東京国立近代美術館。宮内庁三の丸尚蔵館。同窓会。

午前中は、美術館。

竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「イメージコレクター・杉浦非水展」。

 杉浦非水(1876-1965)は、日本のグラフィックデザインの創成期の図案家。三越呉服店の嘱託図案家。多摩帝国美術学校初代校長・図案家主任教授。

コレクションの重要性を改めて感じた。『実用図案資料大成』全12巻。『世界動物図案資料集成』が印象に残った。

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宮内庁三の丸尚蔵館で開催中の「御即位30年・御成婚60年記念特別展 御製・御歌でたどる両陛下の30年」展。

平成2年から平成31年歌会始の御製・御歌と展示資料を順番に眺めたが、お二人の人生の軌跡と心もちに感動した。

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午後。有楽町でJALの千歳・客乗時代の上司・同僚・後輩たちと会食。

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「名言との対話」2月17日。横田喜三郎「いやはや長生きすれば、新しいことを聞く」

横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年明治29年)8月6日 - 1993年平成5年)2月17日)は、日本国際法学者、第3代最高裁判所長官

 33歳、東京帝大教授。52歳、東大法学部長。60歳、定年退官。64歳、最高裁判所長官。69歳、定年退官。77歳、津田塾大学理事長。78歳、文化功労者。85歳、文化勲章

横田喜三郎によれば「満州事変がはじまってから、太平洋戦争が終わるまで、15年間を通じて、わたくしが一貫して軍事行動に反対し、それを批判し、平和への道を主張した」「反発し、批判と反対の意見を新聞や雑誌に載せた」とのことである。そのため、戦後メディアから評論を頼まれ、各地での講演を依頼されている。

憲法は平がな口語体で書かれている。この点に横田はかかわりを持った。平易で親しまれるものにしたいという政府の方針のもとに、国語問題の権威であった山本有三に意見と助言を求めた。山本は法律家の横田に意見を聞いた。「いっそのこと、平がな口語体で書いては、どうでしょうか」と言い、二人で前文と条文を書いてみた。法律の世界で、憲法を平がなで書くということは革命的なことだったが、結果的にそれが採用された。その他の法文もすべて平がな口語体になった。条約も、裁判の判決も官庁の文書も平がな口語体となった。これは決定的な影響を及ぼしていき、全法律的世界の革命的な改革となった。横田喜三郎『世界と共に歩む』の中では、もっとも印象に残るエピソードだった。「世界と共に、世界を友として、平和に歩まなければならない」が信念だった。

学者や裁判官は規則正しい生活ができるとした横田喜三郎は長生きを自覚していた。3か月か、6か月ごとの定期健診を受診し、76歳で胃がんを発見し手術し健康体に戻っている。90歳でスケートはやめた。 95歳時点で、週2回はテニスという生活である。

浄瑠璃に「いやはや長生きすれば、新しいことを聞く」というセリフがある。それが長寿の喜びであるという。長生きしたからこそ、ベルリンの壁の崩壊前後のヨーロッパの大変動ををみることができたことを、若いころから国際関係を専門にした横田は喜んでいる。新しい世界の潮流をみることができる。人の言説の正誤などを確認できる。長く生きることで、人は時代の先や人生の高みにのぼることができる。 

世界と共に歩む

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