菅谷明子『未来をつくる図書館ーーニューヨークからの報告』(岩波新書)ーーキーワードは「越境」だ。

菅谷明子『未来をつくる図書館ーーニューヨークからの報告』(岩波新書)を読了。 

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

 

 ニューヨーク公共図書館は4つの研究図書館と85の地域分館からなる複合体である。岩波ホールで上映中の映画と、菅谷明子の書いた岩波新書で、図書館という「知的インフラ」の持つ威力が話題になっている。

本館にあたる人文社会科学図書館。地域活性化。音楽・舞踊・演劇・録音からなる舞台芸術図書館。写真コレクションを持つミッド・マンハッタン図書館。映画資料館から発展したメディアセンターを持つドネル図書館。以上が4つの研究図書館である。市民の暮らしをサポートするのが85の分館で、資料提供。多様な講座など地域密着のサービスを行っている。

世界有数のコレクション。敷居の低さ。NPOによる運営。ビジネス支援。情報弱者のアクセス基地。無料データベース。ビジネス司書の存在。オフィス・スペースの提供。アクション図書館。ビジネス図書館。自立支援。世界最大の充実した医療情報サイト。不登校などを支援する学びの場。教師コーナー。子ども専用サイト。宿題ヘルプ担当者。テクノロジー・ロフト。移民支援機能。富裕層の寄付講座。電子ブックのデジタル・コレクション。ネット・ライブラリー。研究者・作家センター。人物資料の収集。

この本が描き出す図書館の、目を見張らせる広範な活動の鍵は「越境」である。もはや本を扱う図書館とはいえない。守備範囲を限定することなく、果敢にニーズに挑戦している姿は感動的だ。アメリカの底力を感じる。この図書館と同様に、美術館も、博物館も、各種資料館も、越境する意思を持てば社会はよくなるだろう。そして図書館とこれらの施設がネットワークされて、市民に優れたサービスが提供できたら素晴らしいと空想する。2万8千あるという日本の図書館には大いに刺激になるだろう。キーワードは「越境する意志」だ。越境する意志がイノベーションを起こす。岩波ホールで映画をみよう。

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午前:大学

午後:出版社で編集者と面談。次に品川の大学院で研究開発機構評議員会に多摩大学総合研究所長として出席。帰りは杉田副学長の車に同乗し、最近の学内情勢を聞く。

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「名言との対話」5月27日。高峰三枝子「映画よ青春をありがとう、映画よ仲間をありがとう、映画よ歌をありがとう」

高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子1918年12月2日 - 1990年5月27日)は、日本女優歌手

父の急死で松竹大船に入た高峰は、「母を訪ねて」初出演し、理知的で美しい令嬢役で佐野周二佐分利信上原謙という二枚目三羽烏の相手役をつとめスター街道を走る。「暖流」「純情二重奏」「自由学校」「挽歌」「犬神家の一族」に出演し、映画女優として長く活躍した。また「南の花嫁さん」「別れのタンゴ」「湖畔の宿」などの大ヒット曲を持つ歌手でもある。歌う映画女優の草分けだった。1968年からテレビ「三時のあなた」の司会者を5年にわたりつとめ好評を博した。1982年の国鉄「フルムーンパス」のポスターに上原謙と登場して話題を呼んでいる。
映画女優としての評価も高く、受賞も多い。紫綬褒章ブルーリボン賞助演女優賞。「犬神家の一族」,日本レコード大賞(功労賞)。日本アカデミー賞特別賞。毎日映画コンクール特別賞。、、、。

「山の淋しい湖に、、。水にたそがれせまる頃、、、、いつか涙の陽が落ちる、、、」という歌詞の「湖畔の宿」をユーチューブで聴いてみた。特攻隊の慰問で歌った歌でもある。明日出撃する特攻隊の隊員は聞き入ったそうだ。この歌は志気をそぐとの批判があり禁止されたが、前線の兵士には人気があった。藤原恍作詞「想い出のボレロ」も改めて聴いてみた。52歳当時の美貌と美声を堪能した。

冒頭の言葉は、死後10数年を経た2013年放送のNHK「あの人に会いたい」の中で語った高峰三枝子の言葉である。生涯をかけて打ち込んだ「映画」がすぐれた歌と親しい仲間、そして素晴らしい青春など、人生のすべてを引き寄せてくれたという感謝の言葉である。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

憶良らも旅人も梅花の宴より「令和」と決むとは夢思ふまじーー日経新聞「万葉歌の世界」の広告に母の短歌。

25日の日本経済新聞社の広告欄に母・久恒啓子『万葉歌の世界』。その広告の冒頭に、「令和」を題材とした母の短歌が出ている。

 憶良らも旅人も梅花の宴より「令和」と決むとは夢思ふまじ

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ジム:ストレッチ。ウオーキング45分(内10分は5度の傾斜)。筋トレ。ストレッチ。スイミング300m。バス。その後。首都大のレストランで食事。

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「名言との対話」5月26日。津本陽「年齢をかぞえる前に、わが意欲を思え」

津本 陽(つもと よう、1929年昭和4年)3月23日 - 2018年平成30年)5月26日)は、日本小説家

東北大学法学部卒。49歳、故郷和歌山の捕鯨漁民を描いた『深重の海』で直木賞。 剣道抜刀道五段の心得を生かした迫真の剣豪小説から、しだいに歴史小説に重点を移していく。信長をテーマとした日経新聞の連載小説『下天は夢か』の単行本は、1989年も60歳のときに発刊され200万部を超える大ベストセラーになった。小説を書く上で重要なのは「自分自身の体験である」という言葉は、剣豪小説を読むとわかる。

