アイヌ資料センター。

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平取の萱野茂二風谷アイヌ資料館を訪問できなかったので、代わりに札幌市内にあるカデル27というビルの7回にある「アイヌ資料センター」を訪問した。

1869年(明治2年北海道開拓使を開設。1885年、アイヌ96名を色丹島強制移住。1985年、ロシアと樺太千島交換条約を締結。アイヌに対して3年の間にロシアか日本の国籍を選ぶように迫る。海の民・樺太アイヌ854名を帝国臣民として北海道に強制移住させ、内陸の江別対離に移す。1905年、日露戦争南樺太が日本領になると、ほとんどのアイヌ樺太に帰郷した。

国内におけるアイヌに関わる法律の推移。1899年、北海道旧土人保護法。農耕民化と教育による同化が目的。1997年、アイヌ文化振興法。民族として認めた画期的内容。アイヌ文化の振興と普及開発に限っている。

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 北大植物園は、月曜日なので休み。正式には北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園。札幌農学校のクラーク博士(教頭)の進言でできた。初代園長は宮部金吾で1886年に原形ができた。この宮部金吾の記念館も園内にあるのが、見れない。

旅行者にとっては、月曜日は鬼門だ。ほとんどの博物館、美術館、記念館が休館だ。「月曜日開館のミュージアム」というサイトもある。このサイトで見つけたのがアイヌ資料センターだ。他の曜日と半々にするとか、何か工夫はできないのか。観光立国が泣く。

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20代後半の2年半千歳空港に勤務していた。札幌はしょっちゅう訪れていたし、北海道全域はくまなくとまではいかないが、旅行した。豊かで美しい大自然を堪能した。青春の日々を思い出しながら歩いた。その記憶をたどるいい時間を持てた。この3泊4日は、ある種の感傷旅行になった。

北海道の人物記念館の訪問は、坂本九想い出記念館を加えて9館となった。関口雄輝美術館。有島武郎旧邸。渡辺淳一文学館おおば比呂司記念室。三岸好太郎美術館。。エドウィン・ダン記念館。大山由之美術館。

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 「名言との対話」6月3日。丸谷金保「慌てず 焦らず 諦めず」

丸谷 金保(まるたに かねやす、1919年6月25日 - 2014年6月3日)は、日本の政治家。

北海道中川郡池田町町長、参議院議員(2期)などを歴任した。明治大学卒。十勝日日新聞編集局長などをへて、1957年に37歳で池田町の町長に初当選、北海道で唯一の社会党町長。町長を5期20年つとめた。1977年に第11回参議院議員通常選挙に当選し国政に転出し、町長時代同様に日本社会党に属した。2期12年務めた後、1989年政界から引退した。

町長在職中に十勝ワインを開発し、全国的に有名になる。「ワイン町長」の愛称があるほど話題になった。金谷町長のことは、当時のメディアで何度も見かけている。私も北海道勤務時代は、町経営のレストランでワインを味わったこともある。名物町長であった。

ワインレッドの御影石の墓石には、「慌てず 焦らず 諦めず」のフレーズと「ワイン町長 丸谷金保」とも刻まれている。自宅は「丸谷金保記念館」と名付けられた。

十勝町のワインは、一村一品運動のさきがけであった。「慌てず、焦らず、諦めず」という丸谷金保座右の銘は、しだいに熟成していくワインを思わせる20年にわたる町長時代を彷彿とさせる。「慌てず、焦らず、諦めず」は、人生100年時代に生きてくるフレーズになるだろう。

 

 

 

 

 

坂本九思い出記念館ーー夕張郡栗山町になぜできたのか?

