私家版「野村克也の名言録」ーー15年間のブログでの記述から

野村克也さんが昨日亡くなった。私が感銘を受けて、このブログに記した野村克也の名言録を以下に記して冥福を祈ろう。

  • 筋書きを書いて演出までやるのがキャッチャー。
  • もしスペンサー選手やブレイザー選手がいなかったら、日本のプロ野球精神野球の域をなかなか脱せず、日本の野球は相当遅れていただろう。
  •  草柳太蔵は何事も生きているうちは勉強という意味の「生涯一書生」という言葉を野村克也に贈った。それが野村の名言「生涯一捕手」になった。また、「いい仕事は必ず誰かが見ていてくれる」とアドバイスされ、心に深く染み込んだと後に野村が述懐している。
  •  才能には限界がある。でも、頭脳に限界はない。
  • 常に(V)時代が脳裏にあり、川上さんを鏡にしていた(川上哲治死去に際し)
  • 素質が一流でも思想が二流では成長しない。
  • 器用な人はもう一工夫、もう少しの地道な努力が足りないことが多いので、長期戦になれば最後は必ず不器用が勝つんです。
  • 才能は学びから生まれる。
  • 中心なき組織は機能しない。
  • エースと4番は育てられない。
  • 足と肩にスランプなし。
  • 指揮官の重要な仕事はひとづくりである。
  • 監督は「気づかせ屋」でなくてはならない。
  • チームづくりの終着は「まとまり」。
  • 士は己を知る者のために死す。
  • 人間学のないリーダーに資格なし。
  • 監督の5原則。
  1. 仕事を通じて人間形成、人格形成をする
  2. 人生論が確立されていないかぎりいい仕事はできない・目(目のつけどころ)、頭(考えろ、工夫しろ)、感性(感じる心)・コツ・ツボ・注意点(意識させる)が重要・無形の力をつけよ
  3. 教育こそ監督に求められる第一の使命。
  4. 心が変われば人生が変わる。
  5. 指揮官の最初の仕事は戦力分析にある。

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「名言との対話」2月12日。山田「私は終生、「踏み切り」「割り切り」「思い切り」の『三切り主義戦略』と 「研究」「普及」の『ニキュー戦術』を経営哲学のモットーとした」

山田 晁(やまだ あきら、1884年明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本実業家

山口県生まれ、1909 年、旧日本陸軍の軍需工場だった大阪砲兵工廠に就職した。化学、金属加工、機械製造とさまざまな分野の知識を習得した。神戸製鋼所、東洋鑢伸銅(現東洋精機)を経て1924年、エンジン冷却用のラジエーターチューブ製作を主とした大阪金属工業所(後のダイキン)を創業した。

飛行機用ラジエーターチューブの他、熱効率を飛躍的に向上させたガス瞬間湯沸かし
器やわが国初の電車用冷房機(1936年)などを製造。また、1937年に毒性、腐食、引火・爆発の危険性のない画期的な冷媒フロンを開発、製品化した。1951年にはダクト工事や配管工事がいらない日本初のパッケージエアコンを開発し、ダイキンの礎を築いた。耐熱、耐薬品性に優れたフッ素樹脂を開発するなど日本では珍しい金属製品と化学製品を扱う会社を作り上げた。

市場ニーズがある場所で生産する「市場最寄化生産戦略」があり、現在では、事業展開150ヵ国以上、生産拠点100以上、海外事業比率76%というグローバル企業となっている。2019年予想では、売上高2兆6100億円、経常利益2850億円。従業員76484人(2018年)という堂々たる企業になっている。2020年に向けた戦略経営計画「FUSION20」では、「空気と」「環境」の新しい価値で世界に答えをしていきます、と宣言している。

大阪砲兵工廠時代には学歴偏重の風土で苦労したが、このときの修練が人間像を形づくる基礎工事であった、と語っている。また、「メーカーは単に売るだけのものであってはいけない。製品を通して信用を得ることが何物にも代え難い財産である」を信念とした。個人においても、法人においても、「信用」が何より大事だと言っているように思う。

山田は、「踏み切り」「割り切り」「思い切り」の『三切り主義戦略』と、「研究」「普及」の『ニキュー戦術』で、独創的な製品を作り続けた。一歩踏み出す「踏み切り」、損得を考えすぎない「割り切り」、決断は早く行う「思い切り」と解釈すると、この「三切り主義」は「勇気」を意味しているように思う。自前で「研究」し、開発した商品を「普及」させていくという地道な努力を重ねる「二キュー」は「根気」ではないか。経営が描く勇気ある「戦略」と、現場の根気強い「戦術」が相まって、創業者亡きあとも、培った「信用」を土台に、その戦略と戦術を奉じて成長する姿がみえる。

