SNSで見かけた野田先生へ追悼:まず河北新報「河北春秋」など。

野田先生へのSNS上の追悼文を集めています。
河北新報の9月16日の一面のコラム「河北春秋」に野田一夫先生の追悼文。

この記事を送ってくれた富田秀夫さんの追悼文。

  • 野田一夫先生ご逝去、ショック、悲しい。私の恩人であり、私の人生をいい方向に導いて頂いた巨人。昨年末に食事をご一緒させて頂いたばかり、半年余りで亡くなられるとは思いも寄らなかった。95歳、私の弔辞は先生にお願いしますよと冗談を言ってたが、100歳前に亡くなられるとは想像だにしなかった。先生は多摩大学・宮城大の初代学長で秋田国際教養大・事業構想大学院大学などユニークな大学も創立された。平成の吉田松陰と謂われ、ソフトバンクの孫さん、パソナの南部さん、HISの澤田さんを育成したと高く評価されていた。特に孫さんは起業時、デスクを先生のオフィスに間借りし先生の薫陶を得て世界的な経営者になった。親しかったピーター・ドラッカーを日本に紹介したのも先生だった。先生のファンは多く、仙台で野田一夫ファンクラブを20年前に結成し、15年前から私が会長を務めさせ頂いていた。この写真は娘のように可愛がっておられたジュディ・オングさんを招いてのファンクラブは圧巻だった。77銀行頭取・アイリスオーヤマ社長・電力元副社長・村井知事は所用があり途中退席されたが、知事も先生を師と仰いでおられ、公務のないときは会合に出席頂いた。近いうちに偲ぶ会をやろうと思う。

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「名言との対話」9月22日。川本信正「五輪」「暁の超特急」

川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年明治40年〉9月22日 - 1996年平成8年〉6月17日)は、日本のスポーツジャーナリスト、新聞記者、スポーツ評論家。

東京出身。1931年に東京商科大学一橋大学)卒業後、読売新聞社に入社し、運動部の記者となる。

1932年のロサンゼルスオリンピック、1940年の幻の東京オリンピック、1964年の東京オリンピックなどの記事を書く。そして1980年のアトランタオリンピックの直前に死去。享年88。

川本は1940年に大政翼賛会、1943年にNHKに移り、鈴木貫太郎内閣で下村内閣情報局総裁の秘書官になった。終戦詔勅を読んだ天皇陛下玉音放送の収録に立ち会い、直後に起こった宮城事件で監禁されている。

戦後、川本はスポーツ評論家、日本オリンピック委員会委員、そして1964年の東京オリンピックでは日本テレビのゲスト解説者をつとめた。1980年の日本がボイコットしたモスクワオリンピックでは、反対でJOC委員を辞めている。アトランタオリンピックではすべての国と地域が揃うと楽しみにしていた。

ロサンゼルスオリンピックでは、日本から男子陸上100メートルに吉岡隆徳が出場した。吉岡は後に世界タイ記録をたたきだす名選手であり、日本人で決勝に進出した唯一の選手である。優勝したアメリカのエディ・トーランは黒人であったため、、ミッドナイト・エクスプレス「深夜の超特急」という愛称があった。吉岡はスタートダッシュがよく、決勝でも60mまではトップを走っていたが、最後は6位に沈んだ。川本記者はそれをトーランにもじって、「暁の超特急」と書いた。明け方に猛スピードで走るという意味だ。この言葉が国内でよく知られ、今でもよく使われている。

1936年の国際オリンピック総会で、嘉納治五郎らの努力で1940年は東京に決まった。記事の見出しではオリンピックは6文字で場所を多くとるため、もっと少ない文字で表せないかという新聞社には課題があった。川本は菊池寛の随筆に宮本武蔵の『五輪書』という言葉をみつける。仏教ではすべてのものは地・水・火・風・空の五大要素からできているとし、密教ではそれぞれに「地輪」などと呼び、全体を五輪と呼んでいる。武蔵はこの思想を援用したのである。川本は世界は5つの大陸からなっているというオリンピックの思想を表すのに、「五輪」という2文字の漢字を使った。それを読売新聞だが使い、他の新聞社も使ったのである。「オリン」と「ゴリン」は語呂があうということもあったようだ。

こうやって川本信正の生涯のキャリアを追うと、まさにオリンピックとともにあったとい感を深くする。NHK大河ドラマの「いだてん」では、オリンピック憑かれた人たちが何人も登場する。川本もその一人だった。川本信正は、大手新聞社の運動部記者としての特権を使い、「暁の超特急」という造語や、オリンピックの日本語翻訳の「五輪」という言葉を発明して、名を残した。新聞記事では「五輪」を使うのはなぜだろうかと思っていたが、今回川本信正のことを調べて、その経緯がよくわかった。ここにもドラマがあった。