関係学。関係のマネジメント。

 「致知」3月号が届いたので、ぱらぱらと読んでみる。

最近はいつも誰が何を言っているかにアンテナが立っている。君原健二「一つのことに十年間、一所懸命に頑張れば相当大きな成果が出せる」。坂本博之「一瞬懸命」。相田みつを:本の字「本人本当本物 本心本気本音 本番本腰 本質本性 本覚本領 本の字のつくものはいい 本の字でゆこう いつでもどこでも 何をやるにも みつを」。坂村真民「こつこつ こつこつ 書いてゆこう こつこつ こつこつ歩いてゆこう こつこつ こつこつ 掘り下げてゆこう」。千葉真知子「絶対にできる、絶対に諦めちゃ駄目」。山井太「アウトドアとは何か。人間の回復である。アーバンアウトドア」

人から受けた言葉が、人に深く長く影響を与えることも多い。高岡慎一郎「ゆっくり行く者は無事に行く 無事に行く者は遠くまで行く」(西洋の諺)。杉本雄「常に周りから注目される新しい料理を創り、発信していかなければいけない」(アレノ氏)。出口美保「芸有りて人と成り 人有りて芸を成す」(菅美沙緒)。

人が語った言葉にヒントを得たり、自分の考えが立ち上がってくることもある。鈴木秀子「私たちの毎日は様々な関係性によって成り立っています。まずは自分自身との関係、次に他の人との関係、さらにいえば大自然や人間を超える存在との関係という、大きく三つの関係性の中で毎日を生きています」。

私達は濃淡のある様々な関係を多くの人々と持っている。太い関係、細い関係、切れたままの関係、再びつながる関係、、、。そういった関係の糸の中に浮かんでいる。切れたり、つながったりしながら、全体としてはバランスをとって空中に浮かんでいるというイメージだ。世の中の事象はすべて関係にあるともいえる。関係のマネジメントが重要だ。いわば「関係学」である。

また、鈴木秀子のいう自分自身との関係とは、人間の内面を掘り下げる人文科学の分野だろう。他の人との関係とは、自分をめぐる社会との関係を考える社会科学の分野だ。そして人間と自然との関係を考えるのが自然科学ということになる。だから私たちは3つの分野をバランスよく学ばなけれが、自分や人間についてよくわからない。人文、社会、自然という3つの科学の関係は、このように理解すれば理解できる。この3つは並列に並んでいるのではなく、人間を中心に立体的に組み上がっているのだ。これも関係学の一つだ。

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昼休み

・多摩大総研のミーティング

・けやき出版の社長と二人の編集者が見える。「多摩人物紀行」。長島先生と松本先生も同席。

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「名言との対話」2月5日。安宅弥吉「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」

安宅 弥吉(あたか やきち、1873年4月25日 - 1949年2月5日)は、石川県金沢市生まれの実業家

安宅弥吉は安宅産業創業者であり、また学校法人甲南女子学園の創設者であり、そして大阪商工会議所の会頭もつとめた。

同じ金沢の金石生まれで、幕末に加賀藩で活躍し藩の財政に大きな貢献をした豪商の銭屋五兵衛江の伝記を読み、大商人になろうと考えた。16歳で上京した安宅は東京高等商業(一橋大)へ進学する。東京本郷にあった石川県出身者のための久徴館で、鈴木梅太郎(のちの大拙)と出会う。「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束したとされる。「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」と言ったという資料もある。弥吉は大拙より3つ年下だったから、「君」の方が正しいかもしれない。あるいはこのエピソードは後の語り草だったから、違う表現だったかも知れない。誰が語ったかにもよるだろう。いずれにせよ、安宅は世界的禅学者となる大拙に生涯にわたって資金援助を行っているのがすごい。「世人の信を受くるべし」と言った銭屋五兵衛の言の通りの生き方のように思える。

大拙の根拠地となった松ヶ丘文庫の設立にも尽力した。文庫の入り口には、「自庵」(安宅の居士号)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。君とは十大商社の一角を占めた安宅産業創業者の安宅弥吉である。居士号とは在家でありながら優れた仏教修行者に与えれれる号で、大拙も居士号であり、その親友・西田幾多郎は寸心である。

