幻冬舎オンラインの連載19回目(ーーキャリアの軌跡をたどり、現在、未来を見える化する法

幻冬舎オンラインの連載19回目が流れました。ヤフーニュースでも。

キャリアの軌跡をたどり、現在、未来を見える化する法  幻冬舎ゴールドオンライン

キャリアの軌跡をたどり、現在、未来を見える化する法(幻冬舎ゴールドオンライン) - Yahoo!ニュース

「キャリアレコード」過去の自分を客観的に検証

■「あらすじ」から「台本」へとブレークダウンする

前回(第18回)は、自分がこれまで歩んできた道のりを総括する「キャリア自分史」を作成するための第1歩、自分の歩みを年表形式でまとめる「キャリア年表」のつくり方とその意義を紹介しました。

自分のこれまでの「キャリア年表」を作成すると、過去から現在に至る自分の歩みを俯瞰することはできます。

しかし、自分の来し方を深く掘り起こすには、より具体的な描写が必要になります。

物語は一般的に、プロット(あらすじ)とスクリプト(台本)から成り立ちます。「キャリア年表」は、いわば自分史というドラマの「あらすじ」であり、主人公の喜怒哀楽の感情の動きや、細かなエピソードまで描写するには「台本」が必要です。

そこで作成するのが「キャリアレコード」です。

「キャリアレコード」は「キャリア年表」で設定した「時代/節目」ごとに作成します。そして、その「時代/節目」において経験した「出来事」「出会い」「きっかけ」などを可能な限り具体的に記入します。

「仕事歴」であれば、自分が参加したプロジェクト名とその内容、進行の過程のほか、出会ったキーパーソンまで書き込むと、当時の自分が何を感じ、どう判断し、どのような行動をとったのか、具体的な記憶を鮮明に検証することができます。

ここで重要なことが二つあります。

一つは、「成果」を書き出すことです。もう一つは、成果の基準を会社や部署に置くのではなく、あくまでも自分にとって、どのような点でプラスになったかを示すことです。

会社にとっては失敗と見なされても、自分にとっては失敗から学び、大きな収穫になったこともあるでしょう。あるいは逆に、会社にとっては成功に位置づけられても、自分としては納得できず、後悔だけが残ったケースもあるかもしれません。

過去の自分を振り返ると、「なぜ自分はあんなことをしたのだろう」と、われながら不思議に思うことがあります。「キャリアレコード」はその疑問に自問自答することで、真の自分を掘り下げることができるのです。

 

図1は私の「キャリアレコード」の記入例です。参考にしてみてください。

【図1】キャリアレコード記入例 久恒啓一

 

■スランプの原因を客観的に判断できる

また、「あのときは仕事もプライベートも絶好調だったな」とか、逆に「あの時期は最悪だった」と、好不調の波も思い起こすことができます。

たとえば、スランプに陥ったスポーツ選手は、調子のよかったころのビデオを繰り返し見て、いまの自分との差を考えるといいます。同じように、キャリアレコードを作成すると、好調だった時代、不調だったころを、それぞれメタ認知(「もう一人の自分」から自分を見る)して、いまの自分と比べることができます。

新入社員のころと違って、いまは向上心も失せ、他人から学ぼうという姿勢も失ってしまっている人もいるでしょう。スランプの原因は、そんなところに隠れていることも、キャリアレコードは教えてくれるかもしれません。自分史をつくることは、成長した自分を確認するだけでなく、失ったものも冷静に見つめて自省し、もう一度、意欲を取り戻すきっかけにもなるように思います。

 

「キャリアメモ」で過去の自分を総括する

■「キャリアメモ」で自分を評価する

「キャリアレコード」は、過去の自分を客観的に検証するための記録です。その客観的な評価を記述するのが「キャリアメモ」です(図2)。

「キャリアレコード」を作成する際、主人公となるのはあくまでも「当時の私」です。当時の自分の視点に立って、キャリアストーリーを具体的に記述し、そのときの気持ちをそのまま書くことが求められます。

一方、「キャリアレコード」を作成した後、過去の自分を総括するのは「現在の私」です。視点を過去から現在に戻し、「当時の私」が行ったことを冷静に評価する。「キャリアメモ」では、「キャリアレコード」に記述したことが、「現在の私」に影響を及ぼしているとすれば、何がどのように影響を及ぼしたかを評価するのです。

「キャリアメモ」は具体的には、「キャリアレコード」に書き込んだ「出来事」や「出会い」を振り返ったときに湧き上がる思いや感慨、あるいは、「成果」によって自分がどのように成長できたかという総括などを記入していきます。

「キャリアレコード」と「キャリアメモ」の書き分けが難しいようでしたら、「キャリアレコード」はビジネスパーソンとしての記録、「キャリアメモ」は自分史の〝作家〞の視点で書く自分の総括と考えればいいでしょう。

