湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。金子兜太死去。

16時:湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部の安田学部長と懇談

16時半:学部運営委員会に出席:入試の状況。藤沢市との連携。ストレート卒業率。リレー講座のライブビューイング。就職の状況。離学率、、、。

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湘南台の焼き鳥屋で弟との懇親。

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「名言との対話」2月21日。金子兜太「長年の間に亡くなった人で、自分のとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろいろ、つまり私にとって大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言っていくのです。今、二百人くらいになっているかな」

金子 兜太(かねこ とうた、1919年大正8年)9月23日 - 2018年平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論・実作両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長日本芸術院会員、文化功労者小林一茶種田山頭火の研究家としても知られる。

日銀で定年まで仕事をしながら俳句に打ち込み、55歳で定年を迎えてからが本当の人生となる。60歳で朝日カルチャーセンターの講師を師の加藤楸邨から譲られ、俳句生活が本格的に始まる。64歳、現代俳句協会会長。68歳、朝日俳壇選者。69歳、紫綬褒章。89歳、文化功労者。91歳、毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞反戦の思い強く2015年にはいとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者をしている。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

彎曲し火傷し爆心地のマラソン

酒止めようかどの本能と遊ぼうか

座右の銘は一茶の「荒凡夫」。自由で平凡な男を意味している。一茶の「天地大戯場」という言葉が好きだった。「定住漂泊」の系譜に自分はいる、定住して漂泊心を温めながら屹立していこうとしていた。

金子兜太は人間の幸せというのは、煩悩のまま、欲のまま、本能のままに生きていくことであり、それこそが最高の自由だという。金子兜太のテーマは、自由にある。そして人間の実存とは、流れること、流動、しかしその都度、立場を明確にしていくことだ。
そういう価値からは、孔子ではなく、老子芭蕉ではなく一茶に惹かれる。近代では斉藤茂吉。そして種田山頭火井上ひさし小沢昭一山田洋次などがその系譜に連なっている。

金子兜太『語る兜太----わが俳句人生』中に、日航財団「地球歳時記」という項がでてくる。日航がネットワークを生かして世界中の子どものHAIKU(絵がついている)を2年毎の万博で披露する活動である。この中に、「アララギ」の歌人の柴生田稔の長子、柴生田俊一という「異才、異能」の人が地球歳時記というコンセプトをまとめたと紹介されている。このプロジェクトに貢献した詩人のジャック・スタム、作家の江国滋、早稲田大の佐藤和夫らが紹介されている。彼らには私も接触していたから、金子兜太にも夜の俳人たちの会合で会っている気もする。当時は60代後半であっただろう。この柴生田さんは広報課長で私は部下として仕えていた。「日航一の文化人」であった柴生田さんと私は気が合って実に楽しく仕事をした。私が後任となった後も、日航財団の主要プロジェクトとして続け成功した。一企業が日本文化をテーマとした活動を成功させたとして当時から評価が高かった。

金子兜太は50代半ばから日記をほぼ毎日書くようになった。日記はやめないというより、やめられない。癖になっている。「私にとって日記が唯一の財産」となる。

冒頭の言葉は毎朝唱える「立禅」と自ら呼んだ方法である。坐禅ではなく立って行う。縁のあった人々を思い出しながら生きていることに感謝する儀式だ。金子兜太は「長寿への意志」をはっきりと持って生きていた。この快老人は95歳では確か「百五才を目指す」と宣言していたのだが、本日98歳で逝去。百歳にわずかに届かなかった。

 

以下、参考資料。

語る 兜太――わが俳句人生金子兜太養生訓荒凡夫 一茶 

 

 

 

3月中に読むべき本が続々到着!

