レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマンの誕生』(NHK出版)--2045年、シンギュラリティ(特異点)に到達

レイ・カーツワイルの大著『ポスト・ヒューマンの誕生--コンピュータが人類の知性を超えるとき』(NHK出版)を読了。

「生物の限界を超え2045年、人類はついに特異点(シンギュラリティ)に到達する」。

ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき

作者: レイ・カーツワイル,井上健,小野木明恵,野中香方子,福田実 出版社/メーカー: 日本放送出版協会

 世界屈指の発明家、思想家、未来学者。さまざまの出来事を予言してきた。現代のエジソンとも呼ばれている。アメリカの発明の殿堂に名を連ねている。12の名誉博士号を持つ。これが著書だ。1947年生まれのベビーブーマー

5歳で発明家になると決めたこの人物は、どのような未来がくるかを探り、魔法である未来のテクノロジーを考慮して、アイデアを練り、絶好のタイミングで具体的な発明を行って成功してきた。その人が語る未来には誰もが真摯に耳を傾ける。

シンギュラリティ(特異点)を提唱し、世界中で話題になった。それは生物とテクノロジーが融合する臨界点であり、その時点以降は人類は人間ではあるが、生物を超越した存在になっている。その臨界点が2045年に来るという。

21世紀前半は3つの革命が同時に起きている。遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学だ。遺伝学で寿命が劇的に伸びる。ナノテクノロジーで肉体と脳を再設計できる。ロボット工学で人間よりすぐれた知能を持つロボットが誕生する。

人間の虚弱な人体は、丈夫で有能なバージョン2.0に変化する。老化せず永遠に生きられる。仕事と遊びはあらゆる種類の知識の創造に向けられる。2030年代から2040年代には人体はバージョン3.0になるだろう。人間の可塑性が拡大し身体を自由に変えられる。他人になり、人格も好きなように決められる。感情も共有される。心が拡大する。思考力が格段に向上する。脳と脳との無線通信が可能になる。医学の進歩しだいで平均寿命は150年、500年、1000年に及ぶ可能性がある。誰もが最高級の知識や教育を享受できる。最貧階級はいなくなる。仕事と遊びの区別がなくなる。

人間そのものが徐々に、しかし確実に、生体から非生物的な存在に変わっていく。こなってくると「意識」がテーマになる。意識(主観)の問題は科学によっては完全に解決できない。哲学や思想が重要になる。進化は神の概念に向かって進んでいる。

リスクは大きいが克服していかねばならない。防御技術への大幅な投資の拡大が必要で、その大部分は抗ウイルス薬と治療だ。

 

「副学長日誌・志塾の風170202」

  • 事務局との定例ミーティング
  • 栢原先生、志賀先生、奥山先生と雑談:入試の状況、20年度以降の大学、学園の将来構想、、、。彩藤先生が加わる。
  • 山本さん:T-studio
  • 高野課長

 ---------------------

「名言との対話」2月2日。菅茶山「雪は山堂を擁して 樹影深し 檐鈴動かず 夜沈沈
閑かに乱帙を収めて疑義を思えば 一穂の青灯 万古の心」

(雪はこの山奥の書斎を包み込むように降り積もり、木々の影は深い。軒端の鈴は少しも動かず、夜は静かに更けていく。乱れていた書物を静かに片付けて、ひっかかっていた部分を考えてみる。すると部屋の灯りがぼうっと青く輝き、 その灯りを通して古人の心が見えてくるのだ。)

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日1748年2月29日)- 文政10年8月13日1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者漢詩人藩校弘道館教授、藩校誠之館教授備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。

34歳で、私塾「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)を開き、村の子ども達に学問を教える。この私塾を福山藩の郷校とするよう願い出て許可された。後に廉塾と呼ばれる。廉塾は文化文政期に最盛期を迎え、累計では入舎生数は330名余にのぼると推定されている。塾生は四国、九州、奥羽んまで及んだ。1年余り頼山陽が塾頭として活動している。

茶山は謙虚で礼儀正しい人で、さまざまの分野の人と交わった。菅茶山の詩は有名で、平淡な作風は当時の詩壇に大きな影響を与えた。その漢詩の一つが冒頭に掲げた詩である。しんしんと降る雪の中の書斎で書物を読み込み、腑に落ちない部分を改めて考えてみると、部屋の灯りを通して先人の姿と心が見えてくる。書物を読む楽しみを静かにうたっていて、心に沁みる詩である。

