カミュ『ペスト』を読了。NHK「100分で名著」の「ペスト」を視聴。

午前中に、カミュ『ペスト』(新潮文庫)を読了。

カミュの『異邦人』に次ぐ、第二作である『ペストは』、第二次大戦終了直後の 1947年に発表された。この作品によってカミュは世界的な作家となった。

それから73年後の2020年、世界中が恐れおののいている新型コロナによる混乱を予言した書といえる内容だ。日本でもそうだが、武漢やイタリアなどの惨状を髣髴とさせる。カミュの想像力とそれを表現する乾いた文体で、読者は架空の世界に没入させられる。現在世界で進行中の悪疫と闘う人々の心境をあますことなく記しいて驚いた。この名作は奥が深い。何度も読まねばならない。

この本には極限状態の中で対応する人間の類型が登場する。私はこの難局にあたって「永遠の敗北」と知りながら自分の仕事を誠実に立ち向かう医師リウーと、役所の矮小な仕事の中に心の平和を見出し、夜には小説を書きているグランに共感を持った。

この本は、「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、、、、おそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な年に彼らを死なせに差し向ける日がくるであろうということを」で終わっている。この傑作は今読まれるべき必読書であることは間違いない。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 午後、ジムから帰って、録画してあったNHK「100分で名著」の4回分の「ペスト」をみた。本の内容の深い読み方、書かれた背景などが語られており、理解が深まった。カミュのファンだという内田樹ナチス時代批判という見方には納得できた。この本の真意はペストという題材に名を借りたナチス批判だったのだ。確かにこの本の扉には「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」(ダニエル・デフォー)という言葉が確かに掲げてあった。

この本は奥が深い。何回か読む必要がある。

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 ヨガ2本。足と肩。

ジム再開。2か月半ぶりに様子を見に行く。コロナ対策で様子が変わっている。まずウオーキング3キロから。

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「名言との対話」6月2日。長沼健「サッカーが上手になる人は、必ずあいさつや整理整頓がきちんとできる人なのです。なぜかはわかりません」

 故郷広島で被爆被爆者手帳を持ち、白血球過多で生涯苦しんだ。以下、日本サッカーアーカイブの「サッカー人物史」から。

関西学院大学卒業。1953年、西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)代表。日本代表として、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)、第2回アジア競技大会(1954/マニラ)、同第3回大会(1958/東京)等に出場。
国内においては、古河電工の選手として1961年度第1回年間最優秀選手に輝く。1962年、32歳の若さで日本代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ)に出場し、メキシコオリンピックではチームを3位・銅メダルに導く。
技術委員長、専務理事、副会長を経て、1994年会長就任。1996年、FIFAワールドカップ初の共同開催を決定する。1998年FIFAワールドカップ・フランス大会では、日本代表のワールドカップ初出場を果たす。
同時に、2002年FIFAワールドカップの日本招致委員会副会長、日本組織委員会副会長を務め、ワールドカップの招致と開催にも尽力。
また、日本サッカーリーグ常任運営委員、Jリーグ理事等を歴任。日本体育協会副会長、日本オリンピック委員会委員、ユネスコ・日本フェアプレー委員会委員等を務め、広くわが国のスポーツ界の発展にも貢献。1990年 藍綬褒章、2004年 旭日中綬章。2005年 第1回日本サッカー殿堂入り。2008年没。

NHK「あの人に会いたい」では、1997年に66歳で、生きている間にできないだろうがやりたいなという事業を3つ挙げて回想している。ワールドカップの日本開催、プロサッカーを興す、そしてスポルツシューレだ。ドイツのそれはサッカー場、宿泊設備、体育館が揃った施設である。それもインタビューを受けた年に福島にできると語っている。ドイツで「サッカーを通じてジェントルマンの第一歩をスタートさせたい」という言葉を聞いてあたためていた夢である。これで3つの夢がすべて実現した。名選手、名指導者、そして優れた組織運営者として日本サッカー界を先導し功績を挙げ続けた長沼健ほどの幸福者はいないであろう。

日本サッカー界の財政基盤の確立のための手腕は大したものだ。オフィシャルサプライヤー制度、講演会の会費と個人登録制度、興行、体協からの補助金、そしてキリンやトヨタなど大企業のトップをスポンサーに引き込む人間力も素晴らしい。サッカーを野球と並ぶ人気スポーツの地位に押し上げた基礎は長沼健の功績だった。

冒頭の「挨拶と整理整頓」は、あいさつや整理整頓ができなくても、サッカーはうまくなれるのでしょうか、あいさつや整理整頓ができなくてもサッカーはうまくなれるのでしょうか、という子どもの問いに、「いません。絶対にいません。何千人という選手を育ててきましたが」に続き、答えた言葉である。誰もが意外に思うこの言葉が、サッカー少年に与える影響は大きく、そして長く続くだろう。そして多くのジェントルマンを生むだろう。

6月が始まった。いざ!

