橘川さん。落合さん。

橘川さん:らんぶる。新宿今井屋本店(鶏)。(割烹中島)。

フィンランド研究。映像インフラ。同人誌。社会実装ハウス。廃校。空き家。分散型図書館。インプレスPOD。、、、、、。

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地研:落合社長。

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「名言との対話」9月23日。五十嵐喜芳「今からでも遅くはない」

五十嵐 喜芳(いがらし きよし、1928年9月8日 - 2011年9月23日)は、日本の声楽家テノール歌手)。

東京芸術大学卒。中川牧三四家文子らに師事。安宅英一から安宅奨学金の援助をもらう。イタリアへ2度留学。1985年から1999年6月まで、藤原歌劇団総監督。1999年から2003年まで、新国立劇場オペラ芸術監督。2000年昭和音楽大学2007年まで)、同短期大学部2009年まで)の学長となる。 

音楽活動のみならず、46歳でのTBSワイドショー3時にあいましょう』の司会や、50歳でのドラマ『コメットさん』に出演し幅広く活躍したので、私も顔をよく知っている。

57歳で就任した藤原歌劇団総監督時代には、オペラの原語上演と字幕スーパーの導入を実行している。イタリア語、フランス語という言語でなければ作品の良さがでない。その代わり字幕スーパーで歌の中身を日本語でみせる。中身がよくわからないまま見ていたオペラが、この字幕スーパーのおかげで楽しめた経験が私にもある。またオペラ人口を増やすために開園前の解説、ダブルキャスト制なども導入している。

自伝『わが心のベルカント』(水曜社)を読んだ。ベルカントとは美しい声を出す歌という意味である。一人間は下腹部から腰、横隔膜、喉、鼻、頭へと一本の線でつながっている。その一本の線の上に声を乗せて歌う。それは腰から声を出すことだから腰の支えが大事なのだ。そして横隔膜の呼吸法で呼吸する。それがベルカント唱法だ。

オペラ歌手は健康でなくてはならないとして、74歳から歌うために体をつくり直している。ミネラルウォーター、ストレッチ45分、呼吸法、散歩。半世紀以上の歌手生活で風邪をひいて舞台を降りたのは1度だけという健康体だった。

五十嵐は「一度として自分の満足する歌が歌えたと感じたことはありません」という。だから歌い続けられたのだろう。「私たちは皆、生涯学徒なのです」という五十嵐は生涯をかけてオペラという山を登り続けた人である。24歳で東京芸大に入学、卒業時には28歳になっていた。29歳と34歳で2度のイタリア留学というから、出発はいかにも遅い感じがするが、父の遺訓でもある「今からでも遅くない」という座右の銘が運命をひらいたのだ。人生100年時代には83歳で亡くなった五十嵐喜芳座右の銘「今からでも遅くない」は、さらに大事な心構えになるだろう。 

五十嵐喜芳自伝 わが心のベルカント

五十嵐喜芳自伝 わが心のベルカント

 

 

横浜アンパンマンこどもミュージアム。そごう美術館「不思議の国のアリス」展。

横浜にでかけた。

ラグビーワールドカップアイルランドスコットランド戦が横浜であるので、外国人のファンを多く見かけた。

 

横浜アンパンマンこどもミュージアム(2019年7月移転)。やなせたかし

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そごう美術館「不思議の国のアリス」展。ルイ・キャロル。
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10月分の読むべき本がそろった。広い世界が待っている。

ここ数日間、届いた本。「マキノ雅弘の世界」「年寄りはなぜ早起きか」(木村尚三郎)「尾瀬までの道」(大石武一)「人生の断想」(谷口清超)「スティーブ・ジャブス」「ラストダンスは私に 岩谷時子物語」「何のために生まれてきたの?」(やなせたかし)「真・輪島伝」「独創は闘いにあり」(西澤潤一)「新・危機管理のノウハウ」(佐々淳行)。

