平山郁夫先生のことーー東京富士美術館

八王子の東京富士美術館を訪問した。「世界遺産シルクロード展」。

この企画展は、日中平和友好条約締結45周年、東京富士美術館開館40周年にあたり企画されたものだ。東京で行った後、福岡、宮城、愛媛、岡山、京都の6年を巡回することになっている。

日本と中国の関係者が十分に練り上げただけあって、見ごたえがあった。

同時に開催されていたのが「シルクロードと日本 池田大作先生と平山郁夫先生が紡いだ文化交流の足跡」だった。

図録とともに平山郁夫『ぶれない』(三笠書房)を購入した。この本は、平山先生の最後の著書と書いてあった。タイトルもそうだが、内容も普段見たことのないものであった。帰宅後すぐに読み終わった。

以下のように整理してみた。。

生い立ち

  • 平山先生は15歳の時、広島で被爆している。そのためもあるのが、いつまで生きられるかわからないと感じて、自分が生きた証を描いてから死にたいという一念を持ったようだ。
  • 画家になれたのは母のおかげであった。小学校の時母は絵日記帳を作ってくれた。1番面白かったこと、を印象に残ったことを書きなさい。この絵日記が中国新聞主催の児童絵画大会で2等賞をもらった。それで自信がついた。

出会い

  • 先生の大伯父は、清水南山という東京美術学校の教師だった。この人が東京へ出ることになった時、3つの心構えを語ってくれた。1つが「古典を学べ」ということだった。とりわけ東洋のものをよく勉強しなさいと言われた。2つ目は「一流に接しろ」ということだった。3つ目は向こう10年間は「絵でお金を取るな」といういうことだった。
  • 平山先生の恩師は、東京美術学校前田青邨先生だ。仲人もしてもらった。

出来事

  • 病を押して、八甲田山のスケッチ旅行をやった後、天啓のようにイメージが降りてきた。砂漠を1人で旅してきた僧侶が、ようやくたどり着いたオアシスのイメージだった。この僧侶のイメージを玄奘三蔵に託すことにした。それが「仏教伝来」として結実した。29歳の時、生涯のテーマとなる仏教と出会ったのだ。

価値観

  • 平山先生の基準は、美しいかどうかである。武士道の精神的な美しさ、品格。
  • 芸術理念とは、どういうモチーフで、何を一生をかけて訴えていこうかということである。

関心・能力・性格

  • 持久力と瞬発力という相反する力を保つためには、万全の体調が必要になる。

キャリアデザイン・ライフデザイン

  • 自分を一生かけて磨いていかなければならない。
  • 「自分が生きた証を残したい」、これが最大の夢で、目標となっている。
  • 「自分を含め、誰が見ても「見事だ」という一生を終えたい」

学習歴

  • 修行時代には読書に邁進した。それは教養をつけるためであった。その読んだ本の記録をつけた。満足感が継続の意識をもとになった。
  • 今後の日本の課題は倫理観と心の問題というである。教養が必要だ。

仕事暦

  • 先生には休みは無い。朝3時間、昼3時間、夜3時間で合計9時る、間80歳近くになっても仕事をしている。

経験暦

  • 1枚でも多くを描きたい、絵を残したい。そのため55歳からは、時間の無駄と失敗を絶つために酒を断った。

印象:JAL時代に東京芸大平山郁夫学長にご挨拶する機会があった。私の上司が先生と親しかった。この上司は、シルクロード敦煌にチャーター便を飛ばすという離れ業をやった人だった。平山先生に挨拶をしたとき、きれいな目をした人だとの強い印象を持った。

一流:これは漫画家の手塚治虫と同じ意見である。考えてみると、私はビジネスマン時代に、「知的生産の技術」研究会で、当代の一流の人たちの話を聞く機会があった。30歳から仙台にいくまで15年以上の年月があったから、軽く100人以上の人たちと交流を持ったことになる。これが私の基礎を作った感じを持っている。

継続:私の場合、何事も続かなかったのだが、メルマガ、ブログなど、IT時代になって、継続する力がついてきたような気がする。この日々の継続が自信を与えてくれている気がする。自分を磨く。1日1日が学びの連続である。ブログのタイトルが「今日も生涯の1日になり」、毎週出しているメルマガは「久恒啓一の学びの軌跡」である。この点は、平山先生と同じだと思う。

教養:いろいろな本を読んで、幅広い教養を養うことは人生において様々な局面において、正しい選択を促してくれる。自分の立ち位置を広い視野から見ることになるからだ、と平山先生はいう。教養は視点の高さと視野の広さを与えてくれる。教養人とは日々、いかに生きるかを問い続けている人である。

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テレビドラマの撮影をやっていた。

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夜は橘川・久米対談。以下、印象に残ったワード。

シェルマ。アマゾンプライム。佐藤伝「チベット仏教 命がホッとする生き方」。多田等観。苦行でなく遊行。アマゾンプライム空海 共生の思想」「リトル・ブッダ」。イコール(時代ミーハーマガジン)。JAZZ「ウエイン・ショーターの世界」。著者のいる読書会。真崎守「キバの紋章」。闇しばり。

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川路利良 1879年10月13日没 | 薬剤師Stephenのよろずブログ - 楽天ブログ

「名言との対話」10月13日。川路利良大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」

 川路 利良 (かわじ としよし、 天保 5年 5月11日 ( 1834年 6月17日 ) - 明治 12年( 1879年 ) 10月13日 )は、警察官僚

鹿児島市出身。漢学、剣術、を学ぶ。島津斉彬のお供として江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候役を果たした。

1864年禁門の変長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を倒す。西洋兵学を学ぶ。1868年、鳥羽・伏見の戦いで薩摩官軍の大隊長でとして、上野の彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦。藩の兵器奉行に昇進。

明治維新後、西郷の招きで上京し、司法省の欧州視察団の一員として警察制度を視察する。帰国後フランスに範をとった警察制度の確立を目指した。1874年、警視庁創設に伴い40歳で初代大警視(警視総監)に就任。

明治6年の政変で西郷が下野した。川路は政府に残り仕事に邁進し、大久保利通の厚い信任を得る。不穏な動きのあった薩摩に警察官を送り込むが、捕らえられ、川路が西郷の暗殺を指示したという自白書がとられた。この間のことは司馬遼太郎の小説で詳しく私は読んでいる。

1878年に酒乱で有名な黒田清隆の妻が急死した際、川路は墓をあけて、病死であることを確認している。こういった事件で登場しているのだが、今回初めて川路利良という人物に焦点をあてることで初めてこの人物のことを知った。

川路には、戊辰戦争の時の股間を狙撃された「川路のキンタマ」や、欧州視察中の「大便放擲事件」などの豪快なエピソードがある。

川路は鹿児島では、大久保と同様に、裏切り者の印象を持たれていて憎まれている。しかし「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は、一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明して警察行政に邁進したことは再評価されるべきだろう。西郷に殉じた者、政府に残った者、それぞれが己の価値観に従って選択し、人生最大の決断をしたのだろう。

幕臣から新政府にも入り、福沢らから批判を受けて「行蔵は我に存す」とした勝海舟など、変革期には、出処進退が問われる。そこにその人の人物の姿があらわれる。。どちらが正解かということではない。

「警察官の心は、人々を慈しみ、助けるということに尽きる。この心を以ってする警察権の発動も、また仁愛なのである」という川路は「日本警察の父」と呼ばれる大事業を実現した。川路の警察語録は、今なお警察官のバイブルとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

警察官の心は、
人々を慈しみ、助けるということに尽きる。
この心を以ってする警察権の発動も、
また全て仁愛なのである。