大分合同新聞に母・久恒啓子『万葉歌の世界』の大きな記事。

本日の大分合同新聞に母・久恒啓子『万葉歌の世界』(日本地域社会研究所)の大きな記事。早朝に高校同級生の須賀さんと宇野君のフェイスブックで知り、母に電話で報告。午後、別件で日本地域社会研究所に寄ったら、注文が来ているとの由。「大分合同新聞は影響力が凄い」ということだった。

以下、記事。

ライフワークとして「万葉集」に収められた庶民の歌の研究に取り組む、中津市上宮永の久恒啓子さん(90)の著書「女流歌人が詠み解く!万葉歌の世界」(四六判、336ページ)が全国販売されている。本は20年前に自費出版したもの。一読した出版社(東京都)が「分かりやすく、親しみのある内容」などと評価し、販売を決めた。卒寿を迎えたばかりの久恒さんは「記念となった。多くの人に読んでもらえたら」と話している。
 久恒さんは42歳から短歌を本格的に始めた。「豊洋歌人協会」や同人誌「地脈」「邪馬台」などに参加するなどして精力的に創作。60歳ごろからは、短歌の原点として万葉集をテーマにし、皇室や宮廷歌人ではない地方官人や仕える立場の人などに光をあてて探究している。これまで歌集(合同歌集を含め)4冊、研究作品2冊を自費出版している。
 今回の本は1997年にまとめた内容を修正。遣新羅使人(けんしらぎしじん)や山上憶良、防人(さきもり)の各歌、東(あずま)歌、中臣宅守と狭野茅上娘子の贈答歌などを取り上げ、詠まれている場所に訪れたり、歴史的背景を調べるなどして読解している。監修は長男・啓一さん(多摩大学副学長)。2200円。
 「庶民の歌は素朴かつ単純で、ひたすらで天真らんまん。ぜひ万葉の世界に触れてほしい」と久恒さん。「これからも元気な限り歌を創作し、万葉集に関わっていきたい」と笑顔を見せた。
 本の問い合わせは日本地域社会研究所(TEL03・5397・1231)へ。 

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「副学長日誌・志塾の風」170512

多摩キャンパス

  • 授業5回目。
  • 橘川先生、松本先生と6月の「大いなる多摩学会」総会の打ち合わせ。信頼資本。あやのや。、、、。多摩大出版会。

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  •  事務局長・川手課長、杉田学部長と定例ミーティング
  • 水谷IR室長

