黒澤明『まあだだよ』--漱石門下の内田百閒先生と、彼を慕う門下生との長い交流の歴史を描いた、心暖まる物語。

黒澤明監督の最後の映画作品『まあだだよ』をDVD」でみた。

漱石門下の内田百閒先生と、彼を慕う門下生との長い交流の歴史を描いた、心暖まる物語。子ども時代のかくれんぼで「もういいかい?」との問いかけに、「まあだだよ」とこたえることをもじった題名だ。

 黒澤明監督の最後の83歳の時の最後の作品である。強くて勇敢で恥を重んじるサムライを描き続けてきた黒澤作品のイメージとはまったく違う主人公は、ユーモアに富み、みずからの弱点をさらけだす、そして教え子たちに敬愛される人物だ。みていてほのぼのとした幸せな感情がわいてくる。

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 あの世へのお迎えの「もういいかい?」に対し、「まあだだよ」とこたえる趣向の誕生日会から始まる。61歳から実に17年も続く、その間の先生と奥様と、そして教え子たちとの交流は胸を打つ。

百閒先生を演じる松村達雄はいい味を出しているし、所ジョージ、黒澤久男、などが若い姿をみせる。17回目の誕生会では、教え子の子どもや孫たちも一緒に祝う。そこで白髪の百閒先生は倒れる前に、「みんな、自分の本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」と孫たちに語りかける。これは黒澤明が最後に到達した仕事観だろう。

現実の内田百閒は、23才で初恋の人・清子と結婚。31才から44才まで法政大学教授。45才から文筆活動に専念し、1971年に82歳で逝去。

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「名言との対話」9月10日。ハナ肇「定年があるような人生はダメなの。定年のない人生てのは素晴らしいの。休んでられないんだもの」

ハナ 肇(ハナ はじめ、1930年2月9日 - 1993年9月10日)は、日本ドラマーコメディアン俳優

1955年に、自らがリーダーでありクレージーキャッツの前身である、「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成。後に、植木等谷啓らが加わり、1957年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」となった。音楽バンドとコントを組み合わせた、このコミックバンドは茶の間の人気者だった。ギターの植木等(無責任男!)1926年生、トロンボーン谷啓1932年生、ベースの犬塚弘1929年生、ピアノの桜井センリ1926年生、テナーサックスの安田伸1932年生など強烈な個性の人気者の集まるメンバーのリーダーとしてグループを率いた。

ドラムスも担当したハナ肇はワンマンであったが、親分肌の人情家だったため、このグループは長く続き、垢抜けた大人の笑いをテレビで堪能したものだ。いかりや長介率いるザ・ドリフターズの名付け親は、ハナ肇だった。

日本テレビ系『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』でハナ肇がヒッピー姿で叫んだ「アッと驚く為五郎」は流行語にもなった。豪放磊落で人情深い性格をそのままキャラクター化した、山田洋次監督「馬鹿まるだし」シリーズが大ヒットし、ブルーリボン主演男優賞・監督賞を獲得し、山田監督の代表作「男はつらいよ」シリーズにつながっていく。

1985年の結成30周年には「アッと驚く!無責任」を企画された。この時の特別番組を見た。「素晴らしき仲間たち」では、それぞれ独自の道を切り拓いたメンバーが思い出を愉快に語っている。それに「スーダラ節」を書いた青島幸男が加わって、みんなで笑い続けていた。ハナ肇は、このメンバーのうち初めに逝ってしまった。
「常に人生の最後の瞬間だと思って生きろ」
「まず好きな人のモノマネから始めろ。モノマネを続けてると、やがてそれはモノマネじゃなくてお前の物になるんだ」
ハナ初めのメッセージは、「今を生きろ。続けろ。休むな」だ。人生に定年はない。
 
 

 

千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とす。

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 27年間、一日も休まず、1300字の「デイリーメッセージ」を発信し続けた人がいる。志ネットワーク「青年塾」の上田晃代表だ。1941年生まれでこの10月に77歳になる人だが、50歳からの継続は1万日に達している。

この継続の人の言葉を拾おう。

「続けたから健康になったのではないか」「毎日書き続けることで命の根っこから生命力が湧き出してくる」「感動と発見のおすそ分け」「人生で一番大事なことは継続だ」「本物は続く、続ければ本物になれる」「続けることが本物に至る唯一の道なのである」「一つを励めばすべてが変わる」「一つを続ければすべてが変わる」「人生の財産とは継続によってつくられる」「よき習慣は良き人生をひらく」

