「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展

町田市立国際版画美術館で開催中の「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展。

 「版画」の枠を超えた横尾忠則の作品群を「HANGA]と呼んだ横尾の創作活動の全貌に迫る企画展だ。「絵画的表現の一変種」である250点のHANGAを展示している。

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 西洋では裸体を多く扱っているが、性行為そのものを扱っているものは存在しない。横尾の作品は見るものに邪心や欲望を引っ張り出すという特徴があり、強烈な印象を与える。

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 会場で「横尾忠則自伝 ぼくなりの遊び方、行き方」(ちくま文庫)と「横尾忠則対談集 芸術ウソつかない」(ちくま文庫)を購入、やっと読了した。全貌がなかなかつかめない横尾のことが少しわかった。

「自伝」は1960年から1984年までの24年間の詳細な記録である。年齢的には24歳前後から48歳までで、不安におびえながら上京し、同時代の天才たちに出会い、時代の寵児になっていき、ピカソの影響で生まれかわるところまでが、描かれている。1936年生まれの横尾は現在では80歳を越えているのだが、いまなお芸術界に新鮮なメッセージを送り続けている。

サラリーマンから出発した横尾はイラストレーター、画家、俳優、アニメーション監督、写真家、テレビタレントと移り変わる。舞台も日本から海外へと拡散していく。世界の天才たちと仕事を重ね、大きくなっていく。三島由紀夫高倉健田中一光寺山修司ジョン・レノン、ヨーコ、細野晴臣

横尾は人とのコミュニケーションが苦手なのだが、ある種の図々しさも持ち合わせていて、出会いをつくり、ごく自然に出会いを生かしていく。彼に触れた天才たちは不思議に彼の面倒をみることになる。狂人的ではるが、ある種の人徳を備えているのだろう。

28歳で出会った40歳の三島由紀夫とは三島が事件を起こす直前まで深くつきあっており、三島の肉声と自決の直前の様子がよくわかる。「何という低俗のきわみの色彩であろう。、、何という無礼な芸術であろう。このエチケットのなさ!」という三島は「狂人の芸術から救っているのは、彼の外部への関心である」とも評価している。横尾は「三島さんと一緒にいるだけでぼくは創造的な人間になっていくのが実感できた」と述べている

幽体離脱体験、夢、空飛ぶ円盤、インド体験、坐禅、、、、。

電通藤岡和賀夫に企画で、横尾は阿久悠浅井愼平池田満寿夫、小谷正一らと南太平洋に出かけた。帰国後、それぞれが南太平洋を素材にした作品を作ったが、阿久悠は「UFO」というピンクレディ最大のヒット作品を書いたという。

ニューヨークでの「ピカソ展」が一大転機になる。入り口に入ってから2時間後、突然「画家」になることを決心する。ピカソが自己の想いや感情に忠実に従っているその無垢な正直さに打たれ、開放感を味わった。そしてグラフィックデザインという分野に興味を失ってしまう創造と人生の一体化されたピカソのような生き方に従うことになった。

この画家への転向を10年前に予言した人がいた。美輪明宏である。「あなたは職業を変えるわよ。絵を描くようになるわよ。すごい大きな絵でいろんなものを画面にくっつけたキラキラ光るような絵を描くはずよ。」

この転身事件に野田一夫先生が登場するのには驚いた。阿久悠の知人で、当時玉川学園(多摩大の間違い)の学長の野田一夫氏からニューヨーク近代美術館ノ「ピカソ展」に誘われたのだ。条件は鑑賞後食事でもしながら感想を語ってもらえばいいという寛大なものだった。この中で横尾は「野田先生」と呼んでいる。この自伝の中で先生と呼んでいるのは野田先生だけだ。

 