夕張の近くの栗山町の坂本九思い出記念館を訪問した。札幌からバスで1時間少しの距離にある。継立のバス停からもずいぶん歩く。 

代表作の「上を向いて歩こう」が流れている。初めに障害者を中心としたテレビの番組のようだがなぜ坂本九がこういう番組に出ているんだろうと不思議に思った。

記念館は常正寺の境内にあり建築費は3000万円かかったとある。平屋全体が逆九の形になっている。昭和30年代はじめに北海道は夕張を中心に小児麻痺の大流行に襲われた。昭和37年12月に札幌テレビ放送はチャリティー企画を企画する。九ちゃんはノーギャラでこの番組出演した。そしてこのチャリティーショーは10年続く。昭和51年からは福祉レギュラー番組「ふれあい広場サンデー九」が始まった。 福祉施設探訪、身体障害者の自立支援、医療、老人の生き甲斐などがテーマだった。9年間462回続き昭和60年8月12日に終了した。この日は坂本九日航御巣鷹山事故で死亡した日である。九ちゃんの最後の訪問が栗山の精神薄弱者厚生施設「ノビロ青年の家」だった、平成4年にノビロ青年の家の槇文也が栗山にハロー学園を開設し、九ちゃんの記念館創設の機運が高まり九人委員会が結成され実現できたのである。この施設は社会福祉法人栗山ゆりの会が運営している。館内の壁には500万円の企業や個人、5万円、1万円の寄付協力者たちの名前が張り出されている。

 

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永六輔「…すでにいない人の歌を歌う時、それはもう歌ではなく「お経」である。楽しく歌おうが、それは供養である。、、、歌われて、偲ばれるのは幸福だ。僕は九を偲ぶが九は僕を偲ばないからである。、、」

青島幸男の思い出。

「僕は本当に唄を唄うことが好きです。好きな唄を唄って人に喜んでもらえて、しかも生活ができるなんて、こんな幸福な事はありません」

中村八「上を向いて歩こうの詞が、ウエホムフイテ アールコウオウオウオウに聞こえたからだ。、、、、永さんは絶句して、私を睨みつけたままだった。長い間、九君のせいにしていて、ゴメンネ」

横道由美子「九ちゃんの活動の大きな柱に福祉があった。特に北海道とは20年以上の関わりを持ち、毎週日曜朝のサンデー九を通じて、明るい笑顔でごく自然に福祉を語り、人が生きていく原点を訴え続けた。」

この記念館の存在はかなり前から知っていたし、私が日本航空に勤務していた30代のときの大事故で坂本九ちゃんが亡くなったこともあり、今回ようやく訪問が実現できたことを嬉しく思った。改めて九ちゃんの素晴らしい笑顔と歌に接して、この人の人柄と人々に与えた影響の大きさを思った。

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夕食は昨日のメンバー達と摂ることになった。この写真からわかるように、偶然に男組と女組に分かれた。高橋さんを中心に、事務局長の川村さん、京大の井上くん、宮城の末永さん、鹿児島の奥さん達と楽しく愉快な時を過ごした。北海道や各地との縁も広がって面白いことになりそうな予感がする。末永さんの焼き芋は素晴らしい味だった。ありがとうございました。

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「名言との対話・ジャック・オニール「俺はただのサーファー。自分自身がサーフィンを長く続けるための何かを作りたかった一人のサーファーさ」

ジャック・オニール(1923年3月27日~2017年6月2日)は、O’NEILL(オニール)の創業者。

1952年(日本では昭和27年)、世界ではじめてウェットスーツを開発し、近代のサーフィンに多大な影響を与えた

今では、サーフィン、またスノーボードなどアクションスポーツのトップブランドとして世界でもっとも古い歴史を持つO’NEILL(オニール)。ジャック・オニールが「冷たいカリフォルニアの水にも耐え、少しでも長くサーフィンがしたい」と考え、海軍の潜水服からヒントを得て開発した ウェットスーツという概念はまたたく間にカリフォルニア中で評判となった。現在では インターナショナルブランドとして全世界で販売されるようになった。

ただのサーファーが、自分のために開発したウエットスーツを、同好の士たちが支持し、大きな企業に育っていく。自分にとって切実な問題は、自分で解くしかない。そこに集中し深堀りして、地下の鉱脈に達した。気がつくと、大きな事業になっていたのだ。現場にはそういう飯の種が無数に転がっている。それをジャックは証明してくれた。

 

