Bunkamura ザ・ミュージアムの「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展」

渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムの「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展」。

ハプスブルク家のルドルフ2世(1552-1612年)は、稀代の収集家であり、また芸術の庇護者として一生を過ごした。

遷都したプラハの宮廷には、大航海時代以降の領土の拡大によって新たな博物がぞくぞくと発見され世界が拡大していく。また、望遠鏡による天体観測が始まり、ブラーエ(1546-1601)、ケプラー(1571-1630)が活躍した。ガリレオは自作の望遠鏡で観察を行い、地動説を主張した。望遠鏡による宇宙というマクロコスモスの発見と、顕微鏡によるミクロコスモスも発見されていく。

ルドルフ2世はナクシミリアン2世、母はスペイン王家のイザベラ。11歳から19歳まで、叔父にあたるフェリペ2世の黄金時代のスペイン宮廷で過ごす。1583年に首都をウイーンからプラハに移す。

このプラハに世界中の新奇はものを集めた。鉱物、貴石、宝石、植物、動物、まがい物、人口物、道具、機械、装飾写本、メダル、古銭、工芸品、絵画、彫刻、古物、肖像画、楽器、時計、地球儀、天球儀、鎧、、、。

プラハには多彩な才能が集結した。錬金術(医学・科学へ)、魔術、占星術、心霊術、オカルト、秘境、印刷術、人文主義、美術品収集、、。

 アルチンボルドが描いた花々、野菜、穀物の集積からなる奇異な人物像は、ルドルフ2世の肖像である。創造的想像力のなせる技だ。洋ナシの鼻、リンゴと桃の頬、カボチャの胸、ウリの額、、、など63種類の野菜や花などで構成されている。こういう肖像画を描かせる皇帝は面白い。

24歳で皇帝になったルドルフ2世は、宗教対立、煩瑣な政務、オスマン帝国の驚異などからなる政治には関心を持たず、最後は弟のマティアスに帝位を譲ることになった。

ルドルフ2世は皇帝の権力を駆使して、博物の収集家と芸術の庇護者として生涯を送っている。旅行はせずに、生涯を独身で通した。新奇な自然物、珍奇な工芸品、珍しい美術品など、プラハ宮廷は世界随一の博物コレクションとなった。

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「名言との対話(平成命日編)」2月27日。西田善夫笑顔の優勝です。泣かない優勝です

西田 善夫(にしだ よしお、1936年2月8日 - 2016年2月27日)は、日本スポーツ評論家。NHKアナウンサー

早稲田大学を出てNHKに入局。1964年の東京オリンピックでは、バレーボールの実況を担当した。その後、プロ野球・アマ野球を中心とした各種スポーツ(バレー、アイスホッケー、野球、メジャーリーグ、、)実況を担当。「スポーツアワー」「サタデースポーツ」「サンデースポーツ」でキャスターとして活躍。1991年医はスポーツアナウンサーとして初めてNHK解説委員に就任ししている。

幅広いスポーツの知識とユーモアたっぷりの語り口で、スポーツ選手の真剣勝負が生み出すドラマを演出する西田のスポーツ実況の醍醐味を味わったことを思い出す。この人の顔と声はお茶の間ではよく知られていた。

1989年の第61回選抜高校野球大会決勝は、延長10回の熱戦となり、東邦が延長10回裏に上宮(4番は元木大介。4人がプロ野球選手になった)に逆転さよなら勝ちした試合である。この試合で西田アナウンサーは「「勝って泣き、負けて泣くセンバツの決勝!サヨナラの幕切れでした」と実況。東邦の校歌終了後、数秒間の沈黙の後に「本当に野球には何が起こるかわかりませんね」と印象的なコメントを残している。

西田は1976年のモントリオールでは女子バレーの決勝戦を担当し、山田重雄率いる新・東洋の魔女の優勝時に、「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」と実況した。それまでの優勝者は必ず泣いていたのだ。西田善夫の名実況は「泣く」がキーワードだった。2018年の平昌オリンピックが終了したばかりだが、時代が変わり、泣く人もいれば泣かない人もいる。アスリートたちが活躍する名場面と実況は多くの人に感動を与え長く記憶に残る。時代と人物と歴史的場面にに立ち会うアナウンサー、特にスポーツアナウンサーという仕事の面白みはそこにある。