「キャリアレコード」は過去の記録ですが、「キャリアメモ」を作成することにより、作家が過去の人物を蘇らせるように、「当時の私」と「現在の私」をつなげることができるのです。次に、「キャリアメモ」を作成するための、仕事歴、学習歴、経験歴の棚卸しの仕方を示します。

 

 

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今日のヒント 笹崎龍雄。『とこトン人生九六年』

・自分の人生を創造できる人間、そして自分の職に希望と夢をもって全身全霊を打ち込んで働き、毎日の生活に情熱を燃やすことのできる人は幸せである。

・自分の人生は自分で脚本をかき、誰にも拘束されずに演出し、自分で納得のできる仕事に、全力を傾倒できる人は幸せである。

・どんな仕事でも永遠に未完成である。矛盾と問題だらけである。これを解決していくのが人生である。自分の天職に全情熱を打ち込み、その仕事とともに生きる人は幸せであり、魅力のある人である。

・私は、自分の人生(天職・事業経営)について、自分で脚本を書き、自分で演出し、自分の創った舞台で、思う存分に全情熱を傾倒し、そのなかに人間としての生きがいと、人間らしさを、自分でつかみとっていける人が、この世で一番幸せな人だと考えている。すなわち、自分の心に、しっかりした人生の羅針盤持っている人間が、一番幸せな人だと思っている。

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・町田市民文学館ことばらんど「57577」展。

・幸福塾の準備「天職」。「倖せの構造」。『八木重吉』。1万歩。

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「名言との対話」1月30日。フランクリン・ルーズベルト「恐れなければならないのは、恐怖心そのものだけだ」

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語:Franklin Delano Roosevelt[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士アメリカ合衆国大統領

ハーバード大学では政治を主専攻、英語と弁論じつを副専攻。セオドア・ルーズベルトのの姪と結婚。

ニューヨーク州の弁護士、31歳から7年間海軍次官。この間にスペイン風邪に罹患。38歳民主党副大統領候補、小児麻痺(ピリオ)に罹患し公の場から姿を消す。9年ぶりに復帰しニューヨーク州知事に当選、その10か月後に大恐慌が始まった。1932年の大統領選挙に出馬し現職のフーヴァーを破り、51歳で大統領に就任。

TVAテネシー川流域開発公社の設置などニューディール(新規まき直し)を断行した。「3つのR」(救済relief。復興recovery。改革reform)。救済と復興は就任後100日を経て、次は失業対策などリベラルな政策に取り組んだ。現金給付は拒否し、「麻薬のように」、人間の精神を巧みに破壊する」とし、国家プロジェクトを開始する。そして芸術支援、黒人と女性の社会参加、社会保障制度、労働関係法、農業政策、、などに取り組んだ。その結果、国民所得は50%以上増えた。600万人の雇用が誕生。株価は底値から80%以上上昇となった。

外交では、中南米ラテンアメリカ諸国との関係改善、ソ連の承認が特筆される。当時はヨーロッパの戦争には巻き込まれたくないという考え方が強かったが、ルーズベルトは介入主義だった。

大統領のスタイルをみよう。専門家同士で意見を戦わせ、最後は自分で決断する。「友よ」、「アメリカ国民の皆さん」という呼びかけから始まるラジオ番組「炉辺談話」は30回放送された。記者会見は在任中に998回にのぼった。アットホームな雰囲気。校長先生と生徒の関係にようだった。

大統領職には平常心で取り組んだ。残業はしない。毎晩来客とカクテル。土曜の夜はポーカー。週3回は水泳。月に一度はヨットでクルーズ。ストレスを解消していた。

演説は何度も推敲し、自分の言葉で心を込めて語れるようになるまで練習して臨んでいた。

国民の支持が高く、2期目、3期目も大統領を続ける。ヒットラーの攻勢にさらされたチャーチルのイギリスへの武器貸与法を制定。日本への石油輸出停止。真珠湾攻撃。原爆の開発。ノルマンディ上陸作戦の成功。1944年には大統領職の4選を果たしたが、第二次世界大戦終結までは見届けることはできなかった。

アメリカ合衆国大統領の在任期間は、1933年3月4日 – 1945年4月12日である。4期の途中で病気で倒れるまで12年の長きにわたり大統領職をつとめた。大恐慌のまっただ中に誕生し、第二次世界大戦の終了直前までの激動の期間である。

ワシントン、リンカーンと並ぶ偉大な大統領とされるなど評価が高い。説得力、指導力、先見性、行動力、リスクをとる性格、想像力、コミュニケーション能力。プラグマティック、柔軟。つまりルーズベルトは「グレイト・コミュニケーター」だった。

今回、佐藤千登勢『フランクリン・ルーズベルト』(中公新書)を読んだ。国民から「FDR]と親しみをもって呼ばれたルーズベルトの以上の実像がわかった。「恐怖心」を恐れよとして、勇気で大きな危機を何度も乗り切ったルーズベルトの楽観主義はリーダーの見本である。