津本陽は以下の人物とその時代を描いた。塚原卜伝柳生兵庫助千葉周作などの剣豪。秀吉、家康、信玄、謙信、政宗、利家などの戦国大名。海舟、西郷、龍馬などの幕末の英雄。始皇帝則天武后など中国の傑物。

事実とは往々にして「事実らしからぬ」ほどのドラマ性を持っているから、できるだけ事実をそのまま描き出すことだとし、膨大な資料を読み込み、小説に生かした。

2003年、74歳で書いた 『老いは生のさなかにあり』というエッセイを読んだ。鈍物を自認する家康(75歳)は経験を知恵にできる洞察力があり、大器晩成の生涯を送った。親鸞は63歳から膨大な著述を始め、75歳で『教行信証』を著すなど90歳まで続けた。毛利元就(75歳)は襲ってくる事象に対して的確に対処していくリアリストだった。北条早雲(88歳)は常に前途に希望を抱き、60歳直前という晩年に大運をつかむ。勝海舟(75歳)というマキャベリストは、時代の先を読み幕藩体制を一新し、旧幕勢力を糾合し、慶喜を補佐した生涯を送った。

彼らの晩年に花が咲いた人物の特徴は、しぶとい、晩年に最高の知恵が身につく、障害を乗り越え新境地をひらく勇気がある、冷静に自分を見る目を持つ、などだという。そして「生きているあいだ、どのように行動するかを考えている人は、おおむね死を怖れない」。宇宙のなにももかの意思によって与えられた「定命」(じょうみょう)を生き切るだけだ、と津本陽は語っている。

「年齢を重ねるとともに行動の知恵をふかめてゆき、なお高度な段階に至り、大きな収穫を得るために心を砕くのが、すぐれた人物にそなわった器量である」。老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく、老いてはじめて知恵のかがやきを発した人物が、歴史のうえに数多く名をなしているのである。それが「老境力」である。年齢をかぞえる前に、意欲をわが思え。わが志を思え。

 老いは生のさなかにあり (幻冬舎文庫)

老いは生のさなかにあり (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

 

 

午後から夜:「映画ニューヨーク公共図書館を見て、図書館の未来についておしゃべりする会」。昼:新たな出発を家族に祝ってもらった。

岩波ホール「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブルス」を見た人たちの図書館のあり方を巡るミニミーティングに参加。場所は新宿区の西戸山中学校。高田馬場から徒歩10分。全国の図書館で300回以上の講演をしている図書館の鬼・仁上さんと仕掛け人・橘川さんの掛け合いで進行。

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建築設計事務所の代表、大学の建築学科の先生、西戸山中学校の副校長、編集者、墨田区の久米さん、電器通信メーカーの人など多彩な人がいた。図書館についてはよく知らなかったので、とても勉強になった。以下、キーワード。

シアトル公立図書館(2004)。市民のサードプレイス。佐賀の武生のツタヤ図書館。居場所。大学図書館の夜は高齢者や社会人が多い。音楽会。児童にも図書館は人気がある。面白い大人と出会い。杉並区図書館。カフェ併設。人力で十分。ビヨンド・ブックス。国会図書館。仕事場。上野児童図書館。黒人資料館。自己否定する図書館。予算獲得会議。札幌の情報館。浅野。場所のスマホ予約。専門書の崩壊。全国2.8万の図書館。出版のインキュベーションとしての図書館。観光と図書館。写真収集。寄付の目線。事業と課題に注目。ブロックチェーンで著者にバックするしくみ。図書の分類に工夫。編集者的発想。、、、、、、、、、、。

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事前に映画をみることができなかったので、私は話題の岩波新書『未来をつくる図書館』を読了して参加した。図書館は図をもっと置け。人生100年時代の図書館。独学と遅咲きの時代。学びこそ本道。図書館・博物館・美術館・資料館のネットワーク。この名著のメッセージは「越境せよ」だ。

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

 

 終了後は、新大久保駅近くの商店街でベトナム料理を食べながら懇親会。韓国人を中心に各国の人が歩くインターナショナルな商店街、独特の熱のある人々の群れを見物しながら帰る。

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 昼食は、市ヶ谷のグランドヒルホテルの「サルビア」で、私の新しい出発を祝う家族の会。ありがとう。またやろう。

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「名言との対話」5月25日。川上源一「足元が明るいうちにグッドバイ」

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

旧制高千穂高等商業学校(のちの高千穂大学)卒業後、日本楽器製造(現:ヤマハ)に入社し、社長に就任し、ピアノ生産量を世界一にする。ヤマハの伝統戦略はこうだ。赤ちゃんが生まれると毎月1000円づつ貯金をしてもらう。4からヤマハ音楽教室でピアノを習い、10歳になった頃に溜まったお金でピアノを買うというストーリーをつくった。我が家もその通りの道筋で子どもたちはピアノを弾けるようになったし、ピアノは今でもリビングに鎮座している。そおういった戦略のおかげでピアノに親しむ習慣が根づいた。日本は今ではピアノの普及率は世界一となっている。また開発した電子オルガン「エレクトーン」は、電子オルガンの代名詞にもなった。

1955年にヤマハ発動機を創業し社長を兼務し、オートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業した。会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にし、レジャー産業を社員に教育している。「慎重に急げ」はオートバイ事業に進出した時の名言である。「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と考え、社長就任後、わずか1年でオートバイを製造販売し大ヒットさせた。川上は強烈なイノベーターであり、大きな成果を挙げた「ヤマハ中興の祖」である。

川上は次々と直面する課題に対して即時の決断と素早い実行を行ってきた。それには次のような心構えがあったのだ。「社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない」「常に自分の事業の姿がどうならなければならないか、という見通しを持っていなければ的確な意志決定はできない」。