 

 

 

 

最終校正

 3月出版の著書の最終校正の日。何度見ても修正箇所がでてくる。 以下、出版社に送付。

3P:仙人期。125ではなく120に。図を修正。
4p:2行目。125を120に。
12p:7行目。「尊敬しているのですが、」をトル。9行目。耶馬台を「邪馬台」に。
42P:10行目。「子ではなく老子芭蕉ではなく一茶に、惹かれる。」
49P:最後の行。「仕事をし、その愛人となった。」
56P:2行目。、、、「「睡蓮」などの公演がある。」
72P:4行目。「、、携帯電話など品ぞろえを」を「携帯電話などに品ぞろえを」電気」を「電器」に。
73P:「自宅の周辺にある」を、「近所の」に。
76P:最後から3行目。「魚篇」を「魚偏」に。
91P:最後の行。「芹沢光治郎記念館」を「芹沢光治良記念館」に。
111P:5行目、上村松園「一途、、」を、「上村松園は「一途に、、」にと、「は」を入れる。
116P:4行目。一字サゲル。5行目の「匂出来」を、「匂出来(においでき)」に。
118P:最後から4行目。「これもいつか感想を記したい」をトル
131P:「料理評論家」を、「女性料理評論家」に。
154P:、、ボンヌ大学にに、の「に」を一つトル。
167P:2行目から。「そういう主義であった。強い意志を持った人だ」に。
174P:7行目。「、、辰巳小次郎といわれるように、ライバルでかつ親友だった。」に。 最後から2行目。島田は楽しそうに「NHK映像ファイル あの人に会いたい」の。
180P:タイトルの「長生きは気力だがね」を、「長生きは気力だがね!」に。
203P:3行目。「学会を設立し」に、と「を」を入れる。
241P:3行目。「終わった人」に。」を入れる。
242P:最後から3行目。「た人と」の「と」をトル
参考文献:長く2行になるものは、2行目のトップを一字サゲル
著者紹介。、、多摩大学総合研究所の後に、NPO法人知的生産の技術研究会理事長。「遅咲き偉人伝」(PHP)に。研究所をトル。

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「名言との対話」2月11日。西村伊作「若い時、いろいろなことを知るだけでなく、いろいろなことをするのがよい」

西村 伊作(にしむら いさく、1884年9月6日 - 1963年2月11日)は、日本の教育者。

大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。文化学院創立者としても知られる。

伊作(イサク)はクリスチャンであった父親が、聖書に因んだなずけた名前である。弟たちも同じく、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)と命名されている。 

2017年8月7日に私は軽井沢に、浅見光彦記念館を訪ねた。フェイスブックで渡辺幸裕さんから勧められて、ルヴァン美術館を急遽訪ねることになった。浅見光彦記念館の近くだった。そこではルコルビジェ西村伊作の作品を展示していた。西村伊作三男の八知が設立したルヴァン美術館は、文化学院創設当時の雰囲気を再現していた。この美術館で、「若い時、いろいろ知る。読書、経験、思考。年取ると、勉強しないで若い時に得たものを持って考える。若い時、いろいろなことを知るだけでなく、いろいろなことをするのがよい」との西村伊作の言葉を見つけた。

 黒川創『きれいな風貌』(新潮社)を読んだが、やはりこの人はつかみどころがない。この本の「あとがき」の冒頭は、「西村伊作は、『ああ言えば、こう言う』のツムジ曲がりで、飽きずに一生を通した人である」とある。 日露戦争時には戦争非協力者であった。また住宅革命の旗手であった。そして1923年には林源十郎が中心人物であって推進した倉敷教会を建てている。

生まれつきの大山林地主の資産家である。7歳の時の濃尾地震で父母を失う。しかし財産には恵まれた。伊作はこの財産を使って、自分にできる「教育」や「芸術」に拠って立ち、この世への働きかけを続けていきたいと考えたのである。美術、建築、陶芸を学ぶ。毎年、所有している全山林の約50分の1を伐採して現金化し、その中から、自分のために使ってもよいとみなした費用の約3分の1を実際に使うようにしていた。

長女の小学校卒業に際し、個性を伸ばす自由な学校を思い立つ。1921年与謝野晶子夫妻、石井柏亭と一緒に神田駿河台文化学院をつくる。国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開された。文化学院は最近まで長い間、自由思想の象徴であり、オシャレの代名詞だった。