荻窪の日本地域社会研究所を訪問。「偉人の命日366名言」の進捗状況、、、。NPO法人小石川後楽園保存会の本多忠夫副理事長と名刺交換。

 夜は品川キャンパス

  • 滝川課長と研究開発機構評議員会の打ち合わせ
  • 大学院授業:本日のテーマは「憲法」。現行憲法自民党草案。

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 受講生の感想から。

  • 担当した内閣について一見、現行憲法自民党案はほとんど同じように写りましたが内閣総理大臣の権限の強化を巧妙に忍び込ませている事を気づくことが出来ました。法律の条文は難解で近づきがたいイメージがありましたが全体像を意識することにより論点を整理しやすくなる図解の威力を今回も実感することができました。
  • 前回の講義でも感じましたが、図解のすごいところは、興味がなかったり、無味乾燥な文章・記事が生き生きと理解できることです。「生き生きと」というのは、今日の講義の後、留学生と話していて、気づいたことです。彼女から、「他の方の図解は生き生きしている、私のは感情がない、どうしたらよいのでしょうか」と質問されて、無味乾燥な憲法が、図解を通せば生き生きして見えるのだ、ということに驚いたと同時に、気づかせてもらえた次第です。私が担当した「第二章 安全保障」は、なんと、条文は第九条の一つしかありません!話題の第九条とは言え、他の章で条文がたった一つしかない、なんてありえないと思います。その位、特殊な章でした。私自身、関心が高かった割に、現在の日本国憲法自民党草案をきちんと読んだことがなかったのですが、図解してみて分かったのは、70年前と現在では、国や国民の安全を脅かす状況が全く変わった、と言うことです。それに全く憲法が追い付いていなかった、そのために、憲法改正ではそのギャップを埋めようとしている、と言う意志を強く感じました。こうした憲法草案の意思を読み取って、改めて、自分の憲法改正に対する意思を明確にでき、また、憲法改正をテーマにした課題では、疑問も意見も明確に表明できる自信がつきました。前回の講義で、久恒先生が「図解ができれば、質問ができる」とおっしゃっていましたが、まさにその通りだと確信しました。実は、憲法記念日の直前、自民党の石破さん、民進党の細野さんが目の前で話すイベントに参加しており、今回の図解をしていたら、もっと鋭い質問ができたのに・・・と反省しました。5月3日は憲法記念日で、安倍首相が2020年に憲法改正を目指す、との発言をしたと話題に上りましたが、多くの国民が現在の日本憲法も、自民党の草案も読んだことがないと思います。マスコミも国民もいい加減だなと(さっき自分も読んだばかりのくせに)思いました。先程、あらためて確認して気づきましたが、自民党のサイトに掲載されている草案、実に5年前のものでした。5年も見たことがなく、ニュースでも開設されないとは・・・。日本の憲法議論はいい加減ですね。これも、今日の配付資料が最新版でなかったから気づけたことだと思います。そんな配付資料に感謝します。出来事にはすべて意味があると思います。これからも、無味乾燥で興味を持てないことや、長期過ぎてなかなかじっくり考えられないことを図解で考え、疑問・質問を出し、そこへの回答を探すことで思考を深めていきたいと思います。こうして自分の中、奥深くに思考が進み、かつ本質は何かを図解している中で考えるので、「インサイトコミュニケーション」なのかと思いました。国民全員に大切なのに、無味乾燥で読むことのなかった憲法を題材にしてくださった久恒先生に感謝します。また、私たち日本人とは全く違う視点でいらっしゃる中国人留学生の悩みに寄り添っていらした棟方さん、澤辺さん、気づきを与えてくださったことにも感謝しています!中国の憲法も知りたくなりました。中国は憲法改正をもうとっくにしているんですよね!日本は何をしているんでしょう!

  • 読み物は現行憲法自民党草案について、環境の変化につれて、憲法の内容も変わっていくと思います。恥ずかしいですが、今まで中国憲法を読んでいなくて、私と関係がないようです。さらに、私の図解は文が長すぎて、どうすればきれいなデザインでいきいきとして表現できますか。もし時間あれば直していただき、進歩は早くなると思います。
  • 皆さんと違い今夜私は脳が働かず, 半箇条書で矢印・囲い枠のみを用いた発表となりました...「図解表現で周囲の理解を促す」練習を重ねる授業なので, 発表後に記事中身の理解・解釈に関するコメントを戴くだけでなく, 実際に先生なら同じ記事でどのように図解されるか, という思考見本も今後の参考にプリントで毎回もらえると嬉しいです。
  • 私が担当した天皇の部分についても、自民党案にはよく読まなければ内閣総理大臣の権限強化が隠されていたりするので、さらっと読んだだけでは見逃しそうな内容になっていると感じました。図解することによって惑わされないようになることが肝要かと思います。憲法問題はこれからの日本の方向を決める問題でもあるので惑わされないよう注視していきたいと思います。
  • 私が担当したのは,国民の権利義務が列挙されている箇所。全体を大きくとらえると何を表しているのかをまず考え,次に,権利義務の本質は何か?を意識しながら分類してその上で,現行憲法自民党草案の違いを意識しながら図解を作成しました。俯瞰してから,細分化するという流れで作成したせいか全体像を理解しやすかったように思います。集中して図解を行い,その直後に発表を聞きあったせいか普段よりも情報が頭に入りやすく,理解の感度が高まっていたように感じました(その分終わってからどっと疲れを感じましたが…。)また,発表を聞きながら,一単語,一文字変わるだけで印象が大きく変わることも実感しました。普段自分がどんな意図でその言葉を使ったのか,あまり意識せずに書いたり話したりしていました。少しだけ意識を向けてみようと思います。