川上源一は「足元が明るいうちにグッドバイ」という名言を吐いて社長から退くが、数年後には好調な業績をあげつつあった後継社長を解任し、社長に復帰している。「社長と副社長との間の距離は、副社長とヒラ社員の距離よりも遠い」という宮崎輝の名言があるように、不満もあったのであろう。ヤマハは源一の父、本人、息子と3代にわたって経営を担ったこともあり、「川上天皇」にも世襲批判はあった。やはり事業のバトンタッチは難題である。さすがの川上源一も、引き際の魔術師とはいかなかったようである。

 

 

 

 

 

学部の授業:テーマは「大学生の国語力低下を憂う」。大学院の授業:テーマは「令和を歩む」。

午前:学部の授業:テーマは「大学生の国語力低下を憂う」。

橘川さんと懇談:アイデアをたくさんいただいた。タイ。富士山。編集。起業。

午後:出版社:全集10巻。編集学校。取材予定。

品川の整体でカラダのケア。

夜:大学院の授業:テーマは「令和を歩む」。経団連の中西会長。米ハーバード第のエズラ・ボーゲル名誉教授。ソニーの平井会長。国立情報学研究所新井紀子教授。メディアアーチストの落合陽一。小西美術工芸社のデービッド・アトキンソン社長。

以下、講義終了後の感想。

  • 今回の演習で、記事にある重要と思われるKey Wordを探して行く中で、その言葉が「大海の中から浮揚ってくる感じ」について、理解することが出来ました。また、文章全体の構成と各内容の相関関係を図解する手法のイメージが掴めました。著名な方の文章であっても、内容と構成自体が理解できず、文字数が限られている記事において、編集者のスキルが大きく影響しているのかもしれません。が、最終的にはインタビューされる側の確認があると考えると、何気なく読んでいる記事に要注意ですね。演習(訓練)が大切なので、継続して実践していきます。今から深夜2時の便でシンガポールへ出張します。行ってきます!
  • 今回の記事は日本人ではない、どちらかというと日本贔屓な米国人から日本人へのアドバイスの図解をした。内容は新鮮なものではなく、周知されている事だったが、母国でない方から背中を押されたような気がした。 「そう思います?そうですよね。」と図解しながら確認でき、先生のアドバイスにあったように中国以外のインド、OZ、欧州についての関わり方にも視点を向ける良い機会になった。そんな記事を見つけたら図解してみようと思う。ところで先週、日経WOMAN EXPOのセミナーに参加した時の図解をご紹介します。働く/学ぶ/遊ぶをライフイベントによって自在に変えながら継続する事でバランスの良い生き方ができる事を示すものです。シンプルですが、わかり易い表現をされていると思いました。
  • 本日の授業では、全員がそれぞれ違う令和についての新聞記事を図解しましたが、普段読まない文章も、図解にすると理解ができ、更に疑問が浮かび、興味のないものでも気になって調べ、知識が身につきます。そして、図解したものを発表し、皆さんに意見をいただきましたが、更に疑問が広がりました。日本は令和という時代をどのような時代にしたいのか、他方からの考えを聞いても結局解決できていないのではないかと思いました。この記事から伝えたいことがわからない、というのは、本人らしさがなくなってしまっているからという感じがしています。何がその人らしさなのか、それを受け取ることができる文章であれば、伝えたいことが伝わるのだと実感しました。私らしい文章とはどんなものなのか?考えていきたいです。

  • 令和の時代について、私は小西美術工芸社社長のデービッド・アトキンソン氏の記事について図を作成しました。文章でも比較的わかりやすくまとまっている内容で、重要な部分は図で表現しやすかったですが、詳細な情報をどのように関係づけるか?実現できませんでした。また、図で表現してみるとすでに京都のようにインフラが整備されているエリアと東北地方などのインフラが整備されていないエリアをわけて予算の比率を考える必要があることに気がつきました。予算配分の具体的な数値があると良いと思いました。他に方の令和の時代についての発表を伺っても日本は両手放しで明るい内容は無く、平成で進まなかった改善の後始末をするイメージで残念な気分になりました。
  • 【全体の構造をとらえる ⇒ 各部の形を工夫する】。【図解にすると、興味と疑問が次々に湧き出る】。今日の講義では、前回から2週間で図解について各自が考えたことをシェアするところからスタートした。恥ずかしながらとっさに図解のことが思い浮かばなかったので、最近読んだ梅棹先生の知的生産の技術について話しをした。先生からのコメントで先生は梅棹先生の全集を読み直していると伺った。私は、文明の生態史観と知的生産の技術しか読んだことがない。どちらもわかりやすく、参考になり、目から鱗的なおもしろさがあった。いつか全集も手に取ろうと思った。図解について、その場では思い浮かばなかったが、 この2週間を思い起こすと、東京博物館の東寺展に足を運び、空海が構想したといわれる東寺の立体曼荼羅と、2つの(平面の)曼陀羅の写しをみた。「曼荼羅こそまさに図解だ!」と講義の途中でハタと気が付いた。立体曼荼羅について、書きたいことが多少あるが長くなるので、割愛する。(既に長いが)さて、講義の話に戻る。今日のメインテーマは、新聞記事の図解だ。令和をテーマにして、著名人がリレー形式で連載している「令和を読む」からピックアップしていただいた記事から、各々違う記事を選び図解にして、各自プレゼンをする。私は荒井紀子氏の「AIに勝る読解力 養う」を選んだ。前回の講義で学んだ、「全体の構造をとらえる」という点を意識して、図解のプロセスを工夫した。まずは、先生から教えて頂いた5ステップを行う①目で読む、これは全体をざっとでOK②手で読む、ここでは重要な部分にどんどん線を引く③キーワードを囲む、重要な部分の中にある中心的な言葉だけを絞り込み丸で囲む④立体的に眺める、海(文章全体)を空から眺めて、丸で囲んだ島(キーワード)の関係をとらえる⑤白紙に書き込むここまでが先生に教わったことだ。今日は、⑤を3つのステップに分けてみた。⑤-1 【落書き】自由に白紙に書いていく。下書きよりも前の項なので、気軽にどんどん書く⑤-2 【構造化】全体の構造を構成する。落書きで手を動かすとアイデアが浮かぶ。
    イデアを吟味して、詳細は無視して、全体の構造を決める。⑤-3 【精緻化】全体の構造から詳細に落とし込んでいく。全体構造は大きく書いておく。詳細は少々小さい字でも良い。小さくても、書いていないのとあるのでは、理解度が大違い。精緻化が意外と理解のキモになる。⑤のステップを3つに分けたことで、前回に比べて構造をしっかりと捉えた図解ができたと自己評価している。次に課題に感じたことは、「各部分の形」の工夫だ。これは、小西さんのアドバイスいただいた点でもある。必要なスキル、というのが頭の形になっているとわかりやすい!とのコメントを頂いた。なるほど!>>小西さん 素晴らしいアドバイスを頂きありがとうございます。また、皆さんの図解をみていても、文章で読むときには思いつかないような興味や疑問が次々に湧いてくる面白さを感じた。図解にすると、興味と疑問が次々に湧き出るようだ。次回は、AIに負けない創造力を発揮して?「各部分の形」を工夫できるようにしたい。

