品川で大学院教授会。竹橋の東京国立近代美術館。九段でインターゼミ。

「副学長日誌・志塾の風」171216

13時から品川キャンパスにて大学院教授会。

・審議承認:2018年度事業計画。2018年度時間割・科目名称変更。規程見直し。CRSプログラム終了証明証。私費留学減免審査。2018年度学年暦再検討・教授会・運営委員会日程。

・報告事項:教務分科会。入試・広報分科会。院生分科会。、、、。

 16時:九段サテライトにてインターゼミ。

・杉田学部長と一緒に目黒高校の松井先生と面談

・杉田学部長と金先生と、新入試への対応を協議:学部生の教育効果との関連でたたき案ができた。

 午後は、東京国立近代美術館で開催中の「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた。

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 「名言との対話」。12月16日。島木赤彦「歌の境地は山、川であり、材料は雲・樹・鳥である」

島木 赤彦(しまき あかひこ[1]1876年明治9年)12月16日 - 1926年大正15年)3月27日)は、明治・大正時代のアララギ派歌人

諏訪湖に臨む地に諏訪湖博物館と並置されて島木赤彦記念館が建っている。平成5年に開館したが、設計者は伊東豊雄である。「湖面に沿って緩やかに湾曲する細長い平面を持ち、湖上からの姿は大きな船を逆さまにしたように見えるかもしれない。曲面を多用して軽快で優雅な空間を作り出そうとした結果である」」と設計を語っている。この伊東豊雄は、仙台のメディアテークの設計者でもあり、優れた作品を作り続ける建築家だ。

赤彦は日本の短歌の本流の一つ「アララギ」の編集に生涯をかけたアララギ派歌人だが、長く信州の教育の大きな影響を与えた教育者であり、そして「万葉集」をライフワークとした優れた研究者であり、また百篇に及ぶ童謡を書いた詩人でもある。

県の尋常師範学校を卒業し、教育者として出発した赤彦は33歳で尋常高等小学校の校長、36歳、諏訪郡視学と順調に仕事をする。一方で31歳で南信日日新聞、長野新聞の歌壇の選者にも選ばれているように、歌でも知られていた。雑誌「アララギ」を7歳年上の伊藤左千夫と創始したが、左千夫の死去で「アララギ」が存亡の危機に落ち入ったとき、郡視学という要職を投げうって上京し、それ以降活発に活動を開始する。

39歳、第二歌集「切火」。40歳、アララギを1000部にする(赤彦と同郷の岩波茂雄岩波書店が「アララギ」の発行を引き受けてくれた)。41歳、信濃教育会「信濃教育」編集主任。44歳、第三歌集「氷魚」、童謡を作り始める。45歳、斎藤茂吉と交流。46歳、「赤彦童謡集」、「万葉集燈」。47歳、「万葉集僻案抄」、「第二赤彦童謡集」。48歳、第四歌集「太虚集」。上京してほんの10年余であるが、雑誌編集の責任者という実務と併行して創作に余念のない姿を感じる。50歳で没したが、長く生きたら歌史にもっと大きな重みをもって存在していただろう。

教育実践者としては、作文の言文一致や写生主義を図画、つづりかた教育にいれる。理科では、継続観察や植物、鉱物の標本採集や登山など、形式的な教育から創造的教育への流れをつくっている。写真をみると、本籍は歌人というより、信念固き教育者という風貌である。

赤彦は、柿人、柿の村人などの歌名を使っていたし、住居は「柿蔭山房」とも称していた。いずれも柿の赤が好きだったことからつけた名前である。37歳から赤彦という名前で通す。

近代短歌の歴史は、正岡子規根岸短歌会から始まるが、馬酔木(あしび)によった伊藤左千夫をその流れを引き継ぎ、アララギを舞台に、斎藤茂吉土屋文明、中村憲吉、石原純、釈沼空などの多彩な歌人が出て、この派が重きをなしていく。その中心にいたのが島木赤彦だった。アララギは、ブナ科の常緑樹・イチイの別名である。

後に書簡類を整理した矢崎孟伯氏によれば、書簡数が非常に多く一千通に近い。交友人関係がひろかったことを示している。あげられた名前は、徳富蘇峰森林太郎(鴎外)、阿部次郎、佐々木信綱、岩波茂雄小宮豊隆田辺元安部能成菊池寛、西田幾太郎、倉田百三金田一京助、与謝野寛、、、、。山国信州人の律義さと教育者としての誠実さをもって、几帳面に多くの人に接した人生だった。

 隣室に書よむ子らの声きけば 心に沁みて生きたかりけり、などいい歌が多いのだが、赤彦は歌論も活発に論じ、「歌の境地は山、川であり、材料は雲・樹・鳥であるが、現れる所は、作者心霊の機微である」と説明している。悠久の大地を見つめ、その中で生きる動植物などを材料にして、自分の心を歌う。それが歌である。

朝:学部の授業「立志人物伝」。昼:「トレンドウオッチャー」録画。夜:大学院の授業「立志人物論」。

「副学長日誌・志塾の風」171215

・10時:久米先生:昼休みの録画のテーマを相談。事前に考えていたことで一致!