 

 

 

多摩大TーStudio「名言との対話」第28回--河原淳。小西和人。松本重治。坂田道太。大島渚。

多摩大T-Studio「名言との対話」第28回。

取り上げた人物「河原淳。小西和人。松本重治。坂田道太大島渚

www.youtube.com

河原淳「ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました」

小西和人「釣りに国境なし」

松本重治「日米関係は日中関係である」

淡路恵子「体から心まで、とにかく自分のことは自分で管理していないと、女優はつとまらないわよね」

坂田道太「むしろ素人の方がよい」

大島渚「情報もいいでしょう。でも、生の体験は強い」

 

 

「名言との対話」2月26日。宮脇俊三「彼ら(車窓風景)は見てくれと私に言う。しかし同時に、おれのことをお前、書けるのか、と言っているように思われるのだ」

宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は、日本の編集者紀行作家
宮脇は大学を卒業後、中央公論社に入社。編集者として、『日本の歴史』シリーズや『世界の歴史』シリーズ、北杜夫の『ドクトルマンボウ』シリーズなど、数々のヒット作を世に送り出し、『中央公論』誌の編集長などを歴任する。51歳、常務取締役を最後に退職。

実は宮脇には、仕事以外に打ち込んでいたことがありました。それは、旅。それも鉄道旅行である。子どもの頃からの趣味である鉄道旅行をずっと続け、50歳では国鉄全線を完全に乗り切る。6月30日退職、そして7月10日『時刻表2万キロ』でデビュー。この作品で日本ノンフィクション賞を受賞。その後も、『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『時刻表一人旅』『インド鉄道旅行』など、数多くの著作を著わし、紀行作家として不動の地位を築いた。54歳では「時刻表昭和史」が交通図書賞を受賞、58歳、「殺意の風景」で泉鏡花文学賞、65歳、「韓国・サハリン 鉄道紀行」で第1回JTB紀行文学大賞、72歳では鉄道紀行を文芸のジャンルとして確立したとの理由で菊池寛賞を受賞している。76歳で亡くなったが、戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」といいう、いかにもというものだった。

国鉄全線完乗という愚かな行為」「この阿保らしき時刻表極道の物語」と自らを笑う宮脇は、自らのことを「珍獣」と呼んでいた。自らを「時刻表極道」と呼んでいた。奥さんは同行しないのか、というインタビューの質問に対する答えがふるっている。「ええ、私は汽車に乗るのが手段でなく目的だから、利害が対立して、能率半減になるんで」。

「旅はほんらい「線」であった。目的地があっても、そこに至る道程のなかに旅のよさがあった。「おくのほそ道」にしろ「東海道中膝栗毛」にしろ、そこに描かれたのは「点」よりももしろ「線」である」

「注文が多く、東奔西走の日々」と本人が言っていたように、昭和56年から58年までの3年間のスケジュール表を企画展でみたが、ほとんど休みなく日本全国を駆け巡る宮脇の姿が思い浮かぶ過酷な日程表だ。鉄道紀行は、移動自体が目的となっており、尋常ならざる体力と気力が要求される。旅行の携行品を記す。時刻表、地図1(25万分の1.車窓用)、地図2(2万5千分の1。歩いてみたいところ用)、歴史の本(文庫版の県別史)、ガイドブック、洗濯用ロープ(二日にいちいちはバス付きのホテルに泊まり下着を洗濯!)、針と糸、保健薬一式(ビタミンCや葉緑素)、痔の座薬(長いこと座っているので用心のため)、虫よけスプレー(史跡にはやぶ蚊が多い)、ウイスキーのポケット瓶(寝酒用)、スリッパ(車中用)、帽子、空気枕(車中の居眠り用)、小バッグ(丸えると手の中に入るくらいの薄地のもの)、メモ帳。カメラは原則として携行しない。旅の様子が目に見えるようだ。旅の達人の旅行道具には興味津津。