楽しみだ。

朝倉摂 舞台空間のすべてなぜいい考えが浮かばないのか (PHP文庫)ひとの匂い俳優になろうか―「私の履歴書」 (朝日文庫)インターネット自由自在 (岩波新書)

二足のわらじをはいた猫―吾輩は猫ではない3 (1984年) (のびのび人生論)鬼才いいだももムッシュ! (文春文庫)

昭和という時代を生きて須賀敦子を読む (集英社文庫)アニー物語―ロンドンの寺子屋から (1980年)

 

以下は、映像がないので書名だけ。

・六代目尾上梅幸女形芸談

・『私の履歴書 経済人20』(土光敏夫編)

・『すてきなあなたに 3』(大橋鎮子

山口誓子『俳句十二か月』

・『永井道雄の 教育の流れを変えよう』

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「副学長日誌」180218

・梅澤先生:世代間交流

・久保田先生:小豆島合宿。ドローン、アクティブシニア、、。

・山本さん:今週のT-Studio録画の打ち合わせ

・高野課長:近況

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「名言との対話(平成命日編)」2月19日。トウ小平改革・開放には大きな肝っ玉が必要だ。正しいと思ったら大胆に試してみよ

鄧 小平(とう しょうへい、中国語読み:ドン シャオピン 、IPA:[tɤŋ ɕjɑʊ pʰiŋ]、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。

毛沢東が主導した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革・開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図り、中国現代化建設の礎を築いた人物である。「黒い猫でも白い猫でもネズミを取るのがよい猫だ」「先に豊かになれる者から豊かになれ。そして落伍した者を助けよ」(「先富論」)など、豊かになることを目標に大改革を実行した。

トウ小平の人生はまるでジェットコースターに乗っているようだ。1931年、農村ゲリラを戦を重視する毛沢東路線に従っているとされ失脚、1935年復帰。1968年、文化大革命で「劉少奇主席に次ぐ党内第二の走資派」とされ南昌で労働に従事、1973年復活。1976年、江青ら四人組によって反革命動乱の首謀者として失脚、1977年復活。3度の失脚からその都度復活を果たした「不倒翁」であった。

文化大革命の時には牛小屋に入れられたがトウ小平は我慢していると文革の嵐は過ぎ去った。生涯を通じて楽観主義者であった。頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かった。毛沢東トウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評している。

1992年にトウ小平は中国南部諸都市を訪れ、外資導入による経済建設を大胆に推進するよう力説(南巡講話)し、最後は反対する保守派に誤りを認めさせた。人民の生活を向上させるために、思い切った改革を行う契機となった。それ以降四半世紀、中国は大発展し2010年には日本を抜き世界第二の経済大国になり、2018年にはGDPは日本の3倍に迫る勢いであり、改革・開放を掲げたトウ小平路線の正しさが証明された。

身長150センチと体は小柄ながら、大きな肝っ玉で、改革・開放路線を大胆に掲げ、大きな号令で推進し、中国を豊かにした功績は計り知れない。この人の粘り強さと大いなる手腕には感銘を受ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

谷川俊太郎『詩人なんて呼ばれて』(尾崎真理子)

先日、初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「谷川俊太郎展」をのぞいた。若い男女が多い展覧会だった。『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)と『二十億光年の孤独』(集英社文庫)を購入。読了した『詩人なんて呼ばれて』は『ひみつの王国 評伝 石井桃子』を書いた読売新聞編集委員の尾崎真理子が3年越しのロングインタビューで書いた労作。

詩人なんて呼ばれて

詩人なんて呼ばれて

 

 「私の物差しは大きい 二十億光年よりもっと遠く」。

18歳で書いた詩「二十億光年の孤独」以降、87歳の今日まで70年近く谷川俊太郎の詩は、広く長く広がってきた。浸透力には驚かされる。現在の日本に詩を書いて食っている人は谷川俊太郎だけだ。詩の王は、「白秋、朔太郎、俊太郎」ということになる。

父・徹三(法政大学総長)の葬儀で友人の阿川弘之は「先生の生涯の最高傑作、教育者谷川徹三の最大の成果は、令息俊太郎さんの詩であり詩人谷川俊太郎其の人ではあり、ませんか」と弔辞を読んだ。

創作した詩は2500点を超える。詩集は20ヶ国以上70冊を超える海外翻訳。児童書は30冊。「コアは読者は3000人くらいはいるんじゃないかな」。詩集、散文、絵本、童話、翻訳、伽宇本、作詞、写真、ビデオ、、。1983年、52歳『日々の地図』で読売文学賞、1993年、62歳『世間知ラズ』で第一回萩原朔太郎賞、2010年、79歳『トロムソコラージュ』で第一回鮎川信夫賞。