・6月になった。いくつか、人と会うスケジュール調整を始めた。

・大学:授業資料の準備。金銭処理。都心での会合に出席。

・息子から電話で近況を聞く。

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「名言との対話」6月1日。ヘレン・ケラー「それでもいつの日にか、ぎこちない、借り物の作文の段階を卒業したい」

ヘレン・アダムス・ケラーHelen Adams Keller1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国教育家社会福祉活動家著作家である。

1歳7か月で視覚、聴覚、そして話すこともできなくなり、三重苦を背負う。電話を発明したウイリアム・ベル博士の導きもあり、6歳のとき盲学校からサリバン先生が家庭教師としてやってきて、指文字を習う。ものには名前がある。すべてものには学ぶべきものがある。果樹園、化石の標本、オウム貝、オタマジャクシ、ピルグリム記念館でもらったプリマス・ロックの模型、海、、、、10歳からは話すことを学んだ。自分が書くものは自分のものかという問いが常にあった。いつの日にか、借り物の作文の段階を卒業したいと切望する。19歳、ハーバード大学女子部のラドクリフ・カレッジに入学する。教授たちはひからびているとし、偉人な文学を鑑賞するには、理解よりも深い共感が必要だと批判的な目を持っている。

22歳、『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載。24歳、ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。29歳、 アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、作家としても活動を続ける。38歳mハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。

以下、3度来日した軌跡。

1937年昭和12年)(56歳)、訪日し3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。横浜で財布を盗まれれる。全国からの支援金は盗まれた額の10倍以上となった。新宿御苑での観桜会昭和天皇に拝謁。日本各地を旅した。日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。

1948年(昭和23年)(68歳)、2度目の訪日。2か月滞在財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。

1955年(昭和30年)(75歳)、3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた。勲三等瑞宝章。赤毛のアン』の翻訳で有名な村岡花子は講演の通訳をしている。「三重苦の私を、日本の皆さまが心からご歓待くださるので、感謝にたえません。しかし、あなたがたの国、日本には私以上に不幸な人たちがいるのに、なぜその人たちにもっと温かい手をさしのべてくださらないのでしょうか」と話した言葉を花子はことあるごとに子供たちに伝えた。

1961年(81歳)、軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。1964年9月(84歳)、 アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。87歳で死去。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。

私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。

22歳の女子大生が書いた『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)を読んだ。ヘレンが書いた「奇跡の人」とはサリバン先生だったが、いつの間にかヘレン自身が「奇跡の人」と呼ばれるようになっている。この本に 女優の大竹しのぶの文章が載っている。大竹は「先生」であるアニー・サリバンを「奇跡の人」の舞台で6度演じている。サリバンは「続けること、ただ信じ続けることーー私にできるのはそれだけです。ヘレンの内なるものが、内なるヘレンが待っているんだってー」。

自分の中から出てくる自分自身の言葉を希求したヘレン・ケラーの言葉は心に響く。

 

  • うつむいてはいけない。いつも頭を高くあげていなさい。世の中を真っ正面から見つめなさい。
  • 自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
  • はじめはとても難しいことも、続けていけば簡単になります。
  • 人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。
  • 危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。
  • 盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。
  • 幸福は自己満足によってではなく、価値ある目標に忠実であることによって得られる。
  • 目に見えるものは移ろいやすいけれど、目に見えないものは永遠に変わりません。
  • 私たちにとって敵とは、「ためらい」です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
  • 元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです。
  • 人の苦しみをやわらげてあげられる限り、生きている意味はある。
  • 悲観論者が、星についての新発見をしたり、海図にない陸地を目指して航海したり、精神世界に新しい扉を開いたことは、いまだかつてない。
  • ベストを尽くしてみると、あなたの人生にも他人の人生にも思いがけない奇跡が起こるかもしれません。
  • ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。
  • 世界で最も哀れな人とは、目は見えてもビジョンのない人だ。
  • 喜びとは、目的をあたため続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。
  • 光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。
  • 人生は胸おどるものです。そしてもっともワクワクするのは、人のために生きるときです。
  • 私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。
  • 世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています
  • 世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。
  • 楽天は人を成功に導く信仰なり

