竹下通り。東郷神社。スノーピーク社。知研。

 原宿:竹下通り。

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東郷神社東郷記念館東郷平八郎

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 23階のスノーピーク社のベランダからの眺め。2020年創建の明治神宮の森が眼下に。

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 後藤健一さん。橘川幸夫さん。

「未来フェス東京」の打ち合わせ。

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月夜。キャンプファイヤー。渋谷。医療から。

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 夜:代々木で知研の会議。「知研フォーラム」の単行本化。

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 知的生産活動。地域代表との対談。仕事は知的生産。法人会員。現場。人生100年時代の知的生産。全国のイベントスケジュールの確認。井上・下村。未来フェス東京。北海道の図書シンポ。9月28日(小林)・10月26日。11月14日。12月21日。20119年6月1日(札幌)。2020年の50周年(京都)。、、、。

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「名言との対話」9月17日。会田雄次「愛情で夫婦が結ばれるのは、20代限り。30代は互いの努力によってかろうじて関係が保たれる。40代は努力するエネルギーがなくなって我慢する以外に方法がなくなり、50代は我慢さえできなくなって互いにあきらめの境地に入る。そして60代に入ってはじめてお互いに感謝するようになるのだ」

会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年3月5日 - 1997年9月17日)は、日本歴史学者。

1943年応召ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。イギリス軍捕虜となり1947年に復員するまでラングーンに拘留された。この時の観察が1962年の『アーロン収容所』に結実した。この書は話題になったこともあり、学生時代に熱心に読んだことがある。 捕虜として目にした事物の記述から発して、西欧と日本、日本とアジアの文化比較を行った名著である。

1970年の『日本人の意識構造』では、ルース・ベネディクトの「罪の文化と恥の文化」の2分法による定番となっていた日本文化論を批判し、硬派の論客の地位を獲得する。

中年以降は日本人論、日本文化論で多くの著作を出し続ける。歴史上の人物を語りながら現代人の生き方を模索する、人間学としての歴史論を確立して歴史ブームの一翼をになった。

人物論、そして人間学の大家となった保守派論客の会田雄次が、夫婦に言及したのが、冒頭の言葉だ。20代は愛、30代は努力、40代は我慢、50代はあきらめ、そして60代になってようやく夫婦の緊張関係は去り、感謝の時代が訪れるという。歴史と人間見つめる会田雄次のこの言葉は、究極の人間関係ともいういうべき夫婦関係の妙味を言い当てている気もする。これをどう思うか、妻にも聞いてみたくなる。

 

人生の探求―変わるものと変わらないもの

人生の探求―変わるものと変わらないもの

 

 

 

 

 

 

 

黒澤明『生きる』

黒澤明「生きる」をみる。

主演は、黒澤が三船敏郎とともに演技力を買っていた志村喬

30年近く無欠勤の無気力な市民課長が、胃がんであると悟り、遊ぶが救われない。元部下だった奔放な若い女性の生命力に惹かれ、彼女から「何か作ってみたら」と言われ、心が動く。翌日から住民の要望の強い公園をつくることに邁進し何とか完成する。5ヶ月後に主人公は死ぬ。通夜の席での参会者の様子が人間社会の欺瞞と、そしてそれと最後に闘った主人公の生きた様をよく現している。志村喬の目の表情がいい。ヒューマニティあふれる名作だ。

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・ 秋学期の学部と大学院の授業準備。

・「紀要」の原稿書き。

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 昼食は「古潭」。

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「名言との対話」9月16日。牛島憲之「絵の具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば、絵は描けるんだよ」

 牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1997年9月16日)は、洋画家

熊本の地主の息子。19歳で上京、東京美術学校を卒業した年の帝展に初入選、戦後の第2回日展で《炎昼》により特選を受賞。1954年、東京藝術大学の講師、1965年から教授となった。1981年に日本芸術院会員、1982年は文化功労者となり、1983年には文化勲章を受章している。