日記を書くのではなく、塾生という読者に向かって感動を伝えようとしている。アンテナを張って、インタビュー、写真、トラブル、などをネタに気づきを書いている。

私のこのブログはまだ5000日だから、この人は2倍の日々を書き続けているのだ。

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 童門冬二

「日々ニュースになる事件や出来事の中には必ず小説のヒントがある」「地方の振興のために命を注ぎながらも、歴史の表舞台に出ることのなかった人たちを掘り起こす」「歴史という無限の鉱脈を掘ることに一生懸命になっている自分がいた」「地方に眠る武将や儒学者などを発掘するようになった」「起承転転」「どこまで経ってもいまの自分に満足せず人生を完結していない」「風度(態度・容姿、人品。風采。風格)」、、、。(以上、『致知』10月号から)

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「名言との対話」9月9日。加藤紘一「国会で、今生きている老若男女の日本人の“幸福観”を議論したらどうだろうか」

加藤 紘一(かとう こういち、1939年昭和14年)6月17日2016年平成28年)9月9日)は、日本外務官僚政治家

東大理科一類不合格。翌年文科一類合格。法学部政治コースを卒業、外交官試験に不合格。公法コースに学士入学・卒業し外務省に入省。中国語を選択、日中関係をライフワークにしようと決意する。

 池田勇人前尾繁三郎、大平正義、鈴木善幸宮澤喜一加藤紘一と続く、保守本流の名門派閥・宏池会。政策に明るいが政争に暗い「公家集団」と揶揄される宏池会。中道、リベラルの宏池会。その名は安岡正篤が命名した。加藤紘一は「宏池会のプリンス」と呼ばれ、 防衛庁長官内閣官房長官自由民主党政務調査会長幹事長宏池会会長を歴任し、「総理に一番近い男」とも言われた。そして経世会に対して、Y(山崎)K(加藤)K(小泉)でYKKとして対抗軸を結成した。

しかし、2000年の森内閣打倒を目指した「加藤の乱」の失敗で宏池会会長を退く。2002年、事務所代表が起こした問題の責任をとって議員辞職。2007年発行の著書『強いリベラル』では、小泉政権以降、自民党市場原理主義に軸足を移し、共同体が破壊され、格差社会を生んだと批判している。また「保守」とは、コミュニティをまとめる側に立つことであり、「リベラル」は、他人を気遣う心であり、理想主義と責任感を兼ね備えた政治勢力の結集を「強いリベラル」の旗で表現している。2009年の衆議院選挙で復活当選、2012年落選し、政界を引退。 2014年夏、インパール作戦で殉職した日本兵の慰霊のため、古賀誠と伴に訪れたミャンマーで倒れた。

加藤は議員辞職後に、地元山形で少人数のタウンミーティングを繰り返す。そして自分が今まで得意になって考えたり偉そうに語ってきた社会保障政策って一体なんだったろうと考え直し、政治は国民の「幸福」と「豊かな暮らし」を議論するところから始めるべきだと考えるようになる。失敗と逡巡も多かった政治家・加藤紘一の国会に向けての真実の遺言である。 個人の人生と生活にとって一番のテーマは「幸福」と「豊かな暮らし」だから、そこから出発するのがいい。

強いリベラル

強いリベラル

 


 

 

 

 

 

 

大学院の学位授与式・入学式。

大学院の学位授与式。

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学長:ジェロントロジー宣言。高齢化社会工学。知の再武装。100年人生。生命科学とコンピュータサイセエンス。流動性知能。結晶性知能(課題解決力)。プロジェクトへの参加を。

理事長:実学。ネットワーク。

研究科長:イノベータシップ。40億人が貧困。80歳現役時代。ライフワーク。

同窓会長:大渾身会。リレー講座。留学生ネットワーク。

院生代表:過去を読み、未来を読む。実践知。

修了生代表:実務家教授陣。社会人大学院。プロジェクト。インターンシップ

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大学院入学式。17名が入学。

学長:経営とは時代認識。座標軸を踏み固める2年間。知の再武装。100才人生。人間とは何か。世界の構造転換。

理事長:平均年齢37歳。実務家教授陣。社会人大学院。同窓会ネットワーク。

研究科長:時代変化を自分ごとに。

同窓会長:RE同窓会。rearmament。revolution。recurrent。

院生代表:深い問いかけ。未来を考える場。仲間。

入学生代表:知の再武装を決意。

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・式典の前に学長と懇談:人事案件。

・式典の後に理事長と懇談:人事案件など。

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「名言との対話」。9月8日。松沢卓二「光とは方向性です。社員に対して方向性を示すことのできる人が経営者であって、示せない人は単なる管理者にすぎません」