・10時40分:授業「立志人物伝」12回目:マネジメントの名言「孫正義」「スティーブ・ジョブズ」。佐高信のセミナーまとめの解説。吉本せい浜田庄司東海林太郎大谷竹次郎・ノーベル。エニアグラムによるタイプ別適職の解説。久恒の職歴とエニアグラム。パワーポイントによる図解の描き方講座。

・12時半:久米先生とT-Studioでトレンドウオッチャーの録画。テーマは「人生100年時代とSNS」。30分近い長い対談となった。

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・飯田先生:来週のちょい飲み会。

 

品川のインターシティでコーヒーを飲もうとしたら、ビルの入り口に多摩大大学院の各種チラシがいい位置にいてあったのを発見。

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  17時半:品川キャンパスで授業準備。徳岡研究科長と渡辺先生の件、時間割の件。

18時半:大学院「立志人物論」の7回目の授業。以下、「立志人物論」の総括感想。

本日の講義もありがとうございました。これまでの講義でたくさんの偉人や名言に触れることができました。そのなかで初めて知る人物も多く、その人物の経歴や業績についてさらに知りたいと思いました。章としては仰ぎ見る師匠の存在についてが一番印象に残りました。私はもともと山本五十六という人物に興味がありましたが、その師は河合継之助であることを知りました。河合継之助について調べると山田方谷との出会いが大きな影響を受けたことが分かりました。このつながりからも人生の師をもつことの大切さを改めて感じました。講義で取り上げた人物としては司馬遼太郎が一番印象に残りました。まだ『坂の上の雲』しか読んでいませんが来年は河合継之助を取り上げた『峠』や『翔ぶが如く』を読みたいと思います。そして東大阪の記念館にも足を運んでみようと思います。最後に、この講義の第1講で自身の座右の銘を見つけることを課題にしていましたが、私の座右の銘は「好きこそものの上手なれ」でいきたいと思います。偉人たちは驚くべき仕事量をこなし、ずっと高い志を持ち続けていました。それを周囲の人々は偉業と讃えるのと同時に凡人からみるとそんな苦行は真似できないと感じてしまうものだと思います。しかし当の本人たちは苦行とは感じていないのではないかと思います。それは取り組んでいることが大好きだから継続できるのだと思いました。司馬遼太郎にしても日本の歴史や幕末から明治にかけての日本人が大好きだったのではと思います。だからこそ丹念に歴史を調べ、膨大な資料を読み込むことであれだけの本が書けたのだと思います。私もまずは好きなことからはじめたり、今取り組んでいることの面白さを見つけていきたいと思います。次回は最終講になりますがフィールドワークとその後の飲み会を楽しみにしております。次回もよろしくお願いいたします。

志人物論を受講して。受講の初期は、過去の人物の解説と思っていました。しかし、受講を重ねるに従って、その人物の生き方、考え方がその人を歴史に残る業績、伝説として形成される事を教えていただいていると感じるようになりました。その分野が芸術、作家、政治家、社会活動家など多種にわたりますが、その生き方はすべての人物で、能動的で積極的に前向きに生きている事がわかりました。自分の今までの人生を振り返りそしてこれからの生き方を考えると、彼らのように、前向きに、積極的に考え生きなければならないと思いました。有言実行、今から生きようと誓いました。有意義な価値のある講義でした。ありがとうございました。

久恒先生、第7回めのご講義ありがとうございました。率直な感想としても、まだまだ講義を受け続けたい、あと1回しかないというのが寂しい思いです。私は今まで古典や歴史、過去というものにどちらかというと苦手意識があり、避けてきました。しかし、久恒先生の講義を受けて、その考えは間違っていたと認識しました。それは、どの偉人の生き方も考え方も、それは全て過去のものではなく間違いなく現代に通用するものだからです。その中で特に衝撃を受け、自分自身の考えを改める必要があると思った講義は、圧倒的な仕事量のテーマでした。私は10年以上会社経営をしていますが、自分が楽になるために効率の良さばかり追求してきたところがあります。しかし、その仕組み作りばかり追いかけた結果、日々行じることを忘れ、薄っぺらい無知な経営者になっていることに気付き、今春から大学院の門を叩きました。がむしゃらに仕事に没頭することによって、その先はいずれ見えてくるはずなのに、先のことばかり考えていた私です。そのようなことを立志人物論という講義で過去の偉人から学び、改めて初心に帰る必要があると思った次第です。