牛島の作品は、鮮やかな色面による画面構成から、幾何学的形態を淡い色調で描く具象絵画へと移行し、晩年には写生にもとづきながら構図・色彩などに画家の造形的意図が明快に表出される画面に至った。

多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた。その縁で、府中市美術館内に、牛島憲之記念館がある。優れた企画展を行う府中市美術館に訪れるたびに、私も牛島の作品をのぞくことが多い。遺族から約100点の寄贈を受けており、年3回テーマをかえて展示している。2018年度は、「牛島憲之と昭和」、「漁港」「水門」など「人工物のある風景」、「やわらかな牛島憲之の世界」である。

 柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とし、そこに描きだされた世界は非日常的でありながら、リアルな存在感をもち、詩情にあふれている。気品ある、至高ともいえる静謐感に包まれた世界を描いた洋画家である。

「絵かきは孤独でなければならない」の信念があり、画壇とのつき合いはなく、絵を書き続けた。対象を見つめる目、それを表現する技と道具があれば絵は描ける。画家に交流や名誉は必要ない。ただひたすら絵を描き続けた97年の生涯だ。牛島憲之の「生きる」ことは、「絵を描く」ことだった。

 

 

 

 

 

黒澤明『蜘蛛巣城』

黒澤明監督の評伝『人間 黒澤明の真実 その創造の秘密』(都築政昭)を読んで感心した。改めて彼の作品を鑑賞している。

蜘蛛巣城』は、シェークスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした戦国もので、主君をあやめる主演の三船敏郎の演技が素晴らしかった。この人の「目」がいい。妻の浅茅役は山田五十鈴で、手を「血が取れぬ」と洗い続ける発狂の演技も迫力がある。能の様式美を取り入れた作品だ。「無常」を感じさせる。

次は志村喬主演の『生きる』を見ることにする。

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黒澤語録から

「僕は芸術家よ呼ばれるより、映画の職人と言われる方が本当は好きなんだ」

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 「名言との対話」9月15日。渡辺美智雄「上を見て働け、下を見て暮らせ」

渡辺 美智雄渡邉、わたなべ みちお、1923年大正12年7月28日 - 1995年(平成7年)9月15日)は、日本政治家

自民党政務調査会長厚生相農水相蔵相通産相副総理外相閣僚を歴任。中曽根派を継承して派閥の領袖として活動。 

栃木弁丸出しの歯に衣着せぬ話術でマスコミにも積極的に登場し茶の間の人気を得た。一方で、失言も多く、度々舌禍事件を起こした。総理への道をあきらめきれないまま、1995年9月15日、膵臓癌のため死去した。まだ72歳だった。栃木県大田原高校で同級だった、私の叔父から「ワタナベ」のことはよく聞いていた。薬剤師だった叔父は、渡辺美智雄厚生大臣になったのを喜んでいた記憶がある。ミッチー節は面白かった。

渡辺美智雄の失言は直接的で品の問題がありここでは紹介できないが、以下、参考になる名言を拾ってみる。

・ 思い切って決断すると、意外と道は開ける。

・直感・実感・大局観。どれかひとつだけではダメ。

・政策に上下なし、酒席に上下あり。

・悪名は無名に勝る。

・温故知新というのは、、、「先祖の知恵の中にいまの答えがある」ということ。

・水清ければ魚棲まず、外来種も大いに歓迎するがピラニアは許さない。

政治家と病気には物語が多い。安倍晋太郎も健康問題で総理になれなかった。「安竹宮渡」と呼ばれたニューリーダーの一角を占めた渡辺美智雄もそうだ。ポスト竹下を目指したが、リクルート事件で逼塞を余儀なくされ、宇野宗佑に総理の座を奪われた。中曽根がオーナーの派閥会長になったが、膵臓癌の手術を受け健康に不安があった。1991年の自民党裁選では宮澤喜一に継次ぐ次点で副総理、1993年の再出馬では河野洋平に敗れた。1994年には細川内閣退陣の際に新生党小沢一郎から離党を条件に総理を打診されるが失敗している。1995年の総裁選では同期にの橋本龍太郎を支持した。病気のためのあせりもあったのだろう、トップに後一歩届かなかったのは無念だったろう。