商売については、安宅は若者たちに「いつもはヘイヘイ言っているが、ここというところでガンとやっつける。君たちのやり方はガンガンガンのヘイで、これはあかん」と語っている。ヘイとは相手の言い分を聞き入れることで、ガンとは自身の主張を通すことだ。安宅のやり方は「世の中すべてヘイ、ヘイ、ヘイのガンでやれ」であった。相手に大きく譲りながら、自分の言い分を通していくのが商売の極意ということだろう。

安宅弥吉の死から四半世紀たって安宅産業は経営危機に陥り、1977年に伊藤忠商事救済合併されてしまう。私も就職して数年たったころであり、日本中が大騒ぎになったことを覚えている。その時、初めて安宅弥吉の名前を知った。これを知ったら弥吉は無念に思っただろう。今でも残っているのは息子の安宅英一がつくりあげた美術品の「安宅コレクション」だ。今は大阪市立東洋陶磁器美術館になっている。音楽分野にも若い音楽家を顕彰する「安宅賞」があり、中村紘子などの多くの才能が、この賞を受けて巣立っている。安宅弥吉は、文化と学校を遺したことになるともいえる。

鎌倉の東慶寺には、安宅弥吉、鈴木大拙西田幾多郎、そして大拙を師と仰いだ出光佐三も眠っている。松ヶ丘文庫と東慶寺は訪問しなければならない。

東京の企業ミュージアム

 今年訪問した帝国データバンク史料館、日本銀行金融研究所貨幣博物館がなかなか良かった。そして過去に訪ねた京都の島津創業記念資料館、下丸子の五十嵐健治洗濯資料館、函館の男爵資料館、大阪の松下電器歴史館、神戸灘の白鶴酒造資料館なども、よく考えれば企業ミュージアムだった。すべて面白く、かつ創業の精神に満ちた空間だった。

以下、近々、訪ねることにしたい企業ミュージアムをピックアップ。企業と業界の中身もそうだが、「人物記念館の旅」のニューバージョンとして創業者を中心に見てきたい。

不動前の日本酸素記念館。日本橋の富士銀行資料館。鐘ヶ淵の軟式野球資料室。錦糸町の綜警記念館。東向島東武博物館。大鳥居のワタミ夢ストリート。

浅草の太鼓館、日本玩具資料館。世界のカバン館。渋谷のたばこと塩の博物館。神保町の奥野かるた店カルタ館。大泉学園東映アニメーションミュージアム。高輪のニンテンドウ漢方ミュージアム学芸大の特殊印刷工業写真資料館。両国の桐の博物館。新小岩のセキグチ・ドールハウス。浜町のボタンの博物館。

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梅棹忠夫著作集第7巻の「日本探検」の章の「名神高速道路」を読了。建設の論理と存在の論理との交錯。未来と過去との相克。欧州は車道、日本は歩道。1960年時点での論稿であるため、「わたしの、この文章だって、あほらしくてよめたものではなくなるにちがいない。しかし、いまはちがうのである」と述べているのは、60年後の今の読者をも意識していておかしくなる。次は「出雲大社」。

・新刊本の校正

 ・ヨガ1時間。ジム1.5時間(ウオーキングは45分4.5キロ)。

・夜は日本未来学会のZOOM理事会。出遅れてしまったので、聞き役に。

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 「名言との対話」2月4日。山本為三郎「その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私もまた泣いて、ものを考えているのである」

山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年明治26)4月24日 - 1966年昭和41)2月4日)は、実業家

大阪市中央区船場生まれ。朝日麦酒(現、アサヒビール)初代社長。新大阪ホテル大阪ロイヤルホテルを設立。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。

東武グループを一代で築いた若い頃の根津嘉一郎のビール会社と山本の父の代からのびん会社との合併で粘ったあげく、根津は「君の若さを買ってやるんだ」と折れてユニオンビールが誕生する。これが縁で、山本は豪放かつ細心の人・根津嘉一郎に師事していく。日本、札幌、朝日が合併した大日本ビールとユニオンビールが後に誕生する。戦後、その会社は朝日ビールとと日本ビールに分離する。山本はその朝日ビールの初代社長になった。

 山本為三郎は、実業家として一家をなしたが、根津美術館につながる美術品収集などに情熱を注いだ根津の指導もあり、本業以外にも、ロータリクラブの活動などで人生修行をしていく。山本は大阪ロイヤル・ホテル(現在のリーガロイヤルホテル大阪)の設立にも心血を注ぎ、ホテルのメインバー「リーチ・バー」はバーナド・リーチと相談してつくった。「用の美」を味わうことができるバーとして現在も健在だ。山本為三郎は文化芸術活動家としても、柳宗悦らが取り組んだ民芸運動の支援者となるなど後世に名を刻んでいる。