知研北海道設立総会で講演。札幌市図書情報館を見学。

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大通公園の札幌市図書情報館を訪問した。2018年10月にオープンした課題解決型図書館を標榜している。この図書館は1年間で300,000人の訪問を予定していたが実際にはすでに1,000,000 を突破したそうだ。札幌市民交流プラザ内にある図書館だ。飲み物持ち込み可、会話可能、写真撮影オッケーの自由な雰囲気の空間だ。ただし図書の貸し出しはできない。隣接するカフェには図書を持ち込むことができるので休憩しながらの読書も可能である。

ワークとライフとアートの3つのエリアに分かれている。新聞コーナーは全国紙の他に専門新聞など90種類を揃えている。ミーティングルームは5人から10人の部屋があり予約できる。グループで使っている姿を見かけた。

この図書館情報館は中央図書館の専門分館である。久恒啓一と引いてみたら38件のヒットがあった。寺島実郎56件。樋口裕一110。橘川幸雄は11件。久米信行は9件。よく読まれている順番に出てくる。私の本では1番が図で考える人の図解表現の技術、2番は100年人生の生き方死に方、3番は図で考える人は仕事ができる、4番目は図解で身に付くドラッカーの理論だつた。
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学びの本棚を見ると「お金持ちになりたい」コーナーがあった。ここには14歳からの資本主義、金持ち父さん貧乏父さん、誰がフィンテックを制するか、働き方の損益分岐点、などの本が並べてあった。2カ月間の企画コーナーだ。フードビジネスの本棚を見るとフードビジネスの開業の仕方教えます、などの本があり、起業家にも役に立つ本が並べてある。

出張相談コーナー窓口コーナーもある。6月1日土曜日は、売り上げ拡大とブランディングが専門の松原さん。顔写真も貼ってあり、相談員は全員笑顔で感じが良い。
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浅野館長のメッセージは、「本棚はメッセージである」だった。1階の「知のかけら」コーナーを見た。司書イチオシの今月の本がある。万葉ことば、目が良くなる 32の方法、茶の湯心の歴史、採用ブランディング、道草の名前などが並べてあった。

無料セミナーをやっている。「スタートアップドローンビジネス」がテーマだった。それからフェアトレードのコーナーもあった。

実に気持ちの良い空間で、バックグランドミュージックも心地よい。

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館内を歩きまわっている人がいたので浅野館長に会いたいと言うと本人だった。ビジネスパーソンを支援する図書館。館内を少し案内していただいた。腹を立てない方法という本棚、会話がはずむコツと言うコーナーもある。返却コーナーでは本の中にアンテナが入って読まれた本のデータが取れるそうだ。1日3000人の訪問で2つの山がある。1つは午後の13時から15時。ここでは一般の方も多い。また18時以降はビジネスマンが多いそうだ。館内には4万冊毎年25%ずつ変えていく。ここでは働く人たちは、本の番人では無いようだ。最近の訪問者は中心市街地活性化などを担当する自治体の人なども多いとのこと。
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おしゃれで感じの良いレストランで昼食をとる。

その後大通りへ向かい、丸善ジュンク堂でお茶を飲む。先程の図書情報館と比べると、従来の本屋は堅苦しく見える。

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知的生産の技術研究会北海道の設立総会が郊外で行われる。車で拾ってもらって会場に到着。

知研北海道の設立総会が無事に終了。

設立にあたっての基調講演は私の担当。1時間の中で多くのメッセージを届けることができた。

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終了後は、参加した皆さんとの懇親会が行われた。マネジメントゲーム研修の参加者が集まり大変賑やかな会となった。参加者のほとんどは経営者で、話が面白く弾む。BMネットワークの高橋さんが長年かけて築いた仲間のネットワークである。鹿児島の奥さん。札幌の花摘さん。島根の濱崎さん。島根の川本さん。北見の海田さん。札幌の川村さん。札幌の杉本さん。恵庭市の高橋さん。宮城の末永さん。、、