松沢 卓二(まつざわ たくじ、1913年大正2年7月17日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の銀行家。

富士銀行に入行し、人事課長、本店営業部次長、総務部長、常務、副頭取を経て、頭取、会長。金融業界で強い発言力を持っていた。財界活動にも熱心で、経団連財政金融委員長、国鉄監査委員会委員長、日経連副会長をつとめた。

・時間ができたら、まずは自分と向き合う時間に充てるべき。そうすれば、自分が進む道が見えて、その時間に何をすべきか明確になるはずです。

・「天は自らを助くるものを助く」他人に頼らず、独立独行で奮闘努力する者を、天は助けて幸運をもたらすという意味ですが、若い時から私はこの言葉が好きで、座右の銘としてきました。

・「この人は仕事ができる」と思う人は、学生時代に成績がよかった秀才というよりも、「この人、なんでこんなこと知ってるの?」と思うような雑学系に強い人が多い。

大学生時代に私の先輩が富士銀行に就職したとき、日本一の銀行に入ったと思った。松沢の牽引した「経済主流取引プラン」が功を奏し、三菱や住友との競争を勝ち抜いて、富士は後に芙蓉グループと呼ばれる富士銀行親密企業群の中核メンバーとなる。松沢が頭取になる直前に第一勧銀が発足しトップの座を奪われ、三和銀行との合併話をすすめトップ奪回を目指したが、最終段階でうまくいかなかった。

松沢卓二はその風貌と行動力が英雄を彷彿させるとして「金融界のナポレオン」と呼ばれた仕事師だった。そのナポレオンは、「指導者とは希望を扱う人である」と述べている。組織や集団が進むべき方向を示すことがリーダーの最大の資質であり、そこへ向う道を明らかにするのが仕事である。管理者は今を見ているが、経営者は未来を見る。

 

 

岡山自治研修所

岡山自治研修所で、県庁職員研修。35名。30代前半の男女。

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以下、終了後のアンケートから。

・県民への視点が抜け落ちていたことに気がつけてよかった。

・最終目標を意識してかいていくと全体が見えて新たな発見があった。普段から数字や課題をあまり意識せずに仕事をしていたんだと反省。県の様々の部署の仕事がわかった面白かった。アンテナを高くして仕事をしていきたい。

・一日中、頭を使い、ボーとする時間がなく、有意義に時間を過ごした。他者からの指摘で気づくことが多かった。県の仕事が多岐にわたっていることがわかり面白かった。

・図解するなかで、うろおぼえ、知らないこと、わかっていないところが、浮き彫りになった。特に数値がまったく頭に入っていなかたっと反省。職場、仕事の課題も見えてきた。

・図解をすると関係性が見えてくる。問題意識がでてくる。こんなに頭を使うとは思っていなかった。以上が、新しい発見。明日からの仕事に活かせる。

・改善策を考える上でのヒントが得られた。

・新しい考え方に触れた。

・県民意識が足りなかったことに気がついた。

・自分は頭が固い。

・他の人の仕事について、質問を考えつつ聞くの大変でした・

・他の人たちの図を用いた発表を次々とみていくにおは非常に疲れた。

・大きなヒントを得られた。

・いままでの仕事に対する考え方、仕方は間違っていたのではないか?