文化学院は、外国文学顧問・戸田秋骨、日本文学顧問・与謝野寛、音楽及び舞踏顧問・山田耕作、そして有島生馬(美術)、、、とそうそうたる著名人が関係している。関東大震災で、この学院が壊滅したとき、与謝野晶子進めていた源氏物語の新訳の完成原稿が灰になった。駆けつけた晶子は「十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰」と詠んだ。この歌の学院とは、伊作の文化学院だったことを初めて知った。

当時の一流の学者、芸術家たちが親しく教え、職業的な教師によらない高踏的な人間教育がなされ、その結果多くの著名な芸術家、作家、俳優などを輩出した。目についた名前を以下に挙げる。山東昭子辻原登大沢在昌金原ひとみ杉本苑子。野口富士男。寺尾聡。木村功前田美波里水谷八重子高峰秀子。十朱幸代。飯沢匡米米CLUBの3人。谷桃子山口洋子安井かずみ梅宮アンナ。志村ふくみ。河原淳。鳥居ユキ。久里洋二。青地震。、、、なるほど、こうしてみると、教育というものの力をまざまざとみる思いがする。文化学院は経営が思わしくなくなり、2018年に閉校している。

西村伊作という不思議な人物について、与謝野晶子は「稀(まれ)に見る多能な人で、画家、建築家、工芸美術家、詩人であると共に、更に熱心な文化生活の研究家である」と語っている。アメリカ滞在中に「お前は何者か、クリスチャンか、ナショナリストかソシアリストか」などと問うと、「自由思想家さ(オンリー・フリー・シンカー)」と答えてやったというと披露している。どんな議論にもついていけたひとだった。本人も「私は当たり前の日本人でない、特別な奇妙な種族に属しているのです」と言っている。和歌山県新宮市西村伊作記念館がある。

内村鑑三が、事業や思想よりも「金を残す」ことを第一に挙げているのは、このことだったのかと納得した。金の使い道が重要なのだ。学院を始める37歳までいろいろな分野に首を突っ込んだのは、このためだったともいえる。これで西村伊作という人物の焦点が定まった。

 若いには読書でいろいろ知り、様々な体験をするのがよい。若い時に得たものをもって、自分で考えよ。それが西村伊作のメッセージだ。そのメッセージを伝える場が、文化学院であり、西村伊作はそこに財産と人生を注ぎ込んだ。100年近くにわたったこの事業に応えた多くの才能が生まれた。教育というもの力を感じる事例である。

 

きれいな風貌―西村伊作伝

カルタ館。弁護士事務所。出版社。

神保町の奥野かるた店。

2階の「小さなカルタ館」を訪問。月曜日は休館だったが、残念な顔をしていると、特別に入れてくれた。感謝。企業ミュージアム訪問の一環。

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初代?

二代目?

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四谷の玉木弁護士事務所。

一般社団法人の再建がテーマ。

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荻窪の出版社。

3月刊行の新刊のゲラの最終版を入手。木曜日までに修正の要あり。

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「名言との対話」2月10日。安部磯雄「知識は学習から、人格はスポーツから」

安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日元治2年2月4日) -  1949年(昭和24年)2月10日)は、社会主義者。

父は福岡藩士。同志社に学び新島襄から洗礼を受ける。1891年よりアメリカ及びドイツに留学。同志社、そして東京専門学校(後の早稲田大学)で教鞭をとった。1900年幸徳秋水らと社会主義研究会、1901年片山潜らと社会民主党を結成し、日露戦争では非戦論を唱えた。1928年第1回普通選挙で当選、翌年には社会民衆党結成し委員長に就任した。 1940年の斎藤隆夫の有名な反軍演説による議員除名問題に際して、欠席して反対の意思を示すと、社会大衆党の党首の地位を追われ、議員除名となった。

このような社会主義者としての安部磯雄の名前は知っていたが、もう一つの「日本野球の父」「学生野球の父」という顔は私は今まで知らなかった。

早稲田大学教授時代に野球部を創設者する。1904年に創部4年目の早大野球部は一高、慶応、学習院の強豪を破り全勝優勝する。その褒美で約束どおり、大隈重信総長を説得しアメリカ遠征を行った。試合に臨む態度が立派でアメリカ人から称賛を受けている。この遠征が日本の学生野球にもたらした影響は極めて大きいものがあった。体育部長に専任した一時期を除き、1926年まで約四半世紀にわたり、部長として野球部の発展に尽力した。他には競争部長、交響楽団初代部長、図書館館長などを務めた。1903年から始まった早慶戦、1925年の東京6大学連盟の成立などにも関与している。