  • 関係を図で表現するのは先生を教えていただいた本質を見極める方法です。一見して簡単に見えますが やってみると気付かされたところが少なくないんです。最初はテマの中心にあるべきことを決めらなければならない。その後 ものに関係あることを書く。最後にどうな関係を明確にする。そうすると 中心にあるものを見直すことができる。常識の取らないようにするの方法と言える。中心にあるものを再定義することができる。それで、ものの役割あるいはものの可能性が見えてくる。それが問題解決能力の改善につながっていると考えている。それが知識創造とも言える。それが新しい可能性あるいは発展方向にヒントを与える。いまの時代は変化が起きやすい。環境の変化につれてものの役割がかなり変化する。価値が関係の中で生まれるものから。環境が変わっているので 常にものを見直しなければものの潜在能力を発揮できない。場合によって存在そすらできない。起きたことを気を配れってどうな影響をもたらすかを見極めることが必要とされる。起きたことと存在しているものの関係を明確することによって存在しているものを見直すことができる。世界を広げるように感じる。これが図を書くの力である。(留学生)

  • 今回の講義、ありがとうございました。感想について、述べさせていただきます。今まで先生から教えてくれたのことを実践して、それぞれのメンバーは自分の図解をみんなに紹介してあげるのは今回の課題です。その中に気づいたことは、やっぱリ図解してるうちに、ちゃんと詳しく調べていませんでした、その後精一杯を説明しようとしても、どうしてもうまく説明できず、しっかり課題を完成させようという気持ちは大切なんです。また、日本の歴史についても勉強不足です。令和と平成の時間で日本はどういう状況か、把握していなくて、図解の時間軸を間違えました。もう一度日本の歴史を学ぶべきだと思っております。ところで、今回の講義で皆さんは結構盛り上がって、雰囲気すごくいいと感じました、恥ずかしいもなく、遠慮なく、お互いに聞いたり、質問したり、これこそ知識を身につけることに繋がります。この講義を選んで良かった。これからは図解をたくさん場面で使えるように頑張りたいと思います。よろしくお願い致します。(留学生)

帰宅途中の風景:串揚屋でオダあげる人たち。ビジネスマン帰宅へ。

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「名言との対話」5月24日。大場みな子「結婚生活を退屈させない唯一の方法は、双方が全力をあげて伸びようとすることである」

大庭 みな子(おおば みなこ、1930年11月11日 - 2007年5月24日)は日本小説家

敗戦の夏、原爆後の広島市に救援隊として動員される。19歳で夫になる大場利夫と出会う。津田塾大学卒業後、25歳で結婚。小説を書き続けることが条件だった。29歳、夫の赴任先・アラスカで本格的に執筆を始める。11年間の滞米中にアメリカ各地を旅する。32歳、ウイスコンシン州立大学の美術科、大学院生としてマジソンに住む。38歳アメリカの市民生活を描いたデビュー作『三匹の蟹』で、群像新人文学賞芥川賞を受賞した。40歳、アラスカを引き揚げる。41歳、夫と共にインド、アフリカ、欧州、南米、カナダを旅する42歳、東南アジアに旅。43歳、アメリオレゴン州に滞在。46歳、アラスカを訪問。47歳、スコットランドを旅する。48歳、沖縄、八重山諸島を旅する、欧州諸国をめぐる、韓国を旅する。49歳、オレゴン州に交換教授として3か月滞在。50歳、アイオワ大学に滞在し、アメリカ各地を旅する。53歳、スウェーデンを訪問。54歳、中国を旅する、バリ、ジャワを旅する。56歳、中国を2度訪問。60歳、夫と共に欧州諸国を旅行。63歳、渡米しラトガース大学等で講義、ドイツのケルンで朗読会。64歳、ケンブリッジの英国作家会議に出席。65歳、シアトル旅行、日中文化交流代表団として訪中。69歳、アラスカを訪問。72歳、ハワイ旅行。76歳、夫に見守られながら逝く。

