杉原千畝記念館(すぎはらちうね)

土曜日は朝早く、豊橋から名古屋に出て、名鉄線で新可児まで行き、そこからタクシーで30ほどかけて、岐阜県八百津町杉原千畝記念館を訪ねた。11日の日本テレビの2時間のドラマを見て、急きょ訪問を決めたものだ。


終戦60周年ドラマスペシャル「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ・世界が涙した愛と感動のストーリー大戦下のヨーロッパで6000人ものユダヤ人を救った日本人がいた」は2時間の大型番組だった。第二次大戦の前後、外務省職員の杉原は当時リトアニア勤務。ドイツのユダヤ人虐殺が始まった頃、本省の反対を無視して2139枚のビザをユダヤ人に発行する。国外退去の寸前まで駅頭で書き続ける。終戦後、杉原はこのため解雇される。20年後にイスラエル大使館から、助けたユダヤ人の連絡が入る。1985年にはイスラエル政府から正式の感謝が伝えられる。そして1986年に死去。日本政府は生誕100年にあたって2000年にようやく名誉回復の措置をとる。当時の外相は河野洋平である。外務省の外交資料館には杉原の顕彰プレートが設置された。


八百津町は、昔は木曽川を使った木材の産地で賑わったが、今はマツタケの産地として知られている。秋の冷え込みと多雨がいい品質のマツタケ生育の条件だが、今年の収穫は悪いらしい。名鉄八百津線は既に廃線となっていた。途中、兼山という町があった。森蘭丸の里だ。また近くには明智という場所もあるなど、信長ゆかりの武将の出身地がある。


総檜づくりの杉原千畝記念館は、生誕100年にあたる平成12年7月にオープンした。1900年1月1日生まれだから年齢が数えやすい。英語教師になる夢を抱いた杉原は早稲田大学高等師範部英語科に入学するが、2年目にアルバイト先の倒産などの事情から、学費支給で3年間勉強できる外務省留学生試験を受けロシア語研修生として満州のハルピン学院の第一期生としてハルピンに渡る。この学院の校長は満鉄総裁であった後藤新平。杉原の座右の銘は「自治三訣」だったと館内の映像が語っていたが、それは後藤新平ボーイスカウト総裁として子どもたちに送った言葉だったことに気がついた。卒業後、外務省に入るが、上司と共に満州国外交部に移る。そこで北満鉄道の買収交渉で名をあげる。ロシア勤務を拒否され、1939年にリトアニア領事代理として家族と共に赴任する。このことが杉原の運命を決める。


1940年7月に、100人ほどの人々が領事館の前で何かを叫んでいる。聞くと、ナチス・ドイツのポーランド侵攻から逃げてきたユダヤ人で、中立国であったリトアニアに住んでいる人たちだった。彼らは日本の通過ビザを求めた。カリブ海のオランダ領キュラソー島に入れるという証明書をもらっていた彼らは、シベリア鉄道でソ連領を通過し日本に出て、そこからキュラソー島に渡るという計画を持っていた。それにはシベリア鉄道でロシアを横断する必要があった。その鉄道に乗るには日本の通過ビザが必要だった。当時は日独伊三国同盟が締結されており、大量のビザを出すことは敵対行為であり、外務省は反対した。杉原は、悩んだ末「人道博愛精神第一」との結論に達し、1か月にわたり、以後2132枚のビザを発給し、6000人の人々の命を救う。

本国の反対を押し切ることで、文官服務規程に違反し昇進停止ないし解雇の恐れがあり、職を賭しての決断だったことがわかる。「ユダヤ民族の永遠の恨みを買ってまで、、、。国益にかなうことだというのか。」と書いている。ユダヤのことわざには「一人の命を救うことは世界を救うことだ」という言葉があり、そうならば杉原は宇宙を救った聖人だという声もあった。

「もし、同じ事態に遭遇したら、私は、もう一度同じことをするに違いありません」との言葉も杉原は残している。


終戦後、ソ連に抑留された後、日本に戻った杉原は外務省を解雇される。以後、外務省との付き合いを避ける。いくつかの職場を経て、川上貿易という商社に勤務しモスクワ事務所長としても活躍する。イスラエルは6000人の命を救った杉原を探すが、見つからない。1968年にビザ発給者の一人と再会。1969年にはイスラエル政府宗教大臣より勲章を受ける。イスラエルからは1985年に「諸国民の中の正義の人・賞(ヤド・バシュム賞)」を受けるが、翌1986年に永眠した。


記念館には「決断の部屋」があり、杉原の机と椅子、そして当時の部屋が再現されている。椅子に座ってみるとビザのスタンプがあり、これを押すと壁の画面に「ありがとう」も文字が現われるという工夫もあった。また「肉声テープ」もあり、杉原の声を聞くことができた。


命を救われた世界中のユダヤ人からの手紙が展示してあった。大臣や博士など多くの有能な人々、そしてその子孫(ある人は30人の孫がいると書いてあった)が救われたのだ。杉原ウイーク2005という行事の中で短歌大会があり、小学校373、中学校804、高校273、一般430、もの短歌を集めていた。一般の部では「分秒を惜しみひたぶるに千畝書きし 命のビザよ 文字の乱れて」(井上さなえ)という歌が入選していた。


領事館のあったカウヌス(リトアニア第二の都市)の民家には「1939-1940 ユダヤ人の恩人・杉原千畝がここに領事館を構えていた」という石版がある。そして「スギハラ通り」もある。


日本は、2000年になってやっと杉原の功績を認め河野洋平外務大臣が外交資料館の顕彰プレート除幕式で挨拶をしており、名誉回復がなった。


この記念館は雨にもかかわらず、家族連れをなど多くの人々が訪れて、杉原の偉業に親しんでいた。大正出版の「六千人の命のビザ」「決断」という2冊の本を買い、中部国際空港経由の帰路に読んだ。


偶然と必然によって、歴史的局面に遭遇することがある。杉原はこのときの決断によって仕事を取り上げられて、以後苦しむが、永遠の輝きをもって歴史に名を遺したことになる。