日本ペンクラブの機関誌「P.E.N.]5月号:コロナと世界の動き。納得と合意。

日本ペンクラブの機関誌「P.E.N.]5月号が届いた。

  • 国際ペンの動き「コロナウイルスをめぐって」:イラン「新聞・週刊誌の発行と配布の停止」。インド「メディアに対して肯定的な情報のみを流すように圧力」・バーレーン「刑務所から釈放したが、人権活動家、ジャーナリストは含まれていない」。トルコ「囚人の解放に、反テロ法で投獄されているジャーナリストが含まれていない」。ロシア「ラジオジャーナリストを起訴」。中国「新疆ウイグル地区図書館で特定の図書を燃やす」「香港の出版人に対し10年の懲役刑」。ミャンマー「軍批判した詩人を起訴手続き」。メキシコ「言論人が銃撃され死亡」、、。(国際ペンホームページ。2019年11月ー2020年4月)。世界中で政府は弾圧を繰り返している!
  • 吉岡忍会長:「日本経済の底が浅いのではないか」「情報が隠されたときに社会はますます危機に陥る」「納得と合意の社会的基盤がつくれないまま今に至っている」「文学というのは長い間、危機の中にある人間の姿を描いてきました」「人間の防護壁を壊すものが現れたことは、、近代世界の人間観を変える」。「納得と合意」について、私の『合意術ー深堀る型問題解決のすすめ』(日経)を贈ろうか?

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「全集」のゲラの残りを処理。電話:松田、樋口、橘川。

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寝る前にヨガ2本。

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「名言との対話」5月26日。東龍太郎「東副知事・鈴木都政

東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年明治26年〉1月16日 - 1983年昭和58年〉5月26日)は、日本医学者東京都知事

学生時代はボート選手として活躍。1934年東大教授。1946年教授兼任で厚生省医務局長となり、医師国家試験の導入など医療制度の改革に当たる。その後、茨城大、東邦大の学長歴任

1959年、社会党推薦の有田八郎を破り東京都知事に当選して2期8年間在任。その間、1964年の東京五輪を目標に道路、地下鉄などの整備を進め、在任中の五輪を成功させた。都知事退任後は日本赤十字社長などを務めた。NHK大河ドラマ「いだてん」で、東龍太郎松重豊が演じた姿を覚えている。後にインタヴューで松重は東龍太郎という人物を「人間的に魅力がある」「愛すべき人」「本当に人柄がいい」と語っている。

スポーツ医学を専門とする医学者の東龍太郎は、日本オリンピック委員会会長、国際オリンピック委員会委員であったが、都知事になるにあたって、行政には疎遠であったため、内閣官房副長官であった鈴木俊一を副知事として迎え、実務をまかせている。

東の後、革新の美濃部都政が12年続いた後、鈴木俊一都知事選に立候補する。この時、東は次のように挨拶した。「私はオリンピック知事といわれ、また東副知事、鈴木都政といわれていたことを承知しています」といい、そして複雑多岐な都政の運営は鈴木のような卓抜した行政手腕と、広い視野の政治的見解の持ち主の補佐なくしては完うしえないことをよく承知していたといい、鈴木をおしている。誰に対しても分け隔てなく穏やかに接する人柄が、東龍太郎の持ち味だった。

東京オリンピック」の東龍太郎、「物価と福祉」の美濃部亮吉、「財政再建」の鈴木俊一の後は、「都市博中止の」青島幸男、「ディーゼル規制」の石原慎太郎猪瀬直樹舛添要一、そして「豊洲移転」の小池百合子と続く。3期以上当選した美濃部、鈴木、石原の共通点は、政策の特徴が鮮明であり、公約に対する執着があったというのが、『東京都知事列伝』の著者・青山 佾元副知事(石原時代)の分析だ。その時代の「東京の問題」を解決すると主張する知事を選ぶのがいいという。

2020年の都知事選がまじかに迫っている。近年、都民は知事選びに失敗している。新型コロナ禍で揺れる東京の次のテーマは、ウィズ・コロナ、ポスト・コロナの時代のニューノーマル(新しい生活様式)だろう。どんな候補が回答を見せてくれるだろうか。

東京都知事列伝  ―巨大自治体のトップは、何を創り、壊してきたのかー

東京都知事列伝 ―巨大自治体のトップは、何を創り、壊してきたのかー

  • 作者:青山 佾
  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

「全集」が進行中:寺島実郎さんの推薦文。ゲラのチェック。

「全集」が進行中。

  • 寺島さんから推薦文をもらった。内容に感激。電話してお礼。最初に会ったのは1982年頃からだから、親交は38年になると確認。
  • 自宅で、全集のゲラをチェックし、修正をする。3分の2まで終えた。明日には終えたい。
  • クラウドファンディングは本日締め切り。目標額50万円で、53人から62万4千円が集まった。

・午前は大学でひと仕事

・夜は、デメケンのZOOM会議。グローバル、ICTの最前線、最先端の人たちの動きは刺激的だ。

・九州の母に電話。

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「名言との対話」5月25日。坊屋三郎「あんた外人だろ、英語でやってごらん」

坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田俊英、1910年3月28日 - 2002年5月25日)は、日本芸人俳優 享年92。

北海道夕張に生まれた坊屋は、中学時代、弓道では全国大会で個人優勝する腕前だった。住職にさせられるはずだったが、藤原義江に憧れた坊屋は、卒業すると歌手になろうと上京する。日大宗教科に入るが、やはり志は忘れない。レビューの演出家を目指すために、吉本興業の舞台に立ち、27歳で益田喜頓らと「あきれたぼういず」が発足する。エノケン去り、ロッパ去った浅草を救ったと自負する活躍だった。テーマ曲は「チョイと出ましたあきれたぼういず、暑さ寒さもちょいと吹き飛ばし、春夏秋冬明けても暮れても、歌いまくるがあきれたぼういず」だ。アメリカ興行を終えて、このグループは解散する。坊屋は映画界に入っていく。

 1974年には、松下電器のコマーシャルで一世を風靡した。外人と坊屋が「クイントリックス」というテレビの商品名を言い合うという趣向で、「英語でやってごらんよ」「なまってるよ」と指導するなど、カタカナ読みの坊屋が勝利するという企画だった。英語コンプレックスを逆手に取ったのだ。

アマゾンで手に入れた坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』(博美館出版。1990年刊)には、「坊屋三郎と楽しい一夜を」という小さな紙きれが挟まっていた。芸能生活55周年記念・傘寿・出版記念パーティ(上野精養軒)の誘いだ。出版記念パーティのやり方にはこういう手もあるのか。

「ホレた女よりも誰よりも浅草を愛してんだ」というように、坊屋のライフワークは浅草だった。坊屋は浅草の観音さまを中心に、年中行事、職人芸、食べ物をなどを撮影し、『江戸だ祭りだ浅草だ』というタイトルの映画を3年がかりで80歳で完成させている。

中学時代に弓道で鍛えた体は頑強で、趣味となったゴルフはハンディ8の腕前だった。晩年は長寿を逆手に取って「まだ生きてます。」という挨拶をツカミにしていた。

坊屋三郎を語るには、やはり「ナショナル・クイントリックス・パナカラーのテレビコマーシャル「クイントリックス」は欠かせない。爆発的な人気で全国のお茶の間が沸いた。当時61歳だった坊屋が、90歳で現役最高齢コメディアンとしてテレビに登場し、デープ・スペクターと同じセリフの掛け合いをやっている映像をみた。当時も笑ったが、今回も笑わせてもらった。このコマーシャルは第1回ビックリハウス賞を受賞した。30年後にも、人々の記憶にあるというから、坊屋三郎の代表作だろう。

晩年の坊屋のツカミは、「年はとっても坊屋でス」だった。この人の人生は、筋が通っている。

 

 

「全集」にかかわる作業。ゲラのチェック、PR用文言、カバーデザイン。「ファミレスで 泣きわめく子ら 生きている」。

 「図解コミュニケーション全集」第一巻のゲラのチェック、修正作業。3分の一。

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図書流通センター用PR(105文字以内)案。 

久恒啓一「図解コミュニケーション全集」全10巻の第一巻「図解コミュニケーション原論」。

全体の構造と部分同士の関係を表現できる画期的な「図解コミュニケーション」について四半世紀にわたり執筆した膨大な書籍を体系化。現代日本の病である「考える力」の欠如を救う「図解思考」の古典の第一弾。

以下、「全集を刊行するにあたって」の後半部分。

1990年の最初の単行本の刊行以来、30年の間に、さまざまの分野に首をつっこみ、メディア界からの注文を必死でこなしているうちに、気がつくと「図解コミュニケーション」の世界は自然に体系化されてきました。気がつくとビジネスの現場をめぐるさまざまなシーン、問題への「図解コミュニケーション」を活用した回答が厚みを持つようになってまいりました。そして執筆、取材、講演、研修などを含め、タテは中央省庁から村役場まで、そしてヨコは大企業から中小企業まで、数多くの現場に向き合って、この概念の応用と適用に取り組んでまいりました。その結果、「図解」というキーワードは少しづつ広がってきたのではないかと考えております。

しかしながら、著作が手に入らないという苦情も多く、また単行本だけでは、広い「図解コミュニケーション」の世界を網羅することはできないため、この度、著書刊行30周年を記念して、ひとつの区切りとして「図解コミュニケーション」というキーワードでこれらの著作の中から主なものを選び、全集として体系化してみようと思い立ったものです。

『図解コミュニケーション全集』は、以下のとおり全10巻を予定しております。第1巻「原論編」。第2巻「技術編」。第3巻「実践編」。第4巻「展開編」。第5巻「ワークデザイン(仕事論)編」。第6巻「ライフデザイン編(人生戦略)」。第7巻「応用編ー名著の図読」。第8巻「応用編ービジネス理論」。第9巻「応用編ー日本探検」。第10巻「応用編ーウェブ時代をゆく」。

もとより、浅学非才の身にありながら、「全集」を出すということに躊躇を感じますが、次のステップに向けて挑んでみたいと思います。

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ファミレスでゲラのチェックをした。緊急事態宣言解除の前日だが、家族連れが繰り出して混んでいた。子どもたちが思う存分にエネルギーを発散させている。「ファミレスで 泣きわめく子ら 生きている」。