数日前に届いた本。長谷川摂子「絵本が目をさますとき」(福音館書店)。「木下順二対話集」(未来社大下英治「陰の総理・仙谷由人VS小沢一郎」(徳間文庫)。石田博英河野一郎自由社会は沈まず!」(太陽)。「ミヤコ蝶々」(日本図書センター)。岡崎久彦「繁栄と衰退と」(文春文庫)。井上優「アンデルセンを食卓に」(主婦の友社)。

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「名言との対話」9月22日。ウィリアム・ローゼンバーグ「一度も間違ったことのない人はいないだろう。いるとすれば、それは何にも挑戦しなかった人だ」

ウィリアム・ローゼンバーグ(1916年6月10日ー2002年9月22日)は、アメリカのダンキン・ドーナッツの創業者。

  1950年、東欧系ユダヤ人の子孫であるウイリアム・ローゼンバーグは自身のコーヒーとドーナツの店を改装してマサチューセッツ州「オープン・ケルト」をオープンした。質の高いコーヒーとドーナツを手頃な価格で、素早くフレンドリーなサービスと共に提供し成功をおさめた。1955年にフランチャイズ展開を始め、1963年に100店目、1979年に1000店目をオープンした。

ライバルとなったミスタードーナツは1955年にボストンでオープンし、アメリカ国内で1000店近くにまで拡大したが、1990年にダンキン・ドーナッツの親会社がアメリカ国内の事業を買収している。ミスタードーナツは世界中に1万店以上を展開し、アジアでの事業が急成長している。私がよく使う日本のミスター・ドーナッツは、は発展を続け、アジアを中心に約2,700店舗を抱える一大フランチャイズチェーンへと成長を遂げている。

ダンキン・ドーナッツは、現在、世界36カ国に約1万2500店(うち米国には約9000店)を有し、全世界で年間計約29億個のドーナツを販売している。この長寿企業の秘訣は、デジタル時代への対応や、ロイヤルティプログラムの充実などの柔軟性にあるといわれている。それは試行錯誤の連続を意味している。創業者のローゼンバーグの「挑戦と失敗」の教訓が生きているのだろう。

 

 

勝海舟記念館ーー西郷への勝利「江戸城無血開城」と福沢への反論「行蔵は我に存す」。

勝海舟記念館。

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年1月19日)。

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別荘の洗足軒(建坪33坪)は津田梅子の父・津田仙のすすめで購入。義理の弟でもあり、師事した12歳年長の佐久間象山が書いた「海舟書屋」が気に入って書斎に掲げた、それが海舟という号を使うきっかけだ。象山については「物知りだった」、「学問も博し、見識も多少持っていた」と評している。海舟は身長156-157センチと小柄だった。

海舟関係の資料を集めた「清明館」は江戸城開城60周年に着工、昭和8-10年の数年の間に、404回のセミナーで4万人近いを集めた。仏教講義198回、儒教67回、神道国史20回、政道・法制63回、国民教化56回(25060人)。この清明館が2019年9月7日に開館した勝海舟記念館となった。正面のネオゴシックスタイル、内装はアール・デコ調の建物である。

1937年には「南洲海舟両雄詠嘆之詩碑」除幕式に合わせて開催された講演は徳富蘇峰1863年生)が講師だった。その写真が図録にある。蘇峰は「如何にも食へない親爺」であり、目を合わせるだけで腹の底を見透かされているような心地になり、精神的に非常に疲労を覚えるほどエネルギーの塊のような人だった、と述懐している。

1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛1827年)と会談し、江戸城無血開城を成功させる。このとき、勝は46歳、西郷は43歳だ。この時の様子や評価は多いが、今回江藤淳『海舟余波』tという著書を読んだ。「彼の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。

勝は薩摩側に立っていた英国公使・パークスと接触し、和平と慶喜助命による安定した市場の確保という点で利益が一致することを確認し、武力解決には同意しがたいと薩摩に申し入れさせている。また、江戸の治安を任せないと大変なことになるぞとの脅迫も使った。外を押さえ、内の状況を逆手にとって、西郷を包み込んで、身動きをとれないようにしたという放れざわのような政治手腕を発揮する。実は会談の前に勝敗は決まっていた。