成毛眞『本棚にもルールがある』(ダイヤモンド社)

 成毛眞『本棚にもルールがある---ズバ抜けて頭がいい人はなぜ本棚にこだわるのか』(ダイヤモンド社)を読了。

本棚にもルールがある---ズバ抜けて頭がいい人はなぜ本棚にこだわるのか

日本マイクロソフトの社長などを歴任した著者は、2011年にノンフィクションの書評サイト「HONZ」を開設していりる。「本は10冊同時に読め!」など読書の関する著作も多い。

年間100冊を読んでいた著者は、「HONZ」開設以降は、200冊以上になった。ベストセラーではなく、「他の人が読まない面白い本」を物色する。

この本は本棚に着目している。3つの本棚が必要で、新鮮な本棚(常時動いている。週一で入れ替え)、メインの本棚(「サイエンス・歴史・経済が最低必要)、タワーの本棚(事典・辞書、年表、地図、図鑑、名言集)だ。著者のメインの歴史は、「西洋近代史」と「江戸時代」とジャンルを絞っている。

以下、参考。いくつかの本を注文。

-ブロガーには「日本語の正しい表記と用語の辞典」(講談社)。「現古語辞典」(河出書房新社)が役に立つ。

-苦手な分野は児童書がいい。岩波ジュニア新書、ちくまプリマー新書

-紀伊國屋書店のウェブストアで新刊をチェック。

-読書サイト「読書メーター」「ブクログ」。

-キュレーター:サイエンス書評は森山和道松岡正剛

-「方法序説」(岩波文庫)。「測って描く旅」(彰国社)。「こんなにちがう中国各省気質」(草思社)。「偉人は死ぬのも楽じゃない」。「理科年表」(丸善出版)。「3年後に必ず差が出る 20代から知っておきたい経理の教科書」(翔泳社)。「君は一流の刑事(デカ)になれ」(東京法令)。「コンテナ物語」(日経BP社)。

-SEO:ロボット検索。『書名』。スマートフォン対応のブログ。

-「藤本義一の書斎」(兵庫県芦屋市)。

 

「副学長日誌・志塾の風170201」

  • 人事委員会:非常勤講師。来年度委員。来年度以降の給与方針。
  • 居残りの先生達と懇談
  • 学部運営委員会:
  • 金先生:全学教学マネジメント会議
  • 入試本部
  • 飯田先生:読書活性化
  • バートル先生:内モンゴル師範大学の宝力朝魯先生を紹介される。
  • 高野課長:「志」小論文コンテストのデザイン。
  • 下井先生:共同研究費の公募のテーマについて。

 -----------

「名言との対話」2月1日。石橋正二郎「時の短縮は、私の信条である。もし他人の三分の一の時間で仕事をすれば、結局三倍の仕事ができるわけだ。だから一生涯の活動時間を、かりに四十年とすれば、百二十年分の仕事量となる勘定になる。

石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年明治22年)2月1日 - 1976年昭和51年)9月11日)は、日本実業家ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもある。

石橋正二郎(1889-1976年)は、家業の仕立物屋から出発。足袋の底にゴムを貼りつけた地下足袋で成功。その後、自動車時代を見据え、ゴムの生産技術を生かした国産タイヤに進出。今日のブリジストンの創業者である。また石橋は鳩山一郎の後援者としても知られている。そしてもう一つをの顔が美術コレクターである。
収集した美術品を展示するため、京橋のブリヂストンビル内に開館した。石橋正二郎は昭和のはじめ頃から日本の近代絵画の収集を始め、西洋美術の収集に本格的に乗り出したのは第二次大戦後である。石橋は、戦前にすでに日本にもたらされていた西洋美術のコレクションを、戦後まとまった形で入手し、1952年の美術館開館までのわずか数年間に日本有数の西洋美術コレクションを形成している。西洋美術、日本近代美術を中心とした私立美術館で、財団法人石橋財団が運営している。

美術館と深い関係のある安井曾太郎の企画展では多くの肖像画を見た。偉い人の顕職の退任時や還暦や古稀の記念に弟子たちが費用を負担して、肖像画をプレゼントする習慣が最近まであったことがわかった。