「上を見て働け、下を見て暮らせ」は、自民党から離党して「みんなの党」をつくった息子の渡辺喜美に語った言葉だそうだ。これは心したい名言だ。

 

「週刊朝日」(9月11日発売)の「引き際の言葉特集」でコメント。

週刊朝日9月21日号(11日発売)の「引き際の言葉」特集。6ページ。取材を受けた内容が、大きく載っていた。上手にまとめていただいた。

週刊朝日 2018年 9/21 号【表紙: 関ジャニ∞ 】 [雑誌]
 

以下、取材者が書いた「地」の文章から。

・挨拶に慣れた人は、多くの「引き出し」をつくる工夫をしている。『偉人の命日366名言集』など、言葉に関する著書が多い多摩大学久恒啓一副学長。スピーチ当日が命日か誕生日の偉人や著名人を見つけ、名言やその人にまつわる話をしている。

・スピーチ当日にまつわる人の話題に触れるようにしたのは、学部長に就任してあいさつの場が増えてから。入学式、卒業式、保護者会、学生のオリエンテーション、、、。こうした場で魅力的なスピーチをする人が少なかったため、自分はインパクトのあるスピーチをしようと心がけたという。

・スピーチの日はまちまちだから、365日分のネタを用意しているという。毎日、誰かしら著名人の命日か誕生日がある。○月X日は誰に関係がある日かを気をつけており、毎日書くブログで、その日が命日や誕生日の人の人生を弔辞のように記している。

・旅行や出張時は、その地の人物の記念館を訪れる。東京の「美空ひばり記念館」や、大阪の「司馬遼太郎記念館」など、著名人の記念館は全国1千館以上。著作や直筆の手紙があり、人物像が丸ごとうかがえる。すでに850館近く訪れた。

そして、アドバイスなど8回、「 」つきで発言が記されていた。

「心に響く話をするには、、」「聞き手の年齢層も考えます、、」「井伏は、、、」「1972年の自民党総裁選で田中角栄に負けたとき、、、」「時代ごとに広く影響を与えた偉人がいますが、、」「引き際が肝心といわれますが、、、」「定年なんて他人が決めたことで、、、」「三井物産の設立に関わった益田孝は66歳のとき、、、、」。

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午前:研究室で、今後の講演・講義の準備。

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「名言との対話」9月14日。小島直記「自伝信ずべからず、他伝信ずべからず」

 小島 直記(こじま なおき、1919年5月1日 - 2008年9月14日)は、福岡県八女郡福島町(現・八女市福島)の生まれの小説家。経済人などの伝記小説で知られる。

経済調査官をへて1954年ブリヂストンにはいる。一方,、火野葦平の後をうけ「九州文学」を主宰。1965年から文筆に専念し、政財界の人物評伝に新分野をひらいた。

 「伝記」と「評伝」を仕事としている小島は、34歳の時、勤めをやめてペン一本になるが、うまくゆかずに友人の石橋幹一郎を通じて、ブリジストンに入り、石橋正二郎という巨人と遭遇する。そして再度ペン一本で立つ。父の没年と同じ40代半ばの年齢で「父の生きただけは生きた。これからは自分の生きたいように生きるぞ」と決意し、清水の舞台から飛び降りた。

この多作の伝記作家の『福沢山脈』(上下)を読んで、福沢諭吉の偉さと、筆力の高い小島直記に関心をもったことがある。

「人間の幸せとは、金でも地位でもない。天職に就いているという気持ちで、元気に働いている満足感である」

「人生は出会い、必要な出会いは遅くもなく早くもなく到来すると説かれ、人物に学べ、加えて伝記を通じて古今東西の人物に学べ」

「諸君が不正を行えば、枕元に化けて出て叱責する」(松下政経塾にて)