22時で懇親会を打ち止めして、二次会の会場に向かう。23時には京都からの京都大学の学生まで現れて話も弾んだ。

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「名言との対話」6月1日。イブ・サンローラン私のドレスはどれも一つの仕草に基づいています。ある仕草を反映しないドレスや仕草を思わせないドレスはよくありません。 この仕草を見つけてしまえば、最終的な色や形は決まってきます

イヴ・サン=ローラン(ロラン)フランス語Yves Saint-Laurent 発音例1936年8月1日 - 2008年6月1日)は、フランス領アルジェリア出身のファッションデザイナー

新聞はその日一番大きな見出しに「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続きます」と書いた。

芸術後援者で恋人のピエール・ベルジェクリスチャンディオールはサンローランは21歳下ベルジェは16歳だった。創作以外全て友人のベルトが取り計らった。二人は同性愛者同士だった。同性愛者は、他者の中に自分を探し、自分と対峙し、自分を見いだすのである。ペルジェの回想録『イブ・サンローランへの手紙』によれば、出会いも和解も。結びつきもすべて2人の性の思い出だった。

シャネルは女性に自由をあたえたとすれば、サンローランは女性に権力を与えた。女性の肩に男性の服を置くことによって、女性に権力を与えたのである。このデザインで女性は女性らしさを増して、官能的なときめきを放ったのである。イブサンローランはモードを社会的な出来事にしたデザイナーだ。

イブは アルコールと麻薬、そして食べ物への執着、それが健康を損ねることになった。1991年、サンローランは麻薬常習者、アルコール依存者での乗用車であり、、そしてゲイであることを公に語っている。

以下、モードの帝王」の言葉から。

「 服装は生き方である」ファッションはすたれる。だがスタイルは永遠だ」裸体ほど美しいものはない。女性を纏うことのできるもっとも美しい服は、愛する男の腕である。 しかし、この幸福をみつける機会のない女性のために、私はここにいる。」

  2007年12月6日、イヴはニコラ・サルコジ大統領からレジオン・ド・ヌール勲章グラントフィシエ(大将校)を授与された。

サンローランの女性の服のデザインは、「仕草」がキーワードだった。椅子に座る、煙草を吸う、そぞろ歩く、髪をすくう、女性のそういう日常の仕草を発見することが出来たら、後は流れていく。天才デザイナーの秘密はこれだった。 

イヴ・サンローランへの手紙

イヴ・サンローランへの手紙

 

 

 

大学生の国語力低下。自分史の大会。羽田から、、、。

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 10時。橘川さん来訪。、、の教科書。

午前中の授業はビジネスコミニケーションの6回目。今回のテーマは「大学生の学力低下を憂い」という朝日新聞の論壇の記事の図解の2回目。図解を描けるようになった学生が増えてきた。学生の中に私のInstagram「後ろ姿探検隊」のファンがいて驚いた。

昼休みは、一般社団法人法人自分史活用推進協議会の代表の河野さんと事務局長の高橋さんが見える。橘川さんと一緒に9月の大会のアイデア出し。そういえば橘川さんも私もこの会の名誉顧問だったことを思い出した。平成総括、自分史ブックス、、

京王永山駅で4人で昼食をとりながら情報交換。自分史ステーション、自分史ラボ、、。

品川まで橘川さんと電車で一緒に語りながら行く。札幌の図書情報館に行くと良いとの情報。

16時半のJAL便で羽田から札幌へ。千歳空港から札幌までは快速で分と快適。北海道は本当に久しぶりだ。前回はいつだろう?

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「名言との対話」5月31日。杉本苑子「憂いはひとときうれしきも思い醒ませば夢候よ」

杉本 苑子(すぎもと そのこ、1925年6月26日 - 2017年5月31日)は、日本の小説家、歴史小説家。

 文化学院卒。1952年に「燐の譜」で『サンデー毎日』の懸賞小説に入選した時の選考委員であった吉川英治に師事し、門下生として10年修行した後に、1963年「孤愁の岸」で直木賞。古代から近代までを題材としたおおくの歴史小説を発表。1978年「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、1986年「穢土荘厳」で女流文学賞。1995年文化功労者。2002年文化勲章。作品はほかに「玉川兄弟」「埋(うず)み火」などがある。「マダム貞奴」「冥府回廊」は85年のNHK大河ドラマ春の波濤(はとう)」の原作となった。