これまで14限分の講義ありがとうございました。昨夜述べた感想と一部重複しますが, 毎回たくさんの偉人に出逢わせていただき, 大変刺激的でした。受講中〜復路でその時代を生き抜いた立志人物に思いを馳せますが, 一晩眠れば現実(多忙本務)に戻されるため, 十分な省察による自身の心意気や資質向上に繋げられていませんでした。来たる最終講のフィールドワーク@渋沢栄一資料館+🍻を機に, 今後は気の向くまま関連施設の訪問や読書を通して人物理解を深めようと思います。ちなみに, 心酔は別にして個々が人生の取組について考え, ロールモデルを見つけるには, 中等教育課程後期に本科目を設置するほうが適切かもしれませんね。また, 様々な側面から偉人について語る久恒先生の考察内容×文章表現力も今般の受講で勉強になりました。『知的生産技術』は私にとって必読すべき一冊となりそうです。立志人物論レポート1.18掲載〆切, 極力楽しみながら がんばります。

久恒先生,今回もありがとうございました。この授業を後、一回しか受けられないです。何となく、惜しい気持ちが出ました。毎回、偉人の言葉を拝読する時、必ず周りで起こたことと繋がり、自分の考え方を加えることができ、本当に大いに受益しました。つまり、偉人の生涯がしっかりわかって、また、自分の考える能力も高められる。留学生にとって、授業方法も非常に良いと思います。授業の最後、ほとんど日本人とチームをつくって、互いに感想を述べて、発表します。その過程で、面白い話題が様々出るかもしれませんし、自分と全く違う考え方も学べますし。自分の成長に大変役に立つと思います。今まで、先生とクラスメートの皆さんでも、色々ありがとうございました。

これまでの講義ありがとうございました。毎回は過去の偉人の言葉と生涯を紹介し、簡単ですけど全てはこれからの人生に助力になれると思います。毎回自分が気に入る偉人の生涯を学んで、尊敬、悲しい、惜しいなど複雑な感情が心底から生まれました。人生は辛い、厳しい、どこでも困難があり、僕達だけではなく、歴史上の偉人も同じです。でも何故偉人が成功したか、それは前進し続けられたのは、自分がやることを愛していたからです。怒涛の仕事量、持続する志、休養、鍛錬、研鑽など色々な方面、私は全部を学ぶべき、今からでも遅くない。また、私は留学生ですから、この講義が留学生に対して利点が多いと思います。毎回講義は偉人のことを学び、知識はもちろん、日本の文化と歴史も学べます。講義の最後、日本人と一緒にお互い感想を交流し、先生に発表します。日本式の考え方を学びながらコミュニケーション能力も上昇します。課外は実地に好きな記念館に行って、現場に偉人のことを体験し、大変勉強になりました。この講義は長時間の将来、私の人生に重要な影響があります。ありがとうございました。

志人物論を受講して。刹那と言う言葉がありますが、その言葉が持つ時間の単位は置いておくとして、一種の無常性を表す言葉だと思います。過去の偉人の言葉も歴史の流れの中にあり、常ならぬ流れの中で、その解釈や受け止め方も変化して行くものかもしれません。しかし、その原点を学ぶ事は、時代に合った解釈をする上でも、とても大切な事だと思います。イノベーションも同じ事だと思います。原理原則、原点を学び、基礎と骨格をしっかりと作り、正統を芯にしてこそ、異端を融合することが可能になるのだと思います。最近、過去の偉人の言葉に触発されて自分なりに学んでみようと思い立ち、以下の書物にチャレンジを開始しました。中村元訳の『スッタニパータ』と『大パリニッバーナ経』、そして『原始仏典』です。なかなか、重量級で難儀しておりますが、後には井筒俊彦の『大乗起信論』の哲学、も控えております。立志人物論の講座は、ともすると揺らぎがちな精神を真っ直ぐなものに直すきっかけを得られる学びの時間だと思います。ラスト一回、何とかやりくりして出席したいと思います。ありがとうございました。

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「名言との対話」12月15日。いわさきちひろ「自分がやりかけた仕事を一歩づつたゆみなく進んでいくのが不思議なことだけれど、この世の生き甲斐なんです」

いわさき ちひろ(本名:松本 知弘(まつもと ちひろ、旧姓岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供水彩画に代表される日本画家絵本作家

岡田三郎助,中谷泰にまなぶ。にじみのある淡彩画は「ちひろ調」とよばれ,愛好者も多い。没後, いわさきちひろ絵本美術館がつくられた。「ちひろ美術館」は、西武新宿線上行井草から徒歩10分ほどの住宅地の一角にある。最後の22年間を過ごし数々の素晴らしい絵や絵本を描いた自宅跡にバリアフリーのいい雰囲気の私設の美術館として建っている。日曜日だったが、女性を中心ににぎわっている。入って右がちひろの作品の複製や本などを売るショップで、左に窓沿いに小さなテーブルと椅子が並べてあり、軽食やの飲み物を摂ることができる。従業員たちはファンなのだろう、よくみるとみんな子どもと花を好んで描いたちひろの絵のイメージのようにいかにも人柄の良さそうな若い人たちである。開館25周年の2002年に公開スペースを2倍に広げている。