冒頭の言葉の前には「私は独創的はないかもしれない」という言葉がある。それでも、、」と自分を信じ、希望をもってヘレンは崇高な旅をして、ついには独創の人となった。この奇跡の人は、世界中の人々に勇気と希望を与えた。偉大な影響力の人、ヘレン・ケラーは偉人の中の偉人である。

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

 

 

 

 

梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」の図解化が終了。計25枚。

梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」。第3部「 日本文明論ノート」が終了。「日本文明における江戸時代の意味」「日本文明の時空構造」「文明史からみた日本の商業と工業」「文明の未来ーひとつの実験」「昭和とわたし」。第7巻は計25枚の図解で完結。

数日前から手にしていた2冊の本を読了。

・工藤美代子『寂しい声 西脇順三郎の生涯』(筑摩書房

・『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫

ウオーキング。寝る前にヨガ2本。

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「名言との対話」6月3日。山口蓬春「思想とともに絵画は進展する」

山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、日本画家北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。

泰明小学校、東京府(現東京都高輪中学校を卒業後、東京美術学校西洋画科に進学。在学中に二科展に2度入選し話題になる。指導教官から日本画の材料が合うといわれ、日本画へ転科する。そして松岡映丘に師事し、大和絵の研究を熱心に行う。1923年、30歳で首席で卒業し、日本画科の助教授になる。 

1924年新興大和絵会に参加する。師の松岡映丘は「古典の教養に立脚して時代に生きよ」と語っていた。西洋画、日本画を両方学んだ蓬春が力を発揮する。1926年の第7回帝展では特選と帝国美術院賞、そして皇室買い上げと三重の栄誉となった。蓬春は作品に非の打ちどころがなく、人がらも好感を与えた。そして熱心に勉強を重ねて「大和絵の新興」を担っていく。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授に就任する。日本画と西洋画の流派を超えた六潮会を結成する。1935年帝展の改組に反対の師・映丘は国画院を創設するが、蓬春はどちらにも加わらず自由な立場となった。「右顧左眄を止めて己に頼むことのみが構図と云はず、画人の妙諦だと云ひたい」。従軍画家として台湾、中国、南方諸国を訪問し、戦争という題材も自分の中に取り込んでいく。

1949年ヨーロッパのモダンな感覚と日本画の伝統表現を融合した「とう上の花」が代表作となる。蓬春モダニズムと呼ばれた。「時代の要請にぴったりと即応するような新しい形式や様式を、自分の創意に基づいて創り出すのだ」と、時代に流れを先取りしていった。時代とは戦後の急速な社会変動だ。現代である。静物画から花鳥画に取り組み、日本画の絵具を使って現代的な視角に耐える画面を創り出そうとしていた。

蓬春の新日本画の技法は、最初は「観たままの写生」、次に「感じたままの写生」、更に「知ったままの写生」へと進んでいる。

1965年、72歳で文化勲章を受章。「果敢に前進しようとする作家が居なければ、芸術は進展しないのである。時代や社会は常に進み動いて居るのであるから」。

同級生の吉田五十八は、「あらゆる意味で完成されたひと」と語っている。世田谷区祖師谷のアトリエ、後の1953年に完成した葉山の新アトリエも吉田の設計である。葬儀委員長もつとめた。享年77。葉山の新アトリエは、山口蓬春記念館となっている。ここは訪れたい。

時代の流れを先取りしながら、自らの思想を進化させていこうとする姿勢と覚悟。それを伝統ある日本画という仕事に展開していこうとする道程。その姿に感銘を受けた。葉山の記念館はぜひ訪れて、蓬春の画業の進化を確かめたい。

井上研一郎『山口蓬俊ー新日本画への展開』(北海道新聞社)

多摩センターの丸善で『ペスト』(カミュ)、『感染症の世界史』(石弘之)を購入。

・7月の日本未来学会の月例セミナーの講師を引き受ける。テーマは「生誕百年ーー文明学者・梅棹忠夫からのメッセージ」。

・NJ出版社とPD出版社の企画の日程調整。

・多摩センターの丸善で本を購入。1万歩。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 
感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

 

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「名言との対話」5月30日。今村昌平「粘っこく人間を追求し、無人の荒野を走る勇気を持て」

今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年大正15年〉9月15日 - 2006年平成18年〉5月30日)は、日本映画監督脚本家映画プロデューサー日本映画学校(現・日本映画大学)の創設者。