杉本苑子が住んだ熱海は東京とは気温が3度違い過ごしやすい、海と山に囲まれて自然が素晴らしい、東京との距離が近い、という条件が揃っており、昔から文人、政治家、軍人などが住んできた場所である。澤田政廣記念美術館、中山晋平記念館、佐々木信綱「凌寒荘」、そして2005年に訪ねた杉本苑子旧宅「彩苑」がある。別荘として建て、その後ここに15年間住み、後に熱海市内の新居に住んだ。いずれ杉本苑子はこの旧宅を記念館とするつもりだった。現在、熱海市が借り受けて熱海にゆかりのある,文化人の人々の紹介と作品展示をしている。

文藝春秋特別版2006年8月臨時増刊号に「代表的日本人100人を選ぶ」という特別企画がある。1908年の内村鑑三「代表的日本人」に範をとったものだが、そこでは「わが国民の長所を外の世界に知らせる」ために、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮の5人をあげていた。百年後の今回は、選者は杉本苑子藤原正彦半藤一利松本健一の4人。日本人が理想とする人間像、美しき生き方を示すことが目的である。9つのジャンルの中で選ばれた100人が紹介されている。こういう人たちの足跡を訪ねてみたいと思ったことがある。

2006年に宮城県松島の藤田恭平美術館を訪問したとき、81歳で文化勲章を受章したときの写真があった。国際経済学者の小宮隆太郎、映画の進藤兼人、航空宇宙工学の近藤次郎、質量分析学の田中耕一らと並んで小説の杉本苑子がいた。各地の記念館で文化勲章受賞時の記念写真を見ることが多いが、同時代の各界の逸材を横並びに見ることができて、いつも興味深く見ている。

2016年に杉本苑子「万葉の妻たち娘たち」というタイトルの講演を収録したオーディブルの講演を聴いた。文藝春秋社の文化講演会での講演録で1時間弱の中身の濃い講演だ。天皇・貴族・庶民・奴隷まで、あらゆる層の人々が本音を吐露する万葉集の歌は現代人の胸を打つ。杉本はその中で万葉時代の女性について語っている。女性の地位の高さを語ったところが印象に残っている。

 冒頭の言葉は、室町時代後期の歌謡集「閑吟集」の中の一節で、杉本苑子が好んだ。人生の辛さも、嬉しいことも、ほんの一時のことだ。そういう思いが醒めてみれば、夢のようだ。歴史に題材をとって、そこに生きた人々の人生の盛衰と喜怒哀楽を描いた杉本苑子の人生観がこれに極まったのであろう。

 

リレー講座:前嶋和弘先生(上智大学教授)の「トランプ政権の現在と今後の世界」

リレー講座は、前嶋和弘先生(上智大学教授)の「トランプ政権の現在と今後の世界」。

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  •  1997-2000年から、2016年までの20年間は歴史の転換点だった。天安門事件同時多発テロ、中国の台頭、アフガン、イラク戦争、、、、
  • 2017年1月20日トランプ大統領が誕生。前オバマ政権の否定路線。大統領選が始まろうとしている今、トランプは強い支持者と弱い支持者に焦点をあてた政策を推進している。3つの支持層がある。怒れる白人層(移民反対、国境の壁支持)。宗教保守層(人口の25%の聖書を信じるキリスト教福音派。妊娠中絶を認めない。イスラエル支持・イランたたき)。富裕層(大規模な規制緩和と大きな減税。パリ協定離脱)。
  • 中間選挙で下院は民主党が多数となり内政は動けない。大統領権限の外交に活路を求めている。アフガン、中国、北朝鮮、イラン、そしてドナルド・シンゾー関係の強固な日本(為替条項、防衛装備品、空母加賀、農産物と牛肉、、、)。
  • 2020年の大統領選。民主党は23人の候補者がおり、6月から民主党候補者のディベートが始まる。現時点ではトランプが強いが、1年半後はどうなるかわからない。アメリカ大統領選は成長物語になる。それはあるか?-