・根拠法規も含めてあらためて見直すきっかけになった。

・納得することが多い研修でした。

・よい図がつくることで、相手に伝えるスキルが飛躍的に向上しそうだ・

・言葉と丸と線だけでここまで表現できることに驚いた。

・大変役にたった。大学時代に知っていれば卒業論文発表に工夫ができた。事業説明を行う際に利用する。

・とても頭を使う作業。

・疲れた。

・図解には一人一人の個性がでている。

・引継書で活用。

・自分の業務について深く考えることができた。

・チラシやポスターに活かしたい。

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「名言との対話」9月7日。山口淑子「順風満帆? いや、人生にそんなことはめったにない」 

山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年大正9年)2月12日 - 2014年平成26年)9月7日)は、日本の歌手女優政治家である。94歳で没。

山口淑子李香蘭、潘淑華、シャーリー・ヤマグチ、ヨシコ・ノグチ、大鷹淑子、ジャミーラ、と一生のうちに様々に名前を変えている。戦争が影を落とす「時代」に絡め取られた人生であったことをうかがわさせる。

父の赴任先の中国で生まれ暮らす。4歳から北京官話を習う。13歳、父の親友・李際春将軍の義理の娘となり、「李香蘭」という中国名をもらい、歌手デビュー。18歳、女優デビュー。反日・抗日の中、中国人として生きる。中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたが、日本人であることが証明され、軍事法廷で無罪になり、国外退去宣告。親しかった「男装の麗人川島芳子は、戸籍に養女としての登録がされていなく日本人であることが証明できずに銃殺された。

帰国後、15歳年上の彫刻家、45歳のイサム・ノグチとの結婚は「お互いの仕事に支障をきたしらたわかれましょう」という約束に沿って、5年で協議離婚。「芸術の使徒のような人」の研ぎ澄まされた日常に、尊敬し感動しながら、どこか息苦しさ感じていた。

8歳年下の外交官・大鷹弘と再婚。こちらは弘がなくなるまで添い遂げた。38歳で女優を引退し、夫の赴任地・ミャンマージュネーブで生活。48歳、帰国し、ジャーナリストとして、テレビの司会や、ベトナムカンボジア、アラブ、ヨルダン、レバノンイスラエルを取材。元赤軍派幹部の重信房子を独占インタビュー。54歳、参議院議員初当選、以後18年議員として活動。環境庁政務次官参院・沖縄北方特別委員長、自民党外交調査会副会長、参院外務委員長などを歴任する。

山口淑子の波瀾に満ちた人生は、順風満帆どころではない。人生そのものが中国、日本、アジア、アメリカ、ヨーロッパという世界を舞台にした壮大で、1世紀に及ぶ長大なドラマのようだ。時代に翻弄されながら、その波に流されずに、自分の人生の主人公として生き切った女性がここにいる。 

「李香蘭」を生きて (私の履歴書)

「李香蘭」を生きて (私の履歴書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福山市。尾道市。岡山市。

福山市神辺の菅茶山記念館。1748年~1827年

私塾「黄葉夕陽村舎塾」。廉塾。神辺学問所。頼山陽伊能忠敬。箱田良助。「宋詩に学べ」運動。当代一の詩人。「詩は茶山」(林述斎)。

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 尾道市

中村憲吉旧居。1889−1934年。アララギの代表的詩人。

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 尾道の文学記念室。大阪鉄工因島工場(「日立造船の前身)の役員。水道工事技術者の福井英太郎(1874–1931年)の旧自宅。

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横山美智子(小説家)1895–1986年。91歳。

行友李風(脚本家)1877–1959年。81歳。新国劇の専属脚本家。「春雨じゃ、濡れて行こう」「赤城の山も今宵限り」。

麻生路郎(川柳人)1888–1965年。75歳。「川柳を生きることによって平和な世界をい生み出したい」。毎日川柳選者。

高垣眸(小説家)1898–1983年。85歳。「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)。漢字制限で読書力・思考力の喪失に失望し筆を折る。

山下陸奥歌人)1890–1967年。76歳。月刊短歌誌「一路」創刊。宮中歌会始選者。相田光男の短歌の添削も。

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 岡山。ホテルグランヴィアの近くの居酒屋で知研岡山のメンバーとの会食。

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「人間との対話」  9月6日。黒澤明「難所でひるんだらお終いだ。その難所で耐え、喰らいついて耐える。この努力が天才と凡才を分ける」 

 黒澤 明(くろさわ あきら、新字体黒沢、1910年明治43年)3月23日 - 1998年平成10年)9月6日)は、日本映画監督脚本家である。

33歳のデビュー作品『姿三四郎』から始まって、52歳までほぼ毎年話題作品を発表し続けた。『羅生門』『生きる』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『天国と地獄』などが記憶にある。55歳からは、5年に一本というペースになり、『どですかでん』『デルス・ウザーラ』『影武者』『乱』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』など優れた作品を発表する。ジョージルーカス、スピルバーグなども触発され、畏敬の念を持っていた。黒澤明は、世界のクロサワになった。