明治新政府では、勝は外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉(1835年生)から「瘠我慢の説」で非難された勝は、1892年に返答を送る。「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。また福沢は勝は「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば、一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。

勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。相談ごとで訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。

慶喜とは微妙な関係で、維新後は長く断絶していた。慶喜に末子を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜とも和解している。

勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。 

海舟余波 わが読史余滴 (講談社文芸文庫)

海舟余波 わが読史余滴 (講談社文芸文庫)

 

 

「名言との対話」9月21日。小此木啓吾モラトリアム人間

小此木 啓吾(おこのぎ けいご、1930年1月31日 - 2003年9月21日)は、日本医学者精神科医精神分析家

 1954年慶應義塾大学医学部を卒業。1976年同大学助教授,1990年教授に就任。日本人で初めてウィーン精神分析研究所に留学し、日本の精神分析学の草分けといわれる古沢平作に師事。精神分析医として治療にあたる一方で、ジグムント・フロイトから現代までの精神分析学を幅広く研究した。同時に,精神分析の日本への定着にも尽力、新聞、雑誌、書籍などで精神分析学を土台とした現代社会論を展開した。1977年には,豊かな社会に育ち、社会人としての当事者意識がなく、大人になりたがらない当時の若者を「モラトリアム人間」と規定した論文を雑誌『中央公論』に発表。翌 1978年に出版した『モラトリアム人間の時代』はベストセラーとなった。1986年に日本精神分析学会会長に就任。

数百人におよぶ弟子の一人である「みゆきクリニック」(小此木啓吾が初代院長)の医師が人柄を以下の様に語っている。

フロイトに学んだ恩師・古澤平作「阿闍生(アジャセイ)コンプレックスを発展させた出産に対する母親の恐怖への怨みが残るが最後は許し合うというものだ。小此木の著作は数百冊あり、「モラトリアム人間の時代」以外にも、「エロスイ的人間」「自己愛人間」は一般の話題になった。全国各地での講演、数百冊におよぶ膨大な著作、医師としての治療行為、臨床心理士や医師の教育など、超人的な体力を持つ活動家だった。本人は「自分の一番の業績は弟子をたくさん育てたことだ」と語っていたという。

フロイト喉頭がんの手術を10数回しても、もうろうとなるより苦痛の中で思考するとして痛みの緩和剤を使わなかった。小此木も下咽頭に腫瘍ができた。その闘病中にも3冊の本を出版している。愚痴をこぼさず、毅然と立ち向かった。まだまだ取り組みたいプランは多かった。志半ばの生涯であった。

青年が大学を留年しつづけ、その後も定職につかない傾向の増加を分析し、彼らを人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま、大人になることを拒否して猶予期間にとどまる「モラトリアム人間」と呼んだ。1978年の『モラトリアム人間の時代』(中央公論新社)時代の病巣を衝いた言葉として大きな話題となった。私もこの本を読んで膝を打ったことがある。このモラトリアム意識が若者だけでなく、当事者意識が薄くなり、上司に判断をゆだねていく傾向にが広がって、しだいに高い年齢層にしみわたりつつある状況に危機を覚えていた。一つの概念が、時代の中核を衝くことがある。小此木啓吾の「モラトリアム人間」がそれである。

 

 