1968年 - 『三匹の蟹』で群像新人文学賞芥川賞。1975年 - 『がらくた博物館』で女流文学賞。1982年 - 『寂兮寥兮(かたちもなく)』で谷崎潤一郎賞。1986年 - 『啼く鳥の』で野間文芸賞。1989年 - 「海にゆらぐ糸」で川端康成文学賞。1991年 - 『津田梅子』で読売文学賞(評論・伝記部門)。1996年 - 『赤い満月』で川端康成文学賞(二度目)。2003年 - 『浦安うた日記』で紫式部文学賞。以上は華麗なる受賞歴である。

1987年から河野多惠子と共に芥川賞初の女性選考委員となり、1997年まで務めた。1991年日本芸術院会員、その他日本ペンクラブ副会長、女流文学者会代表などを務めた。

1996年66歳で脳梗塞で倒れ、左半身不随で車いす生活になった。その後は夫の協力を得て、口頭筆記で著述を行っていた。夫の利雄は、この介護を題材とした手記「終わりの蜜月」を発表している。全集は生前と死後の2回出ている。

「幸福な結婚というのは、いつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である」「結婚における友情は必要条件ではあるが、十分条件ではない」

大場みな子の人生を眺めると、常に夫が寄り添っていることがわかる。小説を書き続けることを条件とした結婚、機会をとらえて外国旅行敢行し見聞を広めて成長していく姿、闘病生活の中でも口述筆記という夫の協力で執筆を続け、最後は夫に見守られながら去っていく。夫が仕事の中で伸びていくのは当然であるが、妻である大庭みな子もチャンスを縦横に使って自身を成長させていく。「全力をあげて」という言葉に強い意志を感じることができる。この人の小説には縁がなかったが、生き方に興味を持った。人生観が如実に出るエッセイを読んでみたい。

 

 

 

 

 

結婚生活を退屈させない唯一の方法は、
双方が全力をあげ伸びようとすることである。

 

『梅棹忠夫著作集』第11巻「知の技術」を読了。下斗米先生「プーチン・ロシアと日ロの関係」。

梅棹忠夫著作集』第11巻「知の技術」を読了。

 「知的生産の技術」。『知的生産の技術』の前後。「知的生産の展開」。「フィールドでの知の技術」。以上、4部。知的作業一般に適用できる「汎用」の技術を取り上げた巻である。情報時代に突入した現代にいおいては、知的生産者や知的生活者は社会の各層に拡大しているから、知的作業に関する技術の習得と訓練が必要になった。希代のフィールドワーカーであった梅棹忠夫の知の技術の粋がおさめられている。改めて系統的に読んで、新たな発見や納得に満ちた読書となった。

この巻にも他の巻と同様に「月報」が挟み込んである。4人書いている。紀田順一郎の「知的生産ということば」、羽賀日出男「梅棹先生との29年間」、八木哲郎「私の運命を変えた一冊」、山根一真「怖いフレーズ」である。八木さんの文章は、NPO法人知的生産の技術研究会の誕生の経緯がよくわかる。「研究会をやめて研究所にしなさい」といわれ、いまだにエスタブリッシュできずにいて、長大な剣に怯えていると書いている。それは梅棹先生から与えられた宿題だ。

梅棹忠夫著作集11 知の技術
 

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本日のリレー講座は、下斗米先生(神奈川大学特別招聘教授)の「プーチン・ロシアと日ロの関係」。

  • ベルリンの壁が崩壊した以降30年間で米ロ関係は今が一番悪い。来週6月28日に米ロ会談が予定されている。アメリカが仕掛けたベネズエラのクーデター失敗とクリミヤの寮だ拡大の取引などが話題になるかもしれない。
  • プーチンロシア:内政は安定。保守主義、伝統主義。ロシア正教にもとずく政治体制。エネルギー大国。クリミアで人気上昇したが、ゼロ成長、年金支給の繰り下げなどで人気が下降気味。経済は世界10-11位。世銀のビジネスのしやすさランキングは31位。日本は2009年12位から39位に転落。国際的孤立が恐い。ウクライナとの関係も悪化。外交ではユーラシアを意識した「脱欧入亜」。アジアと北極海を意識。クリミヤ半島は地政学と地経学の交差点。一帯一路の3本目の「氷の道」。
  • 日ロ平和条約を締結できるか?23回の首脳会談。1956年の日ソ共同宣言にもとずく交渉。1月から本格交渉しているが、米ロ関係が悪く動けない。戦争を終わらせるという意味で連合国との交渉の最終章である。本道に戻る。平和条約締結から領土解決はいつか。

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昼休み:総研ミーティング

知研の高橋副理事長来訪:松江、北海道の知研イベントの打ち合わせ。

夕刻:ジムでストレッチ、ウオーキング30分、筋トレ、バス。

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「名言との対話」5月23日。廬武鉉(ノムヒョン)「私は韓国を変える」

盧 武鉉ノ・ムヒョン朝鮮語: 노무현1946年9月1日〈旧暦8月6日〉- 2009年5月23日)は、韓国政治家、第16代大統領。

裁判官、国会議員、政党幹部として10余年政治活動を行い、大臣として行政を担った。立法、司法、行政の3権をすべて経験している。2012年12月19日大統領選挙では朴槿恵に惜敗し、5年後の2017年に大統領に就任し雪辱を果たす。

2003年3月20日刊行の『私は韓国を変える』(朝日新聞社)を読み終えた。廬武鉉は2月25日に韓国第16代大統領に就任しているから、大統領としてのマニフェストの役割も持った書でもある。2000年8月から就任した海洋水産大臣時代を中心としたリーダーシップに関する考えと、大統領としての抱負が高らかに宣言されている。