「一生涯の目的を達成せんとする者は、いかなる固執も、障害も、目前の名利も介さず、忍ぶ、粘る、堅忍持久、終始一貫、最後の目的に突進することである。」

 この石橋正二郎は政治家・鳩山一郎を支援し、一方で美術品の蒐集にもあたった。現世を司る「政治」と永遠の美を見つめる「美術」、この二つが財をなした実業家の金の使い道である。

冒頭の言葉にあるように、多忙な石橋は「時間」についての考え方を持っていた。しかも年を重ねるとしだいに時間の使い方と仕事のコツに熟練していくから、効率は3倍どころではなくなってくる。また活動期間も延びるから、石橋の勘定のさらに2倍の仕事量も夢ではない。

私立大学等改革総合支援事業(平成28年度・文科省)で4つのタイプ全てで選択される。

「名言との対話」1月31日。ジャッキー・ロビンソン「一流になれ、そうすればものが言える」

ジャック・ルーズベルト・ロビンソンJack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手内野手)。1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。

ニグロリーグマイナーリーグを経て、1947年メジャーリーグデビューし通算10年プレー。ナショナルリーグMVP 1回。1949年新人王。。1947年首位打者 1回:1949年盗塁王 2回:1947年、1949年。MLBオールスターゲーム選出 6回、1949年 - 1954年。。

1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入り。1997年にはロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。

 2013年4月12日、彼を題材とした伝記映画『42 〜世界を変えた男〜』が公開され、4月第2週(4月12~18日)の全米映画興行収入ランキングで初登場首位を飾り、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた

 「「不可能」の反対は、「可能」ではない。「挑戦」だ!!」

「もし、他人に何かのインパクトを与えるような、生き方が出来なかったとしたら、人生などそれほど重要なものではないと思う」

ロビンソンは有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。その道のりは苦難をきわめた。しかし敵を実績と人柄で黙らせて尊敬を勝ち取って一流の人物になっていく。ものがいえる、ということは人が意見を聞いてくれるということである。そして人に影響を与える。それが高い価値のある人生なのだ。

 

「副学長日誌・志塾の風170131」

湘南キャンパス

  • グローバルスタディーズ学部運営委員会にオブザーバー参加。

多摩キャンパス

  • 成績付け
  • 2017年度事業計画作成
  • キャリアの北山さん:ゼミ生の就活状況の確認。
  • 杉田先生:学科の数字。来年度委員。
  • 高野課長:人事委員会
  • 平成28年度私立大学等改革総合支援事業で4つのタイプ全てで選択された」というビッグニュース(内定)をホームページで発表。タイプ1「教育の質的転換」、タイプ2「地域発展」、タイプ3「産業界・他大学等との連携」、タイプ4「グローバル化」の4タイプ。昨年度は3つ選択で、全私立大学の中で4つ選択となった5大学に続く成績だったが、今年度は全国トップとなった。

    平成28年度私立大学等改革総合支援事業4タイプ全てに選定! - 多摩大学 ニュースリリース

多摩大グループ(大学と2つの高校)のアクティブ・ラーニング研究会が発足。高大接続の歴史的な会合。

   日本経済新聞私の履歴書」。1月は日産のカルロス・ゴーン社長だ。

2016年のルノー・日産・三菱自のアライアンスは年間1000万台の規模になり3大グループに並んだ。18年間のルノーと日産、自動車業界で唯一成功した提携がなぜ成功したのかが語られている。

  • 「本当に会社を変えられるのは、中にいる人々だ」
  • 「ビジョンを社員に浸透させるのに重要なのは共通の言語だ。私はそれが数字だと思っている」「数字は多様な言語、文化の中で育った私が考え抜いた共通の言語なのだ。」
  • 「リーダーの条件とは何か。1つは、結果を出せる人だ。第2に、リーダーは人々とつながる能力を身につけないといけない。最後に、新しいことを常に学ぶ姿勢だ。」「信頼を得たのは、従業員との対話を欠かさず、ともに結果を出し、常に学び続けているからである。」
  • 後継者の資質「変革に対応でき、成長を持続させられる人」(31日)
  • 日産卒業後の計画:家族。知的活動。教鞭。サポート。「私の活力の源泉は常に「学びたい」という意欲である。」(31日)

 

「名言との対話」1月30日。鳥居信治郎「なんでもやってみなはれ。やらなわからしまへんで」

鳥井 信治郎(とりい しんじろう、1879年1月30日 - 1962年2月20日)は、日本の実業家、サントリー(現サントリーホールディングス株式会社)の創業者である。