2011年に秀吉が光秀軍を破った京都と大阪の間の山崎を訪問した。山崎の戦いの天王山の入り口付近にあるアサヒビール大山崎山荘美術館が目的だった。この美術館は、大阪の実業家加賀正太郎(1888-1954)がつくったイギリスチューダー様式の洋館で、ウィンザー城から眺めるテムズ川を彷彿とさせる景色である。加賀正太郎の建設した大山崎山荘は荒れていたのだが、加賀は死の直前にニッカの株を朝日麦酒の山本為三郎社長に譲っている。この縁でアサヒビールが美術館として復元し再生した。同時に安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」が隣接してつくられている。この美術館には河井寛次郎、濱田正司、バーナードリーチ、芹沢硑介らの作品が1000点ある山本コレクションで構成されている。

 冒頭の言葉には「ただ、その人と私の違いは、私には感情や憎悪や利害関係がないということで、そういったものを取り除いて考えると、大抵のことはスムーズに解決できるものだ」が続く。同じ感情を抱きながら、冷静な理性で物事を解決していく山本為三郎は多くの人から信頼されたに違いない。その精神は山本家の再興を担った祖母からの絶え間ない薫陶のおかげであると後に述懐している。山形の阿部次郎兄弟もそうだが、偉いおばあさんが、孫を熱心に教育して偉人を作り出すことがよくある。その好例である。

 

私の履歴書―昭和の経営者群像〈3〉

 

 

 

 

多摩。品川。

 午前は、大学でひと仕事。午後は、品川の大学院で研究開発機構評議員会に多摩大総研所長として出席。

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「名言との対話」2月3日。蒲原有明「先生はいかん。あなたでいいや」

蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年明治8年)3月15日 - 1952年昭和27年)2月3日)は、日本詩人。

小学生の頃から文学書に関心を示す。一高入試に失敗し国民英学会に入り英文学に親しむ。ロッセティの影響下、抒情詩人として世に出る。処女歌集「草わかば」以降、西欧の詩と方法を日本語に移し入れる。その成果は「有明集」になる。この一巻により、日本近代詩の先駆者の栄誉を、「白羊宮」を書いた薄田泣菫と並び担う。画家の青木繁と親交を結ぶ。

新学社近代浪漫派文庫『蒲原有明 薄田泣菫』を読んだ。この文庫は「浪漫的心性に富んだ近代の文学者・芸術家を選んで42冊とし、、、、それぞれの作家精神を窺うにたる作品を文庫本という小宇宙に収めるもの」である。維新草莽詩文集、富岡鉄斎西郷隆盛内村鑑三から始まり、三島由紀夫で終わるシリーズだ。第15巻には「草わかば」「独絃哀歌」「有明集」、ロセッティ訳詞などの作品を収容されている。難解な語彙、七五調中心のリズムのよい詩は独特の世界だ。「なべての樹にまさる 公孫樹よ、」から始まる「公孫樹」(いちょう)という詩がある。薄田泣菫も「ああ日は彼方、い伊太利の 七つの丘の古跡や、」で始まる「公孫樹下にたちて」を書いている。いずれも象徴詩人の作である。

蒲原の「蠱惑的画家」という小文が載っている。青木繁の有名な「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」に名状すべからざる感動を受けて、青木との短い交友と悲劇を語っている。同時代の漱石また青木を天才とみていた。私も2011年に「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」をブリジストン美術館でみた。そこで青木の傑作「海の幸」をみて、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目であった。

この文庫の薄田泣菫の「森林太郎氏」という小文が目についた。鴎外が亡くなったときに書いた、蒲原有明と岩野泡鳴の3人で森鴎外の団子坂の自宅への訪問の思い出である。「顔つきは案外若く、利かぬ気が眼から鼻のあたりにかけて尖って見えた」「元気な軍人らしいところが交って、私達は自分と同じ年配の人と話をしてゐるやうな気持ちになった」「森氏はかう言って声高く笑った。その声には、どこか馬の上で笑ふやうな軍人式なところがあった」と観察している。3人とも30代に入ったばかりで、鴎外は40代の半ば頃だろう。この小文には幼女時代の森茉莉も出てきて、鴎外の膝にもたれかかる。「茉莉さんか。こいつがかはいい奴でな、、」と目を細めながらわ笑う姿が描かれていている。薄田は軍人風の風格も持った文壇の老大家の印象を持った。