  • 憲法という難しく読みにくい文章であっても、図解を試みることで、重要なポイントが浮かびあがり、全体を俯瞰した思考が生まれた感覚がありました。部分最適ではなく、全体最適。今後も図解能力向上によるマネジメント力アップも目指していきたいと思います。また、現行憲法自民党草案を詳細に比較したことで、一つ一つの単語の違いの重みを感じました。言葉を選ぶことの難しさ、大切さを改めて実感しています。
  • 本日は現行の日本国憲法自民党草案を図解。憲法を理解しようと真面目に読んだのは初めてかも知れません。ただ条文を一つずつ比較するのでは無く、担当部分の構成要素(権利、自由等)とその関係性で整理しようと思ったのも図解的な意識による賜物だと感じました。街があって人々の生活があってという大きな一枚絵に憲法を重ね描くと、日々の生活に憲法の存在を感じ憲法への意識も変化するかも。 

「名言との対話」5月12日。青木昆陽「金銀、平日は至宝なれども、、饑寒(飢饉や酷寒)の用をなさざれば、金銀を集むるは何の為にや

青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日1698年6月19日) - 明和6年10月12日1769年11月9日[1])は、江戸時代中期の、幕臣御家人書物奉行儒学者蘭学者

昆陽は新橋の魚問屋であったがそれを嫌い儒者になった。その昆陽は病気の快癒を願って禁酒したり、母の死に際しては3年の喪に服すなど、両親への孝行が評判だった。それを八丁堀の地主でもある与力が町奉行大岡越前守忠相に上申したことがきっかけで自著「蕃薯考」を幕府に提出した。試験をして好結果を得られたことから甘藷は全国に普及し、飢饉時にも餓死することがなくなった。甘藷先生と呼ばれた。

幕臣となり、寺社奉行となった大岡忠相のもとで在野の家蔵古文書を収集し「諸州古文書」を著す。オランダ語の習得にもつとめた。弟子の一人が「解体新書」の前野良沢である。

琉球、長崎を経て伝わった甘藷(さつまいも)を今の幕張と九十九里で試作している。九十九里の碑や幕張の昆陽神社、そして墓のある目黒不動墓地での甘藷まつりが今なお続いていることなど、この人は多くの人から尊敬されている。平時の金銀財宝ではなく、非常時の至宝をつくったのだ。

アドルフ・ヴェルフリ「二萬五千頁の王国」展。アウトサイダーアートの嚆矢

 アドルフ・ヴェルフリ「二萬五千頁の王国」展。

アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930年)はスイス生まれの画家。アール・ブリュットを代表する芸術家。精神に障害がある画家ということでアウトサイダーアートと言う分野に属す。35歳から精神病院で絵を描き始める。1908年から1930年にかけて2万5千頁に及ぶ作品を描く。これは膨大な思考体系だ。

治療に当たった医師は、「空想の無秩序。道具を使わずに描く技能を持っている。直線とカーブからなる絵ばかり」と記している。

リルケユングも感銘を受けており、シュルレアリストアンドレ・ブレトンは「20世紀のもっとも重要な索引の3つか4つのうちのひとつ」と言っている。

1975年にはベルリン美術館の中にアドルフ・ヴェルフェリ財団が創設されている。

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叙事詩・絵画・楽譜・数字・表計算などあらゆるものが横溢する比類の無い作品世界。

  • 少年ドルフィが世界中を冒険する空想の自伝的旅行記「揺りかごから墓場まで」
  • 地球全土を買い上げ「聖アドルフ巨大創造物」を作り上げる方法を説く壮大なる創世記「地理と代数の書」
  • 自身のレクエイムとも言われる呪文のような果てしなきマントラ「葬送行進曲」

精神病院で書かれた「短い自伝」という書き物には、不幸な生い立ちと数々の試練、そして刑務所生活のことが記されている。

アール・ブリュットの王」アドルフ・ヴェルフェリは呼ばれている。アール・ブリュットとは、精神病患者、子ども、素人芸術家らの作品を指す。展覧会を見終わって、これは何だろうという奇妙な感慨を持った。精神に障害がある人の芸術作品、あどけない子どもの描く絵画作品、偶然発見される自分のために絵を描いく人々の見事な作品、彼らの内面はうかがい知れないが、彼らの精神世界は豊かなことは間違いない。アウトサイダーアートもアートの重要な部分であることは間違いない。

 