2014年度NHK連続テレビ小説竹鶴政孝夫妻をモデルとした「マッサン」で、主人公の大きな影響を与える鴨居欣次郎として登場している。

鳥井は、13歳で丁稚になり、20歳で鳥井商店(後に寿屋、サントリー)を創業し、赤玉ポートワインサントリーオールドなどのヒット賞品を生み出した。

「60何年、酒、酒、酒で苦労してきとる。なんぼバカでも、60年もやればものも分かりまっせ。お金もちいとばかりはできまっせ」

「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」

トップの仕事は後継者に心得を語ることではない。イノベーションこそが企業や組織の成長の源であるから、その種が内部から出てくるようにしかけをつくることがトップの役割だ。自由闊達な風土がアイデを産む。議論と評価から始めるではなく、まずやってみる、やらせてみることから始めよう。

 

 「副学長日誌・志塾の風170130」
  • 学園本部を杉田先生と訪問
  • アクティブラーニング研究会が発足。多摩大学(久恒副学長、金アクティブラーニングセンター長以下5人)。多摩大目黒高校(松井教科主任以下3人)。多摩大附属聖ヶ丘高校(五十嵐校長以下5人)。本日は問題意識のすりあわせ。多摩大グループの連携が高大接続でアクティブラーニングをテーマに始まる。歴史的な会合であり、大変いい雰囲気で話し合いがもたれた。4月から本格的に活動を始める。

    f:id:k-hisatune:20170130183526j:plain

    f:id:k-hisatune:20170130165740j:plain

「賀古鶴所という男」展

森鴎外記念館(文京区立)は、「賀古鶴所という男」展を開催中だ。

賀古鶴所とは誰か。鴎外は「何事でも打ち明けて相談するといふ友達は生涯に一人あれば沢山だ」と言った。その一人とはこの賀古鶴所だった。鴎外の遺書では「少年時代より老死に至るまで一切秘密無く交際したる友」と述べられている。

賀古は親友鴎外の遺書を口述筆記した人物でとして有名だ。

陸軍からの依託学生で東大医学部で学んでいた賀古は、二つほど年齢を若く偽っていた鴎外より6歳の年長だった。

賀古は浜松藩藩医の長男で、のちに日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた人物である。二人が交わした書簡が250通以上、この記念館に残されている。この企画展は、二人の往復書簡を中心に構成されていた。

当時の「文士政客風聞録」には「資性豪放にして挙措極めて磊落、而して手腕頗る巧妙、豪も患者に痛苦を与えず、、、、蓋し刀圭社会の一奇物」とある。

山縣有朋随行員として欧米を巡回し懇意になり、鴎外が引き立てられたきっかけを提供した。それは山縣が発起人となった歌学研究の常磐会で、鴎外と賀古が幹事で山縣との関係が密になった。その会は山縣が亡くなるまで185回も続いていた。

鴎外と賀古は千葉に300坪づつの土地を買い別荘を建てている。鴎荘と鶴荘と名付け、書の大家・中村不折がその字を書いている。

鴎外の妹・小長井喜美子(夫の母は長岡藩の小林虎三郎の妹)は、「鴎外の思い出」(岩波文庫)を著して、「賀古氏の手紙」という章を設けている。「賀古氏と兄とは、終生真実の親戚以上の交際を続けました」とある。「山縣公その他へも推薦せられたものでした」とも語っている。

 

以下、鴎外の日常。

「兄は食物では新しい野菜を好まれましたが、全体にひどい好き嫌いはないようでした」「牛乳だけはお嫌いのようでした」

「万年筆がお嫌いだっちょうに、新しいものはあまりお好きではないのです」

「電話での応対なども下手でした」

「書斎には蔵書が溢れ、昔からの趣味で、あらゆる物を切り抜いて貼付たのが山を成しています」

記念館で買った森まゆみ「鴎外の坂」(中公文庫)。

「鴎外は自ら醜男だと思っていた」

「鴎外の散歩の楽しみは古本屋」

 

「名言との対話」1月29日。大賀典雄「「私がソニーに入って、得をしたのはソニーです。」

大賀 典雄(おおが のりお、1930年1月29日 - 2011年4月23日)は、日本実業家指揮者声楽家CBS・ソニーレコード株式会社社長(初代)、ソニー商事株式会社社長、東京商工会議所副会頭、ソニー株式会社社長・最高経営責任者(初代)、社団法人経済団体連合会副会長などを歴任した。当時ソニーの社長だった大賀典雄カラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり(心不全)、大賀の腕に抱かれたまま心停止となった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。