「立志人物伝」の授業開始。

「立志人物伝」の授業開始。以下、授業のメモ。

  • 〇初回:お試し。ゆっくり、楽しく、、。前期を受けた人?
  • 〇2019年の夏休み。計画と実行と記録。平成時代の366名言集。人物記念館12館:島根・群馬・新潟(足立全康・小泉八雲良寛会津八一・田中角栄
  • 〇立志人物伝の位置づけ
  •  図解の授業ではない。 ライフワーク=アタマの革命(日本?)・ココロの革命(日本人?) アタマの革命=図解=春学期。 ココロの革命=人物=秋学期
  • ロールモデル(師匠・ライバル)の発見が目的。 性格タイプ分析(エニアグラム):9つの性格。 成績:出席75(含むミニレポート)・最終レポート25
  • 〇人物記念館の旅
  •  海外旅行:探検部。文明の生態史観の旅。41ヵ国。外的世界と内的世界。移動と交流。地理的探検:新大陸。エベレスト・南極北極。宇宙時代! 人類:グレート・ジャーニー  個人:人生もグレート・ジャーニーだ。外的世界の拡大と内的世界の深化の連続。
  •  国内旅行:グルメと温泉? 2005年に福沢記念館で人物記念館を意識。毎年50-70館。現在897館。。900館はどこか? 勝海舟。偉い人が多い・歴史を知らない・人は必ず死ぬ。偉い人=影響力の大きい人。深さ・広さ・長さ・死後も。福沢と渋沢栄一(1万円札)。100館(百説)・200館(聖人巡礼)・300館(ライフワーク)。
  • 〇本物の条件:7つの共通項。
  • 〇ユーチューブ:秋元康(AKB48、、)。阿久悠(作詞家・多摩大学園歌)
  • 〇アンケート
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「名言との対話」9月20日徳間康快「二流に耐えることは、一流になるより難しい」

 徳間 康快(とくま やすよし、1921年10月25日 - 2000年9月20日)は、日本実業家映画プロデューサー

読売新聞社に入社、社会部記者となる。敗戦直後の読売争議の中心メンバーとなり、1946年退社、東京民報、日東新聞を経て、1952年新光印刷工業社長、1954年アサヒ芸能出版社社長。1961年徳間書店を設立し社長。1970年徳間音楽工業社長、1974年東京タイムズ社長となり、音楽業界、マスコミ業界に進出。1974年には倒産した大映の社長を引き受け、再建に尽力。活字、音楽、映像の各分野で活躍し徳間グループを率いた。中国との文化交流にも熱心で、1988年日中合作映画「敦煌」を完成させた。1991年東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務める。また、宮崎駿監督のアニメ作品「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」「もののけ姫」などのゼネラルプロデューサーとしても知られた。2000年石原慎太郎東京都知事に請われ、東京都写真美術館館長に就任した。

佐高信『飲水思想 メディアの仕掛け人、徳間康快』(金曜日)を読んだ。逸話の多い人であり、それらを紹介するよりも、この本の中から本人の言葉と、他の人の言葉を書くことで、この怪人を描くことにしたい。

「オレの場合は濁濁併せ呑むんだね」「重い荷物をせおって、坂道をのぼるんだ」「志、雲より高く」「中国から儲けちゃ、いかん。日本人はさんざん悪いことをしたんだから」「雑誌というのはな、生き物なんだ」「新聞は一報はいらない。起こったことのこれからの見通し、分析、解説なんだ」「二流に耐えることは、一流になるより難しい」「イヤなことはオレがやる」「年のことを話したり、年をとったなんて考えたらだめだよ。わたしなんか、今も青年のつもりなんだ」「人間的魅力だ。これさえあれば、あらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」、、、、。

日常生活。夜は9時に帰宅し10時就寝。午前3時起床。顔を直し、1時間散歩。朝5時から、手帳に書いたメモを日記帳に写す。その内容を何度も読み返す。会う人の発言集をつくり、会う時に活用する。こういうことで人心をつかんだ。日記には本当のことを書いていたようで、死んだらすぐに焼くように家族には言っていたそうだ。

関わりのあった人たちの徳間康快像はいかなるものであったか。

憎めない豪快さと明るさ(高倉健)。人脈をひけらかす人じゃなかった(三好徹)。クソ度胸のある快男児梶山季之)。一見豪快、、、実はやっぱり豪快な男(田辺茂一)。ブルドーザーに乗ってやってきた織田信長(上野尚之)。心はさびしき狩人(開高健)。最後の映画博徒、アサヒ芸能と宮崎アニメを両立させた男、アウトローにしてインテリ、大ぼら吹きにして繊細な気配り、当代随一の先見性(李鳳宇)。、、、。