医者の父には医学部を受けると嘘をついて北海道の余市から上京するのだが、自分では早稲田の文学部で演劇をやると決めていた。このときの仲間である小沢昭一加藤剛、そして小学校からの友人の北村和夫たちと「学生劇場」を旗揚げした。

新宿東宝で「酔いどれ天使」を見た。劇作家や演出家になれればいいと思っていたが、黒澤のような映画監督になろうと決意した。

松竹大船撮影所に入る。最初の師匠は小津安二郎であった。小津の最高傑作「東京物語」で助監督をつとめた。後に小津監督からは「汝ら何を好んでウジ虫ばかりを書く」と言われ、反発心がわき、「俺は死ぬまでウジ虫を書いてやる」と決意を固めた。師とはまことにありがたいものである。

1954年、日活に移籍。ふたりめの師匠は、筋萎縮症を患っていた川島雄三監督だ。

松竹入社8年目の1958年に初監督した「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞をもらった。31歳というやや遅めのデビューであった。

1959年の在日朝鮮人の少女の日記を本にした映画「にゃんちゃん」を撮った。貧窮のどん底にある炭鉱の町で在日朝鮮人の兄と妹が健気に生きるという小学生の日記をもとにした映画である。この脚本は、池田一朗、後の隆慶一郎が書いた。この作品はブルーリボン主演男優勝(長門裕之)、シナリオ賞(池田一朗)のほか、芸術祭文部大臣賞を受賞した。オールロケで取る、役者に素人を起用すると言う今村組の手法を確立する作品になった。この映画は子ども私も子ども時代に見た記憶がある。

今村は当時もてはやされていた軽喜劇ではなく、重喜劇を撮りたいと思っていた。「豚と軍艦」で重喜劇の思想を形にし得た手ごたえを感じている。

柳田國男民俗学に影響を受け、「にっぽん昆虫記」、「赤い殺意」、「神々の深き欲望)へと発展する。

1966年、39歳で今村プロダクションを設立する。「神々の深き欲望」はキネマ旬報第一位や毎日映画コンクール日本映画大賞、芸術選奨文部大臣賞などをもらった。しかし今村プロダクションは20,000,000円の借金を抱えてしまった。

1983年の「樽山節考」はカンヌ映画祭でグランプリを受賞した。これは衣笠貞之助監督、黒澤明監督に次いで3人目であった。

今村によれば、「この程度でまぁいいだろう」と撮影をやめてしまうことができない性分で、原作本があっても綿密な裏付け調査をしてシナリオを描くというの流儀だった。興味深いのは戸籍謄本で、その人が誕生するまでの何代にもわたる足跡をたどるだけで1つのドラマができあがる、という。

・「映画作りとはまことに割りの悪い仕事である」。なぜかというと、金を集めるために、ほとんど借金で暮らしているからだ。金集めも監督業の役割だ。

・「人間の面白さ。人間を見つめ分析し構築する仕事は作り手にとっても「全人間」をかけるものである」。今村は、人間の面白さに憑かれた人だ。

・「映画の出来はシナリオ6分、配役3分、演出1分で決まる」。監督の役割は、シナリオを誰に頼むか、配役をどう決めるか、など全般なのだろう。人事だな。

・「演出の弁」という文章には、「負けているのに勝っているように思わされ…つまりバカ扱いされながらかろうじて生き、そして虫のように死んでいった」とある。大東亜戦争のことを言っている。

 日本図書センター人間の記録 今村昌平』で、今村昌平は映画監督では珍しく、人材育成事業を展開したことを知った。1975年日本ではじめての映画学校「横浜放送映画専門学院」を創立し学院長に就任する。映画人材を養成する場をつくろうとしたのだ。億単位の負債がのしかかったりしたが、この学校からはウッチャンナンチャンや俳優の隆大介らが育っている。何千、何万という卒業生が今も映画、テレビの現場を支えている。1986年専修学校に改組した「日本映画学校」が誕生させた。この学校は死後の2011年に日本映画大学となっている。演出コース、身体表現・俳優コース、ドキュメンタリーコース、撮影照明コース、録音コース、編集コース、脚本コース、文芸コースがある堂々たる大学に成長している。ホームページには創業者の今村昌平のコーナーが今もある。監督としての仕事で人々に影響を与えるだけでなく、映画人材の育成という面からも、長期にわたって多大な貢献をしていることは評価されていい。