1931年生まれ。18歳、1950年父に渡したノートに書かれた詩を三好達治が認め、20歳で第一詩集『二十億光年の孤独』(創元社)を刊行。3度の結婚:23歳、岸田衿子と結婚。26歳、大久保知子と結婚。59歳、佐野洋子と結婚。

友人たち:武満徹寺山修司石原慎太郎大岡信。、、、、。

「詩というのは俯瞰して、上からいっぺんに「今」を見ようとする。そうすると曼荼羅という意識が出てくる。曼荼羅というのは全世界を一枚の図にしたものだけど、結局、曼荼羅のすみっこみたいな、それが詩じゃないかな、と」。

「瞬間をフリーズさせるという意味で、写真と詩は非常によく似たところがあるんです。、、僕は写真に詩をつけるという仕事に、いまだに飽きないんですけどね」

「でも死をネガティブなものではなくて、肯定的にとらえる気持ちも膨らんできている。たのしみに待ちかまえようと」

「自己紹介」:「私は背の低い禿頭の老人です もう半世紀以上のあいだ 名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など 言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから どちらかと言うと無言を好みます、、、、私の書く言葉には値段がつくことがあります」

「あかんぼがいる」:いつもの新年とどこかちがうと思ったら 今年はあかんぼうがいる、、、、あかんぼよ お前さんは何になるのか 妖女になるのか貞女になるのか それとも烈女になるのか天女になるのか どれも今ははやらない だがお前さんもいつかは婆さんになるそれは信じられぬほどすばらしいこと  、、、、そのちっちゃなおっぱいがふくらんで まあるくなってぴちぴちになって やがてゆっくりしぼむまで」

1990年代は谷川俊太郎の「沈黙の10年」だった。だが、自作の詩を朗読する催しを全国で行っていた。1997年秋には九州から北海道まで二ヶ月かけて息子賢作のバンドと組んでコンサートツアーを行っている。宮城県図書館の広場で谷川俊太郎の詩の朗読会が催されたことがあった。私は参加できなかったが、その頃のことだったのか。

 

 「名言との対話」2月18日。津島祐子「(喪失)は不運なことだけど、不運に溺れていると不幸になる」

津島 佑子(つしま ゆうこ、1947年3月30日 - 2016年2月18日)は、日本小説家。本名は津島里子(つしま さとこ)。

 作品は英語フランス語ドイツ語イタリア語オランダ語アラビア語中国語などに翻訳されており、国際的に評価が高い作家である。

津島祐子の作品の評価は以下の受賞歴でわかる。1976年 - 『葎の母』 第16回田村俊子賞。1977年 - 『草の臥所』 第5回泉鏡花文学賞。1978年 - 『寵児』 第17回女流文学賞。1979年 - 『光の領分』 第1回野間文芸新人賞。1983年 - 「黙市」 第10回川端康成文学賞。1987年 - 『夜の光に追われて』 第38回読売文学賞。1988年 - 『真昼へ』 第17回平林たい子文学賞。1995年 - 『風よ、空駆ける風よ』 第6回伊藤整文学賞。1998年 - 『火の山―山猿記』 第34回谷崎潤一郎賞、第51回野間文芸賞。2001年 - 『笑いオオカミ』 第28回大佛次郎賞。2005年 - 『ナラ・レポート』 平成16年度芸術選奨文部科学大臣賞、第15回紫式部文学賞。2012年 - 『黄金の夢の歌』 第53回毎日芸術賞。

小説家太宰治津島美知子の次女である。  「父についても、どうか、だれにも聞かれないように、といつも願っていました。父はいませんと言えば、それはなぜ、とひとは聞きます。事故で死んだ、と答えれば、なんの事故、とさらに聞かれます。そうなると返事に困ってしまいます。「自殺」とはどうしても自分の口から言うことはできませんでした。今でも言いたくない言葉ですが。そのうえ、よその女のひとと一緒に死んだなどとは、どうしてもひとには知られたくないヒミツでした」。父・治の名をもらって認知された同じく作家の太田治子(1947年生)は異母妹である。一度、この二人の対談を雑誌で目にしたことがある。二人とも太宰の娘という不運を呪っただろうが、その才能を受け継いで作家になった。津島祐子は父を超えたのではないか。

