「野田一夫語録」へーーー「他人と比べるな、過去の自分と比べよ」。

野田先生の訃報で多彩な縁者が、追悼の言葉をくれている。

以下、野田先生が発した言葉のいくつかをピックアップしてみた。

やはり、「野田一夫語録」を編む必要がある。

  • 他人と比べるな、過去の自分と比べよ。
  • 人はよく他人の失敗をあげつらったり非難したりするが、ならば、そう非難する人は一体何をしたのかと言いたいね。自分は何もせずにいて、他人のしたことを批判する資格なんかないんだよ。
  • うちの親父にはひとつの哲学があって、それは明るい顔は周囲を明るくさせ、暗い顔は周囲を暗くさせる。だから、人前に出たら暗い顔をしてはいけない、というものです。人間はみなそれぞれ人には言えない悩みをもっているものだが、暗い顔は心の重荷をいっそう重くし、笑顔は気持ちを軽くする。だから、みなさんもなるべく笑顔を心がけるといいと思います。
  • 単なる夢ではダメだ。願望を成就するためには、夢を「志」と呼ぶ強い決意にし、それを常時自分自身に言い聞かせるだけでなく、機会あるごとに他人にも堂々と述べるべきだ。
  • 会社でなにか不合理や不条理を感じることがあったとしよう。ところが3回目までは黙っていて、4回目になって突然、強い調子で意見を述べたらどうなるか。たぶん反発を食らうだけだ。だから、おかしいと感じたら、すぐに発言したほうがいい。最初はびっくりされるかもしれないが、君の評価は、その時点で「変わった奴」となる。するとそれ以後は、「変わった奴」として扱ってもらえるのだ。こうして精神の自由を確保すれば、ストレスはたまらないし、愚痴や陰口など出てくるはずもない。
  • 「平凡に生きたい」という若者には、「それが実は、一番難しいのだよ」と忠告したい。
  • やはり人間は叱るだけではダメで、褒めることもしないといけません。
  • 明日死んでも、後悔はありません。充実して、楽しかったと言える人生でした。(91歳)
  • 師〟とは人生の貴重な教訓を与えてくれた人を指す。
  • サラリーマン経営者は会社に一兵卒で入って、結果的にリーダーになった人たちだ。それに比べ創業経営者は小さいながらも最初からリーダーの役割を果たしてきた人たちだ。そこが大きな違いだ。
  • ワンマンな相手に対して、反対意見をはっきり言う大人になれ、そうすれば、その場では、反発をかっても、必ず、あなたに賛同する方が現れ、後から、あなたを応援してくれる。そんな人達が、本当の意味での同志として、あなたを支えてくれる。
  • 人によって異なるはずだが、僕の場合には、60歳代になってようやく、人生が自分の納得できるものになってきたという気持ちを抱けるようになり、 70歳代半ばになってからからは、”少年の夢”を喪失して以降、ひたすら漠然と望み続けてきた”納得できる人生”がやっと現実化したという自信が心中に漲るようになった。そして、80歳代半ばの今は、視覚的に表現すると「人生が豁然と開けた」とでも言おうか、気分はいつも実に爽快で、肉体までが何か若返ったような独特な活力を感じつつ充実した日々を送っている。
  • 忙しすぎて、死ぬ暇がない。
  • 「志」は他国にない素晴らしい日本語
  • 人は当たり前のように明日のことを考える。でも、明日は誰にも保証されていない。もしかすると明日はないかもしれないと気づけば、今日を懸命に生きるようになる。そのことを改めて自分に思い知らせるために、社会欄から読むんだ。〇〇くん、君は今日を懸命に生きたか!
  • 個性を磨け、愚痴を言うな。
  • 社会科学には〝科学〟としてのどんな実績があるのでしょうか?日本の社会科学者の多くが、常識的な事柄をわざわざもったいぶった表現で難しそうに言いたがるのも、彼らの劣等感の現れでしょう。
  • 「国」と「国家」は分けて考えること。国家は権力機構、常にウォッチ、警戒すべき対象。
  • 誰に対してもはっきりとものを言い、自分が間違っていたときは素直に認めること。
  • ふわふわした夢ではなく志を掲げよ。

何回か、「野田一夫語録」をつくることを考えた。それを実行しよう。

https://forms.gle/7mMTadp44QLGokUw6

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「名言との対話」9月10日。竹内俊子「母のみ知る悦びを謡ふ」

武内 俊子(たけうち としこ、1905年9月10日 - 1945年4月7日)は、童謡詩人、童謡作詞家童話作家。

広島県三原市出身。広島県立第一高女を経て、広島女子専門学校へ入学。退学し結婚し、東京世田谷へ転居。

1924年頃から4人の子どもの育児をしながら、童謡や童話の創作を始める。

1933年の第一歌集『風』には、「言葉に溢れている童心から強い刺激」を受けていること、「母のみ知る悦びを謡ふ」、そして「子どもと共に風の子になって謡ひたい」と書いている。

竹内俊子は、野口雨情に高く評価され、主要な児童雑誌「コドモノクニ」「幼年倶楽部」などに作品を発表していく。

1937年、キングレコードの童謡シリーズで、「カモメの水兵さん」が大ヒットした。その後も「赤い帽子・白い帽子」、「りんごのひとりごと」、「船頭さん」などもヒットし、日本全国の子どもたちが愛唱するまでになった。

竹内俊子作詞・河村光陽作曲の「カモメの水兵さん」は、横浜港からハワイに向かう叔父の見送りのときの景色を描いたものだ。この曲は圧倒的な人気で、アメリカ、フランス、ドイツ、韓国でも歌われた。「白い帽子 白いシャツ 白い服」のカモメの水兵さんの様子が目に浮かぶ、明るく、楽しい歌である。

1940年の「りんごのひとりごと」は「私は真赤なリンゴです」から始まって、寒い北の国から箱に詰められて、市場について、果物やのおじさんに顔をきれいにふかれて、リンゴ畑のおじさんを思いだすというストーリーだ。やや哀愁の香りのする歌詞である。

「船頭さん」は、」「村の渡しの船頭さんは 今年六十のおじいさん」から始まる。船頭の仕事を楽しみながら人々とコミュニケーションをとっている姿がみえる曲だ。

「赤い帽子 白い帽子」は、ランドセルを背負って通学するなかよしの子どもたちの様子を歌った楽しい歌だ。

コンビを組んだ河村光陽は、音楽教師をつとめながら作曲活動を行い、キングレコードの専属となり、竹内俊子の詩と出会う。1000曲を作曲した。大半の楽曲は長女の順子歌唱によるレコードで発表されている。

以上紹介した童謡は、私も小学校時代に歌った記憶がある。本当に久しぶりにこれらの歌を聴いてみて、このような歌をつくることのできる人は素晴らしい人に違いないと感じ入った。

子育て中の、言葉を操つるようになった「童心」からの強い刺激、「母のみ知る悦び」を感じ、それを歌にして、一緒に歌う。童謡に関与する人はこういう人たちなのだろう。