宮脇俊三はのめり込んだ対象(車窓風景)から、「おれのことをお前、書けるのか」と挑まれている。ある対象(例えば人物)に惚れて没頭してそれをまとめようとするとき、その対象から「俺を書けるか?」と挑戦される心持ちがするときが私にもある。宮脇に倣って「人物記念館極道(?)」への道を歩むことにしようか。

 

時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1)

 

 

 

 

 




 

大学院「授業の様子」コーナーに秋学期の「立志人物論」が掲載。JAL時代の仲間(千歳、客乗)たちと。12時から17時まで。

大学院「授業の様子」コーナーに秋学期の「立志人物論」が掲載された。

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第1講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第2講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第3講 | |多摩大学大学院

 「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第4講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第5講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第6講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第7講 | |多摩大学大学院

「立志人物論」(久恒 啓一 教授) 第8講 | |多摩大学大学院

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JAL時代の仲間(千歳、客乗)たちと。12時から17時まで。愉しい時間。

有楽町電気ビルの「Rose & Crown有楽町」。中村(課長)、大島(係長)、鶴崎(先輩)、藤田(先輩)、赤羽(後任)、久野(同期)、来栖(後輩)。久恒。

・話題の「6Th」で二次会。中村、藤田、鶴崎、久恒。

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「名言との対話」2月25日。飯田龍太「「誰もが感じていながら、いあままで、誰もいわなかったことを、ずばりと言い止めた俳句。それが名句の条件である」

国学院大学折口信夫門下に入る。国文学者か小説家になろうとしたが、兄3人が死に大庄屋飯田家を継ぎ、父の俳句結社「雲母」も継ぐことになった。

父・蛇笏は、熱いロマンチスト、傲岸不屈、古武士の風格があった。息子・龍太は、土着の目を意識した、そして冷え冷えとした醒めた人であった。金屏風であった父・蛇笏の高さから飛翔した龍太は父の期待に応え、1970年代は「龍太の時代」と一人の名で呼ばれるほど抜きんでた存在になった。1992年には「雲母」を900号で終刊し、俳壇に衝撃を与える。

句作の秘訣について。

「私は旅をすると、ここに季節を変えて来たらどうだろうと考えることにしているんです」「射程を長くとりなさい」「俳句は季語を持つことで大衆性を獲得している、、、日本人の知恵だね」「これからの俳句に何か残された、もしあるとすれば、老境に至って野世界の新しい開眼ということになる」

俳論。

「俳句は自得の文芸」「俳句は相撲に似ている。4m55だが、丸い土俵は窮屈ではない」「俳句は炊きたてのご飯に似ている。あたたかい味噌汁とこころのこもったおいしいつけものがあれば十分」「俳句は、名を求める文芸様式ではない。作品が愛唱されたら、作者は誰でいもいい」

 

以下、私の好きな句をあげる。

 手が見えて父が落葉の山歩く

 遺されて母が雪踏む雪あかり

 遺書父になし母になし冬日

 去るものは去りまた充ちて秋の空

 父母の亡き裏口開いて枯木山

 

 娼婦らも溶けゆく雪の中に棲み

 どの子にも涼しく風の吹く日かな

 冬近し手に乗る檎の夢を見て

 山河はや冬かがやきて位につけり

 冬ふかむ父情の深みゆくごとく

 かたつむり甲斐も信濃も雨の中

 大寒の赤子動かぬ家の中

 千里より一里が遠き春の闇

 雪の峰しづかに春ののぼりゆく

 闇よりも山大いなる晩夏かな

 重畳の芽吹きは山の怒濤かな

 秋の蛇笏春の龍太と偲ぶべし

 またもとのおれにもどり夕焼中(最後の句)

山梨に旅して文学館を訪れると飯田蛇笏と飯田龍太親子の本や句集が目に入る。龍太は親の七光りかと思って敬遠いたが、間違いだった。龍太は蛇笏と並ぶ、いやそれ以上の俳人だった。「龍太の時代」と言われるほど、俳人だけでなく同時代の文学者たちに愛され、影響を与えている。龍太の指摘するこの名句の条件は、感じてはいたが表現できなかったことをずばりと断定して気持ちがいい。