展示室1は、ちひろの作品を展示している空間である。「ちひろ 花の画集」出版記念で、80種類以上の花の絵がある。チューリップ、バラ、あやめ、あじさい、ひまわり、シクラメン、、、。

以下、好きな絵のタイトル。
「野草とスイートピー」は水墨画風。「春と花のこぎつね」「花のダンス」「あざみと子どもたち」「秋の花と子どもたち」「春の庭」。。・すべて「花と子どもたち」をモチーフとしており、花を前方に描き、子供を後方に配した作品が多い。「赤いシクラメンノの花」。添えてあるちひろの言葉は「去年もおととしもその前の年も ベトナムのこどもの頭の上に 爆弾は降った。、、、、。あたしたちの一生は ずーっとセンスの中だけだったのよ」。

55歳で亡くなるまで9500点の作品を描き続けている。ちひろの作品は酸性紙に描いた作品が多いが、時間と共に色が変化するから、セイコーエプソンの協力でデジタル化した作品も展示してあった。それはピエゾグラフという。

二本のビデオを観る。はちきれそうな若さのちひろの写真、人柄の良さがわかる笑顔。ちひろの願いは、子どもの幸せと平和だった。意外なことにちひろは共産党員だった。絵という手段で平和の大切さを訴えた人だった。「子どもの四季」「戦火のなかの子どもたち」などの解説があったが、流れる童謡とのハーモニーはよかった。「戦火、、」」の方は、煙の中の子どもの目の表情が切ない。
 安曇野ちひろ美術館のビデオでは、両親の故郷にある素晴らしい美術館を紹介している。絵本を美術の一ジャンルにしようと世界28カ国127人の画家の絵を蒐集している美術館である。入口の正面の山も建物の景色の中に取り込んでいるのも斬新だ。「立てひざの少年」という絵がよかった。2012年にこの安曇野の美術館を訪問した。その日に開会していたのが「「日中国交正常化40周年 中国の絵本画家展」だった。日中関係がこじれていた時期でイベントが次々と中止されたのだが、7人の中国人絵本画家を紹介する企画は行われていた。

2階の展示室2では、ミュンヘン国際児童図書館の架空の絵本展をやっていた。世界の絵本画家72人が描いた本のない絵が展示されている。2階には、図書室があり、その向かい側にはこどものへやがあり、若いお母さんのために子供を遊ばせておくことができるように配慮されている。一階に降りると、「ちひろの庭」がある。さまざまの花が咲く心地よい場所である。ちひろは、いつもここで過ごす時間を大切にしていた。

展示室3は、「ちひろのアトリエ」。絵を描く仕事場である。意外なことにちひろは左利きで、採光は右側からとっていた。大きな机に絵の具などの道具を広げて、小さくなった隙間を使って絵を描いていた。

31歳で再婚した8つ年下の相手の松本善明衆議院議員)は、ちひろはどのようなひとだったかと問われると、「ちひろの描く絵のような人だった」と答えている。どこかで見た名前だと思ったら、この人は日本共産党の有名な幹部だった。ちひろも共産党員だったのには驚いたが、絵という武器で平和の尊さをアピールしていくのがちひろ流だった。32歳で長男が生まれ、48歳で夫が衆議院議員になる。この松本善明が書いた「ちひろ」という本は、亡き妻・ちひろを深い愛情を持って語っている。「鉄の棒を真綿でくるんだような人」といいうのが妹たちのちひろ評である。そのちひろは、「我は人の世の痛苦と失望とをなぐさめんために生まれ来つる詩の神の子なり」と述べた樋口一葉に深い共感を寄せていた。黒柳徹子の空前のベストセラー「窓際のとっとちゃん」の挿絵は、いわさきちひろの絵だった。

「私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるかぎりのことをしたいのです。」
混んでいるのでもなく、閑散としているのでもなく、ちょうどいい具合に人が訪ねてきて、それぞれが穏やかな顔をしてこの空間を楽しんでいる。いわさきちひろと一緒に幸福な思いに浸れる美術館である。

冒頭に掲げたのは1972年に書いた「大人になること」という文章の中で見つけた言葉である。いわさきちひろは、天が恵んでくれた技を用いて、自分しか描けない作品を通じて、平和を守ろうとする天命に生きた人だ。

