佐野真一「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」

佐野真一「旅する巨人 宮本常一渋沢敬三」を読み終わった。

常民・宮本にも子爵・渋沢にも、そしてこの本を書いた佐野の徹底した取材ぶりにも感銘を受けた。
取材で訪れた場所の多さ、また「取材協力者一覧」に記された人々の名前の多さ、そして「主要参考文献一覧」に記された文献の数々、、。

まさに膨大な調査と徹底したフィールドワークをもとに築きあげられた珠玉の作品である。
1997年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのもむべなるかなと思うほど、誠実だが圧倒的な迫力のある作品に仕上がっている。
佐野を含む3人の巨人を意識しながら読み進んだ。民俗学の父・柳田国男は渋沢より21歳年上。渋沢敬三は宮本より11歳年上。

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

「忘れられた日本人」を書いた民俗学者宮本常一(1907-1981年)は日本列島のすみずみまで歩き回った。一日あたり40キロ、のべ日数で4000日、そして合計16万キロ(地球4周)の旅をしている。泊めてもらった民家の数は1000軒を超えている。その業績をすべて収録するには100巻を超えねばならないといわれている。
似た人という意味で菅江真澄伊能忠敬、フーテンの寅、などの名前がこの本に出てくる。この本が出るまでは宮本常一も忘れられた日本人だったのである。
「民宿」「春一番」などの言葉を一般に定着させたのは宮本だった。済民。尋問科学、、、。

故郷の島を出るとき父親から10箇条のメモをもらう。
「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ」「新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ」「人の見のこしたものを観るようにせよ」などの教訓は、宮本のその後の軌跡の基礎となった。

伊能忠敬みたいだね」「民衆の生活という大地を旅する生涯の旅人」「あれほど生徒から慕われた先生はみたことがない」「無名の大学者」「宮本は仁者だ」「土と海のにおいがする顔」「そそのかしの天才」

宮本常一。67年の生涯。余命2か月の宣告を受けても病床で1千枚の対策に挑もうとしていた。

  • やっぱり人は生涯に一つの事だけしか本当はやりとげられないもののようでございます。
  • 話し手の前にノートをひろげては相手に絶対本当のことを語ってはくれず、ましてテープに録音するなど論外、、
  • 樹をみろ。いかに大きな幹であっても、枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて、幹を論じてはいけない。その枝葉のなかに大切なものがある。学問や研究はあくまで民衆や庶民の生活を土台に築き上げるものだ。
  • 数多くの事実の積みあげのなかから、最小限いえることだけを引きあdしていこうとする宮本のような立場、、。
  • 地域に博物館をつくることは、眠っている地域のコレクションを立ちあがらせることにつながる、、、。
  • 先生は講演の前にその村も周辺を必ず回る。それだけでその村の歴史と特徴をつかみ、それを講演でズバッと切りだす。
  • 自然は寂しい。しかし人間の手が加わるとあたたかくなる。
  • 人生はより道や道草が大事じゃ。
  • 宮本さんほど恐ろしい人をワシは知らん(司馬遼太郎
  • 俺は決死の思いで仕事している
  • 部落問題でも離島問題でも一番大切なことは、地域に人間をつくることじゃ。

歴史というタテ軸と、移動というヨコ軸を交差させながら、日本列島に生きた人々を丸ごととらえようとした。その視点のダイナミズムとスケールが大きい.

渋沢敬三渋沢栄一の孫。日銀総裁。大蔵大臣。アチック研究所設立。全68巻の「渋沢栄一伝記資料を30年かけて完成。52年間で480回もの旅。学問のパトロン民族学博物館の最終ランナーが梅棹忠夫

  • 大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。
  • 民具を研究するのではない。民具で研究するのだ。
  • 銀行の仕事は一度も面白いと思ったことがない
  • 昭和39年以来相撲を見たことがない。、、ベースボール・マッチを見たことがない。ゴルフは行かぬ。碁、将棋はしない。マージャンは一ぺんもやらない。時間は浮いてくる。
  • をつづけている。
  • フォークロア民俗学)とエスノロジー(民族学)は車の両輪で、二つ同時にやるべきだ。日本文化を研究するには周辺民族の文化を知らないと、、。
  • ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい

旅。