著書では、福沢諭吉、 松永安左ヱ門、鈴木三郎助石橋正二郎小林一三奥村綱雄大久保利通池田成彬鮎川義介、森恪、、、などの伝記・評伝を多く書いている。1990年、第2回安岡正篤賞を受賞。

1983年には「小島伝記文学館・伝記図書館」が静岡県の富士裾野に駿河銀行によって設立されている。小島直記氏からの寄贈図書3,700冊と、内外の伝記・評伝1,000冊を収蔵し公開している。三島から山にあがった風光明媚なところだ。小島がかってここにこもって執筆した部屋、使用した資料も残されている。

 73歳、ガンに冒された小島は『鈴木大拙全集』全33巻を読み始める。心を込めて理解し血肉にしようとつとめることに、自分の「生」があるとの決意だった。その努力が終わるところが人生時刻表の終わるときだ。小島は89歳でみまかっているが、この「行」を終えたのだろうか。

これほどの伝記作家が、「自伝信ずべからず、他伝信ずべからず」と語っているのが面白い。自伝には弱みを隠す虚飾が必ずあり、伝記には実物以上のイメージがついてまわるからだろう。それはそうだが、私は本人が自分の姿がこうあって欲しいという「自伝」に興味があるから、この「名言との対話」でも、なるべく自伝を手に取るようにしている。ウソや誇張があっても構わない。実像よりも、こちらがその人から何を学ぶかの方が大事だと思うからだ。

人間・出会いの研究 (新潮文庫)

人間・出会いの研究 (新潮文庫)

 

 

 

菅茶山記念館--黄葉夕陽村舎を率いた儒学者、漢詩人、教育者。

菅茶山記念館。広島県福山市神辺町。菅茶山は、儒学者漢詩人、教育者。

「菅茶山先生顕彰碑」には、記念祭が行われた年号が記載してある。大正15年没百年祭。昭和54年没五十年祭。昭和60年没百六十年祭。平成3年没百六十五年祭。平成10年生誕二百五十年祭。平成15年生誕二百五十五年祭。平成20年生誕二百六十年祭。

平成3年までの記念祭は「没後」であるが、平成10年からは「生誕」に変えている。昭和54年の百五十年祭あたりから、意識的に、郷土の偉人を顕彰して地域に元気を与えようという運動が活発になっていることをうかがわせる。茶山という号は、神辺茶臼山(現在、要害山)から採った。

茶山は80歳で没している長寿の人だった。年譜を繰ると、65歳「黄葉夕陽村舎詩」前編刊行。66歳「三原梅見之記」が成る。67歳主君の命で江戸へ。71歳大和。吉野、京都に遊ぶ、「大和行日記」が成る。73歳「室町誌」が成る。76歳「黄葉夕陽村舎詩」後編刊行。以上にみるように晩年まで執筆意欲は保ったままだ。

江戸時代の神辺山陽道の宿場町として栄え、旅人、参勤交代の大名らも行き交う町で、茶山の塾には著名な文人墨客が立ち寄り、江戸後期に教育と文化が花開いた。同世代、異世代の、儒学者、画人、洋学者と交友している。

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 19歳、京都遊学し、それ以降遊学は6回に及んだ。1775年28歳、私塾を開設。「黄葉夕陽村舎」として知られた。1797年には福山藩の郷校となり、神辺学問所、廉塾と名を改める。塾は3室20畳の講堂、居宅、寮舎、祠堂、書庫からなる。「日本外史」を書いて松平定信仁に献上した頼山陽(1780-1832)も都講(塾頭)をしていた。1801年には福山藩の儒官となり、藩校弘道館での講釈、そして2回の江戸詰を命ぜられている。藩主阿部正精直属の教授となり、「福山志料」、「福山藩附属問状答書」をまとめた。「宋詩に学べ」という文芸復興運動を起こし、「当世随一の詩人」と評された。