リレー講座:佐高信「権力とジャーナリズム--わが筆禍史と舌禍史」

「副学長日誌・志塾の風」171214

・杉田学部長:事業構想論の講義

・駒沢女子大の入試関係者と顔合わせ:杉田学部長、志賀入試委員長、森島入試課長、酒井さん。

・水谷室長:IRデータの解説

・渡辺客員教授:元祖ザ・クラブ

・バートル先生:スパイスアップ・アカデミアの森山社長、江徳さんを紹介される。

・14時半:佐高信先生と懇談

・14時50分からリレー講座:佐高信先生「権力とジャーナリズム--わが筆禍史と舌禍史」

・山尾しおり「立ち向かう」「保守コンプレックスはない」

・知性とは見抜くこと。物差し。

・安倍政権:かきくけこ。か(加計)き(北・共謀法)く(憲法9条)け(原発)こ(公明党

JR東海のリニア問題:アベ友。桁が違う。

・ジャーナリズムは権力に立ち向かうのが本質だ。訴えられる覚悟はあるか。上品の壁。

・経済を会社、株で考え格差を広げる竹中平蔵長谷川慶太郎堺屋太一。経済を国民の購買力と考える城山三郎内橋克人佐高信

・近著『わが筆禍史』(河出書房新書)。

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 杉田学部長と一緒に事長報告:16時15分から18時半。

全学、学部内の懸案につき、幅広く意見交換。

 

「名言との対話」板東妻三郎「「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」

坂東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年明治34年12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優

1925年大正14年)に全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都に設立。勉強のために今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。11年後に解散。その後、日活、大映、松竹へ。

端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「坂(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。ダイナミックな立ち回りで人気を博し「剣戟王」の異名をとった銀幕の大スターで、大正末期から昭和初期にかけて剣戟ブームを生み出した。坂妻(坂東妻三郎)、千恵蔵(片岡)、右太衛門(市川)アラカン嵐寛寿郎)は「四大スタア」と呼ばれていた。

サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と言われたが、死後35年を経た1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という書の中の投票では「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。その11年後の2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位、「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。いかに人気が高かったか、そして持続していたかがわかる。

阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目(すがめ)の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ 」(林屋辰三郎加藤秀俊梅棹忠夫多田道太郎

1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉(本名)に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまったという豪快なエピソードも残っている。

冒頭の言葉は、映画『地獄の蟲』に出演するにあたって、述べた言葉である。「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」という環歌子の証言もある。坂妻は人生においても俳優としても真剣勝負の人であった。

人事委員会。学部運営委員会。『偉人の命日 366名言集』の感想が届く。

「副学長日誌・志塾の風」171213

・人事委員会:非常勤講師の選任

・学部運営委員会:学長・幹部人事。私大協セミナー、、、。

・金先生・杉田先生・川手課長:雑談。施設点検ツアー、、。

・金先生:リレー講座の講師人選の相談。

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夜は町田で弟との飲み会。

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「偉人の命日 366名言集」~人生が豊かになる一日一言~感想文(その2)

 私が死ぬまで忘れることのできない人の命日、それこそ三島由紀夫です。1970年(昭和45年)11月25日。世界に衝撃を与えた三島由紀夫の割腹自殺!今でも語り継がれる謎の多い事件であります。その時私は大学3年で下宿でのんびりしていたが、臨時ニュースに驚きのあまり、下宿を飛び出して友人宅に行き、「なぜ?」と叫んだのを昨日のことのように思い出します。辞世の歌は二つあると聞きます。「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜風」「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」

 三島由紀夫が自決した当日、特に信頼している人で、市ヶ谷自衛隊に来るように事前に連絡した毎日新聞(当時)記者の徳岡孝夫氏著書「五衰の人」によれば、ある有名作家がこの二つの辞世の歌は駄作だとケチをつけたそうです。私には三島由紀夫の決意が何となく伝わってきます。「嫉妬こそが生きる力だ!」という彼の名言、何に嫉妬したのでしょうか?ノーベル文学賞かもしれませんネ。文中にある三島由紀夫の絶望的な未来予想は、ずばり日本の現在を鋭く見抜いており、慧眼と言えましょう!三島ファンとしてはもっと小説を書いてほしかったですね。

  三島由紀夫の割腹自殺を「気が狂ったのか」と正気?で語ったのが当時の総理大臣佐藤栄作佐藤栄作は実務家で人事の佐藤と言われるように「議論より対策実行そして実効あらしめる事」はビジネスの世界にも通用する名言だと感じます。三島の死を「もったいない死に方をしたものです」と一番嘆き悲しんだのが川端康成ではないでしょうか?ガス自殺が1972年の4月16日。三島由紀夫の死から2年後です。日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は「運がよかった、そして三島由紀夫君が若すぎたことのおかげだ」と同情のまなざしを向けています。ドナルド・キーンノーベル財団から日本のノーベル文学賞候補者を聞かれ「谷崎、川端、三島」の順で推薦したと書いていました。順番の理由は日本風に年功序列にしたとユーモアを交えて語っています。川端康成の名言は「夫や子を持つたびに心の眼は開けてゆく」とありますが、若い女性向けに家庭を持つ大切さを説いた言葉ですね。