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「名言との対話」5月24日。大宅昌「人が己に対して冷たいと思う前に、己が人に対しどれほどの温かさをなげているか」

大宅 昌(おおや まさ、1906年10月19日 - 2007年5月24日)は、評論家大宅壮一の妻で、大宅壮一文庫理事長

富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館大宅壮一文庫」の理事長を1971年に発足以来、終生務めた。長男は夭逝した大宅歩。三女映子はジャーナリスト。老衰のため横浜市の自宅で死去。100歳没。

 大宅壮一は70歳で亡くなっている。6つ下の昌は100歳まで到達したセンテナリアンである、夫の死から36年を生きた。1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。

2016年11月22日の「名言との対話」で私は大宅壮一を取り上げている。マスコミ界の怪人で造語の名人だった。「一億総白痴化」「恐妻」「駅弁大学」「青白きインテリ」「口コミ」などは大宅の造語である。70歳で亡くなった大宅壮一は「しまった。ライフワークを手がけるのが10年遅かった」と痛恨の言葉を残している。大正時代をライフワークとして書きたかった大宅がサンケイ新聞に連載した『炎は流れる』は、1963年元旦から1年10か月、4444回で中止となったのである。この人にして突出した名著、満足できる書物を遺すことができなかったのだ。高齢社会においては、「ライフワークをつくりましたか」、この問いが重要になる。

私のブログに大宅壮一という名前は頻繁に登場する。それは本人が在世中に発足した「大宅壮一ノンフィクション賞」を受章した本の読後感が多い。桐島洋子佐野眞一、近藤史人、森健、中村ひろ子、児玉博、山崎朋子米原万里深田祐介辺見じゅんイザヤ・ベンダサン安田峰俊などの受賞作品を読んでいる。こういった名前と作品を眺めると、大宅壮一という人の偉大さがわかる気がする。昌は在世中は、大宅壮一文庫理事長として表彰式には必ず出席した。

今回読んだ妻・昌の『大きな駄々っ子』(文春文庫)でも、「男子一生、二人以上の子を育て、家を建てることができれば、一人前といえよう」「男の顔は履歴書」「生まれた以上は人間として、出来るだけの仕事をしなければならない。しかも残る仕事を」などの名言があった。

昌の観察眼は壮一の日常や仕事への取り組みを教えてくれる。いわく、メモ魔、野次馬旅行、そして「歩きながら考え、読みながら考え、寝ながら考え、食事しながら考え」るというすさまじい仕事ぶりを伝えてくれる。

期待していた長男・歩は、ラグビーの後遺症で33歳で夭折する。その闘病生活と夫婦の心情を描いている。歩が書き残した遺稿である詩や文をからなった『詩と反逆と死』は、1966年に刊行されベストセラーになった。私も大学時代に大いに感激して読んだ本だ。

昌は壮一の自戒の言葉「美しく死ぬことはやさしい。しかし美しく老いることはむずかしい」を自らに向けた最高の人生訓として、結婚生活とほぼ同じ時間を未亡人として過ごしている。壮一のそばにいたこともあるのだろうが、文章もなかなか味がある。亡くなった偉人の妻が、その夫を語る本がある。そこには本人のほんとうの姿や、語りたくなかった秘密が登場するから、私もよく読むことにしている。その中でもこの本は出色の出来だ。

子どもたちの配偶者にも「当った」し、子どもたちは自分のまわりに住んでくれるなっど、晩年の昌は幸せだった。壮一から恐妻とからかわれたが、本人は「私は家具の一つであった」という。その温かい人柄は、エッセイの中で十分に知ることができる。

 

 

梅棹忠夫著作集の図解化PJ。「日本史のしくみーー変革と情報の時代」(第5巻「日本研究」)

 梅棹忠夫著作集第7巻『日本研究』の図解化が進行中。

「日本探検」を終えて、次の「日本史のしくみーー変革と情報の時代」が終了。

「水軍説」「陸軍国の誕生」「おんな・情報から実体へ」「合理化の時代」「世界経済と政治責任」「中世情報革命」「幻のベンガル湾海戦」「求心国家の辺境」「教育による革命」「情報網の建設者」「化成150年」。あー、面白かった。

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多摩大経営情報学部のZOOMを使った午前のFD勉強会に参加。テーマは「オンライン授業」。常勤・非常勤の54名が参加。参考になった。

対面・顔出し。効果高い。集中力。授業マネジメント。有線。通信補助。ブラウザから入る。サイインイン。名前。姓名(教員)・名前(姓名)、投票機能。クリック機能。プライベートチャット禁止。投票を有効に。レポート提出一覧表。使用状況レポート。大学アドレスで。アップデートを必ず。新規は一回。メールは08、1220、18。掲示板は即時。ハイブリッドとハイフレックス。ZOOM5.0。教育コロナ会議。チャイム。遅刻対応。通信問題。選択問題。成功。

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 「名言との対話」5月23日。美濃部達吉学ぶ者は山に登るがごとし」