飯田龍太の時代―山廬永訣 (現代詩手帖特集版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

共同研究発表会ーー共同と研究と。

教授会:卒業判定と進級判定

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研究発表会(FRC):共同研究の事前説明会。司会は下井研究委員長。11人の発表。

-小西先生:高大接続アクティブラーニング研究会。AL評価技法の開発。AL評価の多摩大へ。高校のラーニングポートフォリオ、入試での多面的評価、大学でのコンピテテンシー(主体性・多様性・協同性)の評価手法の開発。

-野坂先生:アクティブシニア。都市農業者へのヒヤリング。マッチングプラットフォーム、シェアリング農業のビジネスモモデルへ。

-大森先生:ビジネスモデル検定。e-leaninngで補完。Moodle。小テストで自動採点。

-水盛先生:中国における企業ガバナンス。日本人経営者インタビュー。中国崩壊論の崩壊。国営企業、国有企業(党)、民間企業、外資系に導入。

-久保田先生:多摩地区のアクティブシニアの実態調査。就労健常者20%、非就労健常者33%、介護予備軍29%、介護19%。多摩の実態。非就労健常者を就労健常者へ。ITリテラシーの活用。

彩藤先生:見守りARペット。AI、AIスピーカー。

-良峯先生:脳波を活用した高齢者QOL支援と評価。マインドフルネス、セラピートレーニング、脳波トレーニング。

-丹下先生:中小企業におけるインバウンドビジネスのマネジメントに関する実証研究。企業に焦点を当てた研究は少ない。インバウンド対応を目指す中小企業への示唆。グローカルビジネス。

-今泉先生:鳥の目・蟻の目。厚労省裁量労働ナイチンゲール。動的可視化システム。ドローン映像。ツリーで表現。

-出原先生:歩行画像解析による高齢者運動能力の推定(歩行年齢 Kinect)。スマホ利用の継続観測によるAL学修効果測定(ALの定量効果測定)。スポーツ指導のためんお道がアーカイブの実装(フットサル、一連プレーというシーン、範囲のAI学習)

-飯田先生:中国北京郊外の起業家と学生の交流。、、、。

 

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 興味深い共同研究が多かった。「共同」の趣旨は十分。「研究」については二大潮流が確認できたのは収穫。

・アクティブラーニングに関するものは、小西・大森・良峯・出原・飯田。5件

・ジェロントロジーに関するものは、野坂・久保田・良峯・彩藤・出原。5件。

・他は、企業経営:水盛・丹下。AI:出原・彩藤。

終了後、良峯先生、志賀先生と懇談し、私は良峯先生の「脳波」に参加することにした。図解学習による前頭前野の測定に関心あり。脳波NewroSkyのヘッドセットを早速購入し実験始めることにした。 

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 ラウンジ

・飯田先生:北京

・水盛先生:中国国営企業を買収し社長をつとめた友人を紹介することにした。

 

「名言との対話」2月23日。片倉もと子「 沙漠のままの文化を大切にしたい」

 片倉 もとこ(かたくら もとこ=素子=・旧姓新谷、1937年10月17日 - 2013年2月23日)は、日本の民族学者

民俗学者文化人類学者として、生涯にわたって中東の遊牧民とアラブ・ムスリムの研究に従事。日本では殆ど知られていなかった中東文化について、多大な知識がもたらした。アラブ独特の価値観、アラブ女性の世界、アラビア海洋民(海の遊牧民、片倉による呼称)の存在、などを明らかにしたイスラム研究者である。

大学共同利用機関である京都の国際日本文化研究センター日文研)の歴代所長は梅原猛河合隼雄山折哲雄と生え抜きが続いていたが、所外者で初めての女性の所長をつとめた。

片倉は「沙漠のままの文化を大切にしたい」との言葉を残して他界。遺言には、遺産を基金として沙漠文化の研究者や芸術家に役立ててほしいとあり、この遺言に基づき財団が設立された。一般財団法人片倉もとこ記念沙漠文化財団は、片倉もとこの志を受け継ぎ「沙漠文化大切にし」「沙漠そのもののうつくしさをひきだす」ことに より、沙漠文化の「諒解」に寄与することを目的としている。沙漠文化に関する調査研究や芸術文化活動に取り組む人々を顕彰する「ゆとろぎ」賞をがある。ゆとり、くつろぎからりくつを引いた言葉だ。アラブでは仕事、遊び、ラーハと時間を区切るのだが、そのラーハは日本語のくつろぎにあたる。