1911年には嘉納治五郎らと大日本体育協会(体協、現在の日本スポーツ協会)設立している。嘉納治五郎を助けて1912年のストックホルム五輪の国内委員も務めた。早大野球部の練習グランドの東伏見野球場は、安部生誕150年を記念して、安部磯雄記念球場と命名されている。安部の功績が偉大だったことがわかる。

安部磯雄は野球論「野球の三徳」の中で、「野球選手に精神修養の大切なる事を話して置いた」と述べ、要点は二つとした。「第一は競技中最後に至るまで同一の熱心を以て戦ふべきこと」、「第二は勝負に余り重きを置かぬこと」である。卒業後は人生という名の試合に立ち向かう選手に、最善を尽くし、難局にも平常心を保ち生き抜いてほしいという趣旨であった。安部にとって野球を代表とするスポーツは、若人の人格形成の要であるとの考えだった。その精神が、アメリカ遠征でアメリカ人を感激させた選手の態度の源であり、今に続く学生野球の神髄に影響を与えているのだ。「知育・徳育・体育」が教育の三本柱と言われるが、知育(アタマ)は学習、そして体育(カラダ)を通じた徳育(ココロ)もスポーツで涵養しようというのが、安部の考えだったのだろう。安部の持ち込む難題を支持した大隈重信総長も、参加することに意義があるとしたオリンピックの精神を体現していた嘉納治五郎も、安部の思想に共鳴したのであろう。安部磯雄は黎明期の日本社会主義のリーダーであったが、「学生野球の父」としても多くの人に多大な影響を与えた。今もその影響は続いている。

 

 

 

 

 

「野球害毒論」なるものを唱える一群もあった。明治44年(1911)8月から9月にかけては、新聞紙上で、新渡戸稲造乃木希典らが野球は社会に害をもたらすとして批判した。背景には、学生やファンがあまりに野球に熱中し過ぎたことがあっ

 

寺島実郎「脳力のレッスン特別篇ーー令和の暁鐘が問いかける者日本再生の基軸ーー(上)外なる課題への視座」

雑誌「世界」2月号の寺島実郎「脳力のレッスン特別篇ーー令和の暁鐘が問いかける者日本再生の基軸ーー(上)外なる課題への視座」を読んだ。

  • 米国の失敗ーーその象徴としての中東の液状化イラン革命以来の失敗の連鎖の結果が、シーア派イランの台頭とトルコの野心に代表される地域パワーの復権である。その上でトランプ政権は極端なイスラエル支援策を展開している。中東は戦争状態に近づいている。価値ではなく、損得というディールによるNATO、日本、韓国など同盟外交の混乱。
  • 中国の失敗ーーその象徴としての香港の混乱。ネットワークとしての中国に支えられたグローバルなネットワーク型騒乱。台湾への影響。
  • 日本の立ち位置ー米中の周辺国ではない自立自尊。米中対立は理念ではなく利害の対立だ。同盟の質の再点検し日米関係の再設計を模索すべきだ。占領軍のステータスのままの地位協定の改定に踏み込め。
  1. 平和主義:「非核平和主義を掲げ、アジア太平洋諸国の先頭に立つ」
  2. 民主国家:「成熟した民主国家として公正な社会モデルを実現する」
  3. 産業国家;「技術を大事にする産業国家として人材の教育に実績を挙げる」

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 「梅棹マンダラの宇宙を探検するーー『梅棹忠夫著作集』の図解化に挑む」というタイトルの講演をすることになったので、準備をしよう。第5巻「比較文明学研究」から着手を始めた。

ジムの「ヨガ」に参加。1時間。大半は女性だが、男性もちらほら。

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「名言との対話」2月9日。貝塚茂樹「あなたは、論語ときいただけで、とてもちかよりにくく、むずかしい本だというふうに、頭からきめてはいませんか」

貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年明治37年)5月1日 - 1987年昭和62年)2月9日)は、日本東洋学者、中国史学者。文化功労者顕彰、文化勲章受章。

実父は、地質学者・地理学者で京都大学教授の小川琢治兄に冶金学者で九大教授、東大教授の小川芳樹。弟に物理学者で京大教授の湯川秀樹、中国文学者で東北大教授、京大教授の小川環樹。華麗な学者一家の出である。日本人初のノーベル賞受賞者の湯川が自らを語るインタビューを聴いたことがあるが、やはり学問を第一とする家風であった。地頭も大事だが、育った家の雰囲気も重要だということがわかる。小川姓であった貝塚は入り婿になり、貝塚を名乗った。弟の秀樹も湯川家の養子である。