「対談集」の横尾忠則の発言から。

  • 鳥瞰的な、全体が見える視点をもっていないとね。超越者にはなれないけど、ある程度、超越者の視点を獲得したいと思うよね。(吉本ばなな
  • 僕は逆に、音楽に近いと思って絵を描いている。(細野晴臣
  • 「個人」というものは宇宙意識と結びつかないような気がすうけど、「個」というものは非常に結びつきがあって、何か宇宙軌道のに乗っかってるイメージがあるの。(中沢新一
  • 食べることも遊ぶことも刹那的でしょ。本当の快楽は「持続」するものだと思う。快楽は自然や宇宙の原理原則の軌道に上手く乗れたとk、何もかもがうまくいく状態なんです。(瀬戸内寂聴
  • 遺影、、。60年代から、70、80、90年代と、それぞれの年代でいいやつをダーッと並べる。それで僕とかかわった人が、そのつきあいの年代の前へ行って焼香する。(河合隼雄
  • 滝を通して、見えない存在である神というか宇宙原理を感じる、、(鶴見俊輔
  • 宇宙には、、、秩序立った一つの原理があるにではないか。それは実は「意識」ではないか、と。(福田和也
  • 僕は魂に接続するものというのは、むしろ心というよりも肉体だと思うんですよ。肉体の習練を通して、初めて魂とか霊性と接触できるのではないかと。(福田和也

 

 

横尾忠則対談集 芸術ウソつかない (ちくま文庫)

横尾忠則対談集 芸術ウソつかない (ちくま文庫)

 

 

 

 

「名言との対話」5月3日。柴五郎「中国人は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」

柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日万延元年5月3日) - 1945年昭和20年)12月13日)は、日本陸軍軍人軍事参議官台湾軍司令官東京衛戍総督第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。

「扶清滅洋」を掲げた1900年の北清事変義和団の乱)鎮圧のために英米露仏独など列強8カ国は軍を派遣する。6月21日清朝は列強に対する宣戦を布告。北京にいた外国人は籠城を余儀なくされた。2か月後の8月に連合軍は北京を占領し、西大后は光緒帝とともに脱出する。この籠城にあたって英仏中国語に精通する北京公使館付き武官・柴五郎砲兵中佐は、実質的な指揮を担い寄り合い所帯をよくまとめ、外国人から多くの賛辞が寄せられた。

この柴五郎が維新時に故郷・会津が朝敵として嘗めた辛酸を描いた少年時代の記録が石光真人「ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺言」(中公新書)である。

会津23万石は、1870年に3万石に減じられて下北半島斗南藩として再興を許される。今の青森県むつ市である。恐山のふもとであり、原子力船・むつ (原子力船)の旧母港として知られている。火山灰台地のやせた土地である。しかし、この最果ての地は気候厳しく実質7千石しかなかった。このため移住した会津の人々が嘗めた辛酸は筆舌に尽くし難いものだった。この間の事情をしたためて眠りにつこうと考えていた文書を、石光が筆写したものである。肉親の菩提を弔うために書いたもので、自らもこの文書とともに眠りにつこうと考えていた。肉親と自分のために書いた自分史である。

 寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇をとらず、はだぬがず。道は目上にゆずれ片寄りて通るべし。門の敷居を踏まず、中央を通るべからず。客あらばぬ奴僕はもちろん、犬猫の類にいたるまで叱ることあるべからず。おくび、くさめ、あくびなどをすべからず、退屈の体をなすべからずと、きびしく訓練されたり。

会津の人々の苦難を述べたものであもあるが、一方で明治の男子のあり方を教えられる。この人は立派な顔をしている。

  • 挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
  • 陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き抜け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。吹きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
  • 官界は薩長土肥四藩の旧藩士に要職を占められて入り込む隙間なし。会津のものにとりては、東京もまた下北の火山灰地に似て不毛の地というべきか、人々日々の生活の業に疲れ、過ぎたること忘れがちなり。

北清事変で、見事な指揮ぶりと高潔な人格で各国の尊敬を集めた柴五郎の活躍によって、英国はこのような素晴らしい軍隊を持つ日本と同盟を結ぶ。日英同盟の親とも言うべき人物だ。そして柴五郎は中国をよく研究していた。その柴五郎は中国を敵とせずに、友とせよと述べている。耳を傾けよう。