冒頭に掲げた「先生はいかん。あなたでいいや」は、蒲原有明が先導した老大家・森鴎外に対する時の若い3人の申し合わせである。7つ年下の青木繁にも、13歳年上の森鴎外にも同世代の人物として接している姿がみえる。詩は難解だが、こういった気概は好感が持てる。

蒲原有明/薄田泣菫 (近代浪漫派文庫)

 

「アンドレ・ジッドの日記」からーー勉強促進法の「知的方法」と「物質的方法」

 「アンドレ・ジッドの日記」を読了。ノーベル文学賞に輝いた作家。「狭き門」。 勉強促進法(M・Dが用いたもの)。24歳。

1:知的方法。

死が切迫していると考える。競争心。偉人との比較。財産は自由な勉強の資源。一番勉強した日を標準に。下らぬ書を読み敵意を感じること。

2:物質的方法

ものをほとんど食べない。手足をうんと暖かに保つ。あまり眠らない(7時間)。昔の作家の本を数行だけ読む、歩きながら構想する、立って書く。健康を保つ、かつて病気であったことが必要、芸術品は置かない、本は辞書だけ、政治には頭をつっこまない。

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「名言との対話」2月2日。江崎利一「学問に実地が伴えば、鬼に金棒であるが、実地に学問が伴えば、それこそ鬼に金棒以上のものであろう」

江崎 利一(えざき りいち、1882年明治15年12月23日 -1980年昭和55年2月2日)は日本実業家

江崎利一はグリコの創業者。日本の大菓子メーカー、森永、明治、グリコの創業者は佐賀県出身である。佐賀は明治維新時の近代技術の先駆者であり、司馬遼太郎が「佐賀藩ほどモダンな藩はない」と評価しのだが、それにしても不思議なことだ。

江崎は小学校卒の独学家である。商業、経営、販売、広告、製菓、栄養、心理学、気合術、能率、修養など読書は広範囲に及んだ。新聞雑誌を切り抜き、整理していて、いつも読んでいた。情報に敏感だった。講義録や雑誌を読み、人の話を聞くという勉強法の鬼であった。

 グリコーゲンとなって肝臓に貯蔵された動物澱粉は血液中に送られてエネルギー源となる。九州帝大の先生の「治療より予防!」という言葉にヒントを得て、育ち盛りの子どものための菓子にしようと考える。キャラメルとは違う栄養菓子だ。そして40前後の壮年になってから裸一貫で創業する。勤倹力行、不屈邁進、創意工夫の人で、独創的商品を次々と世に送り出した。

「一粒で300メートル」はキャッチコピーの歴史的名作だ。小さなオモチャ、豆玩具の「オマケ」には、軍艦、オートバイ、人形、コマ、ハーモニカ、七宝バッジ、豆顕微鏡、虫眼鏡、、、などをそろえた。豆文という広告宣伝も、川柳作家の岸本龍郎の「グリコガアルノデ オルスバン」などの豆文は評判になった。

戦後。オマケ付きグリコとビスコの二大商品で再建が軌道にのっている。ミルクから乳脂肪分やカゼインを除いた水溶液のホエーとアーモンドでキャラメルにした。「一粒で二度おいしい」で有名なアーモンドグリコの「ヒットなど。現在の基幹商品は、ポッキーとプリッツだ。ポッキーは世界30カ国で年間5億箱売れているという。

 小林一三「創意工夫に冨み、体験を生かし、これぞと確信したところに、どこまでも全力を傾注してかかる」と記している。

 「商売とは、まことにむずかしく、そしてふしぎなものだ。どんな小さなところに発展のカギがひそんで「いるかわからない。大切なのは、それをどう見つけ出し、どう生かすかということだろう」

孫の江崎勝久社長によれば、日本の経営学者で最初に創業者を高く評価してくれたのは野田一夫である。「エコノミスト」のインタビューで、現代のマーケッティングセオリー通りだと述べている。ここにも野田先生が出てきて驚いた。