 貝塚以前は東洋学、中国学の分野では、文献研究が主体であった。貝塚は甲骨文字などの出土資料を用いた新しい研究方法の創始者となった。湯川秀樹と同じく貝塚も独創の人だった。また古代から近代、現代にいたるまでの幅広い実証的な研究を行い、東方学会会長をつとめるなど歴史学に大きな貢献をしている。戦後は米中との文化交流にも尽力した。文化功労者文化勲章。膨大な蔵書のうち約3万冊は、和泉市久保惣之助美術館が所蔵している。

聖書と並ぶ人類の古典ともいうべき『論語』は孔子という大聖人の言葉が掲載されている聖典という扱いだったが、貝塚は『孔子』という書物で七十余年を生きた生身の孔子という大人物の経験と洞察がにじみ出ている人生の書であるという観点からやさしくひも解いている。書物も読む人のレベルによって理解度が違うのである。そして中国文学の碩学である貝塚の理解力の上にたった優れた筆力の賜物を私たちは読むことができる幸運を持っている。

  「あなたは、論語ときいただけで、とてもちかよりにくく、むずかしい本だというふうに、頭からきめてはいませんか」という『孔子』の前書きの後には、 「ところが、じっさいはそうではないのです」という言葉が続く。平仮名のおおい、やさしく、かんでふくめるよう文章は、梅棹忠夫の文章とよく似ている。私が書くなら「あなたは、論語と聞いただけで、とても近寄りにくく、難しい本だというふうに、頭から決めてはいませんか」となるのだが、この碩学の文章は「論語」という書名以外には、「本と頭」だけが漢字で、他はすべてひらがなである。小学生を対象として書いているような感じがある。それが永遠の名著といわれるようになった。こういった文章の書き方も学んでみたい。

 

 

 

 

 

 

エース株式会社の「世界のカバン博物館」と創業者の「新川柳作記念館」

浅草に本社のあるエース株式会社の創業者・新川柳作は「聖業を営ませていただいているカバンを通じて、何か社会に恩返しができないか」と考え、「世界のカバン館」を開館した。それが、「世界のカバン博物館」に発展した。そして「新川柳作記念館」になっていった。

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1915年7月31日に石川県白山市で誕生。母一人で4人を育てた。小2の教科書「椎の木と樫の実」の話のなかにある「今に見ていろ僕だって 見上げるほどの大木に なって見ぜずにおくものか」を心に刻んだ。

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16歳、大阪の加藤忠商店(カバン卸業)に入社。1940年、大阪でカバン製造卸業。1950年、25歳、株式会社新川柳商店。1953 年。東レのナイロンという新素材でナイロンバッグを開発。60歳、会長。89歳、上海に中国エース本社ビル、「母念」の石碑。2008年1月に他界。「私の人生の大半はカバンに明け暮れた日々だった」と本人がいうように、カバンに明け暮れた92年の生涯であった。

エース株式会社の「エース」は、野球のエースピッチャーのように優れた製品を世に出そうという決意が込められている。

「生きるということは、逃げないことである。逃げないということは、苦難を苦難として味わうことである。苦難の体験は、小さな難事に対するに自信を、より大きな難事に対するに気力を植え付けてくれる」

社歌の作詞は西城八十、作曲は古関雄而。。「なにわのせんばにうぶごえあげし、、、、、、、つよし、たくましのびてゆくエース」。

 「わたしカバン」コーナーでは、山下泰裕のスーツケース。福原愛のスーツケース。三浦雄一郎のダッフルバッグ。長嶋茂雄のカバン。羽生結弦のトローリーバッグバリース。吉川英治の牛革グラッドストーンケース。、、などが展示されている。

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1975年、「世界のカバン館」。 2008年1月他界。2010年、創業70年に「世界のカバン博物館」を開館。「世界のカバン博物館」は、カバンの歴史、カバンの秘密、世界のカバンコレクション、わたしのカバン、企画展示エリアなどがある。2015年、創業75年記念事業として。創業者の生誕100年目に「新川柳作記念館」を開館した。

 人類はカバンと進化。運ぶ器はカバン。トランク(幹)は大木の幹をくりぬいたもの。日本書記、古事記にある大国主命の袋(平面布)がカバンの最初。倭健命のひうち袋。、、、、、。

