連休は計画していた通りのことができた。
特に人物記念館についてはゴールデンウイークとなった。9人の人生に向き合った。
横尾忠則(町田)。吉田茂(大磯)。島崎藤村(大磯)。徳富蘇峰(二宮)。次郎長(清水)。歌川国芳(府中)。アドルフ・ヴェルフェリ(東京)。そして本日は六本木の国立新美術館のミュシャ展と世田谷文学館のムットーニ・パラダイスをみてきた。
ミュシャ(1860ー1939年)はチェコに生まれ、大女優・サラベルナールノデザイナーとしてパリでアール・ヌーボーの旗手として栄光に包まれるが、スメタナの「我が祖国」」を聴き、50歳で故郷に帰り、16年間かけて「スラブ叙事詩」という超大型の連作画20枚を完成させる。他民族による圧迫の歴史と、民族の悲哀をあらわす人々の目が印象的だった。詳細は別途。
世田谷文学館がリニュアルオープンになった。その企画の第一弾が「ムットーニ・パラダイス」である。本人の言によると、「カラクリ・モーション・BOX」となる。ムットーニ(武藤政彦1956年生)本人による45分間の実演を楽しんだ。アナログのよくできた動くカラクリボックスをみながら、ムットーニの語りが流れる。中原中也。摩天楼。萩原朔太郎。ジャングルパラダイス。生と死をテーマとした独特の世界を堪能。詳細は別途。
夜はスタートレックを2本。
「名言との対話」5月7日。本居宣長「志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」
本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5) は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。
本居宣長(1730-1801年)は、34才で伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。35歳で着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新の尊皇攘夷運動の原動力となっていく。
宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。
本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。
「才のとぼしいこと、学ぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい」
日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長の尊い人生は教えてくれる。