「副学長日誌・志塾の風」170511

 午前:研究室にて仕事。

昼:渡辺先生から本日のゲストの台湾観光協会の野村産さんを紹介される。

午後

・下井先生:SGSのFD(研究)の件。多摩大出版会。

・渡辺先生、安田SGS学部長:ホテル講座の打ち合わせ。

・金先生も加わり歓談

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 ・高橋さん(知研)来訪:支部再編のアイデア

 

 リレー講座:本日のゲストは安田学部長。

「18-19世紀中国の異文化理解:東西文化交流からの学び」。

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 帰りに駅で買った文藝春秋6月号の「蓋棺録」。亡くなった著名人の短い紹介のコーナーだ。4月は、渡部昇一ペギー葉山松本俊夫京唄子大岡信が紹介されてる。大岡信のコーナーを読むと,万葉集は4600首(余首)、朝日新聞の「折々のうた」は6762回という数字が書いてあった。このブログも本日で4608日だから、万葉集の歌の数を超えたことになる。次は大岡信の6762か。あと5-6年はかかる勘定だ。

 

 「名言との対話」5月11日。川喜田二郎「創造的行為の三カ条。自発性、モデルのなさ。切実性」

 川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年大正9年5月11日 - 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。

川喜田二郎の頭文字をとって命名されたKJ法の創始者である。KJ法の創始者である。KJ法はフィールドワークから生まれた創造性開発法。

「創造的行為というものは、、、自分が生み出したものとの間に強い連帯感を抱くものであり、それによって自分自身が変わっていくのを感ずるものである」

 「決断力のないリーダーは、誤った決断をするリーダーよりも劣る」

「共通課題への挑戦こそ人びとを結ぶものである。そうして解決という産物まで生みだしてこそ、その主人公もまた 創造されるのである。その達成感こそ人を育てるものである」

 生涯を通じて「創造」を考え抜いた実践者である川喜田二郎は、自発性・モデルのなさ・切実性を挙げている。自分自身の内からでてくるやむにやまれぬ強い動機から、今まで誰もなし得なかったことに、自ら突っ込んで行く。それが創造への道だ。その過程で自己変革が起こる。そして共同で達成した後には、関わった人々には強い連帯感が生まれる。こういたプロセスが人を育てることなのだ。リーダーたる人はそれを意識したい。

歌川国芳--「かわいい」が人気の源

  連休中に、歌川国芳「21世紀の絵画力」(府中市美術館)を観てきた。

 国芳が人気だそうだ。何が現代人に響くのか。

「かわいいもの」に人気がでる今に合っている。特に「猫」は猫ブームの現代人の心とつながる。

図録も含め、力の入った大型企画展だった。

歌川国芳(1797年-1861年)。歌川広重は同年生まれ。この年、蔦屋重三郎が48歳で没。15歳、歌川豊国にニュ門。31歳、水滸伝の武者絵シリーズでデビュー。35歳、洋風表現を取り入れた風景版画を多数発表。40歳、滝沢馬琴の70歳の賀に出席。41歳、河鍋暁斎が7歳で入門。46歳、艶本の取り締まりで罰金。47歳、天保の改革を批判したと評判・回収。48歳、北斎に面会。54歳、風刺画が発禁処分。月岡芳年が入門。57歳、「評判記に「豊国にかほ(似顔)、国芳むしゃ(武者)、広重めいしょ(名所)」と掲載。59歳、中風。60歳、最初の妻没。65歳、没。30代でデビューは、当時としては遅咲きだ。

この65年間の絵描きたち等の人生と作品がからまってくる。国芳の20代では、山東京伝56歳で没。杉田玄白85歳で没。司馬江漢72歳で没。初代豊国57歳で没。30代では、大槻玄沢71歳で没。酒井抱一68歳で没。40代では、谷文晁78歳で没。柳亭種彦60歳で没。間宮林蔵65歳(?)で没。50代では、渓斎英泉58歳で没。葛飾北斎90歳で没。高野長英47歳で自殺。60代では、歌川広重62歳で没。まるでドラマティックな絵巻物のようだ。

以下、国芳の人と作品をとりあげる。

まず「人物」。

江戸っ子の気性。極端な巻き舌。職人気質。逸話が多い。無鉄砲。尻軽。猫好き。気分屋。反骨。ユーモア。人間味のある花形絵師・浮世絵画工。

 