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年明治6年)5月7日 - 1948年昭和23年)5月23日)は、日本法学者憲法学者政治家東京帝国大学教授。

兵庫県高砂出身。兄・俊吉は後の朝鮮銀行総裁。達吉は帝大法科を卒業後、内務省に入省するが性にあわず2年で大学に戻る。ヨーロッパ留学後、1902年に29歳で教授。39歳、『憲法講話』を刊行、天皇機関説論争が起こる。護憲運動を支持。1931年、満州事変勃発、軍部批判を展開。1932年、貴族院議員。1932年、滝川事件を批判。1934年大学を退官。1935年、貴族院天皇機関説が批判される。不敬罪で告発される。主著が発禁処分。議員辞職。1946年、枢密院顧問。1948年、死去。享年75。

明治憲法専制君主が主であり、立憲君主が従であるの二つの側面を持っていた。建前は専制天皇だが、実際は藩閥軍閥、政党、官僚や陸軍らが担い、元老が調整役を果たしていた。旧制高校などの高等教育を受けた指導層には立憲君主制を教えた。そのため密教と呼ばれた。

明治憲法の二重構造の枠組みの中で議会・政党を中心とする政治の正当性を論理的に説明したのが、天皇機関説である。国家は法人であり、主権は天皇個人にはなく、憲法の範囲内で主権の行使に携わる制限君主とした。実際の政治は内閣に施政の主導権があり、天皇は政治に積極的に関与すべきではないとした。日本は古来から国政にあたらなかったことで世界無比の尊厳を保持しえたと述べた。

吉野作造(1878-1933)とは5歳違いだった。美濃部は法律、民政主義。吉野は政治、民本主義。二人は大正デモクラシーの先導者だった。美濃部が扉をたたき、吉野が扉を開いた。第一次大戦後にピークを迎えた大正デモクラシーは1905年から1932年、明治38年から昭和7年まで、日露戦争から満州事変、五・一五事件まで四半世紀続く。

昭和天皇自身は、国家主権の方がよいと思う、ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいと語ったというから、天皇機関説に近かったと、鈴木貫太郎侍従長は述べている。

さて、そういう本物の学者であった美濃部は、「学ぶ者は山にのぼるがごとし」という名言を残している。高い山を、一歩一歩登っていったのであろう。もって銘すべし。 

 

 

 

 

リモート授業(学部・社会人大学院):進歩点、問題点と解決案。

学部の「ビジネスコミュニケーション」の3回目の授業。

進歩:白版への板書の代わりに、アイパッドを使うやり方を開発した。グループワークでは巡回して様子を見ることができた。

ZOOMでのグループワークについての受講者の感想。回線が重くなり不安定、手書きの図解がうまく見せられないなどの問題がある。うまくいったグループとそうでないグループがあったが、これはリアルの授業と同じだ。

  •  前回よりグループワークは盛り上がって楽しかったです。グループワークはもう少し人数が多い方が活発にできると思った。
  • リモートだと顔が見れるのは良いが紙などに書いたものを見せようとしても文字が小さく見える。そのため普段より大きな字で頭を書くことを意識した方が良いと思った。
  • グループワークでは誰もボイスをつけません。
  • ズームでのワークは画質や音声に問題があり、なかなか難しいなと思いました。
  • ズームで図解を一緒に紹介するのは初めてです。そしてグループのみんなが発言しました。
  • グループワークで頭の整理をしましたが、カメラ越しなのか見ずらかった。
  • ズームではやはりわかりづらいところが多いのでやはり対面式でやっていきたいです。
  • ズームのグループワークを使い発表したが、オンライン上で発表した上で音声が途切れたり、上をうまく見せられなかったりと普段の対面の授業よりも難しいことが多い。
  • 少し音が聴きづらい部分があった。
  • オンライン上の講義なので仕方ないが、グループワークの際に作った図が見にくかった。
  • 人に見やすいように大きく書こうと思う。
  • スライドは見にくいです。声もエコーと次の言葉がぶつかって聞きにくいです。
  • グループディスカッションはなかなかうまくいかなかった。
  • 皆しっかり発表できていたと思います。少し図がみずらかったのですが、それはオンラインでは仕方ないことなのだと思いました。
  • 画面越しでは全体があまり見えなくて他の人の図がよく見えませんでした。
  • ウェブ授業に双方向性を求めるとクオリティが低下するのではないでしょうか。

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朝:寺島実郎さんから電話あり。私の「図解コミュニケーション全集」の推薦文をこの土日に書くということで、目次などを高野課長経由で渡すことになる。高野課長に手交。

大学生の就職について高野就職課長と雑談。コロナ禍で就職・人材獲得の戦線は様変わりの様子だ。企業格差。大学格差。地方人材獲得、、、、。リモート授業の様子のPRは追い風にできるとアドバイス

午後:・出版社で、「全集」のゲラをもらう。A5判で560ページの大著。表紙デザインは来週決定する。

図書流通センター用PR(105文字以内)案を決定。久恒啓一「図解コミュニケーション全集」全10巻の第一巻「原論編」。「全体の構造と部分同士の関係を表現できる画期的な「図解コミュニケーション」について四半世紀にわたり執筆した膨大な書籍を体系化。現代日本の病である「考える力」の欠如を救う「図解思考」の古典の第一弾」。