今村昌平が、後進に与える言葉は、「粘っこく人間を追求し、無人の荒野を走る勇気を持て」である」。創造行為は他人には教えられないが、創造する姿勢、志を人に伝えることはできる。それが若い人に対する役目であると認識していた。常識に縛られず、粘り強く人間を追求せよ。誰も描いていない「人間」を描け。それが監督に限らず、映画にかかわる人々への今村昌平のメッセージである。 

今村昌平―映画は狂気の旅である (人間の記録)

今村昌平―映画は狂気の旅である (人間の記録)

  • 作者:今村 昌平
  • 発売日: 2010/02/25
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝:ZOOM授業でグループワークが一歩進む。午後:立川北口のグリーンスプリングス見学。夜:ZOOMでの日本未来学会月例セミナー。

授業4回目のZOOM授業。本日のテーマは「私の大学生活、この1年」。グループワークをリモート授業でどううまくやるかがポイント。前回は4-5名に分けたので、今回は10名ほどにしてみた。司会者ををそのグループの年長者に指名しので、前回よりはスムーズにプレゼンと話し合いがうまくいったようだ。一つ前進。

  • グループワーク:学年が上の人が司会して場を回すのはいい。リーダーシップが重要だ。自分もグループを仕切りたい。進行がスムーズだった。仕切る人が重要だ。先生がオンライン講座のやり方を自ら学んで使ってくれえるのは有難い。学生にいわれたことをすぐに実行してくれてちゃんと見てくれているんだな。時間をかけるほどいい図ができる。スムーズ。先週の方が盛り上がった。司会が決まらなかった。初対面の人とZOOMで話すのは緊張する。次回も先輩中心に。司会者はいろいろな人に。
  • 図解:図は奥が深い。ウイルス問題を図であらわしたい、図は見る人が見たいところだけをみることができるのが素晴らしい。自分が理解できるように描き、次に相手にわかりやすく。内容が濃く、薄いものになった。内容が難しいものこそ図で描くといい。うまく描けた。先生の江戸時代の図はよく理解できた。自分のことは自分でしっかり理解していないと描けない。図でものごとを表現することに慣れてきた。年代ごとに出来事を書いて荒波線で表す人がいて面白かった。ミャンマーの大学と日本の大学は違う。アルバイトに没頭して学業がおろそかになっていた。図に起こすには準備が必要なことを痛感。図解表現に何度も挑戦したい。サークル、友人関係、勉強、生活を描いた。季節、時系列。細かい内容まで簡潔に描きたい。思い出をランキングにした。友達をつくりたいからこの授業が大事。マルが5個くらで表現すると自分にも相手にもわかりやすい。それぞれの描き方がバラバラで面白かった。個性豊かな図、月ごと、樹形図。他の人を参考にして新しい図を描きたい。歴史は図でよくわかる。図は考えさせる。図はイマジネーションを刺激する。
  • 質問・要望:どこから書き始めればよいのか。相手に伝えるコツを教えて欲しい。図解の可能性や凄さはよく分かったので描くコツを丁寧に教えて欲しい。テクニックを身に着けたい。前回の受講生アンケートの内容が面白かった、続けて欲しい。

立川北口のグリンスプリングスを見学。https://greensprings.jp/about/

ホテル、劇場、美術館、飲食店、人工滝、、、、。素晴らしい空間。よくつくったなあ。子どもたちが川遊びをしている風景がいい。

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朝日新聞から電話取材:梅棹忠夫の新書『知的生産の技術』についての最終取材。

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夜はZOOMによる日本未来学会の5月例会勉強会。

立命館大学の飯田豊准教授の「メディア論」を聞く。メディア・イベント。未来学会と生活学会。マクルーハン竹村健一大阪万博には知識人が関与。振り返るべき。コロナ。

2025年「いのち輝く未来社会のデザイン」。オルタナティブ企画。、、、

私の発言:万国博から万民博へ。民族と市民。民族紛争と草の根。

飯田さんの資料の中に、大阪万博に関与した知識人グループの写真があった。林雄二郎51歳、梅棹忠夫47歳、川添登41歳、加藤秀俊37歳、小松左京36歳。みな、若い!