そして著書である「辛口評論家」の佐高信は、絶対値の大きい男だ、その値にプラスの符号をつけるか、マイナスの符号をつけるかで評価は分かれると総括している。この人については賛否があり、悪いうわさも多いのだが、やはり、人を引き付けてやまない魅力的な人物であったことは間違いない。

佐高は回転する独楽のよなタ徳間康快の芯に寂しさがあったと「おわりに」に書いている。この本の第1節のタイトル「オレはだまされた」がその寂しさの源なのだろうか。その相手は今なおメディ界に君臨する帝王であることを佐高は示唆している。その帝王にだまされて二流に耐え続けながら様々な事業に挑戦し続けてきた乱世の梟雄であった自分、英雄になれなかった自分へのへの悔悟もあったのかも知れない。徳間康快の師匠は読売争議の主役の鈴木東民であり、その師匠は大正デモクラシーの旗手・吉野作造だった。その流れを汲んでいる徳間にはクォリティ(質)を志向する高い志があったが、稼ぎ頭だった「アサヒ芸能」のクォンティティ(部数)を無視できなかったメディアでの実績についても苦悩があった。それらが寂しさの中身なのだろうか。

飲水思源 (メディアの仕掛人、徳間康快)

飲水思源 (メディアの仕掛人、徳間康快)

 

 

 

 

10月の準備:本と声

「名言との対話」の10月分の本が届き始めた。一日一冊。

長谷川摂子「絵本が目をさますとき」(福音館書店)。「木下順二対話集」(未来社)。根上淳・ペッギー葉山「代々木上原めおと坂」(立風書房大下英治「陰の総理・仙谷由人VS小沢一郎」(徳間文庫)。石田博英河野一郎自由社会は沈まず!」(太陽)。「ミヤコ蝶々」(日本図書センター)。岡崎久彦「繁栄と衰退と」(文春文庫)。井上優「アンデルセンを食卓に」(主婦の友社)。

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大学

・「こえラボ」の岡田社長とのポッドキャスト「ビジネスに活かす 偉人の名言」の10発分の収録。湯川秀樹西郷隆盛徳富蘆花遠藤周作。9時半から11時半。来年の企画のアイデア出し。

・総研の松本先生。

・授業準備。

荻窪:出版社で打ち合わせ。

立川:所用。

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日経の野中郁次郎先生の「私の履歴書」は毎日楽しみにしている。名著『失敗の本質』ができあがる経緯を読むと、防衛大学時代を含めこの共同研究は4年かかっている。完成しベストセラーになったのは、49歳あたりだ。この本はもちろん私も読んで感銘を受けて、共著者の防衛大学の村井友秀先生を知研でお呼びしたことがある。当時私は客室本部の労務担当であった。大組織の運営に苦心していた頃で、日本の軍隊、とくに海軍の人事制度などを研究していていた。尊敬する以前の上司がこの本を勧めたとき、講演を企画して聞いたとの返事をしたことがある。後にこの時のことが話題になった時「もう、君には何もいうまい」と思ったといわれたことを思い出した。経営学碩学・野中先生は現在80代半ばだろうが、今なお健在だ。大活躍は50代に入ってからになるのは意外に遅い。

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「名言との対話」9月19日。塩川正十郎「母屋でおかゆを食べておるのに、離れではすき焼きを食っておる」

塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年大正10年)10月13日 - 2015年平成27年)9月19日)は、日本政治家衆議院議員を11期務める。

衆議院議員を11期つとめる。福田派に所属。運輸大臣、文部大臣、自治大臣内閣官房長官をつとめる。75歳でのまさかの落選。以来3年8ヶ月の間、捲土重来を期し1万戸の訪問を決意し、濃密なスケジュールでどぶ板活動を展開。79歳で当選。そして小泉内閣財務大臣をつとめた。塩爺(しおじい)と呼ばれ、内閣の重しとして存在感を示した。82歳で引退。83歳、東洋大学総長に就任し、他界するまでつとめた。1980年に運輸大臣に就任した塩川は就任会見で「関西国際空港」に取り組むと発言した。私もJAL時代に、塩川運輸大臣の動向に注目していた。