以下、黒澤語録。

ドストエフスキーと同時に芭蕉や蕪村が好きなんです。

・どうして人間ってもっと仲良く暮らせないかということ、もっと善意にみちてやれないかということだけです。

・一週間でも二週間でも、出来れば一生、見た人に影響を与えるような、そういうものを僕は作りたいと思ってきた。

・要はどれだけインプットしているか、それがオリジナリティとして出て来るかが天才と凡才の違いなんだ。

・足元を見て、コツコツ歩いていく。

・僕は、戦いに破れることを活力源にして次々と戦いを挑んでいる第一線の司令官。

・お金を残すより、いい作品を残す。

原子力に関しては少し生意気すぎるんだよ。自分の手ではどうにもならないものに手をつけちゃったっていうところに、この大きな悲劇がある。

・間違えたらおしまいだというのに、絶対間違いはないなんて言える奴は気違いだ。

・新しい時代は新しい人間の創造を求めている。我々は新しい時代の新しい課題を解決すべき、新しい人間として自己を形成しなければならない。

・目をそらすのがペシミズムであって、現実を直視するのは積極的な態度なんだよね。

・これ以上は働けないと言うだけ働いて、やるだけのことをやったら、少しゆっくりしたいなと言う心境で、死ねると思うんですよね。

・本来、葬式は目出度いもんだよ。よく生きて、よく働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのは目出度い。

天才クロサワの天才論は傾聴に値する。撮影中は主人公に憑依してしまう。そして命を削って作品を完成させると、毎回病院へ直行し、抜け殻となって、倒れ込むのが通例だった。難所でひるまず、耐え抜いて、その難所を越えた人のみが天才と呼ばれる資格がある。映画監督という仕事は毎回必ず違う姿の難所が襲う。その難所を避けずに切り抜け続けた黒澤明は本当の天才となった。改めて、黒澤作品をすべて観て、この天才の仕事を堪能したい。

 

人間 黒澤明の真実:その創造の秘密

人間 黒澤明の真実:その創造の秘密

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山口県:中原中也記念館(湯田温泉)。ザビエル堂(山口市)

中津から小倉、新山口経由で湯田温泉へ。

中原中也記念館。中原中也は、30歳で夭折。

小林秀雄大岡昇平長谷川泰子青山二郎。、、、。

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 井上馨を記念した井上公園。

 中原中也の詩碑。

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山口市。ザビエル記念堂。 

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 イグナチウス・ロヨラ(1491−1556。ザビエルの師。イエズス会創立者1506生まれ。1549年鹿児島到着。2年間日本滞在。46歳で没。)。フランシスコ・ザビエル。コメス・デ・トムレス(豊後で大友宗麟)。フェルナンデス・ジュアン(鹿児島に到着)。イムマン・ロレンソ(ザビエルが最初に受洗。盲目の琵琶法師。高山右近父子を受洗)。パウロ・ヤジロウ(日本最初のキリシタン)。

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名言との対話」9月5日。マザー・テレサ「私たちが修道院以外のところで食事をしないのは、貧しい人々への配慮なのです。水一杯いただきません。本当に何も」

 マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ (Saint Teresa of Calcutta) は、カトリック教会修道女にして修道会神の愛の宣教者会」の創立者

マザー・テレサが亡くなった時、残っていたのは、着古したサリーとカーディガン、古びた手さげ袋と、すり切れたサンダルだけだった。すべてを貧しい人に捧げた人生だったことがわかる逸話である。この「貧しい人」とは物心両面の貧しさが含まれていた。長く続けた修道会「神の愛の宣教者会」の目覚しい活動に対して贈られた1979年のノーベル平和賞をはじめとした賞金は一銭残らず、貧しい人のために使い果たした。

最近亡くなった『置かれた場所で咲きなさい』を書いた渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)は、マザー・テレサの来日時に通訳を務めた縁で『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』の翻訳者となっている。

