三沢の岡本太郎記念公園、小川原湖民俗博物館、渋沢文化会館・旧渋沢邸、弘前の旧藤田住宅(太宰治)

古牧温泉のグランドホテルに付いている施設を朝食前に見学する。思いがけない収穫があった。

まず、岡本太郎記念公園。東北を発見し、愛した岡本太郎がこのホテルの創業者である杉本行雄と意気投合し37年間通い続けたというこの地は、東北の墓所として、多磨霊園から分骨もされていた。平成9年7月25日の完成したこの公園には、太陽の塔、かの子文学碑と並んで岡本太郎三大作品の一つとといわれる「愛・エランの群像」が展示されている。「愛」は2つの白いものが愛し合う姿を表したもので、「エラン」は空に向かってくねくねとのびようとしている姿だった。太郎はこの地で行われている二本カッパ龍神祭りの最高顧問もつとめていた。公園にある15の作品の中には、1982年に創られた太郎カッパ神像が太郎池を守っていた。


朝食後、ホテルにある「小川原湖民俗博物館」を見物する。杉本は若い頃渋沢栄一の孫の渋沢敬三の秘書をつとめていて、その影響のもとに「楽しみ、遊び、そして学ぶレジャー」を目標にいくつもの施設を展開している。この博物館は集めた膨大なこの地方の郷土民具を実際に使われていたように収蔵する方式で、また手で触ることができるように配置してある。衣・食・住・諸識・信仰・山樵・農・漁などに分かれた大きな博物館である。下駄、工具、ねぷた、衣類、舟、羽子板、竹とんぼ、歌留多、紙芝居、など旧南部藩領内の民具1万8千点(日本最大)を収納し、うち64点は国の有形民族文化財の指定も受けている。地方の文化の由来をはっきりと品物によって示すという敬三の考え方を具体化した博物館である。


また、渋沢記念公園(22万坪)の中にある渋沢神社(平成6年11月11日)、その前に立つ2人の人物の大きな銅像がある。向かって左は日本資本主義の父・渋沢栄一(1840−1931年)の全身像である。渋沢は徳川慶喜の側近だった。明治になり第一銀行を創設するのを手始めに500社にのぼる企業に関係している。3.5m、1.5トン。高さ7.6m。もしやと思って作者名を探すとやはり「文夫作」とあった。明治の偉人をすべて銅像として残したいと考えていた朝倉文夫の作であった。徳富蘇峰の「青淵 渋沢栄一翁」の「豊裕なる常識の持ち主」という人物評が大きく掲示してある。また政治に関わらなかったなどをあげながら「人為さざる所ありて 始めて為す可し」と人物の本質を衝く言葉もみえる。葬儀のときには明治天皇から「御沙汰書」をいただくという大物だった。


右が「祭魚洞 渋沢敬三」の巨大な半身像である。2.3m、1トン。高さ6.1m。半身像としては日本一。敬三は栄一の孫で、生物学者になりたかったが、中学時代に栄一に懇願されて進路変更し、東大経済学部に進み、日銀総裁や大蔵大臣(石橋湛山から引継ぎ。財閥解体)を拝命するなど一流の財界人として活躍する。敬三(1896−1963年)という人物に興味が湧く。宮本常一柳田国男をはじめとして多くの民俗学者を育成した学者でもあった。この名前は博物館や民族学、あるいは民俗学の分野ではよく聞く名前である。敬三の子で当主の渋沢雅英は「父 渋沢敬三」でこう語っている。

「6時半に書斎に入り、8時半まで学問。銀行(第一銀行、後に日銀)に出勤。夜は宴会。夜半帰宅するとアチック(屋根裏博物館)に入る。同人たちと1時、2時まで話し込む。週末のほとんどが旅行。民俗学関係の採訪。土曜の夜行で出かけ、日曜の夜行で帰京。月曜日は早朝から出勤。非難を浴びると民俗学の研究は碁やゴルフと同じだと反論していた。没後37年になるがいまだに話題になるということは、考え方や構想の素晴らしさの証明だ」

敬三は祖父を尊敬し、「渋沢栄一伝記資料 58巻別冊10巻」も編纂している。これは個人の伝記資料としては世界最大である。

敬三はふっくらとして、いかにも人柄の円満そうな顔立ちである。


旧渋沢邸は敬三が戦災復興のため財産税を創設し、自ら範となるべく財産税支払いのため国に物納したもので、蔵相公邸や大蔵省などの三田教養会議所などとして使われていたものを杉本が払い下げを受け、12億円の総工費でこの地に移築したものである。総面積は328坪。名工清水喜助(清水建設の創始者)の手になる屋敷で、和風部分は総ヒノキ造り、洋館部分は英国王朝風で総チーク材。釘を一本も使っていないので解体・移築ができた。


桜を求めてみちのく道を戻り、弘前へ。城の周りは少し咲いていて期待したが、中は全く咲いていなかった。

御幸町の旧・藤田住宅へ向かう。30日の地元の東奥日報太宰治弘前高校時代の下宿が改装されてオープンになり29日に朗読会が行われたとのニュースを見ていた。弘前市文化財に指定されたこの住宅の2階の6畳間と板の間の部屋が太宰の部屋だった。隣の8畳間にいた藤田本太郎が「修治さんが作った小説原稿用紙30枚を読んで聞かされた」と書いた日記も見ることができる。



東北道で南へ。仙台まで戻る予定だったが、変更して花巻温泉郷の金矢温泉に宿泊。