 2009年、88歳『ある凡人の告白』を上梓する。この自伝を読んだ。中選挙区時代は訓練された政治家が育ったが、小選挙区に時代になって当選を先行する政治屋が増えた。小泉政権は閉塞感を打ち破たっという功、格差拡大と地方の疲弊という罪があった。あと5年やっていれば罪の部分も解消した可能性がある。こういう見立てである。また、この本を書いた2009年時点では、日本を消極的な自己満足主義に陥っていると心配している。

「引退後の)ロスタイムを大事に使いたい」と言った塩川正十郎は、他界するまで東洋大学総長として活躍する。 2014年。白山の東洋大学井上円了(東洋大学創立者。哲学者)を記念博物館を訪問したことがある。あいにく閉まっていたが、キャンパスの建物群の前に塩川正十郎氏の銅像があった。塩川は白山キャンパス再開発事業を決定し、平成17年に文系五学部の白山キャンパスを完成させているなど、東洋大学の中興の祖という碑文があった。

この本の冒頭に写真と一緒に、後漢書の王覇伝にある「疾風は勁草を知り、日久しくして人心を見る」という言葉が記されている。激しい風が吹いてはじめて丈夫な草が見分けられる。つまり、苦難にあってはじめて、人の節操の堅さや意志の強さが分かるという意味だ。近々「勁草塾」という勉強会で講演をすることになってるのだが、本日その意味がわかった。

選挙区制度では「能臣も姦雄も存在しなくなった」とも語っている。小選挙区制度は政権交代が起こる可能性があるというメリットもあるが、政治屋が跋扈尾するというデメリットも塩川は指摘している。財務大臣時代には、一般会計は厳しいやりくりをしているのに、目の届かない特別会計では放漫な支出をしているという意味を込めて「母屋でおかゆを食べておるのに、離れではすき焼きを食っておる」との比喩はわかりやすく世論の支持を得た。この発言は政治家・塩川正十郎の言葉として残る名言となるだろう。 

ある凡人の告白―軌跡と証言

ある凡人の告白―軌跡と証言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土井英司「人生の勝率の高め方」

土井英司「人生の勝率の高め方」(KADOKAWA)を読了。橘川さんが薦めていたので。

以下、琴線に触れた箇所。

 メルマガ「ビジネスブックマラソン」(毎日発行)は編集者を押さえるためのしくみ。精読率の高い読者をキープするためには気合を入れて毎日書くしかない。・損得で選ばない。得られるものが大事だ。・中古品の価格を意識すればムダなものを買わなくなる。・先頭集団と付き合う。・必ず現場を持つ。

「あなた未来を変える10冊」が巻末に紹介されている。読んでいない本は手にしたい。

・「古代への情熱 シュリーマン自伝」:大事を成し遂げた人物は、幼少期の情熱を「持ったまま」大人になった人だ。

・「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(城山三郎訳):息子に残すべきなのは一生の経験から学んだ人生の知恵やノウハウの集積だ。

・「お客様がまた来たくなるブーメランの法則」:本当に愛せる顧客を見つけ、尽くすこと。

・「相場師一代 是川銀蔵」:人が気づかぬところにいかに目を配り、人が気づく前にどれだけ早く行動しているか。

・「人間における勝負の研究」(米長邦雄):悪手を指さないこと。

・「もっと深く、もっと楽しく」(中部銀次郎):3オン・1パットも、4オン0パットも、2オン・2パットも同じ。

・「影響力の武器」:返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性。この6つで説得の技術が向上する。

・「私はどうして販売外交に成功したか」(フランク・ベドガー):ライバルを決して悪くいわない、意見に反論せずに質問によって承認を得る、相手の名前を覚える、相手が買ったものの価値を再度認めてあげる。