・仕事を祈りであるかのように続ければよいのです。

・大切なことは、、貧しい人々に奉仕している時、私たちは神に仕えているのだと確信していることなのです。

・最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。

マザー・テレサは宗教、民族、年齢、性別、地位等に関わりなく、必要とする人々に愛の手を差し伸べたいった87年の生涯を送った。そしてその影響を受けた後輩たちにその思想と行為が引き継がれている。

すべてを無報酬で行なっているこの修道会の人々は修道院以外のところで食事をしない。水一杯ももらわない。それは貧しい人々への配慮だった。最近行方不明の2歳児をわずか20分で発見して話題になった大分県日出町の尾畠春夫さんの態度と同じだ。この神の愛の宣教者会という修道会は大分県別府にもあるから、別府で鮮魚店をやっていた尾畠さんも、マザー・テレサの影響を受けていたのかも知れない。 

マザー・テレサの愛と祈り―み言葉を生きる52の黙想

マザー・テレサの愛と祈り―み言葉を生きる52の黙想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中津北高20回生との恒例の同期懇親会。

帰省時に毎回やってもらう高校の同級会。「ふくろう」にて。

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私からの友達へのお土産は『100年人生の生き方死に方』と『偉人の誕生日366名言集」。全員に行き渡ったかな。

11月の中津での講演時の同級会などの打ち合わせも。前日はゴルフか。

 

2次会のスナックで。

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 3次会は、残った瀬口君と藤田君と一緒に、北高の元歌手北隼人がやっているスナックで、「ともちゃん」と呼ばれている弟と同期の2年後輩たちと一緒に歌の共演。点数が出るカラオケ。私は94点(金9)、91点(銀)、93点(銀)だった。帰宅は午前1時。

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「名言との対話」。小室直樹学問とは驚く能力です。はじめに楽しむことを覚えるべきです」

 小室 直樹(こむろ なおき、1932年9月9日 - 2010年9月4日)は、日本社会学者評論家

小室直樹は、会津中学で政治家を志す渡部恒三と親友になる。小室直樹ノーベル賞を目指して京大理学部物理学科に入学。その後、大阪大学経済学部を経て、アメリカ留学では、各分野の第一人者から直接の教えを受ける。帰国後も、東大の法政治学研究科で学ぶ。この学究は、物理学、数学、経済学、心理学、社会学統計学、経済史学、法社会学政治学などあらゆる学問を身につけたことが特筆される。

自然科学はscienceと単数なのに対し、社会科学はsocial sciencesと複数形である。その意味は本来、社会科学は諸科学の総合であるはずだった。分断された諸科学の総合、つまり「社会科学の復興」が小室直樹の生涯のテーマだった。世界そのものを総合的に丸ごと説明しようとした。そのため、様々な社会科学を有機的に編成し、構造的に分析し、そして処方箋を編み出した。

1980年に『ソビエト帝国の崩壊』がベストセラーになったが、当時は誰もが本気にしなかった。ソ連崩壊の原因、必然性、プロセスが詳細、具体的に書かれている。世間は驚いた。9年後にその予言が的中し、小室直樹の慧眼にまた驚いた。中国、韓国、イスラムなどについての著作、そして日本については日本教、受験体制、田中角栄、、、など実社会に向けても本質的な論陣を張った。

小室直樹はあらゆる学問を修め、その上で「先進科学を後進科学に応用する」という方法論で、切り込んでいった。アイデアの発想とその理論化、両方ができた天才だった。

日本の私塾の伝統をひく「小室ゼミ」は、1960年代半ばから無報酬で私的に続けている。橋爪大三郎副島隆彦山田昌弘宮台真司、など多くの人物が影響を受けている。

私が30歳で入会した直後に、「知的生産の技術」研究会で、『ニッポンの教育』という本を刊行するプロジェクトがあり、講談社で、文部省元次官、新聞社の論説委員小田実小室直樹などの論客数人の座談会が企画された。幸運にもこの議論を側で聞く機会を得たのだが、小田実小室直樹の対決には心が躍ったものだ。

本を読んだり、難しい理論を理解しようとして、「そういうことか! わかった!」と心踊ることがある。学問するとは、その驚きの連続の過程を楽しむことなのだ。小室直樹は、あらゆる学問領域の山々を登り、高みに立って、自分が見えるパノラマの風景を、見せてくれた人だ。驚き、感動する。そのプロセスを自分なりに楽しもう。

 

 

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

  • 作者: 小室直樹
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1980/08
  • メディア: ?