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「名言との対話」5月29日。山際淳司「登場人物は年々変わっても。野球というゲームそのものは変わらない」

山際 淳司(やまぎわ じゅんじ【本名:犬塚 進(いぬづか すすむ)】、1948年7月29日 - 1995年5月29日)はノンフィクション作家小説家翻訳家。本名は犬塚進。

中央大学在学中に文筆活動を開始。1980年に発行された文藝春秋の『Sports Graphic Number』の創刊号に、山際淳司ペンネームで、『江夏の21球』というノンフィクションを執筆した。それが評判となりスポーツ・ノンフィクション作家としての地位を確立した。『江夏の21球』などを収録した作品集『スローカーブを、もう一球』で、1981年に第8回角川書店日本ノンフィクション賞を受賞した。

江夏の21球』は話題になったから私も読んでいる。今回、ユーチューブで映像をみながら江夏自身の解説を聴いた。1979年日本シリーズ終戦の9回無死満塁で、抑えれば優勝の場面だ。三振。スクイズはずしで三塁走者アウト。三振。古葉広島が西本近鉄に勝った。そのときの江夏の頭の中と心の中は興味深い。衣笠の声かけは「お前しかいないんだから」「なにかあたら、おれもユニフォームを脱ぐよ」だった。江夏は勇気をもらう。江夏が語った「ピッチングはつながりです」は名言だと思う。1球、2球、、とピッチャーは自分なりのストーリーを持って球を投げるのである。

『野球雲の見える日』を読んだが、驚いたことに 引退試合は多摩市営一本杉球場だった。多摩大への通勤路にあるあの球場か。日本における最後のマウンドで観客は1万6千人。江夏は阪神、南海、広島、日ハム、西武と5つのチームで、206勝158敗193セーブ。奪三振2987.防御率2.49。「江夏豊・たった一人の引退式」。『Sports Graphic Number』の文芸春秋社が主催した。どの球団も参加しなかった。ビートたけしのチームのリリーフとして投げた。それは草野球だったのだ。

山際淳司は、野球関係だけでも著作が多い。 スローカーブを、もう一球』(角川書店, 1981年)。『阪神タイガースプロ野球グラフィティ』(新潮社, 1983年)。『ダグアウトの25人』(ベースボール・マガジン社, 1985年)。『ベースボール・スケッチブック:24のプロ野球物語』(講談社, 1985年)。『ルーキー:もう一つの清原和博物語』(毎日新聞社, 1987年)。『バットマンに栄冠を』(角川書店, 1988年)。『スタジアムで会おう』(朝日新聞社, 1992年)。『最後の夏:一九七三年巨人・阪神戦放浪記』(マガジンハウス, 1995年)。『山際淳司スポーツ・ノンフィクション傑作集成』(文藝春秋, 1995年)。その他、ゴルフ、ボブスレー、ボクシング、登山、、、などの著作や翻訳などもある。徹底的な取材と冷静な分析、そしてそれに裏打ちされた分かりやすい文章で定評があった。

 スポーツキャスターとしても山際は活躍する。ユーチューブでNHKの難組をみた。ハンサムで理知的な風貌だ。九州場所千秋楽の横綱曙に大関貴ノ花が勝った名勝負、甲子園決勝の佐賀西高の満塁ホームランなどを解説していた。はぎれのよい語り口である。

時間を見つけてはスポーツ、特に野球の現場を歩いた。自身でもスポーツ・フリークと書いている。スポーツには、ある時代の空気に中に冷凍保存されてしまったかのように、いつ思い出しても新鮮さを失わないという一面がある、という。その通りだ。

「登場人物は年々変わっても。野球というゲームそのものは変わらない」。山際淳司は通りすがりの通行人の役割だと意識していた。年譜をみると膨大な仕事をしていることに驚いた。46歳でガンで急逝する。あまりにも若い死である。私はその年あたりで、JALを辞め、宮城大、多摩大と職場を移っている。そういった年月は山際淳司にはなかったのか。同世代で団塊世代の山際が病を得ずにそのまま仕事をしていたら、日本のスポーツも違った風景になっていたであろうと惜しまれる。

 

 

 

「フォト川柳」へ。

インスタグラムにアップし続けている「後姿探検隊」の写真。これに世相を詠む川柳を添えると面白いかも。フォト川柳か。

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「昨年の 今頃でした 桜見る会」

 

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「爺ちゃんの口癖いつも老婆心」

 

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「後ろから 見れば誰しも 善男女」

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大学

・授業準備。

・小林先生。

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「名言との対話」5月28日。堀辰雄「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事を終わったところから出発するもののみが、真の弟子であるだろう」