・「フォーカス!」(アル・ライズ):ブランドとは、カットして磨いていくダイヤモンド。

・「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム):新しい依存と従属か、独自性と個性とにもとづいた完全な自由か。

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・人間ドック。

・大学:近藤秘書と打ち合わせ

・8月4日の飯田経夫を書いた。あと、3人。

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「名言との対話」9月18日。斎藤真一「「「瞽女」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」と

斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、日本の洋画家作家

岡山倉敷市出身の洋画家・斎藤真一は東京美術学校を出て、中学校の教師になる。37歳の時にフランス私費に留学中にエコール・ド・パリを代表する画家、藤田嗣治と親交を深め、「日本に帰ったら秋田や東北がいいから、一生懸命に描きなさい」とアドバイスを受ける。帰国後、ねぶたを見るために訪れた津軽の宿で「瞽女」という盲目の女旅芸人の存在を知り、上越高田で活動していた瞽女・杉本キクエとの出会う。
1971年には「星になった瞽女みさお瞽女の悲しみ)」で安井賞の佳作に入賞。斎藤自ら瞽女の旅の道のりを一緒にたどった経験をつづった絵日記『越後瞽女日記』、そして『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年、日本放送出版協会)が日本エッセイスト賞を受けるなど画家のみならず文筆家としても活躍した。

2007年に山形の出羽桜美術館分館である「斉藤真一 心の美術館」を訪問した。盲目の女旅芸人である「瞽女」に興味を惹かれて一生、そのテーマを追いかけていく。高校教師をしながら休日は、裏日本の彼女等の足跡を訪ねていく。49歳で18年つとめた高校を辞める。
瞽女は越後高田や新潟長岡に多く、3人から5人ほどがグループとなって、雪解けから12月まで村から村へ旅を続け、味線を弾き、祭文松枝を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち込んだ。雪深い地域のの人々にとって、瞽女の訪問は唯一の娯楽だった。
斉藤の描く絵は、悲しい絵であるが、赤が鮮烈である。「赤より「赤赤」という字に惹かれてならない。「赤赤」は火のように鮮やかでパチパチ音をたてて眼底に焼き付いているような滲みの余韻を持っているから妙である、と自身が語っていた。
旅の中での絵と日記を展示してあった。「「瞽女」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」という言葉を見つけた。

哀しい絵である。見るものに強い印象を与える絵である。斎藤に小説の挿絵を描いてもらっていた小説家・水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂白の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記している。古い民家を使ったこの美術館は、「心の美術館」という名前である。確かに心を打つ、心に残る絵の多い不思議な美術館だった。

 一人の人物でも、記念館以外にも企画展でまたみると違った面を発見し、それらが重層的に重なり合って、人物が立体的に深みをもってみえてくる。同様に、「瞽女」と呼ばれた人たちもこの「名言との対話」で何度か取り上げているが、最後の瞽女小林ハルの生涯など、だんだんと立体的にみえてくる。これが長く続けていることの果実だ。

今週から秋学期。

ヨガ。

大学

・資料整理。授業準備。

・力丸、岩澤両氏と打ち合わせ

・松本先生

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今日の収穫

ゴルフの田岡奈紗「1番になるには一番努力しなければならない」

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「名言との対話」9月17日。川鍋孝文「日刊ゲンダイ

川鍋孝文(1936年6月1日ー2015年9月17日)は、編集者、ジャーナリスト。

早大卒業後、講談社に入社。週刊現代」の記者だった川鍋は1972年に「週刊現代」の編集長に就任し、発行部数を130万部まで伸ばす。1974年、金大中事件の扱いをめぐ軋轢で編集長を解任される。1975年「日刊ゲンダイ」を創刊。1976年のロッキード事件で、新聞と週刊誌の間隙をうめる情報を毎日出し続け、飛躍する。1983年には公称130万部となった。川鍋は1980年から2007年まで編集長をつとめ、以後も社長、会長となり第一線で指揮をとった。サンケイ系の「夕刊フジ」がライバルだ。