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夜:大学院(社会人)の「インサイトコミュニケーション」の授業の第1回。ZOOMを使ったオンライン授業。7人が参加。うち留学生が2人。栃木県那須からの参加者も。18時半から21時40分。

各自が描いた手書きの図解をパソコンのカメラの前に掲げてプレゼンをするというやり方を試したが、やはり問題があった。受講者と知恵を出し合って3つの方法を使えることがわかった。チャットにアップ、各自が共通にアップ、フェイスブックにアップ。このうち、全員が容易に参加できるフェイスブックでグループをつくり、そこにスマホで撮った写真をアップすることにした。本日描いた図解の修正版を後日アップしてもらう。

以下、今日の授業の受講生の感想。

  • 今日感じたことは、図解は簡単に見えるけどとても難しいということでした。また、すぐ諦める自分の性格も見えたと思います。箇条書きに大小、関係、重なりが見えないという観点がまず新しかったです。また、自分がちゃんと自分をふくめて周りを見ているかという疑問が湧きました。私はSIerで総務と営業管理とHRの仕事を少しずつ掛け持ちしています。先生が自分を真ん中にするという意味がわかりました。鳥の目です。ただ、私の仕事となると最初に書いた社内、社外という切り口はあまり有益でないと理解しました。書き直しします!次回も、よろしくお願いいたします!
  • 印象に残ったのは、■重要なテーマを考えるときに一番大切なのは「全体の構造と部分同士の関係」を理解すること。論文構成に役立つと思う。 ⇒「全体の構造」はお話からの想像だが、自分なりの方法論(数字と論理)で「全体を把握すること」を努力する。ことが重要 。「部分同士の関係」は、おっしゃったキーワード」がポイントと考える。 ■「私の仕事」に関しては、上記の全体感との関係で、 「全体の問題」と「個別の丁寧さを漏らさない、大切さ」だと理解した。 ■3つの例のWork SHOPだが、文章だけだと、人によって理解があまりにも違うことがよく理解できた。 正しいかわからないが、「図」に場合は「目」からの情報インプットが頭の整理に相当助けになっている、のではないか。文章だと「脳へのインプット」のみの違いがあるように感じる。

  • 私はこれまで文章を重視する資料づくりを行ってきたため、本日の先生の講義はとても刺激的でした。具体的には、「図は考えざるを得ない」、「図解だと全体を考えることができる」、などの言葉もなるほどと思いましたが、特に「図は自動的に進化する」の言葉が印象に残っています。本日の講義をお聞きし、図のポテンシャルを感じました。また本日ご教授頂いた、キーワードだけ書いていく→その後関係づけていくのような方法を今後訓練すれば、現在 私が 陥っている文章コミュニケーションから脱却できるのではとも思いました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
  • 文章理解の限界、箇条書きは分かりづらいの原理を知り、図解は分かりやすいコミュニケーションの手法だと初めて学び、今日の授業で今までの自分の文章やコミュニケーション概念に大きな変化が始まったと思います。特に、キーワード→○で囲む→文章を書くというシンプルな流れは、先ずは自分理解から始まることの大切さ、図解はそれを分かりやすく伝える技術であると感じています。この理論の初体験を大切に、今後は一歩ずつ自分の技術向上と成長を目指したいと思います。ありがとうございました。
  • <学んだこと>・箇条書きでこぼれ落ちることは理解していましたが、最後に仰った「頭が動かなくなる」という点が目からウロコでした。実際に課題でやってみて本当にそれを痛感しました。PCに慣れればなれるほど、楽して箇条書きにしてしまっていた自分を反省しました。・図は頭の中が見えるから恥ずかしくなる、という点も勉強になりました。だからこそ、お互いを知るためにとても役立つツールになると思いました。

以下、留学生。

  • うまくコミュニケーションできると論文を書けるように久恒先生のインサイトコミュニケーションを受けました。今日は第一講の授業で図解の全体の構造と部分の関係の構築や、図解を書くとき自分(紹介したこと、つたえたいこと)を中心して作るなどを学びました。図を描きながら授業を受けることはとても理解できるし、楽しいです。そして、新聞、本も図解で作けることがはじめて知っています。良い図を描けるように自分も練習します。メール遅くなって、申し訳ございません。日本語はまた勉強しているので、今度書いた感想短く,次は長く書けますように頑張ります。
  • 学んだこと:図面でコミニケーションの工具であることを理解しました。うまく説明できない時、図面を使って、説明の内容に含まる全体像とポイントとの関係を表示できます。図面で表示すると、自分の頭で想像している画面がそのまま相手に伝えます。ピクチャーみたいですね。感想:①大変学びました。図面の機能とコミュニケーションの関係など、深く理解でした。②画面共有する時、大変でした。

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「名言との対話」5月22日。清水俊二「映画を愛し、映画を理解する力をそなえていること。日本語、とくに話し言葉に熟達していること。百科事典的な雑知識に好奇心を持っていること」

清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1988年5月22日)は、日本の映画字幕翻訳家、映画評論家、翻訳家。