 ユーモアとペーソスのある独特の作風の福山出身の小説家・井伏鱒二(1898-1993)は、「「廉塾」ーすまい訪問」という作品を書いている。

記念館の館内には塾の規約、茶山の詩などさまざな陳列物があるが、珍しい資料も展示してある。

 1809年に3歳年長の伊能忠敬の測量隊が神辺に滞在したときには茶山は面会している。1811年の伊能隊の九州測量からの帰路には伊能忠敬から銅板の万国図が贈られた。「諸国漫遊に生涯をささげられたことをうらやましく思う」と褒め称えている。箱田良助(1790-1860)は17歳で伊能忠敬門下になり一番弟子となった。旗本の榎本家の株を買い旗本になる。その息子が榎本舞武揚(1836-1908)。

「筆のすさび」四巻には、来訪者から聞いた話題や茶山の考えが記されている。その中に岡山の浮田幸吉が、1875年、日本で初めて空を飛んだ話が紹介されている。f:id:k-hisatune:20180914052102j:image

 

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研究室:秘書と打ち合わせ。

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「名言との対話」9月13日。小牧正英「鹿踊りや剣舞が大好きだ」

小牧 正英(こまき まさひで、1911年9月25日 - 2006年9月13日)は、日本のバレエダンサー振付家である。

 小牧は岩手県江刺郡岩谷堂町江刺市を経て、現在の奥州市)で生まれた。21歳、画家を志してパリ留学を計画し、大連まで行く。ハルピンバレエ学校に入学したのち、上海バレエ・リュスに入団して同バレエ団で主要な役柄を踊った。

1946年、上海から引き揚げてきた小牧は、同年の東京バレエ団の結成に参加した。小牧が引き揚げの際に持ち帰ったバレエ音楽の楽譜を基にして『白鳥の湖』全幕を日本初演。小牧は振付・演出とともに主演も務めた。1947年には小牧バレエ団を結成して、さまざまなバレエ作品を上演。1954年に日劇で上演された『火の鳥』では、当時の世界的バレリーナノラ・ケイタイトルロールを踊り、小牧がイワン王子を踊って、公演期間中の24日間を通して満席になったという。小牧は谷桃子(谷バレエ団代表)、太刀川瑠璃子(スターダンサーズ・バレエ代表)ほか、日本バレエ界における舞踏家や指導者を多数育てた。演劇・映画方面でも、岸恵子、十朱幸代ほかが、小牧バレエ団でのレッスンを経て芸能界入りして活躍した。1958年の日本バレエ協会設立に当たっては、発起人の一人を務めている。

世界最初のバレエ団、ロシアンバレエ団の主宰者であったディアギレフの歴史的なバレエを継承している数少ないダンサーである小牧正英を核として、古典バレエの普及を図ろうと、1987年、東京小牧バレエ団として新たなスタートを切った。東京小牧バレエ団は、小牧正英の芸術的理想を継承しながら、観客を楽しませることができ、かつクオリティが高い日本有数のバレエ団として、文化芸術の発展に寄与している。現在は国際バレエアカデミア バレエ団と名称を変更している。

郷里の  江刺地方と周辺の地域では、鹿踊りや鬼剣舞などが古くから伝えられてきていた。その多くの伝統芸能は、今なお継承され盛んであるが、小牧は郷里の「鹿踊りや剣舞が大好きだ」と述べて、鹿踊りや剣舞をモチーフにした創作バレエを演じている。小牧は粘り強くバレエというテーマを粘り強く生涯追い続けた人物だ。風土と人物の関係を考えさせられる。

 

 

 

 

 

修士論文基礎講座で「図解・修士論文の書き方」を講義。受講者の感想は?

