御即位30年・御成婚60年記念特別展「御製・御歌でたどる両陛下の30年」展(皇居三の丸尚蔵館)。

 御即位30年・御成婚60年記念特別展「御製・御歌でたどる両陛下の30年」展(皇居三の丸尚蔵館)を見学。

天皇陛下「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴として位置づけられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日まで過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います」「平成が戦争のない時代として終ろうとしtれいることに、心から安堵しています」「自らも国民の一人であった皇后が、私の人生に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」。

皇后陛下「与えらえた義務を果たしつつ、その都度新た気付かされたことを心にとどめていくーそうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います」「これからは1冊ずつ時間をかけ読めるもではないかと楽しみにしてります。読みだすとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴィスも2、3冊待機しています」

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以下、歌会始天皇陛下の歌。

 

父君を見舞いて出づる晴れし日の宮居の道にもみじばは照る

いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願はむ

白樺の堅きつぼみのそよ風に揺るるを見つつ新年思うふ

外国の旅より帰る日の本の空赤くしって富士の峯立つ

波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ

人々の過しし様を思ひつつ歌の調べの流るるを聞く

山荒れし戦の後の年年に苗木植ゑこし人のしのばる

大学の来しかた示す展示見つつ国開けこし道を思ひぬ

公害に耐へ来しもみの青葉茂りさやけき空にいよよのびゆく

大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継し時しも

父母の愛でましし花思ひつつ我妹と那須の草原を行く

園児らとたいさんぼくを植ゑにけり地震ゆりし島の春ふかみつつ

我が国の旅重ねきて思ふかな年経る毎に町はととのふ

 戦なき世を歩みきて思ひ出づかの難き日を生きし人々

 トロンハイムの運河を行けば家家の窓より人ら笑みて手を振る

務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

とう火台に燃え盛り彼方なる林は秋の色を帯び初む

生きものの織りなして生くる様見つつ皇居に住みて十五年経つ

五十年の祝ひの年に共に蒔きし白樺の葉に暑き日の射す

津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる

万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

戦いひにあまたの人の失せしとひ島緑にて海に横たふ

邯鄲の鳴く音聞かむと那須の野に集ひし夜をなつかしみ思ふ

語りつつあしたの苑を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に

 

 

 

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以下、皇后陛下

かすみつつ晴れたる瀬戸の島々をむすびて遠く橋かかりたり

いつの日か森とはなりて陵を守らむ木木かこの武蔵野に

葉かげなる天蚕はふかく眠りゐて櫟のこずゑ風りゆく

とつくにの旅いまし果て夕映ゆるふるさとの空に向ひてかへる

波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島

移り住む国の民とし老いたまふ君らが歌ふさくらさくらと

日本列島島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田にいでます

生命おび真闇に浮きれ青かりしと地球の姿見し人還る

移民きみら辿りきたりし遠き道にイペーの花はいくたび咲きし

雪原にはた氷上にきはまりし青年の力愛しかりけり

癒えし日を新生となし生くる友に時よ穏しく流れゆけかし

 この日より任務おびたる若き衛視の立てる御苑に新草萌ゆる

光返すもの悉くひかりつつ早春の日こそ輝かしけれ

 ひと時の幸分つがに人にとの佇むゆふべ町に花降る

幸くませ真幸くませと人びとの声渡りゆく御幸の町に

風通ふあしたの小径歩みゆく癒えざるも君清しくまして

笑み交はしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ

年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

灯火を振れば彼方の明かり共に揺れ旅行くひと日夜に入りゆく

生命あるもののかなしき早春の光のなかに揺り蚊の舞ふ

君よゆく道の果たての遠白く夕暮れ手なほ光あるらし

おほかたの枯葉は枝に残りっつ今日まんさくの花ひとつ咲く

 帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

天地にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し

み遷りの近き宮居に仕ふると瞳静かに娘は言ひて発つ

来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこひし

夕茜に入りゆく一機若き日の吾がごとく行く旅人やある

土筆摘み野蒜を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来し

語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ

今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく

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「名言との対話」。2月18日。伊藤昌寿「目先の業績を上げるだけならわけはない。次の次の世代のために種を仕込むのが社長の仕事だから苦労する」

伊藤昌寿(1925年14年1月18日ーー2006年2月18日)は、日本の経営者。

1948年東洋レーヨンに入社。1959年ナイロン原料の光合成法を開発。1981年社長、1987年会長。社名を東レに変更して,炭素繊維,インターフェロンなどを重点開発し、繊維メーカーから総合化学メーカーへ転換させた。

まだ、テトロンやナイロンが最盛期の時代に、東レは1971年に新規事業部を新設。初代部長が伊藤だった。合繊で培った高分子化学の技術が応用できる成長分野から有望分野を選び、新規事業を育成せよと指令を受ける。毎年10億円、20億円と投入するが、利益はでない。「何故あのような事業に投資を続けるのか」と批判が多かったが、歴代社長は、「伊藤君、よろしく頼むよ」と、人と金を投入し続ける。

伊藤は炭素繊維に着目し量産化する。ゴルフクラブ、航空機製造材にも採用され、1974年には黒字を達成。産業用の新用途の開拓に成功し、東レは世界一の炭素繊維メーカになり、業績に弾みをつけていった。

このケースは本業が堅調なうちに次の時代の収益源を見定め、粘り強く進めることがいかに大事かを示している。

1987年には、バブル経済による好景気を実感し始めていた世間とは逆に、東レは業績が急速に悪化していた。そこで、当時の伊藤昌寿会長と前田勝之助社長は「東レ流のリストラ」を断行する2万5000人の正社員の半分以上を再訓練した後に子会社や拡大中の部門に異動させ、配置変換によっておきた減収分は東レが補填した。加えて、研究開発費に糸目をつけず独自の技術を開発し、さらに生産ラインを細分化し各リーダーが率いる事業部制にしたことでR&Dとマーケティングをチーム内で効率よく行うことに成功した。極めて日本的な方法で1990年代にかけて突破口を開き、東レは快進撃を続ける。2014年には、榊原定征経団連会長にまでなった。

2018年3月末現在の東レはどのような企業になっているか。東レ7,625人、国内関係会社10,590人、海外関係会社27,547人、合計45,762人。国内100社、海外157社、合 計257社。連結売上高22,049億円、連結営業利益565億円 (2017年度)。
トップの仕事で重要なのは、次世代ではなく、その次の世代のための種の仕込みであると希代のイノベーター・伊藤昌寿は言う。東レのコーポレート・スローガン、「Innovation by Chemistry」(化学による革新と創造)は、このような歴史をみると深く納得できる。東レという組織のDNAのキーワードがイノベーションであり、それが社風を形作っている。そしてとその社風を代表する伊藤昌寿という人物の存在とその連なりがみえる。それは東レという企業の貴重な財産だ。