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ラウンジ:最近の学内状況を聞く。今泉先生。高野課長

総研:所長・副所長ミーティング。松本、長島。

「図解コミュニケーション体系」の素原稿が完成。原稿用紙1000枚。

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ジム:ストレッチ。ウオーキング30分。筋トレ。バス。

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「名言との対話」5月30日。貴ノ花「弟子を育てるのは根気です。三度挑戦させてだめでももういっぺん、四度目をやらせる粘りが必要です」

貴ノ花 利彰(たかのはな としあき1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、 大相撲力士

 水泳バタフライのメキシコオリンピック選手候補で、強いバネのあるスイマーとして将来を期待されていた。 年齢の離れた兄・若乃花の二子山親方の弟子を志願したとき、「今日からは父とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可された。しごきに耐え「辛抱と根性」で早い出世を果たしていく。「土俵の鬼」の弟という血筋のよさと、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから各界のプリンスと呼ばれた。

関脇時代に「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱北の富士戦では、立行司木村庄之助は差し違えで謹慎になり引退する騒ぎになった。そしてまた、その後、北の富士勇み足を取られ敗れるという相撲もあり、常に際どい勝負で、審判泣かせの力士だった。

100キロ前後の軽量でありながら、驚異の粘り腰で、ハラハラ、ドキドキさせる、もつれる相撲で熱烈なファンがついた。同年の私も含め当時はだれもが愛していた力士だった。解説の玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフも残している。大鵬の1人勝ちにより低迷傾向にあった大相撲人気が息を吹き返したのは貴ノ花の国民的人気のおかげであった。大鵬貴ノ花に敗れ引退を決意する。

初優勝では、慣例を破って二子山親方審判部副部長が優勝旗を渡すというシーンもあった。相撲界は、10人に1人が入幕を果たし、80人に1人が大関まで昇進し、150人に1人が横綱になれるという世界だ。輪島との「貴輪時代」を担うと期待されたが、北の湖の登場で輪湖時代となった。貴ノ花は長く大関をはり名大関と呼ばれた。貴ノ花は同じく軽量の千代の富士に敗れ引退を決意する。

引退後は藤島部屋を興し、大関貴ノ浪関脇安芸乃島貴闘力など有力力士を育てた。後に長男の若花田(横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田横綱貴乃花)が入門し大成している初代若乃花貴ノ花、3代若乃花貴乃花と続く三代の血筋は国民の貴重な財産となった。貴ノ花は驚異の精神力と強靭な足腰で闘った現役時代と同様に、藤島親方、二子山親方として、「根気と粘り」で弟子を育成し各界を盛り上げた功績にも大きなものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インタビュー動画のライブ配信という新しい体験。

Naomi Isomuraさんから、神田小川町のスタジオで、インタビューを受けた。ライブ配信。50分と長い時間となった。

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<iframe src="https://www.facebook.com/plugins/video.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2Fnaomi.isomura%2Fvideos%2F2276519489111766%2F&show_text=0&width=560" width="560" height="315" style="border:none;overflow:hidden" scrolling="no" frameborder="0" allowTransparency="true" allowFullScreen="true"></iframe>

彼女は、成長したい起業家・ベンチャーのステージアップ支援をしている人。成熟した経営者から学ぶことができ、事業成長のための情報、つなりがり、コネクションを形成できる経営者コミニティーの運営をされている。

経営者マッチングアプリCOLABOがスポンサーの番組。https://colabo-match.com/

https://www.facebook.com/naomi.isomura/videos/2276519489111766/

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朝:大学で打ち合わせ。

昼:地研の方と昼食。

午後3時:こえラボの岡田さんと待ち合わせして、インタビュー会場でインタビューのライブ配信

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「名言との対話」5月29日。原貢「優勝旗はファイトがあるほうにいく」