信頼形成のために大事なことは業務に精通することが最優先だ。たくさん読み、多くの人と会い、部下にたえず質問することを心掛けた。大きな枠組みだけを示し、手続き上の問題は参謀に任せた。成功例が大事だ。傍観者シンドロームに陥った官僚。人事が万事で公正に対する信頼が重要。大臣は管理者でなくリーダーだ。リーダーは「なぜ」(Why)を問う人間だ。管理者は「どのように」(How)を問う。現場を大切にする。問題と解決策もあるからだ。以上のようなリーダーシップ論を読むと、共感することばかりだ。吉田茂首相は「歴史を知らない国民は亡ぶ」と言ったが、廬武鉉は「ビジョンがない民族は亡ぶ」と語っているのが印象的だ。だから、この書では半島経営のビジョンを高らかに宣言している。

 韓国の歴史と文化は、大陸勢力と海洋勢力の衝突・融合である。韓国は中国、ロシア、日本などの「鯨」に苦しめられてきた。東方のスイスがモデルに分裂と対立を克服する「和解と協力の時代」を切り開く。東北アジアのビジネス中心地にするという戦略。金大中、廬武鉉、文在寅と続く、韓国民主化運動では、土台をつくった金大中政権と廬武鉉政権時代を担った若い人材が現在の政権の中枢にいる。悲願である南北の平和を実現できる展望を持つことができる時代だ。「和解と協力」政策をとった金大中大統領を引き継いだ「平和と共同繁栄」が対北政策だ。「韓半島経済圏」が実現したら、7000万人の市場をもつ国家が誕生する。中国と日本の軍備競争、南北分裂が重なれば、韓国は東北アジアの片隅で細々と生きていくしかない。南北平和なら中国と日本の軍備競争を防げる。北が譲歩したら米日韓らが対北支援を強化する一括妥結方式。韓半島平和宣言、平和協定。半島の軍縮。新マーシャルプラン。東北アジア開発銀行。統一はゆっくりと進めなければならない。南北共同の家づくり。、、、、。

 しかし、実際の政権運営はいばらの道だった。廬武鉉自身は反米志向が強かったのだが現実路線を歩む。2003年に米国のイラク戦争を支持し韓国軍の派遣した。2007年には米韓FTA交渉を妥結した。支持者からは「左(革新)のウインカーを点滅させながら右折(右傾化)した」と批判され、多くが離れた。自身の思いとは裏腹に社会の経済格差は拡大し国民は閉塞感を強めた。世論調査会社の韓国ギャラップによると、政権発足時に60%だった支持率は2006年末には12%まで下落し、保守からも革新からも見放され、2007年の大統領選では後継の革新系候補が大敗ししてしまう。

 退任後に収賄などの疑惑を持たれ、廬武鉉は2009年に飛び降り自殺する。その2カ月前に「政治、するな得られものに比べ失わなければならない事のほうがはるかに大きいから。」、「大統領になろうとしたことは間違いだった」と韓国大統領になったことを後悔する文章を残している。最近、評価が高まっている。2017年4月の韓国の世論調査で48.7%の圧倒的な支持を得て、歴代大統領の中で好感度1位に選ばれている。

韓国の大統領の手記として、私は金大中(キムデジュン)、朴槿恵(パククネ)の自伝を読んでいる。「この世で一番恐ろしいのは自分の眼である。鏡の中に現れる自分の眼こそが一番恐ろしい」といった金大中、「絶望は私を鍛え、希望は私を動かす」といった朴槿恵、そして「私は韓国を変える」と宣言した廬武鉉、彼らの立派な志と末路との落差に、半島という地理的条件の難しさと悲哀を改めて感じる。金大中、廬武鉉政権の後継たる現在の文在寅政権は平和統一に命を懸ける人々によって運営されているというが、志を遂げることができるだろうか。 

私は韓国を変える

私は韓国を変える

 

 

落合陽一『デジタルネイチャー』

落合陽一『デジタルネイチャー』(PLANETS)を読了。『魔法の世紀』に続き、本人が精魂込めて書いた重要な書だ。以下、ポイントと思われる個所をピックアップ。

デジタルネイチャーの世界観とは何か?

  • IOTの先に「詫びた」世界観として構想したのがデジタルネイチャー。
  • デジタルネイチャーとは、人間中心主義を越えた先のテクノロジーの生態系だ。人間と機械の境目、生物学と情報工学の境界を越境した自然観が構築されていく。
  • 人間中心主義から「機械と人間のハイブリッド主義。そして「知能による自然」への変化。
  • デジタルは生物に固有の情報演算形式。情報科学と神経生物学は観察対象として隣接領域になった。
  • 華厳経の宇宙観、世界観。この世の万物は縁起によって関連し合っている。すべてが究極的には一体となっている。
  • オープンソースの世界と資本主義の精神が拮抗し、両者の生存戦略が模索されている計算機自然の世界。両者の間の活発な交流が起きている。
  • 限界費用の低下と分散型システムによって、多数のオルタナティヴが生成される。多様な価値基準を容認しうる世界への転換。
  • 国家とプラットフォームに二重の搾取構造の中に我々はいる。新しい植民地支配。格差は拡大し、労働から解放された「楽園」側と、プラットフォームに徴税される「奴隷」側に二極分化する。インターネットによる新しい帝国。この状況を覆す可能性があるのがリナックスなどのオープンソースの思想である。
  • AIが世界を統治するのではなく、コンピュータ・サイエンスの研究者があらゆる分野に進出するのだ。
  • 多様性が、効率性や合理性を保ったまま、コンピュータによって実現される世界。そこでの人々の生き方は、BIか、VCかである。機械の指示のもとに働くベーシックインカム的な労働(AI+BI型・地方的)。それは社会主義に近い。市場拡大の恩恵を受ける人間。機会を利用して新しいイノベーションを起こそうとするベンチャーキャピタル的な労働(AI+VC型・都市型)。それは挑戦的なビジネスに取り組む世界だ。市場の拡大を目指す人間。二極化する。
  • 知的生産に携わる人間に必要なのは、非画一的な仕事のポートフォリオや、問題解決のための手法論だ。ワークとライフ境界がなくなる「ワークアズライフ」になる。
  • リスクとモチベーションには強い相関関係がある。最大の格差はモチベーションとアート的な衝動を持ちうるかの格差だ。アート的モチベーションの格差をいかに埋めていくか。
  • 現実と虚構の区別もつかなくなる。宗教に近い価値観が残る。幸福や死についての概念の意味も変化する。
  • 手を動かすことが意味を持つ。身体性。
  • イノベーションが短期間でリセットされ、常にゼロベースの競争を余儀なくされる世界。
  • インターネットは知識と技術の下駄だ。インターネットは全体主義的になっていく。
  • 生涯の全記録をいつでも取り出せる。タイムマシン。相手によって自動的に敬語に変換する。空間自体を再生することで情報を伝える。