このブログでもこの夕刊紙の記事を参考にしている。

・諏訪東京理科大の篠原菊紀教授(脳科学)。やりたいこと、見たいことをやっていると、ニューロン神経細胞)を増やすBDNF(脳由来神経栄養因子)という物質が増える。楽しいことをしている人の脳の萎縮は、していない人の半分。(190417

・行動変容外来。新型人間ドック「ライフデザインドック」。受信者に合った生活指導。「80歳まで働けて、90歳でもゴルフや旅行が楽しめることが目標になる」。慈恵医大横山啓太郎教授。(190409

・『百歳を生きる処方箋』(石川恭三・河出書房新社)。83歳の現役内科医が著者。高齢者の認知症予防と体力維持のため、5つの習慣を提唱している。「一読、十笑、百吸、千字、万歩」。一日1回はまとまった文章を読む、10回は声を出して笑う、100回は深呼吸(1度10回)、1000文字を書く、1万歩歩く」。(190320)。

・前期高齢者に占める要支援・要介護年齢は10年前から5-8年後ろ倒しになっている。平均寿命は1.7歳(男性2歳、女性1.7歳)延びている。2006年5.1%、2016年4.1%。75歳までに要支援・要介護になる人は1-2%。80代前半で10%。9割は介護の世話にならない。(日刊ゲンダイ介護保険事業報告書。永田宏教授。190204)

・チャーチル「選挙に出るヤツなんて、金儲けしたいか、目立ちたがりか、ろくでなしばかり。まっとうなヤツは選挙になんかでない。選挙とは、今の世の中の状況で、ろくでなしのなかから誰に税金を分配させたら相対的にマシになりそうか、消去法で選ぶ行為のことなのだ」「週末オススメ本ミシュラン」は、森永卓郎で、昨日の私のブログで紹介した「日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか」(矢部宏治)だった。「必読と言ってよい良書だ」。(160709)

・細川護煕「若いか年寄りかの分かれ目は、不条理に対して闘う気概があるかどうかということです」140130 )

私も何度か記事にしてもらっている。

・「遅咲き偉人伝」著者で多摩大教授の久恒啓一氏。(北里と鴎外の)2人の共通点は、「はらわたが煮え繰り返っても、「与えられた仕事を懸命にこなし、結果を出したこと」です。(110609)

・日刊ゲンダイ「新刊あらかると」3月24日号に「遅咲き偉人伝」(PHP研究所)が紹介されていた。「高等小学校を卒業して電気会社の給仕や石版印刷の製版工などの職についていた松本清張が、「西郷札」で週刊朝日の懸賞小説に3等入選したのは41歳のときだった。清張は正規の教育を受けなかった分を、酒も飲まず趣味にも時間を割かず、ひたすら努力することで埋めた。作歌となって以後の40年間に書いた本は700冊に上る。他に、「早咲きで、かつ遅咲きの天才」寺山修司や、森繁久弥与謝野晶子など計19人を紹介。大器晩成を自負する人を励ましてくれる一冊。」(110324)

・「広く、深く、長く、人々に影響を与える人こそ偉大な人です。崋山をはじめ、遅咲きの人は世に出るまでの研鑽期間や長い間仕事をしている人が多い。自身の力でじっくりと成熟しているので、豊かな人生を謳歌しています」「そして、公人(仕事)、私人(家庭)、個人という3つの立場をバランスよく保ち、うまく使い分けています」(110117)

今年の8月16日には、五木寛之の連載「流されゆく日々」が目にとまった。「原稿用紙が消える日」というテーマの文章。この連載は3枚弱だそうだが、30年、10715回続いている。手書きだそうだ。この連載だけでも万日だから、五木寛之は鍛錬の「錬」だろうか。その境地に達しているのだろう」(190816)と書いている。

川鍋孝文の創刊した「日刊ゲンダイ」には、外出時によく買う。川鍋の言葉を探したが、見つからなかったので、今も毎日刊行し続けている「日刊ゲンダ」という言葉を名言としてみた。