 佐藤栄作の日記に「田中幹事長のおしゃべりには閉口、、、電話で注意とか、走り過ぎにブレーキ」などと書いているそうです。田中角栄と言えば大蔵大臣就任にあたり大蔵省職員を前に語った名言は有名で、「すべての責任は、この田中角栄が負う」は上に立つ人の模範的な心構えだと思います。さらに「トゲの多い門松をたくさんくぐってきて仕事のコツを知っている」も心に響き、苦労人の真骨頂が出ていますね。「一番力があるときこそ一番難しい問題に挑戦するんだ」と言い日中国交回復を実現したのは後世に残る偉業でしょう!娘の田中真紀子が上梓した「父と私」には、彼女の結婚式で田中角栄がスピーチし、感極まって落涙したとの記述があります。コンピューターつきブルドーザーも人情あふれる親父だったようです。

  日中国交正常化と言えば忘れてならないのが大平正芳。「着々寸進 洋々万里」

大平さんの風格を表す名言ですね。選挙期間中に急死なされたのは惜しまれます。お孫さんが「祖父大平正芳」を上梓していますが、その著書でご長男が26歳の若さで死亡したことを知りました。ベーチェット病だそうです。若いわが子を失った父親の慟哭はいかばかりかと胸が痛みます。墓碑銘には「父であり友であった大平正芳」と刻まれているそうです。

 日中国交の影の功労者が岡崎嘉平太。名言は「信はたて糸 愛はよこ糸 織り成せ人の世を美しく」外交の要諦でしょうか、今の政治家に聞かせたいですね。信頼と愛情の大切さを実感します。(家庭でも!?)

 中国と言えば毛沢東。「創造的仕事をなしとげる3つの条件は、若いこと、貧乏であること、無名であること、だ」これはご自身の偉大な体験からくる名言でしょうか?命日は9月9日。哲学者だったとは知りませんでした。

健康第一、学問第二」特に健康第一をこれから実践していきます。

  ページをめくるごとに名言、至言、警句に溢れ感想も尽きませんが、人生の第4コーナーを豊かに過ごすために、日常生活で活用でき実践できそうな名言に少し的を絞ってみます。最近の趣味は、映画や、絵画、伝統芸能の鑑賞です。

(昨日も国立能楽堂梅若玄祥さんの現代能―マリーアントワネットーを鑑賞)そこでピッタリの名言がありました。「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」2月9日が命日の手塚治虫です。しょぼくれて生きるな、もっと堂々と生きよ!と勇気づけられる名言ですね。「悩んだら81ページ」を開くこと!!手塚治虫教の信者になります。

  ヒルトンとダ―ウィンには共通した生き方があると感じます。成功する人は動き続け、生き延びるのは「変化」できる者だ! アラウンド古希ではもう遅いかなあ?!他にというと失礼だが「オシャレをしなくなった日から老いが始まる」(曻地三郎)「書物よりも、生きた人間から受けた影響の方が、ずっと大きい」(田山花袋)「きのうも明日もないわ。今日をしっかり生きるだけ」(杉村春子

実践しやすく身近に感じる名言も多く心強いです!

一流の本を有り難うございました。座右の書にします。2017-12-13 

中津北高 同級生 松田俊秀

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大谷 竹次郎(おおたにたけじろう 1877年12月13日-1969年12月29日)は兄・白井松次郎とともに松竹を創業した日本の実業家。

小学校卒。13才、九代目団十郎に感激し演劇事業への夢を持つ。25才、明治座の座主、松竹剛明。27才、代表社員。33才、東京は竹次郎、大阪は松次郎の体制。46才、関東大震災で映画館22館を失う。48才、松竹キネマ:社長は松次郎、専務が竹次郎。78才、文化勲章。85才、勲一等瑞宝章。この両賞をもらった芸能関係者は大谷のみ。
歌舞伎の保護者・大谷竹次郎は、挨拶・スピーチの名人だったと多くの人が回顧している。知仁勇の三徳を備えた人という評価もあったが、猜疑心と嫉妬心の強い人だったと回顧している人もいたのは面白い。
1877年生まれの白井松次郎(1951年74才で没)と大谷竹次郎(1969年、92才で没)という双子の兄弟が創立した「松竹」という会社の名前は、この兄弟の松と竹からとったものである。この二人は「東の大谷、西の白井」と並び称されていた。