51歳で財団法人母子健康協会を設立する。理事には吉岡弥生東京女子医科大学学頭)、顧問には加納治五郎、鈴木梅太郎などの著名人が並んでいる。江崎利一の実業人生を眺めると、大学の研究者、起業家、著名人など、人脈づくりに非常な才能を持っていたと感じる。その背景には、「学者や専門家によって研究された食糧や新栄養源を国民の体位向上のために、すみやかに企業家し、社会に安価に提供すること」はは実業家としての自分の使命としていたことがある。1980年、97歳で生涯を閉じた。

子どもの頃には私もアマケが楽しみでグリコのお菓子をよく手にしていたし、叔父さんがグリコにつとめており、よく菓子をもらったので、懐かしい。今でもプリッツは好物だ。

「知的生産の技術」研究会で活動を始めた30代の頃、ビジネスマンであった私は「知的実務家」という概念でインタビュー中心の本を仲間と書いたことがある。学者は実務に疎い、実務家は理論に弱い。その間をつなぐ人が重要になるだろうということで、自分たちは「知的実務家」を目指そうという趣旨だった。江崎利一は「学問と実地」という言葉で同じことをいっているようだ。さらに実地に学問が伴えば、鬼に金棒以上であると喝破している。江崎利一という実業の鬼は、大きな金棒を持つ偉人となった。

 

日本の企業家 12 江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター (PHP経営叢書)

 

 

高崎山ーー「餌付け」成功の意味

今年になって「梅棹忠夫著作集」の第7巻を毎日少しづつ読んでいる。「日本探検」の項の福山誠之館、大本教、北海道独立論を読み継いで、本日は長い論稿の「高崎山」を読了した。

西洋の自然観では人間と動物の断絶感があり、進化論が生まれた。日本では人間と動物の間には連続的自然観があり、進化論は不必要だった。研究者はサルとの人間関係をつくる。猿に固体番号ではなく、名前をつける。そして日本での高崎山などでの「餌づけ」というとほうもない成功は、親近感の延長にある世界的な業績である。この発端は大分市長の上田保である。アイデア市長として有名だった上田保が奇想天外のプランを考えついたのである。子どもの頃、よく行った楽天地と高崎山にはこういう場所だったのは知らなかった。上田 保(うえだ たもつ、1894年明治27年)8月25日 - 1980年昭和55年)6月6日)は、日本の元弁護士政治家で、第3代大分市長(在任:1947年(昭和22年)4月7日 - 1963年(昭和38年)3月9日)。

こうやってみると、製造工場でロボットに「、、ちゃん」などの名前をつけて擬人化するという日本的なやり方に目が向いてくる。自然の一部としてロボットを受け入れていく態度も、この延長線上にあると考えることができるように思う。

次は「名神高速道路」と「出雲大社」を読んでいく。

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今日は昼頃に豊洲の娘を訪ねた。京王線有楽町線でのマスク直用率は、半分を超えている。報道によってこの率はさらに高まっていくだろう。

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「名言との対話」2月1日。三島弥彦「相手が速くなければ決して好いレコードは出来るもんじゃ無いよ。僕は未だ一度も必死になって駆けた事が無い。是非一度敗れて見たいと思っている」

三島 弥彦(みしま やひこ、1886年明治19年)2月23日 - 1954年昭和29年)2月1日)は、明治期の陸上選手。

父・三島通庸薩摩藩士の家柄で、警視総監で子爵。兄・弥太郎は横浜正金銀行から日銀総裁になった。大山巌の娘と結婚、離縁し、徳富蘆花の「不如帰」のモデルとなった。三島弥彦は、学習院を経て東京帝大法科に入学。卒業後は横浜正金銀行に入行。サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、上海、青島などの支店を経て、バタビヤ支店支配人として終えている。

弥太郎の弟・弥彦は「超」がつくスポーツ万能の運動選手で、学習院時代には「所謂三島時代」という言葉があるほど、柔道、水泳、ボート、スケート、サーフィン、ランニング、当時は塁球と呼ばれた野球などで大活躍した。高校時代には、100ヤード、22y、400y、660y、1000yなどほとんどのランニング協議の大会で1位を獲得している。本格的なトレーニングをせず、素質だけで無敵の選手だった。

東京帝大は官立の高校からでないと入学できなった。定員が不足してときには学習院からも入れた。その後、定員を超過する時代になると京都帝大などに行く人が出てくる3歳下の木戸幸一近衛文麿が京都に進学しているのはこういった事情であった。弥彦は無試験で進学できた最後の世代だった。