 シルクロードには大きく3つの道がある。「草原の道」「砂漠の道」「海の道」。この砂漠を愛したのが片倉もと子だ。イスラム社会では人物が立派であるかをはかるイルムという言葉がある。理性と感性の両方を含む「情報」を持っている人だ。旅と交流によって得られる世界観だろう。片倉もと子は14世紀初めに30年間にわたりイスラム世界を旅行した偉大な探検家・イブン・バットゥータに因んで、アラビア人の学者から「あなたはまるで"ビント・"(バットゥータのビント=娘)だ」と、光栄なあだ名をもらっている。

片倉もと子は砂漠の魅力に取り憑かれた一生を送り、日本沙漠学会副会長もつとめた。砂漠文化の伝承のために遺産を寄付し、それが財団となって「志」が継続していく。

 

 

 

 

 

 

NPO法人知的生産の技術研究会のセミナー:みたけきみこ&三嶽豊「薩摩おごじょとあづま男のわがまま文化論」。

夜はNPO法人知的生産の技術研究会のセミナー。代々木。

講師とテーマ:みたけきみこ&三嶽豊「薩摩おごじょとあづま男のわがまま文化論」。

NPO法人鹿児島文化研究所で活動する、「月の船自由大学」の理事長(三嶽豊)と学長(みたけきみこ)さんの講演。質疑を含めて2時間。1994年以来のイベントを中心とした活動をうかがう。

「短歌、コンサート。文学散歩。書籍発刊。文学碑建立。篤姫文学散歩。源氏物語、文化サロン「月の舟」開設。シンポジウム。漫画。絵画。トークイベント。和の祭典。十五夜コンサート。」

「直感。愛と笑いと癒やし。よかったね理論。好きな人とコラボ。楽しいことを自由に(核心は文学)。食べていく覚悟。ロングラン。飽きさせない工夫。レベルを上げ続ける(成長)。スピード感。全部やる。新しいことに挑戦。」

「みどりの大学。文学散歩。聖書講座。読書会「漱石ラソン」。シェークスピア戯曲全作品40作講読。やさしさかごしまコンサート。文学カフェ。月の舟書房。映画カフェ。文学イベント(みんなのカズオ・イシグロ)。松坂慶子。」

「霧島と鹿児島の2拠点。チームきよらとのコラボでイベント規模の拡大。全国・世界へ自由に活動」

 

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活発な質問と応答の後、ケイタリングの飲み物などで、立食懇親会。この方式で行こう!

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 知研のコアメンバー以外の方々:後藤祥子(元日本女子大学長)、早稲田のゲイ

ローリー教授。慶応大の中谷准教授。アーロン・シアターの佐藤満也事務局長。そして九州知研の山﨑彰悟さんも熊本から参加。

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「副学長日誌」

  10時:多摩キャンパスのTーStudioで「名言との対話」の収録。今回の2本(アスリート編)で30本の大台に乗る。

・29回:金子繁治(ボクシング)。出羽錦。大鵬柏戸。(以上、大相撲)

・30回:力道山(プロレス)。山内一弘。小林繁。(以上、プロ野球

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12時:秘書と打ち合わせ。

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15時半ー17時半:九段サテライトで大学経営・運営合同会議。

・自己点検評価委員会

・審議:2018年度予算。2018年度事業計画。教員人事。危機管理規則改定。

・報告:学園理事会報告。戦略会議報告(国際)。各セクション報告。学長報告「ジェ推進協議会。答案(不安・おびえ・平準化とパターン化。コピペ・スマホ・モールのトライアングル)

終了後、理事長と懇談(高大接続アクティブラーニング)

 

「名言との対話」2月24日。前畑秀子「練習中、泳いでいながらプールの中で汗が流れるのがわかった」

前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年大正3年)5月20日 - 1995年平成7年)2月24日)は、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。