東京帝国大学経済学部卒業後、MGM映画大阪宣伝部。1931年に渡米しパラマウント映画の字幕製作を始める。生涯で2000本の映画字幕をやるなど、字幕翻訳の世界を牽引した。

自伝『映画字幕(スーパー)五十年』は、日本の映画史を振り返る上でも一級の資料だ。この本の紹介文が清水の映画字幕人生を説明している。「1931年初冬、ニョーワーク。42丁目ではアステアが踊り、裏街ではマフィアが暗躍するこの街に、清水俊二はひとり降り立った。それは日本語スーパー字幕史の本格的な幕開けだった。「七年目の浮気」「ライムライト」「真昼の決闘」など、以来手がけた作品は千数百本!飽くなき好奇心のおもむくままに多彩な経歴を歩んできたスーパー字幕の第一人者がその波瀾に満ちた50年を振り返る。字幕草創期の秘話、谷崎潤一郎との一夕、熱愛する宝塚、と次々繰り出される話題に興味は尽きない」。この本は1985年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。優れたエッセイストでもあった。また、アメリカ文学、ミステリ小説、映画関連本の翻訳。レイモンド=チャンドラーの翻訳でも知られた。

 1979年、映画字幕についての功績で、勲四等旭日小綬章を授与。1984年、映画翻訳者協会(現: 映画翻訳家協会)を設立し代表をつとめる。

映画字幕界というマイナーな世界の先駆者だが、弟子には1936年生まれの戸田奈津子、1959年生まれの太田直子(故人)らがおり、こういった人たちのおかげで私たちは洋画を楽しめてきたし、今後もお世話になるのだ。亡くなる前日まで取り組んでいたチャンドラーの『高い窓』の翻訳は未完のまま残されたが、戸田が後を引き継ぎ完成させた。

亡くなる前日まで取り組んでいたチャンドラーの『高い窓』の翻訳は未完のまま残されたが、戸田が後を引き継ぎ完成させている。

字幕翻訳については、原作を忠実に翻訳していない、誤訳だらけだという批判は常につきまとう。「1行10字、2行まで」という制約の中で、意訳をせざるを得ない中で奮闘しているとして、戸田奈津子が批判にさらされたときには、清水は論陣をはって擁護している。

以下、字幕翻訳者たちが語るこの世界の様子である。

清水俊二『映画字幕(スーパー)の作り方教えます』 (文春文庫) 。「1行10字、2行まで―。映画字幕の制約はまだまだある。この道50余年の著者が遺した字幕作りの真髄。映画字幕作り57年、その数なんと2千本に及ぶ斯界の第一人者が語る草創期の苦心から、最近の「フルメタルジャケット」事件まで。字幕翻訳の秘訣は「正しく、こなれた日本語と、雑学への限りない好奇心」と説く著者が明かす名訳、誤訳、珍訳の数々。63年5月、急逝した著者が遺した映画ファン必読の書」。

戸田奈津子。『字幕の中に人生』 。「一秒四文字、十字×二行以内のせりふ作りにすべてを賭ける映画字幕の第一人者が、『第三の男』の名訳を目にして以来あこがれつづけた字幕翻訳者への道が『地獄の黙示録』で花開き、以来人気と実力を得るようになった今日までの半生をたどる」。

太田 直子『字幕屋に「、」はない (字幕はウラがおもしろい) 』。「万国の字幕派よ、団結せよ!字幕屋稼業30年、オオタ氏の嘆き節、ボヤキ節炸裂。字幕翻訳の苦労を知ると映画がもっと楽しくなる!映画ファン、字幕派におくる痛快エッセイ」。

清水の翻訳で有名になったのは、映画「旅情」のセリフの「スパゲティを出されたら、スパゲティを食べなさい」だ。イタリアに旅したヘップバーンが真剣な恋愛を望む場面で、「あなたはアメリカからステーキを食べたくてベネチアに来たのでしょうが、ラビオリを目の前に出されたら、だまってラビオリを食べるものですよ。」というセリフをわかりやすく書き換えたものだ。

 映画の字幕翻訳は、直訳しても文章にならないし、意味が通じない。やはり日本人に合わせた思い切った意訳が必要なのだ。また言葉というものは時代とともに変化し続けるものだから、なかなか難しい面がある。

清水俊二は、映画を愛していること、話し言葉に熟達していること、それに雑知識に好奇心を持っていることがすぐれた字幕翻訳者の条件だとしている。そうでなければ、世界中の、あらゆる時代を生きた人々の人生ドラマを、短い言葉で表現することはできないだろうと納得する。清水が先導した映画字幕翻訳者は、大いなる教養人の系譜なのだろう。この系譜が映画愛好者たちを生み出して、日本の映画文化を高めてくれているのだ。

 

 

 

 

 

「週刊文春」5月28日号

週刊文春5月28日号。 

  •  「黒川検事長スクープ」:「法が終わるところ、暴政が始まる」。情報源は産経新聞社だったのはきな臭い。壊れた官僚機構の再建は容易ではないと思う。
  • 川柳「ネクタイを外し世間が広くなる」(大阪府 森純也)。
  • 東京女子医大「自宅学習では録画された講義を視聴、、同時双方向型の遠隔授業でなければ、文科省に単位として認められない可能性がある、、、そのようなシステムは使えず、一刻も早く再開しないと、、」。(対応できていない大学も)
  • 所功歴史学者)の「家の履歴書」。「人間に関心があり、誰がどんな家で生まれ育ち、どこへ移り住んだか、とても興味があります」。