東京帝大時代の「三島弥彦日記」には、天気、起床から就寝までの行動の日誌で、短いのは「晴。終日家にをりて、憲法を見る。一時に床につく」などほんの一行から、長いものでも200字ほどである。文学青年ならば、内面をのぞく長いものになるだろうが、スポーツマンはあっさりしている。

三島弥彦 伝記と資料』によれば、弥彦は身長175センチの偉丈夫だった。薩摩の西郷隆盛大久保利通は180センチあったとある。因みに西郷との江戸城開城を談判した勝海舟は156-7センチだったはずだ。

「体力のみならず精神修養の方面にも有効である、、、」と信じる弥彦は東京帝大時代の100メートル競走では12秒ぎりぎりのタイムで選ばれた。1912年のオリンピック・ストックホルム大会で日の丸を持つ旗手、マラソンの金栗が「NIPPON」という木の札を持って二人だけで入場式にでた。弥彦のユニフォームとスパイクは秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている。写真でみるといかにも粗末な感じがする。このあたりはNHK大河ドラマ「韋駄天」でよく知っているシーンだ。

弥彦は10秒3/5の世界記録を持つ選手と並んで100mを走った。スタートではt飛び出し、前半はトップで走り「こりゃ勝てる」と思った。しかし後半になると抜かれてしまう。弥彦は自分たちのやっているのは「カケッコ」で、外国選手は「レース」だと気づく。オリンピックの様子を知らせた絵ハガキには「競争はとうとう敗けてしまいました。米国の人が殆ど走リこでは皆勝ちました」と書いてある。本人の意識では「走りっこ」だったのだ。

国内では無敵であり、「一度敗れてみたい」と真摯に語った弥彦は、世界に出て圧倒的な差で敗れた。この後、日本は国力の伸長に沿って、スポーツでも国威を発揚していく。そのハシリを受け持ったのが三島弥彦金栗四三だったのである。「運動の盛衰も、やはりその国力国勢に比例して居るやうに思はれます」と弥彦がいうとおり、日本の運動は、オリンピックに参加を続ける中で、体育からスポーツへと変貌を遂げていった。

日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦 -伝記と史料ー (尚友ブックレット34)

日銀貨幣博物館ーー古銭収集家・田中啓文のライフワークから始まった物語

日銀金融研究所「貨幣博物館」。貨幣の歴史、貨幣の実物、貨幣の意味など、勉強になる博物館。高校生などの見学者もさかんにメモを取っていた。映像や、日銀の外観ツアーなどの催しもある。入館には手荷物検査がある、これは珍しい。入館は無料。

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この博物館は田中啓文(1884-1956年)という人物が独力で集めた10万点の資料がもとになっている。子どもの頃に小遣いとしてもらた寛永通宝一文銭などに興味を持ち、小さな古銭家となる。22歳、古銭収集家同人会の「東京古泉協会」に入会。34歳、東洋貨幣協会理事兼幹事に就任。36歳、会長。39歳、自宅内に東洋貨幣研究所「銭幣館」を開館。このコレクションは世界有数の東洋貨幣コレクションで、古貨幣だけでなく、日本の貨幣史、経済史、の研究のうえで貴重な文書や絵画、民俗資料などもあり、総数は10万点に及んでいる。66歳、貨幣研究雑誌「銭幣館」を創刊。

1944年、60歳の田中啓文は戦禍から守るためにコレクションを日本銀行へ寄贈する。結城豊太郎、渋澤敬三(1896-1963年)両総裁との交流があった。民俗研究家でもあった渋澤は「日銀に金融図書館と貨幣博物館を併設した」との夢を持っていた。

このコレクション受け入れと同時に、銭幣館の郡司勇夫(1910-1997年)を迎え入れと資料の整理・研究にあたらせた。戦後。GHQによる接収の対象になったとき、郡司は「文化財は自らの手で守り、生かすべきであると思う」と力説し守った。そして1972年から76年にかけて『図録 日本の貨幣』全11巻を刊行する。1985年、貨幣博物館が開館した。一個人のライフワークがついに中央銀行の博物館になっていくという夢のような物語だ。田中啓文という人の生涯はもっと知りたい。

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松方正義大蔵卿。「中央銀行は、経済に『お金』という血液を送る心臓のような存在である」。