 

デジタルネイチャーの世界でどう生きるか?

  • AIの分野では、データとデータの相関関係性に目を付けるセンスが重要。
  • 継続的に新しいテーマにコミットし続ける能力を持て。
  • 絶え間なく学習にいるアップデートを続け、さらには複数の専門職を掛け持つポートフォリオマネジメントを前提とした働き方を考えなければならない。
  • 習得コストが下がったため、いつビギナーとして学び始めても、一定のレベルまでは到達できる環境が整っている。
  • アリではなく、キリギリス的な生き方をとろう。リスクを取って得意分野を追求し、弱点は環境を変えることで克服すればいい。自らの才能に賭けて命がけで好きなことを追求し、その成果で南国に移住すればいい。
  •  今現在、即自的に必要なことをリスクを取ってやれるかどうかだ。できることをやる。やったことによって事後的に「自分らしさ」が規定されていく。すべきことより、やりたいことだ。
  • 実践者としての価値が、思想とともに重要になる。考えながら手を動かし、思想を語り、波を作る。日々、集中力の高い、永い現場を、高速で切り替えて、積み重ねる鍛錬だ。
デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

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・午前:大学で仕事

・午後:八王子で所用

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「名言との対話」5月22日。石橋博良「気象革命」

石橋 博良(いしばし ひろよし、1947年1月5日 - 2010年5月22日)は、日本の実業家。株式会社ウェザーニューズ創業者。

千葉県生まれ。北九州大学国語学英米学科を卒業後、安宅産業に入社する。仕事の醍醐味あったが、マネーゲームだと感じ、1970年に担当していた船舶が海難事故に会い、船乗りの命を守ることに人生をかけようと決心する。民間海洋気象情報会社・オーシャンルーツに入る。1976年、29歳で日本支社の代表取締役。安全と効率の両立という使命感を持って仕事をする。1980年、本社の副社長で1年6か月のアメリカ生活を送る。

気象予報が無くてなならないのは次のような事例を聞くとわかる。仕出し弁当会社には午前一時に翌日の代々木公園の午前5時からの気象の予報を出す。プロ野球の後楽園スタジアムは1時間3-4ミリ以上の降雨の予測で試合中止するからその予報を出す。朝日放送の「ニュースステーション」では、気象庁の言葉以外で伝えようとし、選択指数、傘指数、ビール指数などを発明した。

1986年、本社の赤字部門を1.8億円で買い、365日24時間体制で「あなたの気象台」としてのウェザーニューズ社を創業する。データベースをきちんと整備し、最適な形で情報を提供するためにエキスパートシステムをきちんと構築し、リスクコミュニケータという業界の知識をきちんと持った予報技術者を育成するに没頭することを続けた。

JAL、ANAを顧客としてAIによる航空エキスパートシステムを10年かけて完成する。ディスパッチャーという名前の運航管理者の入社でリスクコミュニケータが1994年にデビューした。気象と経済活動の思わぬ相関関係があることを発見する。冷夏になると目薬が売れるのは子どもたちがプールに行く回数が減るからだ。エルニーニョ現象がアンチョビの不漁を招き、かわりにアメリカ産大豆の需要が増え、結果的に日本の豆腐の値段の高騰を引き起こした。コンビニでは天気や体感温度で商品の売れ行きが変わるから予報が大事になる。リスクコミュニケータは「横浜市港北区の午後6時から午後11時までの総降水量は150ミリ」との情報を提供できる。顧客の言葉に翻訳し情報をグラフィックに変えて提供する。農業はもはや天気まかせではなく、気象データを用いて作物の生育予測が可能であり、また病害虫駆除の処置も可能で1キロ四方の精密さで病害虫の発生予測をしている。

1993年、オーシャンルーツ社の全株式を取得し、「お天気は眠らない」をモットーとした世界最大の気象情報会社となる。以下の様に気象に関するあらゆるデータを集めている。世界各国の気象庁発表のデータ。世界中の空港気象データ。高層観測データ。アメリカ海軍の収集した気象データ。ヨーロッパ中期予報センターの数値予報データ。宇宙からのデータ。日本の気象衛星ひまわりからのデータ。気象庁のデータ。1300か所に設置されたアメダスからのデータ。全国20サイトの気象レーダからのデータ。ウェザーニュー社独自の観測データ、気象庁も持たない雷データ。風向・風速、気温、海水温、気圧、降水量、雲量、雲形、河川水位、海氷、波、台風、ハリケーン、、、。30分前のガイアの体温と脈拍を感じる仕事である。

気象とは「全体」と「部分」の精妙な関連であるから、東京という部分と地球という全体で予報が可能になる。天気を稼業とする人間はボーダーレスの仕事をしているのだ。この気象情報を相手にするビジネスは、まさにビッグデータ時代の寵児であると思う。

