色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読。

台風13号の接近ということで、妻の整体(オステオパシー)に付き添うことにして、多摩動物公園駅からモノレールで立川へ。

  • エクシオール・カフェ:原稿のチェック。司法書士と面談。NPOの手続きが終了。手数料の振り込みが必要。
  • 高島屋9階の「東方紅」で食事。その後、カフェ・ド・クリエでコーヒー。
  • たまたま空きがあった15時から私もオステで体を整える。
  • ある出版社から企画の相談のメール。
  • 『野田一夫の大いなる晩年』が7冊届く。ご遺族に送付する予定。
  • 電話:仙波さんに立教の野田ゼミOB会へのPRを依頼。秘書役だった藤村さんとも情報交換。

夕刻:色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読。

ある一人の明治の常民の一生を追いながら、明治の可能性を追った力作だ。神保町の古本屋で手に入れた本だ。

明治人には精神的な骨格と変革期の焦燥がある。それを体現した無数の宝の一人が北村透谷と同年生まれの恋敵・平野友輔だ。立身出世型ではない、在村活動家型の人間像の一人の地方知識人である。平野の生涯は「一篇の優しい長い詩」であると歴史家である色川大吉は「追記」で総括している。こういう明治人が全国に無数にいた。それが明治国家を築いたのだ。

平野友輔(1857年生)は町医者、政治家、郷土(三多摩)の指導者として生涯を送った。この本では、無名の主人公・平野を軸に交錯した有名、無名の明治人が登場する。

石坂昌孝(自由民権)。北村透谷(婚約者・美那子と結婚)。福沢諭吉(言論人)。森鴎外(東大医学部)。坪内逍遥(一級上の落第生)。北村透谷。広瀬淡窓(愛吟)。奥宮健之(陽明学)。矢島楫子婦人矯風会)。徳富蘇峰(平民主義)。内村鑑三キリスト者)。二宮尊徳(東洋道徳)。ベルツ(医師)。平野藤子(妻・看護婦。100歳)。海老名弾正(同志社総長)。明治天皇(大帝)。石川啄木(詩人)。有島武郎(文学者)。

平野友輔をあらわす言葉を拾ってみよう。ーーー正義感。民権家。東洋思想。首尾一貫した生活態度。たゆまざる人。ナショナリズム。愚痴を言わない明治の人。質素。勤勉家・自己制御と人格鍛錬。教養と克己。聖書と論語。和魂洋才。墓はいらない。享年72。湘南地方人格の第一人者。

平野友輔は、東洋の思想と西洋の文化を体現した、明治の知識人の一つの典型だ。こういう人たちが全国にいたことが近代日本の幸運だった。

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「名言との対話」9月8日。長与専斎「衛生は自治の元素たることまた疑う可からざるなり」

長與 專齋新字体長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年9月8日)は、日本医師医学者官僚

長崎県大村市出身。この人の名はよく聞く。大坂の緒方洪庵適塾に入門し、3歳年上の福沢諭吉の後任として塾頭になった。

大村藩藩医を経て、長崎の医学伝習所でポンペから西洋医学を学ぶ。1868年、長崎の病院長、長崎府医学校の学頭に就任。1871年には岩倉使節団の一員として、欧州の医療制度等の実情を調査。

帰国後に「医制」の制定に着手。1874年、文部省医務局長に就任、東京司薬場を創設。ここでは、「医薬分業」を主張し「薬制」をつくろうとした柴田承桂を起用している。

1875年内務省初代衛生局長に就任。健康保護を進めるための部局として衛生局と命名した。後藤新平を抜擢し衛生局長に据えるが、後藤は相馬事件で失脚している。

衛生局長退任後も、中央衛生会会長、日本私立衛生会会頭に就任し、衛生行政を推進した。

仙川の武者小路実篤記念館で、白樺派の小説家・長与善郎が専斎の五男であることを知った。また、私の郷里・中津の医師・川嶌眞人共編『九州の蘭学ー越境と交流』でも紹介されていた。福沢とは明治には交流があった。

さて、長与専斎は、「衛生」を生涯にテーマとしていたようだ。この「衛生」はHygieneの訳語として長与が採用したものだ。「大日本私立衛生会に

おける長与専斎の活動とその評価」(小島和貴)という論文(桃山学院大が宇特定個人研究)を読んだ。

それによると、「衛生」の目的は「人生の無病長命である。そのための手段は「清浄なる空気飲水を給する」ことだとした。具体的には地中に土管を埋め込むなどの上下水道の整備、家屋の改良、道路修繕を含めた「塵芥不潔物の掃除」としている。それによって病魔の侵入から国民を護る。それを実現するためには、莫大な費用がかかることから、ドイツに倣って町村の自治こそ衛生そのものであると主張した。

官民の協調が必要であり、中央衛生会や日本私立衛生会を用いて、衛生の普及を図ったのである。今日の日本の優れた衛生環境は長与専斎が端緒をひらいたとものだ。我々はその恩恵に浴しているのだ。