後藤庄三郎。金細工・後藤家の職人として腕前が高く、家康から呼び出しを受けて、こう慶長小判をつくる。家康の天下統一の象徴となった。NHKドラマ「江戸を建てる」(原作は門井慶喜の後編では後藤庄三郎が取り上げられ、柄本佑が演じている。私はこの本を読み、このドラマもみた「江戸を建てる」。家康の器の大きさを知る。

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大学:松本先生と総合研究所の事業計画の相談。

 八木さんと聖蹟桜ケ丘の赤坂飯店で昼食を摂りながら、知研の来し方と今後について、2時間半、いろいろと話をする。

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「名言との対話」。石川達三「幸福は常に努力する生活の中にのみある」

石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年明治38年)7月2日 - 1985年昭和60年)1月31日)は、日本小説家

ブラジルでの農場体験をもとにした『蒼氓』により芥川賞受賞者第一号となった。次席が太宰治 代表作は『人間の壁』、『金環蝕』など。1969年、第17回菊池寛賞を受賞する。

なかなか人徳があったようで、小説執筆以外に、多くの要職を経験している。日本ペンクラブ第7代会長(1975年 - 1977年)。日本芸術院会員。日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、A・A作家会議東京大会会長などを歴任した。

 ペンクラブ会長時代には、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議を醸し、五木寛之野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれている。

 私は大学時代に野望を抱く主人公が堕ちていく小説『青春の蹉跌』という話題作を読んだことがある。「蹉跌」は「つまずく」という意味だ。「挫折」である。主人公が弁護士を目指している青年であったことで、私と同じだと思って手に取った。学生運動、アメフト、司法試験、、恋愛と結婚を描いたベストセラーだ。その後、時折石川のエッセイを眺める機会もあったが、この人は成熟した人格と常識の備わった人という印象を持っていると思っていたら、石川の常識論を発見した。「常識は、過去における無数の非常識の試練を経て、その結論として出来上がったものであった。非常識は一日にしてできるが、生活上の常識は100年、1000年を経てようやく形成されたものである」。

石川達三という作家はいつも私の周辺に影のように存在している。以下、このブログを書き始めてからの記録からいくつか拾ってみよう。

北九州市小倉城の傍の松本清張記念館には面白い調査記事がその読書室に貼ってあった。毎日新聞の2004年10月26日の記事である。第58回読書世論調査の「好きな作家」(一人で5人挙げる)という結果が出ていた。芥川賞では、1位松本清張(22%)、2位遠藤周作(17%)、3位井上靖(13%)、4位石原慎太郎、5位田辺聖子、6位北杜夫、7位大江健三郎、8位村上龍、9位石川達三、10位柳美里直木賞では、1位司馬遼太郎(17%)、2位五木寛之、3位向田邦子芥川賞作家の中でも人気の高い小説家だった。(2005年12月28日)

文芸春秋10月臨時号を眺めていたら、白洲次郎のページに興味深いデータを見つけた。
1960年8月に軽井沢で行われた吉川英治夫妻誕生祝いゴルフ会のときの、11人の著名人のスコア表が貼ってあった。吉川英治はハンディ24、池島新平26、柴田錬三郎21、角川源義21、大岡昇平15、広岡知男15、、、、。シングル丹羽文雄は3人いて、丹羽文雄6、そして白洲次郎と並んで石川達三はハンディ3のローシングルプレイヤーだった。当日のスコアは、石川達三は38・42の80、白洲次郎は43・39の82だった。(2006年9月25日)

秋田市の市立中央図書館明徳館の石川達三記念室を訪問。趣味はゴルフ丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。(2007年4月29日)

山崎豊子「石川達三先生は、私がもっとも敬愛し、私淑した作家である。、、、作品を通して多くの弟子を育てられた稀有な作家であると思う」。(2015年9月28日)

以下、人生の叡智がこもったい石川達三の言葉から。

若い人たちはよく、『生き甲斐がない』と言います。しかしそれは当たり前です。孤立した人には生き甲斐はない。生き甲斐とは人間関係です」
「家庭のための努力を怠る女は、夫を愛することも浅いのだ。愛が努力を産み、努力が更に愛の深さを培う」
「人間同士の会話などというものは、大ていは半分本当で半分嘘だ」
「人生には本質的な不幸と怠惰による不幸と、二種類ある」
「人間というものは或る程度まではゆたかに暮らさなくてはならん。貧乏していると人間が汚くなる。人間が腐ってくる。下等なことを考えるようになる」
「結婚の理想は互いに相手を束縛することなしに、しかも緊密に結びついていることだ」