石橋は夢を語っている。すでに小学校の学区単位で予報、局地予報が可能になっている。1日10円、1年3650円で、自宅の空の天気予報を出したい。双方向になると全国に人間アメダスがいることになる。アジアの気象情報システムづくりという夢もある。情報民主主義の世界を創り出す。それができたらリタイヤし、北海道でダービー馬を育てる。しかし、志半ばで倒れることになるが、育てた仲間が石橋の志を継いでいる。

2010年、南極観測船「SHIRASE」の第二の船出を宣言したグランドオープンから20日後、石橋は永眠した。余命3か月の宣告だったが、このプロジェクトを遂行することで命の火を燃やし2年6か月を生き抜いた。石橋博良は気象革命の旗手だった。 

新版 世界最強の気象情報会社になる日 (IDP新書)

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横浜そごう美術館「ウィリアム・モリスと英国の壁紙展」

世田谷美術館の「小野二郎『ある編集者のユートピア』展で、ウィリアム・モリスの存在を知り、興味を持って横浜そごう美術館の「ウィリアム・モリスと英国の壁紙展」も先日みてきた。

ウィリアム・モリスWilliam Morris1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリス詩人デザイナー。「モダンデザインの父」。

モリスは小野二郎が自分を「モリス主義」だというほど影響を受けた人である。「美しい生活空間」という考え方は人々の暮らしに影響を及ぼした。

1861年、モリスは「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を立ち上げた。室内の壁紙のデザイン・製造・販売を一貫して行った。自然を題材にシンプルな繰り返しのデザイン、地の層と花や葉の上層を重ねるデザイン、そして自然な動きと幾何学的な秩序ある法則のバランスに心を砕いたデザインへと変化していく。「楽園としての生活空間」である。

「役にたつかわからないもの、あるいは美しいと思えないものを家の中に置いてはならない」とし、生活と芸術を一致させようとした。自然をモチーフとする繊細で美しいモリスの図柄は今では世界中で愛され続けている。 

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 「私たちの日常と住宅の壁を大地の見せてくれる顔や動物の魅力、、、(中略)、、を思い出させる装飾で覆いたい」

成長を暗示させる線を多用した壁紙で彩られた住宅は住む人に「まるで全部が成長しているように見える」と言わせている。自然の中に住むという感覚なのだろう。

企画展では9割以上は中年の女性だった。「美しい生活」は、彼女らの理想だろう。白洲正子のいき方にも関心が高いのも同じ匂いがする。

 

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カラダの日。

朝:ヨガ

午後:ジム:ウオーキング40分4キロ。筋トレ。

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「名言との対話」5月21日。「過去の日本にも往々にしてあったことだが、声の大きい者たちや偉い実力者が出てくると、皆が何も言わなくなってしまいがちだ。とりわけ政治の世界で『本当のこと』が言えなくなったら、世の中は真っ暗になってしまう」

與謝野 馨(よさの かおる、1938年昭和13年〉8月22日 - 2017年〈平成29年〉5月21日)は、日本政治家

東京都千代田区(現在)生まれ。東大法学部卒業後、日本原子力発電勤務。中曽根康弘元首相秘書を経て、1976年に自民党公認衆院初当選し、衆院議員を計10期務めた。文相、通産相などを歴任。2004年、自民党政調会長に就き、当時の小泉純一郎首相が目指す郵政民営化の党内取りまとめに当たった。財政再建論議も本格化させ、経済財政担当相、財務相では消費税増税への環境づくりに努めた。2010年、たちあがれ日本の結成に参画し、自民党から除名された。2011年には菅直人第2次改造内閣の経済財政担当相に起用され、たちあがれ日本を離党。社会保障・税の一体改革を策定した。一方で、がんとの闘いを強いられ、体験談『全身がん政治家』も出版。2013年、咽頭がんの影響で声帯を切除して引退した。その後は都内の事務所で執筆活動などをしていた。2017年4月30日、自民党に復党した。(産経新聞の訃報より)

 与謝野鉄幹・晶子夫妻の次男・秀(外交官)の息子である。祖父は生まれる前に死去し、祖母は4歳の時に亡くなっているから、二人の思い出はない。晶子が注力した学校法人文化学院の院長もつとめた。

民主党政権菅直人内閣の大臣に就任したとき、誰もが驚いた。内閣府特命担当大臣経済財政政策男女共同参画少子化対策)に就任し、新設された社会保障と税の一体改革担当大臣も兼務した。長く自民党の重鎮だったため、節操がないとの批判があったが、「政治家は、歴史と勝負している、という気概を持たなければいけない」と考える与謝野は日本を救うために仕事をすると表明していた。

今でも残っているホームぺージを覗いて「随想」を読んでみた。人物論中心だ。佐藤信二と南原晃などの訃報。そしてノーベル賞をもらう前の大村(智)先生とのゴルフも出てくる。ジュリアスシーザーという天才政治家をめぐっては、塩野七生から「ジュリアスシーザーは2000年に一人しか出て来ない人間。そういう人は何をやっても許されるのよ。与謝野さん達は駄目ですよ」と言われたと書いている。経歴をみると、囲碁の腕前はアマ七段パソコンの自作できるほどの知識の持ち主写真は玄人はだし、天体観測や釣りにも凝っている、という多趣味の人だった。政策について穏やかに語りかける人柄でもあった。

「日本が戦争に向けて坂道を転げ落ちていった昭和の初期。政治家は皆国民に迎合し、耳障りのいいことばかりを言っていた。今になって見れば、ほとんど皆、歴史の評価には一切耐えられないような政治に加担してしまったのではなかったか」

与謝野馨が言うように、本当のことを言えない、いや本当のことを言わないという状態の組織や集団の未来は暗い。まして政治の世界がそうなら先行きは真っ暗だ。