堀 辰雄(ほり たつお、1904年明治37年)12月28日 - 1953年昭和28年)5月28日)は、小説家

一高時代には、師事した室生犀星芥川龍之介を紹介してもらう。そして師と仰いだ芥川から次のような書簡をもらっている。「私は安心してあなたと芸術の話のできる気がしました」。「なお私の所感にある本で読みたい本があればお使いなさい。その他遠慮してはいけません。また私に遠慮を要求してもいけません」と、芥川も堀を弟子として扱った。堀辰雄芥川龍之介とその晩年の恋人である片山広子との恋の目撃者となっている。大学在学中に芥川の死で衝撃を受け、東京帝国大学卒業論文として200字詰めで197枚の「芥川龍之介論」を書く。師を失った堀は「われわれはロマンを書かなければならない」と日記に書きとめていた。

卒業後、中野重治らとの同人雑誌『驢馬』三好達治らとの『四季』に詩や小説等を発表する。1930年『聖家族』を書いて文壇に認められた。人間の愛と死を主題にした『風立ちぬ』、王朝文学の影響を受けた『かげろふの日記』、1941年『菜穂子』等の作品がある。

風立ちぬ』のモデルとなる堀の婚約者・矢野綾子は、辰雄31歳の時に富士見の療養所で死去する。この堀越二郎を掘辰夫の名作「風立ちぬ」の主人公としてゼロ戦設計者・堀越二郎を描いたのが、宮崎駿版アニメ「風立ちぬ」である。子どものためのアニメしかつくらなかったジブリが初めてつくった大人のための作品だ。天下国家のための仕事と自分の家族との関係を両立させようとした物語となった。堀越二郎の上司であった父を持つ野田一夫先生はこのアニメをみて、実際の姿とは違うと違和感を語っていた。

室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵結婚し、軽井沢に新居を定めた。1941年、「菜穂子」(「物語の女」の続編として7年ぶりに完成)を『中央公論』に発表。 堀は全てが虚構に属する西洋風の本格的な小説書こうと決意し、「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとし、この作品でようやくロマン小説が完成する。この作品は第1回中央公論社文芸賞を受賞した。詩を散文として表現できる稀有な作家だという評価もある堀の文学の主題は年齢とともに変容し、進化し、フランス文学の心理主義と日本の古典、王朝女流文学の融合に向かっていった。

1953年48歳にて死去。葬儀委員長は川端康成である。死後、友人や弟子たちの尽力で『堀辰雄全集』全7巻、川端康成の尽力で角川書店より、書簡を大幅に加えた全10巻が1963年(昭和38年)10月から1966年(昭和41年)5月にかけて刊行された。妻の多恵も「堀多恵子」の名前で夫に関する随筆を多く書き、2010年に96歳で死去している。

軽井沢の堀辰雄文学記念館を訪問したことがある。館内には、原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示され、堀 辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる展示室、辰雄が晩年を過ごした住居、愛蔵書が納められた書庫がある。閲覧室では堀 辰雄の関係資料を閲覧することができる。

堀は 立原道造中村真一郎福永武彦など次世代から支持された。中でも立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。師にも師がいる。堀辰雄の小説家人生は「芥川龍之介論」で述べたように、師の苛烈なるものの正体をはっきりさせ、それに新しい価値を与えることであった。師を模倣者ではなく、次の時代に向けて松明を引き継ぐ人こそ、真の弟子なのだ。

堀辰雄  新潮日本文学アルバム〈17〉

堀辰雄 新潮日本文学アルバム〈17〉

  • 発売日: 1984/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

クラウドファンディング支援者名簿。出版社。ZOOM「オンライン講座のひらきかた」

朝:クラウドファンディング支援者名簿を整理。ありがとうございました!

橘川幸夫。広藤久則。力丸萠樹。矢口梓。久恒智彦。緒方敦子。秋山正人。コバヤシ。近藤千恵子。大場智美。高野雅晴。猪俣範一。大上仁子。久米信行。柴田香代子。棟方美栄。長島剛。横野洋卯子。富田秀夫。前田眞人。渡辺幸裕。岡本光正。村中志有。鈴木敏行。松下幸民。宇野千葉雄。宇野一枝。久恒恭子。根岸昌。松岡昇。高井洋。中村さつき。海渡千佳。松田俊秀。吉松いくみ。小玉桂二。藤田政巳。吉森彰宣。鈴木章子。内尾伸行。石田明水。戸所新太郎。小林正樹。石和田直孝。馬岡孝行。都築功。中村泰。中山芳子。小酒井正和。林光。峰隆。荻阪哲雄。鈴木亨。鈴木佐知子。(54人。順不同)