冒頭の言葉の前には以下がある。「幸福は決して怠惰の中にはない。安逸の中に幸福はない。それはただ平穏があり、『仕合せ』があるのであって、『幸福』という輝かしいものではない。平穏はやがて、平穏であるからつまらない時が来るし、仕合せは仕合せであるのがつまらない。という時が来る。幸福というものはそういうものではない」。

安逸、平穏、無事、怠惰、そういう生活の中には生き甲斐はない。「幸せって退屈よ」とのたまった女性を私も知っている。志を持って日々歩む過程こそが輝かしい幸福の正体なのだろう。

 

 

 

 

都心ではマスクの人は3人に1人。

立川、東京、新宿、荻窪と移動した。新型コロナウイルスの影響がどのくらいあるかを観察する。特に東京都心ではマスクをかけている割合をずっと数えながら電車の座席、駅のエスカレーター、歩道で数えてみた。ざっくり、3人に1人の割合でマスクの人がいた。白いマスクがほとんどだが、黒マスクも見かけた。中国人の観光客とおぼしき女性はレストランでもマスクをしながらスマホを見ている。日本で発症者が増えてくると、この割合も増えてくるだろう。

立川:整体。東京:日銀の貨幣博物館を訪問。企業博物館めぐりの第二弾。田中啓文渋沢敬三。郡司勇夫。松方正義。後藤庄三郎。新宿:橘川さんと陰謀ミーティング。荻窪:出版社に寄る

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「名言との対話」1月20日。 フェル7ディナンド・ポルシェ「私の夢を実現してくれる車は、どこを探しても見つからなかった。だから自分でつくることにした」

フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche, 1875年9月3日 - 1951年1月30日)は、オーストリア工学技術者自動車工学者。

ポルシェは金属細工の家業を継ぐことを期待されており、学校には通わせてもらえなかった。独学で電気を学び、自動車メーカーの仕事をしながら、優れた自動車設計を連発する。その功績に対して博士号を贈られている。そして「20世紀最高の自動車設計者」と呼ばれる最高の称号をもらまでになった人だ。

メルセデスの高性能車や、レーシングカーなどのスポーツカーを設計した。またヒトラーから国民車(ドイツ語フォルクスワーゲン)の設計を依頼され、史上最も成功した大衆車と言われるフォルクスワーゲン・ビートルを世に出すなど、自動車史上に残る傑作車を設計している。それ以外にも、ナチスの戦車、トラクター、風力発電なども手がけている。

そしてフェルディナンド・ピエヒなど子孫の活躍も目覚ましく、ポルシェ自身が自動車業界全体に与えた影響ははかり知れない。現在でも高級スポーツカーレーシングカー自動車メーカーのポルシェはフォルクスワーゲングループに存在している。正式な社名を直訳すると「F (フェルディナント) ・ポルシェ名誉工学博士株式会社」となる。名前が永遠に残ることになっている。

直近の2016年に販売され、大ヒットとなっている日産・ノートe-POWERの目玉である、車輪のハブにモーターを搭載したシリーズ方式ハイブリッドシステムを、ポルシェは第二次世界大戦時に、すでに実用化していたということも驚きだ。

外国では、ジョームス・ディーン、スティーブ・マックィーンブルース・リーカラヤンショーン・コネリーポール・ニューマン、セナ。日本では白洲次郎が筆頭だ。ダンディな白洲次郎は、神戸にいた頃にはアメリカの高級車「ペイジ・グレンブルック」、イギリス留学時には「ベントレー」や「ブガッティ」。そして晩年に選んだクルマが「ポルシェ911」だった。この名車を乗りまわし、ゴルフ場などに現れた姿はよく知られている。また高倉健三國連太郎もポルシェだった。ポルシェの人気は、このような感度の高い人たちがファンであったことからわかる。

「技術的問題を解決するためには美的観点からも納得のいくものでなければならない」「ユーザーの立場で考えた場合、多少でも不利となりうる要素は決して採用すべきではない」。美意識の高い技術者であるポルシェ自身を満足させる、使いやすい機能性と優れたデザインの高いレベルでの融合を実現した高級車は世の中になかった。世の中になかったものを世に出す発明ほど面白いものはないだろうなあ。