「企業ミュージアム」というテーマを意識してから、帝国データバンク史料館、日本銀行貨幣博物館に続く3館目だ。企業ミュージアムは、企業のPRセンターでもあるためにきれいであり、歴史や資料がよく整理されている。また受け付けの女性も内容をしっかり把握している。そして無料である。企業の歴史と現在、そして創業者の熱意とたどった生涯をなぞることができる。行政などが所管する人物記念館は泥臭いところも多いが、企業が主体であるため、すっきりしていて気持ちがいい。浅草には「太鼓館」(宮本卯之助商店)、「日本玩具資料館」(玩具卸「ツクダ)もあるので、次の機会にみたい。新川柳作記念館で920館目。あと80館で1000館か。少しペースを上げるかなあ。

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「名言との対話」(戦後編)2月8日。堺屋太一巨人・大鵬・卵焼き」「団塊の世代

 堺屋 太一(さかいや たいち、1935年昭和10年)7月13日 - 2019年平成31年)2月8日)は、日本通産官僚小説家評論家

本名の池口小太郎は、通産省に入省。大阪万博の提唱者として知られる。1978年10月に退官し、執筆評論活動に入る。20年後の1998年7月には、小渕内閣民間人閣僚として経済企画庁長官に就任し、第2次森内閣まで務める。長官在任中には、従来の政府の景気判断よりも景況感の変化を迅速かつ的確に把握しやすくする為、タクシードライバーや居酒屋の店主など「街角の人」に直接話を聞く「景気ウォッチャー調査」を開始した。

堺屋太一というペンネームは自身の家の屋号を用いたものだ。「巨人・大鵬・卵焼き」という人口に膾炙した言葉は、堺屋が通産官僚時代に記者会見で子供が好きなものの紹介の中で、卵が物価の優等生という意味を込めて巨人と大鵬の後に続けたのが最初だということだ。考えた本人は、卵を主役としたのだが、巨人や大鵬の方に目がいってしまったと言っている。

大阪万博は、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、小谷正一は住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っている。内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。

2018年12月17日の昭島市まちづくり企業サミット」でコーディネーターをつとめたとき、ご一緒した。国連アジア刑政財団会長の堺屋太一会長として短い講演をを聞いた。お年を召したなあと感じたが、基調講演ではしっかりお話され、「明治は強い日本。戦後は豊かな日本。新しい日本は楽しい日本。多様性、意外性。2025年の大阪万博。プロジェクトを建てよ。昭和の森にパビリオン」と語った。昭和館での懇親会でもご一緒した。堺屋太一先生とはJAL広報部時代に韓国ソウルでの文化講演会でご一緒して以来だった このとき、「堺屋太一著作集」を出したとも聞いた。2018年8月に完結した堺屋太一著作集』全18巻だ。2019年2月8日、堺屋太一先生死去の報が流れた。享年83。

堺屋太一の小説や評論などは私もよく読んできた。『油断!』(日本経済新聞社、1975年)。ある日、突然、石油が断たれた!そのほとんどを輸入に頼る日本がなすすべもなく麻痺し崩壊してゆく姿を、生々しく描き出した衝撃の予測小説だ。『団塊の世代』(講談社、1976年)。共通点は各々の物語の主人公が1947年(昭和22年度)から1949年(昭和24年度)に生まれた団塊の世代の大卒ホワイトカラーであるということである。『知価革命 工業社会が終わる・知価社会が始まる』(PHP研究所、1985年)。平成三十年』(朝日新聞社、2002年)では1ドル=300円、ガソリン代1リットル1000円、消費税は20%へ―。平成30年(2018)の日本はまだ何も“改革"できないでいたとするストーリーだった。2006年の日経新聞連載小説は、渡辺純一の「愛の流刑地」の後を受けた堺屋太一の「世界を創った男・チンギスハン」だった。チンギス・ハンノの少年時代が興味深く毎朝読んだ。橋下徹堺屋太一「体制維新---大阪都」(文春新書。2011年)は、大阪都構想を掲げる橋下大阪市長の考える大阪と日本の未来がよくわかる本だ。一点突破で現在の閉塞感を打ち破る可能性がある。4年間の大阪府知事時代の闘争に裏付けられた現場感覚とそこから生み出された明快な論理と方向性には説得力があった。

 佐高信「タレント文化人200人斬り ブラックリスト完全版」(毎日新聞社。2011年)を読んで、そうそうたる現代の英雄たちを一刀両断で切り捨てる人物鑑定眼と冴えわたるワザに感服した。「堺屋太一。時間にだらしない点は変わらず、講演会に集まった人たちを大幅に待たせたことがあった」と批判されている。