 12時45分から14時半まで、夏期の研究発表会を開催。

17年度共同研究成果発表。18年度共同研究プロジェクト発表。面白い研究が多く、成果に期待がある。

AL。グローカルビジネス。シラバスビッグデータ。北京の中かん村。中国の出版活動。健康学習。イベント満足度評価。健康まちづくり産業。イーラーニング。分析ストーリー。都市農業。脳波。アクティブシニア。シニア見守り。オンライン行動分析。中国の企業ガバナンス。

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14時40分:理事長報告:学部長と。先だって囲碁について出原先生。

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 18時:品川の大学院

・瀧川課長。福井さん

・論文基礎講座シリーズで、講義。タイトルは「図解・修士論文の書き方」。ほとんどが2018年春入学生。人数も多い。

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 以下、授業終了後のアンケートから

・自分が長い間、間違った方法で文章を書いていたと反省することになりました。文章の設計を書く重要性。はやく実践したい。

・論文を書くにあたって悩んでいたが、道が開けたと思います。この大学院で学んだことを形にするためには、設計図が必須だと思いました。覚えるのではなく、身につけることができたと胸をはって言えるように、これからの生き方も図で表現できるよう、修行していきたい。

・先生のお話と資料を拝見し、改めて感心しました。

・まず設計図を描き、自分が言いたいことの構造と関係を整理してから論文を書き始めることの重要性を感じました。

・全体を見て、個別の事象を関係性でつなぐ。偉人伝の授業を受けたい。

・自分の周りの物事の構造と関係を意識して、図解する能力を磨いていきたい。

・大変満足。設計図をつくってから文章を書く。接続詞をうまく使う。関係性を考えてつなぐ。この3つをポイントに修士論文に挑戦したい。図解で勝負できる人になりたい。

・アタマの革命としての図解力を磨きたいので春の授業を受けます。ココロの革命として、日本の過去の偉人の足跡を追う活動に興味をひかれました。

・気持ちが軽くなった。設計図を自己発見の旅として楽しもう。

・ここ数ヶ月悩んでいましたが、先生に教えていただいた図解コミュニケーションという考え方で、少し道筋が見えてきたように思います。入学式のときに知っておきたかった。

・文章は、内容と表現でできている。そして構造と関係を図解することで設計図となり、内容が固まる。論理的で素直に腑に落ちました。

・春学期に受講しなかったことを少し後悔しました。図解の重要性を説きながらも、アンケート、授業内で文章を書く作業を行うことは、これらは両輪の関係になっていると思えました。

・論文のテーマ決めから構成まで図解を活用していこう。教授との面談でも図解を利用すれば認識のズレがないだろう。つながり、相手の受け取り方を意識することが重要だとわかった。

・図解を使うと、最短で伝えられると感じました。最適。先生の本を読んで図解の面白さを体験したいと思います。

・非常に納得できました。本日の90分で私は新しいツールを得ました。明日から仕事に使っていきたい。楽しみです。

以下、留学生。

・論文を書くのに役立つ。

・図で考えれば文章がうまくなると思う。

・やってみようとい気持ちがわいた。

・文章を膨らませる方法もわかりました。

・キーワード、マル、矢印。

・図を使うと自分の視野がどんどん広くなていく。その図をみながら文章を書くことができる。

・図で考えるのは、初めて聞いた学問です。

・図解はものすごく効率が高い。手順や流れを意識して書ける。論文だけでなく、考え方が一変しそうだ。

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「名言との対話」9月12日。塩屋賢一「犬を道楽のために訓練するのではなく、人の役に立てるために訓練したい」

 塩屋 賢一(しおや けんいち、1921年12月1日 - 2010年9月12日[1])は、日本の実業家。犬の訓練師。財団法人アイメイト協会創設者、理事長を務める。

 塩谷賢一は「盲導犬の父」と呼ばれる。目の不自由な人に役立つ犬をつくり出す仕事が盲人誘導犬、つまり盲導犬をつくる仕事である。

塩屋が出場していた警察犬訓練試験競技会の審査委員長は相馬安雄。芸術家、文化人が集まるサロンを開いていた東京・新宿にあるレストラン『中村屋』の二代目社長だ。相馬安雄の勧めで、塩屋は犬の訓練士となるが、盲導犬を作出して社会に貢献したいと考えるようにな、青年・塩屋は愛犬学校を設立し1948年より盲導犬の研究を始めた。