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大学

・授業の資料整理

・総研の松本先生

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 「名言との対話」5月21日。田中館愛橘「自分が偉い人になったら、他の人を偉い人にすると思ってやらなきゃだめですよ」

田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、1856年10月16日(安政3年9月18日) -1952年5月21日昭和27年)は、日本の地球物理学者。

東大物理学科を卒業後英国、ドイツに留学。東大教授を21年間つとめる。地球物理学では、地磁気地震を研究し日本の地球物理学確立に尽力し、木村栄らを指導して水沢緯度観測所をつくった。草創期の航空工学でも活躍し、国産ジェット機YS11の開発の一翼を担った。帝国学士院会員、貴族院議員として震災予防会、東大航空研究所等の設立に貢献した。またメートル法普及にも尽力。「ローマ字運動のためにあり金全部叩いちゃった」と孫娘からいわれるほどローマ字の普及にも努めた。1944年に地球物理学と航空学への貢献で岩手県人としてははじめて文化勲章を受賞。

田中舘愛橘の曾孫である松浦光『ジュニアノンフィクション 田中舘愛橘物語』(銀の鈴社)を読んだ。子ども向けの本はエピソードが満載で、ありがたい。

同郷の新渡戸稲造とはほぼ同じ時期に上京し東京英語学校で友人になっている。二人ともズーズー弁を捨てなかった。水魚の交わりであった。新渡戸稲造キュリー夫人と田中舘愛橘は3人とも国際連盟の知的協力委員会の委員となっている。1910年にはノーベル賞の推薦委員だった。その国際人・田中舘愛橘は生涯ズーズー弁で通しているのも面白い。

田中館愛橘は、様々の分野で仕事をした人であるが、一方でグローバルに活躍した。生涯において国際会議の出席数は68回に及んでいる。国際会議では、役職は委員長、議長、会長、日本代表、東洋代表であった。ヨーロッパの学者からは「地球には2つの衛星がある。1つは月だが、第二の衛星は田中館だ。彼は1年に1度地球を回ってやってくる」と言われたというエピソードがある。

膨大な数の和歌を詠んだ。その和歌はローマ字が多かった。「ひんがしの浦風よぎて福岡の里にしめゆう折爪の岳」「神路山霞の奥を踏み分けて問はばや木々の花の盛りを」。日本語をローマ字にして世界の人が日本語を読めるようにしようというローマ字運動の熱心な推進者だった。昭和天皇へのご進講では「田中館、きょうはローマ字の話はしないのか」と言われている。

60歳になって大学在職25年の祝賀会の席上で「辞職願をただいま提出してきました」と述べ参加者を驚かしている。この行為が大学の定年制の礎となった。

1999年に郷里の二戸市二戸市シビックセンターに田中舘愛橘記念体育館がオープンした。世界的デザイナー福田繁雄デザイン館も併設されている。私はここを訪問したことがある。ここには1万点の資料が寄贈されていた。

地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。

梅棹忠夫先生は晩年に役職を整理したが、日本ローマ字会はだけは残すと話したのを聞いたことがある。社団法人日本ローマ字会での先生の講演の引き出し役を仰せつかったことがある。1885年に外山正一らが羅馬字会を組織したことが始まりで創立会では会員数は6876人だった。その後、1921年に日本式ローマ字の実行団体として日本ローマ字会が設立され、田中館愛橘博士が会長となった。1926年社団法人日本ローマ字会となり、1993年に梅棹忠夫先生が会長に就任している。当時は梅棹先生は名誉会長だった。

1950年文化功労者となり、1952年95歳で東京経堂の自宅で永眠した。勲一等旭日大綬章を授与された。長寿であった田中館は、「長生きの法をひとくちで言えば貧乏をしていることだ」と述べている。そして雑誌『ローマ字の世界』に書いた「わが健康法」で健康法を明らかにしている。「眠ること、便通をよくすること、下着の着替え、入浴」の4つであった。

2012年の没後60年には東京上野の科学博物館で「日本物理学の祖 田中舘愛橘」という企画展が行われている。日本物理学の祖といわれた田中館愛橘には、弟子に偉い人がたくさん出ている。地球物理学の寺田寅彦、本多光太郎。Z項の木村栄、原子モデルの長岡半太郎ノーベル物理学賞湯川秀樹は孫弟子にあたる。

1951年の「子どもたちへ」という授業の録音の記録がある。「これからの仕事でも何でも一般の人がわからなくちゃいけない」とローマ字をすすめている。また「全体の人皆が偉い人にならなきゃだけですよ」、そして「自分が偉い人になったら、他の人を偉い人にすると思ってやらなきゃだめですよ」と諭している。田中館愛橘は本当に「偉い人」だった。

松浦明『田中館愛橘ものがたり』(銀の鈴社)

 