「作品」

水滸伝」でデビュー。武者絵というジャンルをメジャーにしrた。西洋語法の写実主義に基づく有名人の肖像の錦絵。劇画の祖。今日の漫画・戯画の軽妙さ。リアル。自由闊達。遊び。おちゃらけ,戯れごと。笑いと共感。東西芸術の不完全な融合。

 北斎没後の1850年の浮世絵師ランキングのトップは国貞「出藍」(初代豊国を超えた)、広重「真景」(風景画)、国芳「狂筆」(おかしな絵)とある。

 

「相馬の古内裏」

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「近江の国の勇婦お兼」

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西洋の本「イソップ物語」の挿絵をもとに描いた銅版画。

 「みかけはこはゐがとんだいいひとだ」

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 男たちの裸身が重なり合って人間の顔となる。だまし絵。

 

「副学長日誌・志塾の風」170510

インターネット放送局「名言との対話」の収録。大学創立者

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杉田学部長と一緒に、 事務局に入る新人職員への説明と懇談。

北島(総務課)。小野塚(学生課)。穴場(総務課)。入内嶋(総務課)。佐藤(入試課)。

 前職が興味深い。コカコーラ。国際大学日本航空Z会。西武信金。 私からは多摩大の現状と課題の説明。「前職の経験と人脈を生かして欲しい」と激励。

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 田村理事長報告。杉田学部長と一緒。

私からは、大学院、グローバルスタディーズ学部を含めた大学全体の動向と課題を説明。3人で懇談。

 

 「名言との対話」5月10日。桑原武夫「汚い金をきれいに使うのが文化ちゅうもんや」

桑原 武夫(くわばら たけお、1904年明治37年)5月10日 - 1988年昭和63年)4月10日)は、日本フランス文学・文化研究者、評論家文化勲章受章。人文科学における共同研究の先駆的指導者。

共同研究システムを発明し、日本の人文科学分野の研究における数々の業績を通じて、梅棹忠夫梅原猛上山春平鶴見俊輔多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。

京都市右京中央図書館には「桑原武夫コーナー」が設けられ、生前に使用していた机や椅子、直筆のノートが展示されている

新井白石の合理主義、本居宣長のねばっこい追求力、そして明治維新をなしとげて、独立を守りえた私たちの祖父たちの知力と勇気、そうしたものをこそ、近代国家としての今の日本で継承せねばならないのである」

人間は40代後半になったら、自分の力を弟子なり後進なりに分けてあげなければいけない。人を育てるにはエネルギーが要る。老齢になった後に名誉職のような形で養成するのではだめだ。力の充実している時期に後進を養成しなければ人は育たない」

金を集めるのは難しい。しかし金を使うのはさらに難しい。優れた事業家が絵画などの芸術品を集めてコレクションを楽しむのは、贅沢でもあるが、金の使い方という意味では素晴らしい。そういうコレクションが美術館に育っている。文化人は経営者に金を使わせることができれば、大いに貢献できる。そのときの殺し文句がこれだ。

「タウンマガジン なかつ」に母と私の記事

中津から「タウンマガジン なかつ」という雑誌が届いた。5月号。

この中に、私と母親の二人の記事が載っている。「母親と長男が同時期出版」という見出しだ。母親がインタビューを受けて記事になったもの。

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 オーディオブックで丸山真男「日本の思想」(岩波新書)を読了。

 前々から関心を持っており、取り組まなければならないと考えていた「日本思想史の包括的な研究」が貧弱であることがよくわかった。これはやはり難しい問題だったのだ。

丸山は世界の思想の重要な思想的産物は、ほとんど日本思想史のなかにすでにあるという。『日本の思想』では、「全体」「構造化」「立体的」「配置」「試図」、、、というキーワードがでてくる。

日本の思想 (岩波新書)丸山真男「日本の思想」(岩波新書)

「まえがき」から。

・時代の知性的構造や世界観の発展あるいは史的関連を辿るような研究は甚だ貧しい。

・日本史を通じて思想の全体構造としての発展をとらえようとすると、誰でも容易に手がつかない

・まるごとの社会的複合形態でなくして一個の思想として抽出してその内部構造を立体的に解明すること自体なかなか難しいが、たとえそれができても、さてそれが同時代の他の諸観念とどんな構造をもち、それが次の時代にどう内的に変容して行くかという問題になると、ますますはっきりしなくなる。