「ユーザーの琴線に触れる製品でなければ、ダメなんだ」

ソニーが役員出張用の飛行機を購入した時、自ら飛行機の免許を取得し操縦して海外出張に出かけていた。雑誌などでもよくその姿は紹介されていたのを記憶している。

身長178センチの大賀には独自の睡眠理論があり、9時半か10時ぐらいに一度寝て、午前2時ぐらいに目が覚めると、指揮の楽譜を覚えたり、地図を見たり、飛行機の操作方法を学習するなど勉強をし、午前4時ごろ再び就寝する。

冒頭の「私がソニーに入って、得をしたのはソニーです。」の後には、「私は声楽家としてその名声を確立するかわり、ソニーで芸術面からソニーの製品に磨きを掛けた。それによりソニーのブランドが確立できた。」が続く。ウィンウィンの関係ではあったが、ソニーのブランド確立がより効果が大だったのだろう。こういう刺激的な言葉を自信を持って言えることは凄いことだ。

---------------

自宅。

  • 仕事の文書作成。雑誌原稿の執筆。書斎の片付け。、、、。
  • 「野口雨情」「二葉亭四迷」「椋鳩十」「田中久重」の「名言との対話」の執筆を終了。あと3人

多摩大・大学院説明会「寺島実郎」「田坂広志」の講演--中年の危機をどう克服するか

寺島さんの講演を聴きながら、自分の「中年の危機」について考えた。

寺島さんと知り合ったきっかけは知研の本作りの活動だった。仕事ではJALの客室本部業務部(労務)時代だ。その後、広報、経営企画の仕事をしながら40代半ば過ぎに宮城大学の教授に転身し、2008年に多摩大へ。2008年は日本の人口が1.28億人でピークの年。

この間、2005年から「人物記念館の旅」を始めた。2010年には「遅咲き偉人伝」を出版して形になった。強いていえばこの5年間が中年の危機だったか。

「図解コミュニケーション」という武器で時代を斬ってきたが、自分にとってはわかりきったことだったのでややマンネリ感はあったのかも知れない。人物記念館の旅からは、日本近代の偉人たちの息吹とオーラを浴び、もう一つのライフワークを手にした感がある。

図解から「図解と人物」に脱皮しながら展開していったともいえる。今年から著作活動ももう一度活性化させていきたい。

 

「名言との対話」。1月28日。小松左京「SFとは思考実験である。SFとはホラ話である。SFとは文明論である。SFとは哲学である。SFとは歴史である。SFとは落語である。SFとは音楽である。SFとは怪談である。SFとは芸術である。SFとは地図である。SFとはフィールドノートである」

小松 左京(こまつ さきょう、1931年昭和6年)1月28日 - 2011年平成23年)7月26日)は、日本小説家

星新一筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家1970年日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問を務めるなど、執筆以外の活動を幅広いジャンルに対して行っていた。

1973年に発表された小松左京日本沈没」は上下巻あわせて400万部を超える空前のベストセラーになった。同じ年に公開された映画も記録的なヒットとなった。あるとき、「小松左京が第二部を考えている。それは世界各国で難民となった日本人の苦難の物語だ。これが本編である」と語っていたのを思いだす。その後「あまりに大きいテーマであり書けない」と発言していたが、33年後の2006年7月に続編小説「日本沈没 第二部」(小学館)が上梓された。小松左京谷甲州の合作である。

2006年版封切り2日目に映画「日本沈没」を観た。夜9時20分からの映画を観たのだが、ほぼ満席だった。若い人も多かったし、昔観たと思われる中年夫婦も多かった。直感とイマジネーションを信条とする科学者田所雄介(確か原作のモデルは梅棹忠夫)も登場する。

「年代を超えた人のつながりをもっと強くして、知らないことやおもしろいこと、人間にとって大切なことに接するようにしないと、私たちの世代は子供たちの好奇心には追いつけません。」

小松左京はSFですべてを学び、SFの中にすべてを盛り込んだ。それが冒頭の言葉の意味だろう。ある分野において突出した業績をあげる人は、こういう言辞を吐くことが多い。自分のテーマを掘り切った人は地下の豊かな水脈と通じる。水脈はすべての道とつながっている。こういうことを実感できるまで掘り進むしかない。

