神奈川近代文学館「帰って来た 橋本治」展ーーー心境。準備。膨大。

ホームページ訪問者が、一昨日から急増している。最近は200台、300台と言ったところだが、4月30日:1676。5月1日:1816という訪問者がある。何が原因だろう。

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神奈川近代文学館「帰って来た 橋本治」展。

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  • 小説を書く時の心境:「机にすわって、まっ白な原稿用紙に向かうと、やっぱり、原稿用紙の向こうに小説の神様がいるような気がするのね」(森鷗外の心境と同じだ)
  • 一つの作品が終わった時の心境:「ああ終わった」の一言が幸福をもたらしれくれる。「ちょっとしんどいな」と思うこともありますが、書き終えた幸福感は変わりません。
  • 小説を書くエネルギーの源:どうしてこうなっているのか。
  • 思考の特徴:全体をにらみながら部分を考える。すべてを見渡すことができるため細部をないがしろにはできない。だから、長編になっていく。橋本治の出発点が絵描きだったからか。(画家は写真家とは違い、細部にまで目を凝らさなければかけない)
  • 何を勉強したか:国文科の卒論は「四世鶴屋南北の劇世界」。歌舞伎「よく分からないもんが好きだから」。浄瑠璃人形浄瑠璃のドラマを「近代の日本人のメンタリティの原型」「近代になって成立する小説の先祖」と考える。
  • 敬愛した作家は3人:久生十蘭山田風太郎。そして「有吉佐和子については、生な感触、生きた言葉があり、どれを読んでも参考になる。

橋本治の特徴は、準備に膨大な時間と労力をかけていること、そして一つ一つの作品の量が圧倒的に長いことである。橋本治の知的生産の技術を観察してきた。

  • 桃尻娘』:インパクトのあるタイトル。少女マンガのおしゃべりの文体。自分の心を把握して、それを自分の言葉で相手に伝えることの大切さや、つまづいても何度でも原点に返ってやりなおせることを真摯に説き続けた。
  • 『桃尻語訳 枕草子』は1986年から10年かけて完成。長大な時間と神経を使った。4箱の「訳語カード」、単語カード。「愛嬌なし」は「ドッチラケ」。清少納言の原文を、現代の女の子の言葉に置き換える。「平安朝の女流文学は少女マンガである」。
  • 『窯変 源氏物語』:全14巻。1991年6月荒1993年1月。「どうやら誰にもつまんない悪口を言われそうもないな」。
  • 『双調 平家物語』:全15巻。1998年10月ー2007年10月。10年間。準備に多くの時間をかけた。年表や系図づくりの準備が凄い、吾妻鏡」「平家物語」などから、仕事の記録を拾い出し、ワープロで年表や系図を作り、その多くは巻物に仕立てられている。これらの資料作成、本文、執筆を繰り返し、9年の歳月をかけて12巻の予定が、全15巻となり完結した。最後の原稿用紙はノンブル「8408」で締めくくれられている。年齢表。登場人物の名前が並んでいる。そして彼らが何年の時にどの天皇の時代に何歳であったかが国民に記されている。これによって、登場人物の年齢差が一目でわかるような構成になっている。仕事に何が起こったかそして自身の考察や感想なども詳細に記してある資料がある。しかし会場で見た原稿用紙の束は圧巻であった。2つの列があったが、それ全てで8408枚あると言うことである。

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『少年軍記』:東大闘争に関する小説。参加せず居場所がないまま孤立してきた自分を見つめ直す作品になるはずだった。これが未完なのは残念だ。

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今まで『小林秀雄の恵み』などを読んで、その力量に驚いたが、やはり橋本治の森は相当に深いようだ。橋本は「分からないけど魅力がある人間に」になりたいと語っていた。その通りの人間だったようだ。

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「名言との対話」5月1日。戸川幸夫「人に、「見られている」ことを常に意識することです。そういう動物的な緊張を忘れなければ、人間はボケないし、輝きを失わないものなんです

 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年4月15日 - 2004年5月1日)は、日本小説家児童文学作家。享年92。

旧制山形高校に進むが、中退する。東京日日新聞(いまの毎日新聞)社会部記者となり、サン写真新聞取材部長、東京日日新聞社会部長、毎日新聞社会部副部長、毎日グラフ編集次長となる。この間、長谷川伸に師事して文学を学び、42歳で「高安犬物語」にて直木賞を受賞。43歳で作家生活に入り、動物に関する深い観察と広範な知識を元にして「動物文学」というジャンルを確立し、国民の支持を得た。

1977年の戸川幸夫動物文学全集』で「日本文学に動物文学という新しいジャンルを開き、独自の高峰をうちたてた」として芸術選奨文部大臣賞受賞。1980年紫綬褒章受章。1985年、児童文化功労者1986年勲三等瑞宝章を受章。

年譜を繰ってみると、晩年に到るまでの間断のない膨大な仕事に圧倒される。53歳、西表島を二度訪問し新種を発見し、イリオモテヤマネコ命名される。

54歳の時の新聞・雑誌等への寄稿などを並べてみよう。「野生への旅V」、「ゴリラ記」、「乃木と東郷」、「謀議」、「三里番屋」、「象」、日本テレビすばらしい世界旅行」の原作執筆のため東アフリカ取材旅行、「からすの王様」、「世界名犬物語」、写真展「動物のアフリカ」開催。、、、、。

著書は200冊に迫る量があり、「戸川幸夫動物文学全集」も冬樹社の全10巻、主婦と生活社の全6巻、講談社の全15館の3つのシリーズがあり、動物文学のニーズが高いことがわかる。

日本犬復活運動を展開した斎藤弘吉日本動物愛護協会初代理事長は、渋谷の秋田犬ハチ公に惚れ込み資料を収集し、朝日の記者が「主人の帰りを待つ老犬ものがたり」として報道した。一番びっくりしたのが渋谷駅の駅長以下駅員だった。このハチ公と戸川は交流があったと戸川の自伝的小説『猛犬 忠犬 ただの犬』にある。この本を読みながら、中野孝次『ハラスのいた日々』という愛犬との日々を書いた傑作を思い出した。犬にも感情、意志、知識、思いやり、情など精神作用としての「心」は確かにある。私も少年時代、そして最近までチョコラという名の犬を飼っていたから、動物文学というカテゴリーがあることに納得する。誰もなし得なかった新世界を切り拓いたのが戸川幸夫だった。

「見る、見られる」ことに敏感であること。、ことに、人に、「見られている」ことを常に意識することです。そういう動物的な緊張を忘れなければ、人間はボケないし、輝きを失わないものなんです」と戸川幸夫は言う。その通りだったか、気になるところだ。