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11時半:出版社を訪問。

・「全集」:表紙デザインのグッドアイデアが浮かぶ。

・昼食を摂りながら編集の大泉さんと「全集」第一巻のゲラの修正箇所の確認。

・社長と懇談:「写真+川柳」の本の企画の提案。

・猪俣君の本の進行。

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夜21時から1時間:『ZOOM革命』の田原正人(マレーシア在住)さんの主宰する「オンライン講座のひらきかた」に参加。88名がスイス、沖縄など全世界から参加。終了後、早速申し込んだ。

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「コミュニティ」「スクールタクト」「スラック」「経験学習モデル」「動画制作」「リアルの代替でないバーチャル」「倍速」「反転授業」「ブレンディッドラーニング」「オンラインワールドカフェ」「オンライン対話型講座」「講座のデザイン」「発言がリアルでテキストに」「学びの新大陸」「集合知マネジメント」「場のノウハウに価値」「録画という強み」。図書館の仁上さんとICTの高野さんも参加していた。

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「名言との対話」5月27日。長谷川町子「常に温かく誠実な一人の女性が、あるとしたら、社会的にどんなに見映えのしない、存在であろうとも、その人こそ、世の中を善くする、大きな原動力であると思います」「

長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日 - 1992年平成4年)5月27日)は、日本漫画家

 1年前の「名言との対話」で、次のように長谷川町子を取り上げている。

「常に温かく誠実な一人の女性が、あるとしたら、社会的にどんなに見映えのしない、存在であろうとも、その人こそ、世の中を善くする、大きな原動力であると思います」

長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日 – 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。「サザエさん」のほかには、「エプロンおばさん」「意地悪ばあさん」など。

サザエさんは「常に温かく誠実な女性」であった。その人の存在自体が世の中を少し善くする、そういった人が増えるともっと善くなる。一人の存在は小さいが、実は大きい。そういうことを、サザエさんは教えてくれる。

 今回、工藤由美子『サザエさん長谷川町子』(幻冬舎新書)を読んだ。工藤は1950年生まれ。硬派の人物論、女性の生き方のルポルタージュ、皇室本など多岐にわたるジャンルを書く実力者だ。徹底した調査に基づく容赦のない目は長谷川町子の本当の姿をえぐっている。

 意外なことに、男子にも負けたことがないほど、福岡では町子は並外れた悪童だった。得意科目は図画と作文である。一家は上京し、町子は「のらくろ田河水泡の弟子になり、「天才だ」と評価され、大活躍が始まる。

国民的人気漫画「サザエさん」は、朝日新聞で1949年から1974年まで25年間続いた。朝日は387万部であり、一家4人で読むと1500万人近い人がこの漫画に親しんでいたことになる。私の家もみな「サザエさん」のファンだった。また江利チエミ主役の映画がシリーズ化され、テレビの連続ドラマになった。フジテレビは1969年からアニメ「サザエさん」を放映し、毎回20%以上という驚異的な視聴率をたたき出した。

町子は漫画で成功した初めての女性であり、美空ひばりに続く女性二人目の国民栄誉賞を受賞した。遺産総額は松本清張をはるかに凌駕する30億円に迫る金額だった。莫大な収入は桜新町長谷川町子美術館に結実する。この美術館は私も訪ねたことがある。日本画311点、洋画250点、工芸品195点、彫塑32点で、計788点にのぼる。加えて町子自身の漫画作品も展示されている。2020年の今年、生誕100年を記念し、長谷川町子記念館がオープンした。ここは訪ねたい。

三姉妹の姉も妹もキャリアを犠牲にして長谷川町子というブランドを支えた。マネジャー役だった母が亡くなる2、3年前に、町子という「お山の大将」をめぐって鉄壁のチームは瓦解する。

「入院はしないこと、手術は受けないこと、そして葬儀、告別式はしないこと」と言っていた。「マンガ家ってものは、たしかに健康によくない」と断言していた町子は、やや早い72歳で亡くなっている。

サザエさんで描いた磯野家とは真逆の家族関係、町子の苛烈な人生を描いた工藤由美子の評伝も読み、また長谷川町子の言葉を探してもみたが、マスコミ嫌いであったせいか、意外に残っている言葉は少ない。「男の人にはない題材がつかめるからじゃないか」などはあったが、パンチが足りない。ということで、やはり1年前に注目した言葉に行きついてしまった。そして感想も同じになってしまった。

サザエさんは「常に温かく誠実な女性」であった。その人の存在自体が世の中を少し善くする、そういった人が増えるともっと善くなる。一人の存在は小さいが、実は大きい。そういうことを、サザエさんは教えてくれる。 

サザエさんと長谷川町子 (幻冬舎新書)

サザエさんと長谷川町子 (幻冬舎新書)