私も同時代に生きて多くの影響を受けた。大学を卒業後に役人になったのは将来の自分の方向を定めずに、「何にでもなれる」からということで選んだという記事を覚えている。退官時には「ケインズを超える」という志を語っていた姿を記憶している。そして「堺屋太一著作集」(東京書籍)は死の半年前に完結しているのがさすがである。

「巨人、大鵬、玉子焼き」も話題になったが、「団塊の世代」というキーワードは今なお、生き続けている。戦後75年が経過したが、それは団塊の世代という主役たちをめぐる歴史だったといってもおかしくない。そしてこの物語はまだ終わっていない。

団塊の世代 〈新版〉 (文春文庫)

知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる

 

 

10月の知研50周年企画:知研と民博の合同研究会に格上げ。

大阪の国立民族学博物館から知研50周年企画について、私が出した手紙に対して梅棹資料室から返事あり。知研と民博の合同研究会に格上げとなった。

大学

・秘書と打ち合わせ

・高野課長:近況

・山本さん:T-Studioの動画

 都心:出版社から「人生遅咲きの時代 ニッポン長寿者列伝」の表紙案をもらう。

雑誌「世界」を購入。寺島実郎「脳力のレッスン特別扁 令和の暁鐘が問いかけるもの」。雑誌「文藝春秋」を購入。石破茂。保坂正康・本庶佑

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「名言との対話」2月7日。小山敬三「私は軽井沢の人たちより浅間を知っている」

小山 敬三(こやま けいぞう、1897年明治30年8月11日 - 1987年(昭和62年)2月7日)は、昭和期の洋画家文化功労者文化勲章

体格に恵まれ、ずっと級長を通した小諸の名家の期待の息子は、画家を志す。父から「絵を米塩に、つまり生活費に替えるようなことをしてはいけない」という条件のもとに画家になることを許される。慶応義塾大学理財学科を中退し、川端画学校で藤島武二師事する。父の友人の島崎藤村から「できるだけ早くフランスへ行って、広く深くその芸術を見きわめてきなさい」とすすめられ、1920年23歳で渡仏。25歳、フランス美人と結婚。31歳、帰国。73歳、文化功労者。78歳、小山敬三美術館が開館、文化勲章

堂々たる体躯と風貌といわれるように大人の風格があったようだ。小山の写真を見るたびに、私もいつも端正な顔立ちと理知的な目を感じている。

山本鼎は「直截なデッサン、重厚な筆致、寡黙な色彩、而して盤石の如く頑丈なマチエール」と小山の特徴をみている。安井曾太郎の「小山君の描く橋は安心して渡れます」という有名な批評がある。小山の雄渾な筆致の絵を端的にあらわす賛辞だ。

2007年に妻と二人で信州を旅した。まず「はるかなる古城のほとり雲白く、、」で始まる島崎藤村藤村記念館を訪問。記念館は小諸城址懐古園にある。藤村は小諸の小諸義塾での教師生活で7年間住んで代表作「破戒」を書き始めた。藤村先生は生徒の作文帳の添削欄に「文章は親の肩をもむがごとくに作るべし。大切に用意するを第一とす」などを朱書きしており、興味深い。そして、同じく懐古園の中にある、文化勲章受賞の画家を記念して建った小諸市立小山敬三美術館を訪問した。浅間山を描いた画家で、大ぶり、悠々、骨格の太い雄渾な絵だという印象を持った。年上の藤村とは生涯の友人だった。新高輪ホテルのロビーの「紅浅間」は小山の作品である。この木立の中に建つ美術館は毎日文化賞をとった素敵な建物だった。

茅ケ崎に5000へーべの広大な敷地に住む。朝4時半に起き、朝風呂、1時間の散歩、そして午前中は絵の制作という日課は1952年の80歳の頃の生活だ。それから10年に時間があった。

動じない骨格をもつ絵の対象が姫路の白鷺城だ。1963年の「古城春色」から1976年の「雨季白鷺城」まで、小山は姫路城を描き続けている。この城は1993年に日本で最初に世界文化遺産に登録された。5階7階の天守を持つ日本一の名城である。黒田官兵衛の居城であったが、毛利征伐のために秀吉に譲った防火防水に強い漆喰総塗篭造りの城だ。白鷺城と言われるだけあって大きく、そして実に美しい。2014年に私も訪問し、深い感銘を受けた。
一連のダム作品も印象が深い。1961年の「佐久間ダム」から1965年の「初夏黒四ダム」、1965年の「八木沢ダム」。大画面をつかった構築力の精華だ。

