「千仞の谷を跳んだ人生最大の『決断』」

いくつか出版プロジェクトが進行している。

知研の仲間の小野さんの主導で、「決断」をテーマとした10人の共著の原稿がそろったらしい。今後、編集作業にうつり、2023年3月に刊行される予定だ。

私は「千仞の谷を跳んだ人生最大の『決断』」というタイトルで、「人生は選択と決断の連続です」から始まる原稿を書いた。いい機会なので40代半ばのビジネスマンから大学教員への方向転換の過程をまとめてみた。

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野田一夫先生との出会い


1994年3月30日、東京・赤坂のカナダ大使館の地下にある「シティ・クラブ・オブ・ト
ーキョー」で、当時多摩大学の学長だった野田一夫先生とお会いしました。私の初の単独著書である『図解の技術』(日本実業出版社)を読まれた野田先生から呼び出しがあったのです。
最初に握手しながら発せられた言葉は「野田です。 君の本を読んで感心した。 宮城県
に作る大学に、ぜひ君に来てもらいたい」との驚くべき内容でした。
食事をしながら「君のライフプランはどうなっているのか」などいくつか質問を受け、
自分の考えを述べたことを思い出します。食事が終わった後、不思議な気持ちを抱きながら、カラオケバーで野田先生の歌を聞いていました。そして、この日から私は人生の舵を大きく切ることになったのです。
翌日、私は野田先生に手紙を書きました。その内容は残念ながら残っていないのですが
、「士は己を知るもののために死す」という言葉を使って、感謝の念をお伝えしたことを思い出します。
また、「運命の女神に後ろ髪はない」という諺も浮かびました。この諺は、通り過ぎた
後で運命の女神の髪を掴もうとしても、女神に後ろ髪はないので掴めない、運命の女神はその場で掴まえなければならないという意味です。
この日から宮城大学開学までの3年間は、今までどおり仕事をこなしつつも、人生、仕
事、家族、幸福などについて、強く意識する日々となりました。毎日仕事で会う人たちの生き方、考え方などに関心を寄せながら、自分の行く末をどこかで常に意識していました。
そして私は久しぶりに日記を付け始めました。というのも、この三年間はもっともライ
フコンシャス(人生に対する意識)の強い時間になったからです。また仕事や家族など、解決すべき大きな問題も着実に収束していかねばならないということで、緊張感のある時間を過ごすことになりました。

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夜:デメケン。力丸。深呼吸事務局。

柴生田さんに野田先生逝去を知らせる。

昨日と本日、1万歩。


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「名言との対話」9月12日。徳田球一「よいものはむろんためになるし、つまらないものも、つまらないなりにためになる」。

徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年明治27年)9月12日 - 1953年昭和28年)10月14日)は、日本政治運動家共産主義者革命家弁護士政治家

沖縄名護市出身。旧制沖縄一中を出て、鹿児島の第七高等学校に入学するも、差別的な扱いに反抗し、退学。上京し働きながら日本大学法律学科の夜間部に通う。1920年に判事登用試験に合格し、翌年弁護士を開業。27歳であった。

1922年、日本共産党結成にあたり、執行委員となる。ソ連にわたりコミンテルン会議に出席する。1928年、治安維持法違反で逮捕される。戦後、GHQ政治犯釈放の意向に沿って1945年10月10日に出獄。再建された日本共産党の書記長に就任。1946年、衆議院議員に当選し、以後3期当選。

1950年のコミンフォルム日本共産党の平和革命路線を批判。宮本顕治らと対立するが、徳田ら所感派・国際派が主流となる。健康状態の悪い徳田は、中華人民共和国に亡命。1951年綱領で武装闘争を明文化する。1953年北京で病死。

多磨霊園の墓には、毛沢東の告別題詞「永垂不朽」を周恩来が書いた文字が刻まれている。

徳田球一という名前を聞くたびに「球一」に何か不思議な感じを持っていた。父は「琉琉球一の男になれ」との願望でつけたのである。それで謎が解けたが、「琉一」でも良かったのではないか。

鹿児島のナンバースクールの七高は居心地が悪かった。琉球人差別である。西南戦争で西郷についた鹿児島の徳田は没落していた。ここでの生活でも差別的取り扱いを受けた。大久保側についたライバルの川崎家は、後の川崎造船として発展していった。

今年鹿児島を訪問し、七高の後に立つ県立図書館の前の七高生の群像をみた。七高出身者には、短歌の中村憲吉、沖縄の政治家・瀬長亀次郎がいる。敗戦時の東郷茂徳外相も朝鮮から連れられてきた陶工の末裔で外城士であったことから、身分差別のはなはだしい土地柄で不愉快な目にあっている。

徳田球一日本共産党で重きをなしたのは、「おやじさん」と呼ばれる人柄、「徳田天皇」と呼ばれるリーダーシップ、そして敵陣営の吉田茂石橋湛山らからも敵視されない人物であったからだ。一方で、18年におよぶ獄中生活を耐え抜いたことによる尊敬があったことは間違いない。

徳田球一篇「小さな正義派/親孝行でとおる/小学校で最初のストライキ/七高生から代用教員/郡役所書記/ふたたび東京へ/米騒動に参加/司法官試補の二ヶ月/弁護士時代/日本共産党を組織/労働戦線統一と第二回党大会/早大の反軍教闘争/少年シンパ/市ヶ谷でむかえた大震災/勉強室としての監獄/長老連の解党論と党の強化/三・一五に捕わる/佐野学らの裏切り/公判闘争/網走─氷のこんぺいとう/監獄領地の農業/監獄の花/お針と糸つむぎ/侵略戦争反対のたたかい/しいたげられているものがもっともよく理解する/親切な囚人たち/獄死した同志のことども/獄中の読書/お天気てんぐになるまで/千葉、小菅、豊多摩、府中/終戦の前後/むすび」。

刑務所生活について徳田は、「監獄はどうせろくなところではないが、一つよいことは、世間からへだてられているだけに学問に身がいることだ」と述べている。月に4冊という制限があり、欲しい本はなかなか手に入らない。しかし読み方さえしっかりしていれば、どんな本でも有益だという考えである。

「つまらないものの、つまらないなりにためになる」と思いながら、18年という長い学究生活を監獄の中で送り、大学者になったのだろう。

 

参考。

徳田球一・志賀義雄『獄中生活十八年』

岸谷和『徳田球一とその闘魂』