も出席敵わず、残念!いささか乱入気味ですが、本日の自分の「気づき」情報をup致します。8月2日東京新聞「洗筆」欄に出ていた「ニシェル・ニコルズ」さんをご紹介します。ご存じSFテレビドラマ「スタートレック」で通信士「ウフーラ」大尉を演じ人気を博しました。役柄は他の白人男性と「対等」を間柄で、まだ人種差別が激しかった当時(1966-1969年)としては画期的な「時代を変える」役柄。ウフーラ大尉に憧れ、毎週の放映を楽しみにしていた黒人の男の子と女の子が居たそう。二人は後年、自身も時代をリードする大人物に成長。男の子の名はバラクオバマ(第44代合衆国大統領、アフリカ系アメリカ人初)、女の子の名はメイ・ジェミソン(1992年9月スペースシャトルエンデバーで初めて宇宙飛行を行ったアフリカ系アメリカ人女性)。同じ肌の色も持つスターに憧れ自分への励みとし、いつしか自らが憧れられる存在に成長していくという「倖せのリレー」の様子や、時には差別も受けていた「悩めるスター」を陰で励まし続けたといわれるキング牧師の存在という「支え合う」人々の姿勢は、今の世においても忘れてはならない大切な事と感じた次第です。去る7月30日に老衰の為89歳の生涯を閉じたニシェル・ニコルズさんは、役名を自ら名付けたそう。その名は「ウフーラ」スワヒリ語で「自由」を意味するそうです。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
  • すみませんが、8月3日(水)の図解塾は欠席させていただきます。宿題だった34番をGoogle Driveにアップロードしましたが、ここにも一応jpeg形式でアップしておきます。

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「名言との対話」8月3日。岩崎小彌太「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」

 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

 「三菱」の創業者・岩崎彌太郎1834年生まれ)は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。

二代目の弟・彌之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。

その後、彌太郎の息子の久彌を経て、彌之助の息子・岩崎小彌太は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。巨大な三菱財閥は小弥太の時代に完成したのである。

 第一高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学に入学した小彌太は在籍一年でイギリスに留学する。小弥太はケンブリッジのカレッジを優等で卒業している。当時の優等生は菊池大麓(東大総長、文部大臣)のみだった。漱石も同時代の官費留学生だった。

小彌太は「小生帰国の上は、官庁の 制 肘 を受けない学校を起し、理想的教育に専念してみたい」と思っていたが、帰国後、すぐに副社長に任ぜられ、そして弱冠30歳で社長に就任する。辛抱し、「五五歳になったなら三菱をやめて社会事業に乗り出し、新聞を経営したい」、「不偏不党、社会の 木鐸 となり得る新聞」、を作りたいと考えていた。しかし、そうはならなかった。不本意ながらも三菱の総帥の任に応じ、全力疾走して、67歳で生涯を終えたのである。

武田晴人『岩崎小彌太』(PHP新書)から小弥太の事業経営に関する言葉を拾ってみよう。

商業活動については、「生産者と消費者との中間に立って、最も便利に 且つ最も廉価に物品の分配を司る」、「我々は大いに競争す可きである。然し私は我々の競争をして量の競争たらしめず寧ろ質の競争たらしめたい」と意義を強調している。

三菱のDNAともいえる三菱グループの経営理念、いわゆる「三綱領」を定めた。「所期奉公」は社会貢献、「処事光明」はフェアプレイ、「立業貿易」は海外貿易を意味している。「自分は国家社会のために仕事を行う考えである。三菱とか岩崎家の利害などは第二、第三の問題」としていた。私益でもなく、国益でもなく、国民の福利の増進を事業目的としたのである。

「事業経営は国民生活の必要と産業自体のモラルの向上に目的を置くべきで、利害を主とし営利を第一義としてはならない」とし、「実業界の人々は、其の品性に於て其の操行に於て、共に国民の模範にならなければならない」、そして「政治に 干与 し政党に接近するが如きは実業人の使命の逸脱」と戒めている。

  二代目岩崎彌之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。それを引き継いだ小彌太は、800を超える中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集している。その蓄積が 現在の静嘉堂文庫美術館に結実している。

「利潤を越えた目標」には、文化興隆のための美術館建設も入っていたのであろう。その考え方の伝統は、2010年に開館した三菱一号館美術の存在にも引き継がれている。