1956年、18歳で突然失明した河相洌外交官・河相達夫の子)から盲導犬をつくる依頼を受けた塩屋賢一は1957年夏、国産第1号の盲導犬チャンピイ』を完成させた。これが日本における、実質的な盲導犬の歴史の始まりとなった。塩屋は起居を共にし、スキンシップをとり、人の往来などに慣れさせるため、毎日一緒に街を歩く。訓練を始めてから1年3ヶ月でチャンピイを河相烈に渡す。塩屋の河相への歩行指導も3週間近くにわたって毎日行なわれた。1957年8月に、河相は一人で難路をチャンピイと一緒に歩くことができた。日本で初めての盲導犬の誕生である。当時大学生だった河相烈は盲学校の盲学校の教師となる。学校でもチャンピイと一緒だった。

1967年『日本盲導犬協会』を設立。1969年には東京都が盲導犬育成事業を開始。1971年に新たに「(財)東京盲導犬協会」を設立。その後、東京都に続いて多くの自治体が盲導犬育成事業に乗り出し、その大半を東京盲導犬協会が受託。1972年には『全国盲導犬協会連合会』が発足した。

1977年、国鉄への自由乗車、1978年、バスの自由乗車が実現。1980年には、航空会社や私鉄もこれに続く。後には、それまで飛行機やバスなどで義務化されていた盲導犬の口輪装着義務も撤廃。1981年にはレストランや喫茶店、旅館に対しても入店拒否などをしないよう、対応協力の指導が国からなされた。1989年には『アイメイト協会』へと名称を変更した。

盲導犬は、今では光を失った人の目として欠かせない存在となっている。レストランでは、好物の肉を前にしても決して動かないし、コンサートホールでは、2時間以上の演奏中、静かに伏せて待ち続けることができる。

1982年、日本の文化活動に著しく貢献した人物・並びにグループに対して贈呈される 吉川英治文化賞受賞を受賞する。『障害者と一体でやろう。盲人の自立をお手伝いするだけだ』という理念を掲げた塩屋賢一は「盲導犬の父」と呼ばれるようになった。

この人の、犬を「人の役に立てるために訓練したい」という高い志と、苦難の多い道のりを切り拓き続けた実行力と、それによって世の中が変わった現実、そして2017年現在で、盲導犬950頭が存在し、盲導犬使用者が971人がその便益を受けている姿を眺めると、一人の人間の力というものの偉大さを思わずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

中原中也記念館(山口市湯田温泉)--「あゝ おまえはなにしにきたのだと……  吹き来るカゼが私に云ふ」

中原中也記念館。山口市の隣の山口県湯田温泉

昔は小郡駅だった新山口で降りて乗り換えて湯田温泉駅に着く。中原中也記念館は、生家跡に立つ石造りの立派な建物だ。哀しい目と独特の帽子。このトレードマークの帽子は記念館で売っていた。

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1907年生まれ。16歳、3つ年上の女優長谷川泰を紹介される。18歳、泰子と上京。小林秀雄を知る。泰子、中也より5歳年長の小林秀雄の愛人となり去る。20歳、河上徹太郎を知る。21歳、大岡昇平を知る。父死去、帰郷せず。23歳、泰子が茂樹を生む、名付け親。24歳、青山二郎を知る。26歳、遠縁の上野孝子と結婚。27歳、『山羊の歌』。29歳、文也の死。30歳、1937年永眠1938年、『在りし日の歌』刊行。