・自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった

・問題はそれら(あるゆる思想の断片)がみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないところにある。

・あらゆる哲学・宗教・学問を「無限に抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統

 

「あとがき」から。

・「外来思想」の移植と「伝統」思想の対応形態といったものを全体として問題にし、そのなかで個々の思想を位置づけることなしに、、、

・およそ千年をへだてる昔から現代にいたるまで世界の重要な思想的産物は、ほとんど日本思想史のなかにストックとしてあるという事実、、、

・私自身としてはこうして現在からして日本の思想的過去の構造化を試みた、、、

・「日本の思想」は、、、思想史的な構造をできるだけ全体的にとらえて、、、それらの問題の「伝統的」な配置関係を示そうという文字通りの試図にすぎない。

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 「副学長日誌・志塾の風」170509

多摩キャンパス

・秘書とスケジュール調整、授業準備など。

・杉本係長:大学戦略会議の打ち合わせ

・高野課長:打ち合わせ

・森島入試課長:数字

・野田先生から電話:卒寿の会

 

湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会(新メンバー)に参加。

・卒業研究。教職の学校推薦。退学者数・休学者数。準内定。チャレンジ枠。就職の出足。藤沢市商工会から地域貢献賞。

・私から「多摩大出版会」「多摩大モデルの本」「課長の副委員長」など。

 

「名言との対話」5月9日。金子鷗亭「芸術には進化はないんです。芸術は変化があるのみです」

金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年5月9日 - 2001年11月5日)は、北海道松前郡生まれの書家近代詩文書を提唱した。文化勲章受章者。

 五稜郭の近くにある北海道立美術館で「鷗亭記念室」を見学したとき、啄木の歌と水原秋桜子の歌を書いた鴎亭の書が展示されていた。ゆるやかな仮名文字、人の体の線をなぞったような漢字、、。この人の書は、江戸東京博物館井上靖記念館、史蹟松前城国木田独歩詩碑などの題字になっている。

現代書でもっとも広く浸透したのは金子の漢字かな交じり文の近代詩文書である。現在では金子創設し創玄展は、わが国最大級の書展となっている。
毎年の全国戦没者追悼式の標柱の揮毫はこの人の書だった。1952年に第一回を書き、1963年から1993年までの実に31年間にわたって書き続けた。1952年の57歳から、最後に書いたのは88歳の時だった。60歳頃からは毎朝5時に起き散歩をして健康状態をベストにしてこの仕事を続けようとした。
この人によれば、「明」という字は、窓から月の光がさしこんでものが見えるという意味だそうだ。

金子は漢詩・漢文などの異国趣味を排し、日本の口語文・自由詩・短歌・翻訳等の詩文を新たに題材とすべきであり、また書の表現も現代にふさわしい表現とするべきだと言って賛同者を増やした。時代に応じた変化を主張したのだ。

『意識はいつ生まれるのか』--脳と意識をめぐる統合情報理論

 マルチロ・マッスイミーニ:ジュリオ・トノーニ『意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房)を読了。

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

脳は意識を生み出すが、コンピュータは意識を生み出さない。両者の違いは何かを探り、「統合情報理論」に至るプロセスを丹念に追った2013年の本の翻訳作品。

基本命題:あるシステムは、情報を統合する能力があれば、意識がある。

公理1:意識は無数の他の可能性を排除した上で成り立っている。

公理2:意識は統合されたものである。

公理3:意識を生み出す基盤は無数の異なる状態を区別できる統合された存在である。ある身体システムが情報を統合できるなら、意識がある。

個別のシステム(視覚系、聴覚系、触覚系、、。システムの中に下位の形や色を見分ける部位がある))がばらばらに存在しているなた統合されていないから意識はない。それぞれが専門化されながら、完全に統合されているなら意識はある。身体で意識があるのは、視床ー皮質系のみだ。

刺激を受けた感覚が完全に意識にのぼる「には、0.3-0.5秒かかる。情報が高いレベルで統合されるには時間がかかることを意味している。

一(いち)なる組織には、各要素間に因果関係がある。情報を統合できるシステムのあるところに意識あり。

この本を読んで、「脳と意識」をめぐる最初の疑問は晴れたが、二つの疑問が残った。

1:この本でいう意識は、心とどういう関係にあるか?