銀座1丁目の松竹スクエア3階に松竹大谷図書館がある。松竹株式会社の生みの親・大谷竹次郎が1955年に文化勲章を受章したのを記念して1958年に開館した、演劇・映画専門図書館。演劇(歌舞伎・文楽・新派・商業演劇)、映画、日本舞踊、テレビ等に関する書籍、雑誌、台本、写真、プログラム、ポスターなどを収蔵しており、資料数は45万点にのぼる。ミニ展示「渥美清−−没後20年」展をみた。この図書館も経営が苦しいらしく、リストラを避けるために、クラウドファンディングで238名から287万8千円を集めたと貼り出してあった。

「私の事業的信念は、それが世に価値のあるものならば、数字的に自信がなくとも、正しく行えば成し遂げられるということである。」

「同じ事業をやるなら、人間は自分が好きな事業に手を出すべきだ。」

13歳から92歳まで、全生涯にわたって演劇に邁進した大谷竹次郎。「わが刻はすべて演劇」と言い切っているのはすがすがしい。こういう言葉を吐けるか?

「名言との対話」第26回「土屋文明」をリリース

久恒啓一の「名言との対話」第26回「土屋文明

「100歳人生を生き抜くセンテナリアンに学ぶ第4弾。「アララギ」の選者から編集発行人となり、ライフワークの万葉集に関する著書も多数ある土屋文明。短歌とともに生き抜いた生涯は多くの人に勇気を与えました。」

 

中津から東京まで、オーディブルを聞く。

講演:なかにし礼長崎ぶらぶら節に出会う」。35年4000曲を作詞。300曲がヒット。技術・テクニック。何科が降りてくるのはその10分の一。無限と永遠。わたしゃ涙に暮れみなと。満州の夕陽と蒙古風。不思議なレコード。やまたのおろち

講演:城山三郎「人間的魅力について」。城山三郎『男子の本懐』--「信念」の浜口雄幸首相1870年生。東京駅で暗殺。幣原喜重郎(1872年生)は駐ロシア大使・広田弘毅1878年生)の見送り。浜口の『随感録』。真珠王・御木本幸吉も展望車から見ていた。御木本については永井龍男が伝記を書いている。情報、感度。、、、。「力を貸したくなる」総理・鈴木善幸。「卑ではない」国鉄総裁・石田礼助

福岡空港では、大相撲の照の富士らをみた。

 

「名言との対話」12月12日。エドヴァルド・ムンク「私は病気を遠ざけたくはない。私の芸術が病気に負うところは、実は大きいのだ」

エドヴァルド・ムンクEdvard Munch (ノルウェー語: 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀-20世紀ノルウェー出身の画家。「叫び」の作者。

パリ留学時代には、「もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」という「サン=クルー宣言」を書き残している。

生への不安はムンクアルコール依存症にし、暴力性や対人恐怖症があらわれ、1908年には精神病院に入院した。1909年には健康と精神の落ち着きを取り戻して退院するのだが、作品自体は緊張感が失われてしまう。

自然を描くことを至情とした芸術ではなく、ムンクをはじめとする世紀末の芸術家たちは、不安に満ちた「内部の世界」を追求した。「芸術は自然の対立物である。芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのである。」とムンクは述べている。

 「僕は、2人の友人と散歩していた。日が沈んだ。突然空が血のように赤く染まり、僕は憂鬱な気配に襲われた。立ち止まり、欄干に寄りかかった。青黒いフィヨルドと市街の上空に、血のような、炎を吐く舌のような空が広がっていた。僕は一人不安に震えながら立ちすくんでいた。自然を貫く、ひどく大きな、終わりのない叫びを、僕はその時感じたのだ。」。それが代表作『叫び』である。個人所有の『叫び』は、96億円で落札されてニュースとなった。

体を痛めつける病魔と、心を痛めつける狂気は、ノルウェーの国民的画家・ムンクを育てた黒い天使だった。そのことをムンクは自覚していた。「僕の芸術は自己告白だった」というムンクという船の舵は不安と病魔だったのだ。

山本周五郎『ながい坂』(下)を読了。

 山本周五郎が自身の自叙伝と言っているように、下積みから一歩一歩、ながい坂を登っていく主人公の物語だ。それは筆一本で這い上がってきた周五郎の人生である。直木賞を始め、あらゆる賞を辞退して、読者のみに向って厖大な仕事をなした山本周五郎という作家のライフワークであろう。

ながい坂 (下巻) (新潮文庫)山本周五郎「ながい坂(下巻)」(新潮文庫

奥野健男が巻末の「解説」で次のように述べている。

「作者は一揆とか暴動とか革命とか言うかたちで爆、圧倒的に強い規制秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正と戦い、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。」

 「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「わたしの自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。」