ロサンゼルスオリンピックの女子200m平泳ぎで銀メダルを取った後に、4年後のオリンピックに出ることになった時、 「1年365日を一日も休まずに練習しながら、ベルリンオリンピックまでの4年間を凄そう」決心している。

ベルリンオリンピックでは、名アナウンサー河西が、「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!ガンバレ!ガンバレ!、、、あと4メートル、3メートル、2メートル、あっ前畑リード、勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!前畑が勝った!前畑が勝った!、、」」とライバルとの熱戦を放送して日本中が手に汗を握って応援した。ゴール後、前畑は負けたと思って全身の力が抜けてプールの底に沈み、ようやく引き上げてもらった。勝ったことは後で放送で知った。

ベルリンオリンピックの表彰式では、近代オリンピックの生みの親・クーベルタン男爵から「オメデトウ。ヨク、ヤリマシタネ」と声をかけられながら、桐の箱に入った金メダルをもらった。

水泳ができない状態にぶつかる都度、前畑の進む道を開いてくれた。女学校では三度の食事にご飯を食べるようになった。それまでは茶がゆだった。貧しかったので尋常小学校を終えたら家業のとうふ屋を手伝うことになっていた。小学校の校長先生、女学校の校長先生が、環境を整えてくれたのである。「人間は、どんなに苦しくとも、何かに打ち込んで努力することが、どんなに大事であるか、ということを教えてくださったのが、お二人の先生であり、父や母でした」

前畑は、 自分は天才ではなく、普通の少女であり、練習に練習を重ね、自分を鍛えたと語っている。冷たい水の中で汗が流れるのを感じる。フジヤマのトビウオ古橋が指の間に膜ができたと言っていたのを思い出す。水泳だけでなく、相撲でも野球でも名をなしたトップアスリートたちはみな「自分は天才ではない、努力型だ」というから、謙遜ではなく実際にそうなのだろう。

 

 

 

 

 

 

多摩大”志塾会”の第3回セミナー。講師は望月照彦名誉教授。 「シンギュラリティ時代の世界徘徊老人の生き方」--頭脳都市・渋谷を構想する」。

夜は多摩大”志塾会”の第3回セミナー。講師は望月照彦名誉教授。

「シンギュラリティ時代の世界徘徊老人の生き方」--頭脳都市・渋谷を構想する」。

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東京の前頭葉・渋谷。都市は頭脳だ。最高の頭脳は世界首都。ホストヒューマン。浅野孝雄『心の発見』。五蘊。先端脳科学と仏教思想の心。脳はデジタルとアナログの統合システム。七蘊。思考(哲学カフェ)。瞑想(世界都市禅センター)。考作(考房)。知の杜(明治神宮)。空間(グッゲンハイム美術館。東洋美術ミュージアム)。発情。身体(逍遥)。オードリー別府パーン。徘徊する俳諧師。、、、、

 

 

 終了後、懇親会。多摩大”志塾会”は学部OB会と大学院OB会の合同会。

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 午前:渋谷で大手出版社の編集者二人と2時間ほど企画の相談。

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夜まで時間が空いたので、午後は渋谷界隈の4館の美術館巡り。詳細は別途。

・Bunakmuraザ・ミュージアム「ルドルフ2世 驚異の世界展」。

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 ・松濤美術館斉藤茂吉--歌と書と絵の心」展。

「写生道」「実相観入」。

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 ・ギャラリーTOM「山縣百合子を偲んで」展。

64歳で亡くなった工芸家の回顧展。

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 ・戸栗美術館「古伊万里にみる うわぐすり展」。

戸栗享は実業家。1987年設立。1500点の美術工芸品を「後世への文化遺産の伝承」という夢。大半は東洋の陶磁器で、珍しい陶磁器専門美術館。身近にある生活文化保存伝承。用の美。

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「名言との対話(平成命日編)」2月22日。隅谷三喜男「きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについて考えてもらいたいと思う」