原 貢(はら みつぐ、1936年3月30日 - 2014年5月29日)は、アマチュア野球指導者。

福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。練習時間の7割を打撃練習い割き、スクイズではなく外野フライで点をもぎとる野球をめざした。この無名校を初出場にして高校野球全国大会優勝(1965年)。東海大学総長松前重義の招きがあり「都で一度勝負がしたかった」「都に旗をひるがえすぞ」と、1966年(昭和41年)からできたばかりの東海大学付属相模高等学校の野球部監督に就任。優勝1回・準優勝1回。1977年(昭和52年)より息子の原辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任し、「東京六大学と東都をぶっ倒し、首都が大学野球の主役になるんだ」と激を飛ばす。首都リーグでは13回の優勝。明治神宮大会で2回、大学選手権1回の準優勝を果たした。

 「野球も人生も勝たないかんばい」「野球場を見れば、チームの力量が分かる」「指導者はハートが大事。魂を込めて信念を貫け」「ボールが体に当たると痛いということを知るのが、野球の出発点なんだ」「大事な順番は、心体技」「投手と打者はやるかやられるかの真剣勝負なんだ」「日本の野球は武道の野球だよ」「野球は人間性だぞ」(大塚晶文へ)

息子の原辰徳は巨人の4番打者に育った。その辰徳は引退時には「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある。今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります。」と挨拶した。「。その夢とは巨人軍の監督である。「僕の描く“監督像”の原点は、もう一人の「原監督」にある」とし、リーグ優勝7回、日本一3回を果たした。そして、2019年からまた巨人軍の指揮をとっている。原辰徳へは「床について考えごとをするな」とアドバイスしている。そして辰徳の妹の息子の甥・菅野投手の活躍も目覚ましい。原貢は「俺の孫を必ずドラフト1位で巨人に入れてみせる」と言っていてその通りになった。菅野へは「野球も人生も、絶対に逃げちゃいかん」とアドバイスをしている。菅野は6年間で76勝を上げ、通算防御率は2.17を記。MVP1回、最優秀防御率4回、最多勝利2回、最多奪三振2回、沢村賞2回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回。日本一のピッチャーである。。菅野は「ピッチャーとして大切なことは、すべて爺ちゃんから教わった」と述懐している。

 原家3代にわたる野球道は、今なお発展途上にある。その原点は原貢というファイターにある。高校野球を変えた男と称賛されたケンカ野球一代をはった男の信念と執念は、日本のプロ野球界も変えたのである。夢にはまだ続きがありそうだ。

 

高校野球を変えた男 原貢のケンカ野球一代 息子・原辰徳、孫・菅野智之に刻み込まれたチャレンジ魂

高校野球を変えた男 原貢のケンカ野球一代 息子・原辰徳、孫・菅野智之に刻み込まれたチャレンジ魂

 

 

 

梅棹忠夫著作集第22巻第三部「著作と編集」----著作集をあむ、ということ。

梅棹忠夫著作集第22巻第三部「著作と編集」を読んだ。著作集の刊行、増巻、編集と刊行と題された内容を熟読した。また、第二部の最後の「著作目録をつくる」「引紹批言録のこと」「著作集をあむ」もあわせて読んだ。 

梅棹忠夫著作集 (第22巻) 研究と経営

梅棹忠夫著作集 (第22巻) 研究と経営

 

 50歳の誕生日を迎える年、1970年のはじめにに自祝の意味で著作目録をつくることを思い立った。9年たって59歳、著作目録が1979年にようやく完成する。ところが1986年に両眼の視力を失う。その年の9月に「著作集をやろう」という気になり、1987年に編集室をひらく。1989年10月に第1回配本、15巻の予定で以後2ヶ月に1冊で刊行された。1992年に刊行が終了。7巻の増刊が決まり、1993年4月に第22巻「研究と経営」が終了した。著作目録作成を決心してから、23年経っている。後の人の参考になるようにと徹底した資料収集と詳細な吟味が行われた一大事業である。誰も真似のできない壮大で秀麗で体系的な知的構築物が完成したのである。初めての活字になった20歳から50年以上経った73歳での人生の中じきりだった。