「学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しくにがい体験をふまえての人生観である。」

 以下、私が共感する主人公の三浦主水主の考えや言葉。奥野健男のいうように、著者の人生観だと思う。

人間はその分に応じて働くのが当然である。

 人も世間も簡単ではない、善悪と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断は出来ない。

 「人間のすることに、むだなものは一つもない」と主水正は云った。「眼に見える事だけを見ると、ばかげてイタリ徒労だと思えるものも、それを繰返し、やり直し、つみかさねて行くことで、人間でなければ出来ない大きな、いや、値打ちのある仕事が作りあげられるものだ、、、」「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る」

 いちばん大切なのは、その時ばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気で何かをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、、」

 人間はどこまでも人間であ利。弱さや欠点を持たない者はいない。ただ自分に与えられた職に責任を感じ、その職能を果たすために努力するかしないか、というところに差ができてくるだけだ。

 しかし、今日まで自分は自分の坂を登ってきたのだ、と彼は思った。」「そして登りつめたいま、俺の前にはもっと険しく、さらに長い坂がのしかかっている」と主水正はまた呟いた、「そして俺は、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」

 

「名言との対話」12月11日。東海林太郎「マイク一本四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと変わりません」

東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年明治31年)12月11日 - 1972年昭和47年)10月4日)は、日本歌手

 東海林太郎「赤城の子守歌」が、1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、歌手としての地位を確立した。その後の「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示している戦時中は「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。戦後は、1963年任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。

ロイド眼鏡燕尾服を着用し直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させた。「一唱民楽」の言葉のように、「歌は民のため」という信念を持ち、常に真剣勝負の姿の歌唱魂は、激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。最後の言葉は「1時間ばかり昼寝をします。」で、そのまま永遠の眠りについた。 葬儀は史上初めての「音楽葬」だった。東海林太郎が精進する歌道においては、舞台は道場であったのだ。

NPO法人知的生産の技術研究会-九州で立ち上げの記念講演。

福岡。

NPO法人知的生産の技術研究会-九州の立ち上げの会で記念講演を行なった。博多駅前の福岡商工会議所で17時から1時間45分。

講演テーマは「図で考えれば、世界が見える」。

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 名刺交換した方々からみると、九州全域から見えているようだ。

福岡県:中央区、南区、博多区春日市北九州市

熊本県玉名郡大分県別府市、 鹿児島県鹿児島市長崎県長崎市長崎県島原市、、、、。

代表は、ピエトロの高橋社長。副代表2人、事務局長1人、幹事長1人、幹事7人、会計1人、監査1人、、、。

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 終了後、ほとんどの人が宴会に参加。楽しい懇親。博多は学生時代を過ごしたホームグラウンドなので懐かしい。

終了後、中津へ。

 

「名言との対話」。12月10日。小田野直武「下手ですが、断りきれないので描きました…」

 小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月10日 - 安永9年5月17日1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

小田野直武の名と絵画は、秋田の角館で聞き、観たことがある。どうして秋田の地で蘭画が栄えたのか、不思議に思ったことを思い出す。小田野直武は秋田藩の角館で生まれ狩野派の絵画を学んでいたが、1773年に銅山開発(長崎のオランダ貿易では銅が用いられていた。半分は秋田藩)のために招聘された平賀源内と出会い、西洋画の理論と手法(遠近法、陰影法)を教えられる。線よりも色彩や明暗によって自然の形態を正しく表現すべきであるという考え方である。

それが縁で25歳で江戸に派遣され、8ヶ月後には杉田玄白らが刊行した「解体新書」の挿絵を任されるまでになる。直武は毛筆によって挿絵を丹念に模写していった。玄白42歳、直武26歳であった。1770年には徳川吉宗が洋書の解禁を断行した蘭学の風が、医学、物産、そして絵画の世界にも吹いていた。

直武は西洋と東洋の美術の融合した蘭画を生み出した。その画風は、秋田藩主の佐竹燭山(1748年生)や角館城代の佐竹義躬(1749年生)らへ波及し、秋田蘭画と呼ばれる画風となった。当世の絵画は写実性にかけていた。調度品としての観賞性と博物学的な西洋式写実性(遠近法)を融合させたのである。この秋田蘭画は後に銅版画や油彩画を描いた司馬江漢に引き継がれた。

秋田蘭画は近代の夜明けのひとときの光芒を放ったのである。歴史の中で忘れられていたが、日本画家・平福百穂の「日本洋画の曙光」(岩波新書)で評価された。近代美術の始まり、日本の洋風画のさきがけという位置づけになった。

1779年には藩主から遠慮(謹慎)を命じられ、また病を得て帰郷し、翌年に32歳で亡くなっている。君公に直諫したための沙汰であった。内容は藩の財政、あるいは君公の御行跡に関することであったといわれている。直武の没した翌日に沙汰が解け出府せよとのご沙汰があり、解けたことを知った父は残念のあまり発作的に精神の異常をきたしたという。

前野良沢杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業は、図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。旧知の源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる。冒頭の言葉は、直武は『解体新書』の序文に書いた言葉である。