2:組織のような非身体システムでも、統合されていれば意識があるということか?

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水泳300m

スタートレック1本。

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「名言との対話」5月8日。高山彦九郎「朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日1747年6月15日) - 寛政5年6月28日1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。

13歳の頃、「太平記」を読み、南朝の遺臣が建武の中興の志を遂げられなかったのをみて憤り、尊王の志をおこす。18歳で置き手紙を残し上京。21歳、山陽道で管茶山に会い、閑谷学校を訪問。24歳、細井平洲(上杉鷹山の師)に入門。40歳、祖母りんが没し、3年間喪に服す。43歳、江戸で前野良沢に出会う。44歳、林子平。46歳、筑紫の旅で、中津に3ヶ月ほど滞在。47歳、久留米で自刃。

27歳から47歳で亡くなるまでの21年間の日記では、蝦夷地と四国以外の日本中を旅したことが記されている。有名、無名の交遊は5千人に及ぶ。記念館では公家、儒学者、無名の人々などその交遊の広さに驚いた。高山彦九郎は今で言うネットワーカーだったのだ。ネットワークをつくり、つなげながら、自らの思想を練り上げ、日本の中に伝播していった人である。知的武者修行でもある。旅の思想家だった。

土地の歴史を調べそこで善行をした人の魂を認め、褒め、それを書き残す。その土地の優れた人を掘り起こす。親の敵を討った人、農業のやり方を発明した人、洪水を防ごうと工事をした人。、、高山彦九郎は質問し、その土地のよいところを引き出す人だった。だから誰もが彼を信頼する。

細井平洲を師と仰ぐ高山彦九郎は、足利幕府以来の武断政治を仮の姿とし、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿であるとの確信を持っていた。そのことは徳川幕府に対する疑念となる。それは反幕の思想であった。この考え方は日本国内に深く浸透し「尊王攘夷」という思想を産んだ。それが明治維新に連なっていく。

ミュシャ展(国立新美術館)とムットーニ・パラダイス(世田谷文学館)

連休は計画していた通りのことができた。

特に人物記念館についてはゴールデンウイークとなった。9人の人生に向き合った。

横尾忠則(町田)。吉田茂(大磯)。島崎藤村(大磯)。徳富蘇峰(二宮)。次郎長(清水)。歌川国芳(府中)。アドルフ・ヴェルフェリ(東京)。そして本日は六本木の国立新美術館ミュシャ展と世田谷文学館のムットーニ・パラダイスをみてきた。

 ミュシャ(1860ー1939年)はチェコに生まれ、大女優・サラベルナールノデザイナーとしてパリでアール・ヌーボーの旗手として栄光に包まれるが、スメタナの「我が祖国」」を聴き、50歳で故郷に帰り、16年間かけて「スラブ叙事詩」という超大型の連作画20枚を完成させる。他民族による圧迫の歴史と、民族の悲哀をあらわす人々の目が印象的だった。詳細は別途。

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 世田谷文学館がリニュアルオープンになった。その企画の第一弾が「ムットーニ・パラダイス」である。本人の言によると、「カラクリ・モーション・BOX」となる。ムットーニ(武藤政彦1956年生)本人による45分間の実演を楽しんだ。アナログのよくできた動くカラクリボックスをみながら、ムットーニの語りが流れる。中原中也。摩天楼。萩原朔太郎。ジャングルパラダイス。生と死をテーマとした独特の世界を堪能。詳細は別途。

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 夜はスタートレックを2本。

 

「名言との対話」5月7日。本居宣長「志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5) は、江戸時代国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。

本居宣長(1730-1801年)は、34才で伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。35歳で着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。

 宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。

「才のとぼしいこと、学ぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい」

日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長尊い人生は教えてくれる。

大学院:修士論文予備審査会・教授会。インターゼミ:4つの班が始動。東京ステーションギャラリーで「アドルフ・ヴェルフリ」展。

 品川と九段の仕事の合間に、東京駅のステーションギャラリーで「アドルフ・ヴェルフリ」展。アウトサイダーアート。

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「副学長日誌・志塾の風」170506

  • 9時半:修士論文予備審査会:徳岡先生と河野先生。院生4人のテーマは、「二宮町」、「企業人事と行政」、「稼ぐこと」、「ノンアルコールビール」。院生は大企業のビジネスマンと起業家。それぞれコメントをしたが、日本の産業社会の現実と課題がわかるのでこの時間は面白い。
  • 12時10分:大学院教授会:修士論文予備審査会の報告。自己点検・教務分科会。入試広報分科会。院生分科会。データサイエンスコース。ルール形成コース。ポラリスユニバーシティ。ロビースペースリニュアル。AED。

16時:インターゼミ

荻野先生「二宮尊徳」。久恒「人物記念館:吉田茂島崎藤村徳富蘇峰横尾忠則清水次郎長歌川国芳」、、、

学長講話

・アジア:トルコのマッソス以東の得体の知れない存在、西欧の対置概念。多摩学:思想、食と農の現場に立つ、大学が地域の課題解決にあたる。サービス:脱ものづくり国家、サービス産業の高度化。AI:人間とは何か。4つのチムのシナジーで何がみえるか?

北朝鮮の空気。70数年前の日本。再びならないともいえない。朝鮮半島は35年間日本の一部。アジア的退嬰。同胞感覚を持つ人がいるだろうか。絶望からの戦争。日本をターゲットとするオレンジ計画は日露戦争後から。北朝鮮を対象とするブラックスワン計画。不人気政権は対外緊張で人気取りに走る。カーボーイメンタリティ「追い込んで先に拳銃を抜かせ、反撃にでる」。海上封鎖をやると必ずコンフリクトが起こる。中国には褒め殺し作戦。ロシアの存在。近代戦はサイバー情報戦争へ。情報網を遮断し機能不全に。専制体制は弱い。「メジャー・コンフリクトいなる」。核・化学兵器・ミサイルで反撃してくるから金政権は崩壊する。このシナリオは20-25%しか描けていないとティラーソン国務長官。中国・ロシアは韓国主導の統一は好ましく思っていない。核を持った統一朝鮮の出現も。日本にとっては分断は有利という判断も。朝鮮情勢はヒトゴトではない。

・人の本音を引き出す力をどうつけるか。質問の内容。課題解決のためのインテリジェンス。相手を本気にさせるものをもっているか。

・ワシントンの空気は一変した。ジャパンハンドラー・ジャパノロジストなど窓口がいなくなった。東アジアの専門家が政権にいなくなった。

・どういう夏になるか。メモをつくりながら一人一人がこの夏に対峙しなければならない。

 

本日から班のメンバーが正式決定。

  • 多摩学班

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  • AI班
  • サービス・エンターテイメント班

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  • アジア・ユーラシアダイナミズム班

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「名言との対話」5月6日。井上靖「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

井上 靖(いのうえ やすし、1907年明治40年)5月6日 - 1991年平成3年)1月29日)は、日本小説家文化功労者文化勲章受章。代表作は「敦煌」「孔子」など。

山崎豊子は新聞記者をやりながら朝5時に起きて出社する前に小説を書いていた井上靖の情熱と姿勢に打たれている。「井上さんは午前五時に起きて、作家として世に出るまで四千枚の原稿を書きためねばならぬと、自分に課した目標に向かって、ペンを執っておられるのだと思うと、粛然とした気持ちになった。」「記憶に残る言葉といえば、「絶えず勉強しなさい」という平凡にして、至難な言葉である。」

旭川自衛隊駐屯地に程近い場所に井上靖記念館があり、2006年に訪問した。この人の姿勢には見習べきものが多くある。

 「人生は使い方によつては充分長いものであり、充分尊いものであり、充分美しいものである。」

「自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろう」

「何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で、一番いいようだ。」

「これまでとまったく違った新しい人生というのは、十五年ぐらいかけてチャレンジすると、かなり達成できるものなんですよ。」

勉強家・努力家であった井上靖の言葉には深い叡智が宿っている。15年かければまったく新しい人生をつくることができるという言葉も井上靖だから説得力がある。君は不満を語るか、希望を語るか。