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 「中原中也を語る 大岡昇平」展をやっていた。2歳年下の友人大岡昇平からみた中原中也像が語られている。強要される。歴訪癖。なぐる(4尺9寸5分の中原が、5尺5寸5分の大岡をなぐった)。からむ。毒舌。茶目。酒に弱い。不幸。いつも自分の感覚しか語らない。「人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人」「伝説を作る趣味」「生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い、雷同的な他人という簡明な対立から世間を眺めた」

 

友人たちの中原中也観。

小林秀雄「熟さない果実の不潔さ」「彼は詩人といふより寧ろ告白者だ」

草野心平「中原よ。地球は冬で寒くて暗い。じゃ。さよなら」

青山二郎「精神が人間の形の通りに、壁に写った影の様にピッタリ合致している人間」

長谷川泰子「中原は終始一貫して大岡昇平の「酵母」だった。思想の根源だった」

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井上公園。中原中也記念館から、歩いて数分。

井上馨の旧宅跡。京都から政変で七卿落ちという事件があった。その一人三条実美もここ「何遠亭」に住んだ。

中原中也の詩碑には「帰郷」の一節が刻まれている。除幕式には大岡、河上、小林、今日出海らが出席した。

 

「、、、これがわたしの故里だ。さやかに風も吹いている、、あゝ おまへは何をして来たのだと、、、 吹き来る風が私に云ふ」。

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山口駅は、県庁所在地の駅であるにもかかわらず、寂しい風情だった。新幹線が通らなかったからだが、それは山を掘ると温泉が枯渇するということで反対があったからだという。新幹線の駅には人が多数集まっているが、そこから外れると一気に人がいなくなる。

参考

中原中也の世界』(中原中也記念館)

 

中原中也 (講談社文芸文庫)

中原中也 (講談社文芸文庫)

 

 中原中也詩集 日本の詩人

中原中也詩集 日本の詩人

 

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「名言との対話」9月11日。吉永正人「馬混みに入ると、アクシデントが起きやすいからね。だから、逃げか追い込みが好きなんです

吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師

騎手時代に中央競馬史上3頭目三冠馬ミスターシービーや、1982年の天皇賞(春)勝馬モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。ミスターシービーに騎乗し、常識外れと言われた追い込み戦法でクラシックの皐月賞東京優駿菊花賞を制覇し、中央競馬史上3頭目三冠馬へと導いた。この時、「僕が咲かせたのではない。ミスターシービーが勝ったのです」と語った。

この騎手という職業は体が軽いことが必要で、吉永は減量に苦しんだ。「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」という実感は、騎手の減量苦を象徴する言葉として書籍などで引用されている。

「寺山(修司)さんはたぶん、僕がダービーに勝つと確信してくれていただろうと思います。しかし、やっぱり、寺山さんには生きててもらいたかった。このダービーを勝つまでは見とどけてもらいたかった、と残念でなりません.」

死別した最初の妻との間に一男二女、後妻のみち子との間に一男と、計二男二女の子があった。みち子とはのちに離婚している。吉永みち子は、日本初の女性競馬新聞記者で、『気がつけば騎手の女房』で1985年の16回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しており、テレビでよくみかける人だ。元夫の吉永については「昔気質の競馬人」「武骨で不器用で時代遅れ」「大きな優しさを持った人」と述懐している。私もテレビ出演で語る吉永正人の姿は見たことがある。

「やはり勝つべくして勝つことが、本当に快心のレースというのじゃないですか」という吉永は、「僕は人に迷惑をかけるのがいやなんですよ」との考えを持っていた、馬に乗るとは馬の気性に乗ることであり、それを熟知して人馬の呼吸が一体となって走らなければならないことを知り尽くし、「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込み戦法や、逃げ戦法など極端な作戦で、「馬混み」を避けたのだ。代名詞となった10馬身以上遅れていて、直線で「追い込み」、僅差で勝利する姿はファンを熱狂させた。その独特の戦法、広い交友、数々の名言、など強い個性の騎手として記憶に残る騎手だ。