隅谷 三喜男(すみや みきお、1916年大正5年)8月26日 - 2003年平成15年)2月22日)は、日本経済学者。専門は労働経済学

 一高で寮総代会議長。東京帝大で治安維持違反容疑で3ヶ月間の拘留。社会の底辺で働きたいと満州の昭和製鋼所に入る。帰国後東京帝大助手から始まって教授。退官後は世界平和アピール七人委員会メンバー。扶桑社の教科書を批判。隅谷調査団団長として成田空港問題シンポジウムを主催。運動を批判し自宅に金属弾を打ち込まれる。こういう経歴を眺めると血の気の多い人であったようだ。

冒頭に掲げた言葉は981年に刊行されよく読まれた岩波ジュニア新書『大学で何を学ぶか』の中の一節である。それから30数年経って、その意味も変わってきた。「専門」は他領域からの侵入によってアッという間に溶解してしまう。「人間とは何か」は、脳科学の著しい進展、AIの登場、2045年のシンギュラリティの到来予測などによって、人類にとって最大で最新のテーマとなっている。また「人生とは何か」は、人生100年時代を迎えようとしている21世紀前半の時代では、生物学的な存在の意味を超えた広大な時間と空間が、その意味を切実に問いかけてくる。隅谷の言う「人間とは」「人生とは」は、普遍的な問いかけだったのである。

 

 

大学でなにを学ぶか (岩波ジュニア新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

役員室(会議)。研究室(ミーティング)。ラウンジ(相談)。研究室(打ち合わせ)

「副学長日誌」

役員室

・柏原先生:雑談

・入試判定会議

研究室

・事務局との定例ミーティング:局長・総務課長・教務課長と学部長と。

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ラウンジ

・杉田学部長・下井先生:科研費

・田学部長:教員採用。フットサル部への助力

・高野課長:「学部長日誌(3年分)」「副学長学部長日誌(2年分)」のアップ

 

研究室

・秘書と打ち合わせ

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「名言との対話」。2月21日。石橋信夫「私は経営を耳で学んだ。これこそ生きた経営学である。私は学問はないが「聞学(もんがく)」は習得した。これが何よりの武器なのである」

石橋 信夫(いしばし のぶお、1921年9月9日 - 2003年2月21日)は、日本実業家大和ハウス工業の社長・会長をつとめた。 

日本列島を人間の体にたとえて、国鉄が血管、目は電灯だから電力、耳は口は電電。手は建設で、足は農林だ。そう考えて「建築の工業化」を企業理念とし 1955年創業以来、常務・社長・会長を1992年までつとめた。鋼管構造で「建築」を進化させ、プレハブ住宅で「住宅」を身近なものとし、多角的な事業で「生活」を豊かにしていこうとした。2017年3月期は、賃貸住宅、商業施設、事業施設の3事業が堅調に推移し、売上高3兆5,129億円、営業利益3,100億円、純利益2,017億円で過去最高を更新。2017年4月には、グループ企業196社、約62,000人の役職員からなる企業へと成長した。大和ハウスは新分野や新規市場に果敢に挑戦している姿を、広告、記事等マスコミでしょっちゅう目にすることが多くなった。

日経ビジネスのインタビューでは、「信念の人」「一徹」「頑固もの」「独りよがり」「猛烈」という評判とともに、「頑固」「独善」「狭量という言葉もある。石橋信夫は典型的な創業者タイプの人物だ。

1959年に川での鮎釣りで子ども達が家に帰っても居場所がないということにヒントを得て、3時間で建つ11万円のお家「ミゼットハウス」を開発する。「昨日今日の思いつきで言っていると思うのか。ずっと見てきたうえでの決断だ」 「人の通った道をあとからついていくほど屈辱的なことはないな。だから四六時中,仕事のことを考え続けた」と本人が言っているように、石橋はいかなる時も考え抜いていた。

この石橋の武器は耳学問だった。それを「聞学」と呼んで意識的に精進したのだ。人に会い最先端・最前線の人々からエキスの話を聞き、考え、そしてまたカンドコロを聞き、考え抜く。こういった生きた経営学でくり返しでヒットを生んでいったのである。学歴はすぐにひからびる。生涯を通じての学習歴の積み重ねこそが重要であることを石橋信夫の「聞学」は教えてくれる。