「私は軽井沢の人たちより浅間を知っている」という小山敬三は、1952年の「浅間(暁)」から、1974年の「紅浅間」まで、四季折々の浅間山を描き続けた。盛夏、黎明、薄暮、初冬、夕月、残雪、などの作品がある。時間によって刻々と表情を変える浅間山を長い期間をかけて追った。まさに「浅間の画家」である。

画家という職業は、生計の維持がなかなか難しい。貧乏なものと決まっている。この小山敬三のように生活の苦労なしに生涯にわたってまっすぐに絵の道を上昇気流を描きながら歩んだ人は珍しい。幸福な人だ。 小山敬三は絵の体力が強い。風景を建築しているようなところがある。高度な絵画の技術に裏打ちされた、骨太の雄渾な画風である。その絵は風貌と人柄そのものだという感じがする。

アサヒグラフ別冊 第10号 美術特集:小山敬三

 

浅草「世界のカバン博物館」「新川柳作記念館」「駒形どぜう」。九段の文庫カフェ。小川町の神田和泉屋「酒っこ」

浅草。エース株式会社本社ビル。

・7階の世界のカバン博物館を見学。

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・8階の新川柳作記念館を見学。

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・昼食は「駒形どぜう」

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九段下の文庫カフェ。

・未来学研究会の打ち合わせ。橘川さん、環境省の石川さん、松本先生。

・多摩大ジェロントロジー研究会のメンバーと遭遇。

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小川町の神田和泉屋「酒っこ」。

・横田校長(日本酒の学校神田和泉屋学園)の立ち飲み「酒っこ」をアル高校9期の同期の加藤さんと訪問。

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・おかみさんにご挨拶。

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「名言との対話」2月5日。黒澤酉蔵「人が育たなければ、酪農が育つわけがない」

黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年明治18年)3月28日 - 1982年昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。享年96。

 衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の、北海道開発の父"と呼ばれる。

若い頃、黒澤は足尾銅山事件で有名な田中正造の書生として薫陶を受けた。そして敗戦後に打ちのめされた日本の復興を何に求めるかを考える。デンマーク信者であった19歳年上の師の宇都宮仙太郎(中津市大幡村出身。雪印の創業者の一人)の教えもあり、北海道の寒地農業にはデンマークの興国の歴史に学ぶべしとの信念で行動を開始する。

昭和38年(1963年)12月25日発行の「札酪研会報」の「宇都宮精神を偲ぶ」には黒澤の「牛飼い、三つの美点」というエッセイが載っている。それによれば、北海道に渡った黒澤は、福沢諭吉の弟子であった宇都宮のもとを訪れる。宇都宮は牛を飼うことの良さを「役人に頭を下げなくてよい」「(牛が相手だから)嘘をいわなくてもやれる仕事だ」「国民の体位向上になる仕事だ」と言われ、感銘を受けてすぐさま弟子になる。そして実践躬行して範をたれた宇都宮仙太郎に影響を受ける。

「外で失ったものをうちで取り戻す」と呼びかけたデンマーク興国の父・グルンドヴィル。「農民は土地を耕す、国民高等学校はその農民を耕す」というとおり、興国を担う青年の人間学の教育の場としての国民高等学校を創設したクリスチャン・コール。内村鑑三が「彼は彼の国人が剣を以て失ったものを鋤を以て取り返さんとした」と評価する不毛の大地を緑化したダルガス。この3人の巨人を尊敬した黒澤は、1億人を擁する日本の食糧自給計画として、畜産の大増産計画を主柱とすべきだと考え、治国安民の国策は経済自立の根本である食糧の自給独立を目標として、日本農業の有畜農化革命を達成しようとする。誠実真摯な国民の勤労と協力によって豊かな生活と高い文化を持つ友愛平和の社会の建設が可能だと考えたのである。 

黒澤の愛した言葉をあげてみよう。「建土建民」。「三愛精神」(人を愛し、神を愛し、土を愛せ)。「反芻自戒」「知行合一」「油断大敵」「天命を聞け」「自厳他寛」「経国(国家経営)と済民(人民救済)」、、、。

田中正造の影響を受けて黒澤酉蔵の思想となった「建土建民」は、健やかな土地から生み出される健やかな食物によって健やかな生命が育まれるという意味だ。「健土健民」は黒澤が創立した現在の酪農学園大学実学教育の礎となっている。「人が育たなければ、酪農が育つわけがない」のだ。田中正造、宇都宮仙太郎という「仰ぎ見る師匠」によって、黒澤酉蔵という人物が生まれ、その人の影響が今日まで続いている。人が人に与える影響力の流れの存在とその大きさを改めて感じた。

参考:黒澤酉蔵『農業国デンマーク』(河出書房)