 

「副学長日誌・志塾の風170128」

大学院説明会(品川)。200名を超える盛況。

  • 寺島学長:経営とは時代認識。激流の中で平衡感覚を保つ。知の再武装。中年の危機。何を為すべきか。挫折と迷い。日本近代史の偉人達は「使命感と出会い」によって乗り切っている。1980年からの7年間文章が書けなくなった。中央公論「我ら戦後世代の坂の上の雲」からイランのホメイニ革命、、。(32歳から39歳)。「中東・エネルギー・地政学」はこの期間の体験。脱皮、モルティング。文献研究とフィールドワーク。歴史認識の中で考える。どう生きるか。課題解決力。日本の貧困化と中間層の没落。内向の時代、しかしどこかで頑張らねば。トビラを叩け。
  • 徳岡研究科長の説明:41歳で転職、、。
  • 田坂教授:会社勤めには満足していたが、それでいいのだろうか。40歳で(株)日本総研の立ち上げに参画。そこから可能性が開けてきた。人生を拓く。欧米MBAは操作主義、ばかげた資本主義。日本型経営論がまとも。7つの知性をバランスよく身につけよ。「深い思想」「未来のビジョン」「高き志」「大胆な戦略」「創造的な戦術」「高度な技術」「人間力」。専門知識と論理思考はAIで無価値に。心構え。面構え。固有名詞。直感力・感性・感覚。言葉で表せるのが知識。経験知が知恵。プロとしての高度な能力があれば大丈夫、それは企画力、アイデア人間力を磨き続ける。大いなるもの。天。、、。
  • 19時から南大沢で杉田先生と月曜日の理事長報告の打ち合わせ。

多摩キャンパス。九段サテライト。八王子うかい亭。

 「名言との対話」1月27日。モーツアルト「私は生涯で一度も、独創的なメロディーを作ったことがない。」

 ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの音楽家である。古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。

 三枝成彰が「ベートーベンは革命児。「音楽は芸術だ」と主張した。このことで功罪はあるが音楽の地位が高くなった。必ず正門から入った。14歳上のモーツアルトはベートーベンと違い技術者だった。使用人として裏口から入った。」と語っているのを聴いたこともある。同時代を生きたモーツアルトとベートーベンの関係は興味深い。

「この男(ベートーベン)に注意したまえ!彼は将来、ウィーンを騒がせるすばらしい音楽家になるだろう」とモーツアルトは語った。一方、ベートーベンは「 ヘンデルとバッハとグルッグとモーツアルトハイドンの肖像を私は自分の部屋に置いている。それらは私の忍耐力を強めてくれる。」と語っている。天才は天才を知るのである。

「音楽は、決して不快感を与えてはなりません。楽しみを与える、つまり常に『音楽』でなくてはなりません」

「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけすることだ。」

「 旅をしない音楽家は不幸だ。」

  「私は人の賞賛や非難をまったく気に留めない。ただ自分の感じるままに行うんだ」

「オリジナルな曲を書こうなんて、これっぽっちも考えたことはない」「みなさんが私に認めてくれる才能は、あるお守りのおかげだと思っています。そのお守り、それは勉強です」ともいうモーツアルトの言葉は「独創」とは何かを考えさせる。まったくの独創、オリジナルは存在しない。大天才・モーツアルトにしてこの言葉なのだ。過去の人々の積み上げの上に、勉強してさらに少し積み上げることを独創というのだろう。

 

「副学長日誌・志塾の風170127」

  • 午前は多摩キャンパス

  ・成績つけ

  ・杉田先生:打ち合わせ

  • 午後は九段サテライト

 安田学部長

 大学運営会議

 ・大学戦略会議報告:「国際」

 ・来年度の学部委員長の任命

 ・教学マネジメント会議報告:「合同会議」

 ・セクション報告:経営情報学部。グローバルスタディーズ学部。大学院。学長室。

 ・事務局報告

 ・学長報告:経産省(観光の産業化。ホテルPJ。京浜の医療。関西のカジノ。長崎)。地域浸透力をアクションへ(広域多摩との連携。藤沢、多摩。相模原モデル。)農水省(アグリ・フードツーリズムとアカデミズとの統合)大学院。、、、。

 

  • 夜は八王子のうかい亭にてフットサル部の両角監督の慰労会。杉田顧問と。

f:id:k-hisatune:20170127183029j:plain