「著作のことは著者自身が記録し、管理するのがいちばんよい」「わが生存のあかしともいえるものは、著作をおいてほかは何ものもないのである」「著作とは公表された刊行物でなければならない」「権利と責任」「個人アーカイブスの形成」「400字詰原稿用紙5万枚」「半分。だから全集ではない」「梅棹忠夫対談集」「自選自編著作集」「筆債。40冊の完済」「戦後日本の産物」「解説・追記・註」「シンクロニックな体系」「多少の自信」「現実をみすえ、世界を理解しようとつとめてきた」「現代世界の人類史的意味を解読しようとする、ひとつの努力のあと」「著作集の定本づくり」「総索引の作成は大仕事」「別巻は案内図」「A5判600ページ。一ページ2.5枚。1000枚から1500枚」「単行本3冊分」

全集:特定の人物の全著作、全文章を収録したもの、または主な著作等を選び編集したもの。選集:個人または複数著作者作品の中から、代表的なものを選んで編集した書物。  著作集:ある人物の著作を集めて編集した書物。

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ジム

・ストレッチ。ウオーキング45分。筋トレ。ストレッチ。サウナ(新)。バス。

・通い始めて3か月。週2-3回。ほとんどの数字が目に見えて向上していることを確認できた。

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「名言との対話」5月28日。小島武夫「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」

小島 武夫(こじま たけお、1936年2月11日 - 2018年5月28日)は、競技麻雀プロ雀士である。。日本プロ麻雀連盟初代会長。

「ミスター麻雀」と言われた小島武夫にとっての「仰ぎ見る師匠」は、雀聖、大神と呼ばれた阿佐田哲也である。

若い頃は「常に高い手を狙い、手が安いときは相手の動きを見ながら極力勝負を避けるというシンプルな戦略」で鳴らした。振り返ってみれば、私は毎回和了しようとしていた。こういう考え方でも知っていれば、大学4年生で覚えた私のマージャンスタイルも変わったかもしれない。

「博打はどれだけ我慢ができるかの勝負である。ツキがないときは繊細に、ツキ始めたら大胆に。じっと我慢して風向きが変わるのを待ち、風向きが変わればおっかぶせていく。感情的になったら負け。怒るのも、浮かれすぎるのもダメ。どちらも思考力が鈍るので一番怖い。どんな戦いでも、冷静でいなければならない」。

「ギリギリのところで勝負するからこそ、感覚が研ぎ澄まされ、勝ちをグッと引き寄せることができるのだ」「 麻雀は、ディフェンスあってこそのオフェンスである」

マージャンは「選択」と「決断」の連続である。配牌は環境。ツモと打牌は、経験と実績。テンパイ・リーチは好機と挑戦。和了と振り込みは成功と失敗。得点や順位は成功の度合い。こうやってみると、麻雀は人生そのものだと改めて思った。

カネは豪快に稼ぐが、カネは残らない。そして「カネが貯まってしまうと、人間ろくなことがない」と言い、「カネを稼ぐのは大事なことだが、それ以上にカネを遣うことのほうが重要なのであるとのたまう。小島の博打人生は「借金に惚れ、借金を抱き、借金と付き合う」日々だった。麻雀という極道の道を歩いたこの人は、一度腰をおろせば、もう立ち上がることはできない、ということを知っていたのだ。進むしかないのである。

麻雀に関わる勲章は以下。最高位(第3・4期。無双位(第1期)。マイルドセブン杯(第1期)。最強位(第2期)。麻雀グランプリMAX(第1期)。モンド麻雀プロリーグ名人戦(第5回)。天空麻雀(第9回)。麻雀Battle of generation(第2期)。

  「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」という言葉のとおり、小島は「魅せる麻雀」が信条だった。麻雀に美学を求めるスターだった。その美学とは、「プロであるなら、ファンに感動を与えなければならない」であり、つまらない手を和了らない、そして入念にいい手を作り上げ、印象に残るような和了を見せて、ライバルを軍門に降らせる。そういう考えだったから、敵は恐れた。しかし、ファンは多かった。 

ろくでなし 伝説のミスター麻雀、酒と女とカネの無頼75年

ろくでなし 伝説のミスター麻雀、酒と女とカネの無頼75年