 

10万円とマスク

金曜日の学部と大学院の授業の準備。

ZOOMで近藤秘書と打ち合わせ

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・ 八王子市役所から「10万円」の申請書が届いた。オンラインより郵送の方が早い。

・マスクはまだ届かない。「アベノマスク 待ってないけど まだ来ない」。

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「名言との対話」5月20日。萩原井泉水「物のあはれも人のなさけも身にしみて感じられるのは「旅」である」

荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年明治17年)6月16日 - 1976年昭和51年)5月20日)は、日本自由律俳句俳人、俳論家。

麻布中学の頃より俳句を作り始める。一高を経て、1908年東京帝国大学文科大学言語学科卒業。1911年新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。中村不折が表紙画を描いた「層雲」を主宰する自由律俳句の創始者だとなる。尾崎放哉、種田山頭火らを育てた1914年自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行。1915年、季語の使用を絶対視しない「季語無用」、575という定型を必要としない自由律をあわせた「無定型無季自由律俳句」を提唱した。

妻と母の死去以降各地への遍歴の旅が多くなる。戦後も層雲の主宰として自由律俳壇を牽引し、1965年、自由律の俳人としては唯一となる日本芸術院会員に選ばれる。また昭和女子大学の教授も務めた。 

1937年発刊萩原井泉水『芭蕉を尋ねて』(新潮社)を読んだ。「おお、伊賀に来た」と記す芭蕉の故郷である伊賀から始まり、大和、駿河三河尾張、美濃、伊勢、近江の義仲寺の芭蕉の墓を巡る旅行記である。「芭蕉の遺蹟を尋ねて歩きたい」は久しい希望だった。その地に立って、しみじみと古人の心を自分の心にうつしてみたいという気持ちだった。芭蕉を語り、自らを語る本である。

芭蕉の真蹟。眼福。佳い物を見ることを得たのは嬉しい。『笈の小文』の詠草と本文の違いを発見。その土地と関係ない句碑を建てる人が多い。大和、『野ざらし紀行』で芭蕉は、同行の門人を朋友と記している。普通人が聞く所と違ったように表現して、却って面白くなる事は、俳句にして然り、俳句以外の芸術にもある事である。三河、弟子の白雪の息子二人に俳号をつけている。「わかれ途の出ばった石にこしかえる」が面白い。義仲寺へ葬ってくれとそれとなく言葉もあったので、芭蕉はこの寺に葬られた。芭蕉は門弟3000人。、、、、

2019年8月の帰省時に、心のままにーー俳人荻原井泉水と陶工・北朗」展をみた。中津は古くから文化芸術の町であった。藩主の文化奨励などが影響している。文化人が出ただけでなく、日本中から多くの文化人が訪れている。頼山陽池大雅与謝野晶子などの名前を記憶している。俳句の荻原井泉水もその一人だ。中津に一緒に行った内島北朗は、層雲同人で、本業は「陶工」である。
この二人は、中津の木村宇平と村上二丘らと交流した。両名とも医師である。木村家は、二丘の息子の又郎が眼科医になり、井泉水との交流の記録や美術収集を行い、この美術館をつくった。この美術館は2度目の訪問であるが、前回は中津の画家の特集だった。地味だが、いい企画を行っている美術館だ。

吉村昭『海も暮れきる』(講談社文庫)を読んだ。荻原井泉水が面倒をみた自由律俳人の尾崎放哉の伝記だ。人生最後の8か月間を小豆島で過ごした人だ。鳥取県出身の放哉は一高に入学する。同級には安倍能成小宮豊隆、藤村操、野上豊一郎、などがいて、一級上には後に面倒をかける荻原井泉水がいた。東京帝国大学法学部に入って、酒を覚えてから生活は破たんしていく。この後の人生は酒との戦いになっていく。卒業後、東洋生命保険に入社し要職にも就くが酒で失敗する。朝鮮でも同じことが起り、日本で寺男になる。転落と漂泊の人生となるが最後に住んだのが小豆島だった。ここでも人々の好意で何とか生活をするが、次第に体も衰弱していく。ところが不思議なことに俳風は逆に鋭くなっていく。結局この地で200句以上を詠んでいる。

 荻原井泉水の自由律俳句をあげてみる。「月  雲がにげてゆく雲が追うてゆく」「空をあゆむ朗々と月ひとり」。

 荻原井泉水の『芭蕉を尋ねて』では、「旅」について、芭蕉の考えを下敷きにして語っている。芭蕉は旅について「山野海浜の美景に造化の巧を見、或は無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ」と語り、荻原井泉水は「物のあはれも人のなさけも身にしみて感じられるのは「旅」である」と記している。芭蕉の旅の生活と旅の詩とは遂に一生を貫くものとなった。「野ざらしを心に風のしむ身かな」「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」。その芭蕉西行の遺蹟も訪ねている。泉泉水は芭蕉という先人の跡を徹底的にたどった。私の「人物記念館の旅」は多くの先人に学ぶ旅だ。自然からあはれを知り、出会いで人間を知る、それが旅だ。コロナがおさまったら、また旅に出よう。 

芭蕉を尋ねて

芭蕉を尋ねて