『日本姓氏語源辞典』というサイトがある。名字の語源や地域分布がわかる。そこから「久恒」という名字についての情報が送られてきた。
「久恒」。人口は約1,700人。順位は5,635 位。大分県500人・福岡県400人・神奈川県110人・東京都100人、、。大分県中津市300人・大分県宇佐市70人・福岡県豊前市70人、、。中津市上宮永130人・中津市下宮永50人・、、。
久恒姓の有名人として、私と久恒秀治の名があがっていた。この人は大磯の旧吉田茂邸で見かけた名前だ。久恒秀治(1911年-1982年)は日本庭園研究家、造園家、作庭家、庭園評論家。2017年4月30日のこのブログで、旧吉田邸の庭園についての説明を引用している。「庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣寺枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという」。
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研究室
・樋口先生:家族のこと。
ラウンジ
・森島課長:一般入試
・志賀先生:ライフワーク
・杉田先生:1年生
・バートル先生:日本語学校
・久保田先生:ポッドキャスト「ビジネスに活かす 偉人の名言」に登録し聴いた感想をもらう。
・山本さん:Tスタでの対談の録画の進行状況
・飯田先生:最終講義
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明日の最終講義の準備
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「名言との対話」1月16日。大屋政子「没落したらあかんねん!」
大屋 政子(おおや まさこ、1920年(大正9年)10月27日 - 1999年(平成11年)1月16日)は、日本の歌手、実業家、タレント、作家。
クラブ歌手であった政子は大屋晋三大臣と不倫の関係となり、29歳の時に55歳の大屋と結婚。帝人の大屋晋三社長の妻となる。大屋晋三は帝人を繊維業界のリーダーに育て上げた経営者である。参議院議員となり商工大臣、大蔵大臣、運輸大臣をつとめた9年間を除き、「死ぬまでやめない」が口ぐせだった通り26年間社長の座にあった。
大屋政子は実業家としての才能があった。戦後の別荘ブームを予想し独力で銀行から資金を借りて軽井沢の土地を購入、女性も楽しめるゴルフ場の建設、バレエ教室、関西ではじめて人間ドックなどを成功させ、大阪を代表する資産家となった。一方で、大屋政子バレエ教室、大屋政子バレエ財団の設立、舞台芸術振興財団理事長も歴任するなど文化活動にも熱心だった。民間外交にも熱心で、イタリアのサンレモ市と熱海を姉妹都市にした功績でイタリアから、そしてフランスからも勲章をもらっている。夫の大屋晋三の威光での成功と考えられがちだが、そうではなかったようだ。晋三は前妻や愛人との間に子供があり、給料は仕送りに消えてしまうので、政子が稼いでいた、という。
このような実業家としての面は知らなかったが、夫の死後のタレント活動はよく知っている。ピンクのミニスカートなど奇抜なファッションと愛嬌のある人柄でテレビ出演すし親しまれた。「うちのお父ちゃん」が口ぐせだった。ある会で帝人の幹部を招いて話を聞いたことがある。政子に敵意を持っている様子だったが、なかなか手ごわい相手だったというようなことを語っていた。
お嬢様育ちだったが、19歳の時に父が急死し世間が冷たくなり、人を信ぜず金を信じるようになった。それ以降、「没落したらあかんねん!」が口ぐせとなった。しかし後年トラブルに巻き込まれ、資産を無くしている。そして最晩年には「ウチの人生はピエロ 化粧一枚はがしたら 血みどろの阿修羅の闘いやった、、」と述懐している。若い時に味わった怨念が大屋政子の活躍のエネルギーの源泉だった。