この「不運と不幸」は津島祐子が長男を亡くしたときに太宰治の妻だった母が語った言葉である。偶然に訪れる幸運に舞い上がることなく、そして不運に埋没せずに、自分の足でしっかり生きよと励まされる。

69年「レクイエム」でデビュー。72年に「狐(きつね)を孕(はら)む」が芥川賞候補となり、同賞を熱望しながら受賞できなかった太宰を引き合いに「亡き父のかたきを取るチャンス」などと世間の話題になった。
69年「レクイエム」でデビュー。72年に「狐(きつね)を孕(はら)む」が芥川賞候補となり、同賞を熱望しながら受賞できなかった太宰を引き合いに「亡き父のかたきを取るチャンス」などと世間の話題になった。

 

 

 作家の太田治子さんは異母妹。
 作家の太田治子さんは異母妹。
 作家の太田治子さんは異母妹。

一般社団法人ザ・コミュニティ主催「空き家・空き店舗の利活用とコミュニティビジネスの実践」セミナー。

一般社団法人ザ・コミュニティ主催「空き家・空き店舗の利活用とコミュニティビジネスの実践」に参加。

玉木賢明弁護士「空き家対策の処方箋」:2018年で全国1000万戸。山梨の3割が空き家。いずれ全国も3割。荻窪は北と南の分離、空き家を手放さない。定期借地借家法で契約の切り替え。

下村昇治税理士「空き家にまつわる税務」:持ち続けると固定資産税が6倍。売ると3000万円の控除。

天井正明勁草社代表「空き家の利活用に伴う資金繰り」

味香輿郎NPO法人すぎなみプラス代表理事「杉並区内空き家問題の現状と実例」:シェアハウス(一軒家。個室あり)。ルームシェア(1室を共働使用)。グループホーム(5-9人の高齢者)。コレクティブハウス(共同食堂。当番制。一つの家族のように暮らす)。

小山訓久NPO法人リトルワンズ代表理事「シングルマザーの居住支援活動事例」

斉藤准赴子姫ヶ滝りんご園「りんごで生産者と消費者をつなぐ」:農家は宇宙産業。アートテン農法の高橋どんしゅう先生。竹内たかひと教授は自立支援介護施設の全国展開。生命エネルギーの高い食物を食べる。食べると元気に。心と体が元気になるりんご狩り。生産と消費の結合。

高円寺パル商店街:居住化と民泊。ミナクル商店街。桃園川の緑地化。

加藤じゅんいちザ・コミュニティアドバイザー:自分史の効用。

阿部憲一細田工務店社長「次世代住宅の創造」:東京は奪い合う・田舎は押しつけ合う。杉並区56.4万人・31万世帯。子ども・働く人・高齢者すべて増えている。南伊豆の介護施設。空き地・空き家がない。高騰中。ストロングスマート。エコサーマル。健康・快適。家の中が天国になる。

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  途中で、知研の八木会長、福島事務局長と2月のセミナーの相談。

 

セミナー修了後、地研の落合社長、中尾さん、根本さん、炭焼三太郎、中崎さんらと打ち上げ懇親会。

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羽生結弦:金メダル獲得。

羽生善治:中学生棋士・藤井五段に破れる。

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頭の体操。

小林秀雄「人はその性格にふさわしい事件にしか出会わない」

三木清「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している」

ゲーテ「仕事は仲間をつくる」

河合隼雄「何であれオモロイことしかしない。しなくてはならないことはオモロクしてみせる」

五島慶太「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」

坂本龍馬「世の既成概念を破るというのが真の仕事である」

内村鑑三「何を遺すか。金、事業、思想、高尚なる生涯」

 

 

「名言との対話」2月17日。藤田まこと「役者は権威と箔がついたら終わり。平でいたい」

藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 - 2010年2月17日)は、日本俳優歌手コメディアン

10代の終わり頃に歌手を目指して上京。大阪へ戻り歌手として地方巡業。俳優としてダイマル・ラケット劇団に入団。1962年時代劇コメディ「てなもんや三度笠」の主役・あんかけの時次郎に抜擢され1971年まで続く。1973年時代劇「必殺仕置人」の主役・中村主水役、1992年3月まで続く。1988年刑事ドラマ「はぐれ刑事純情派」の主役・安浦吉之助役、444話で2005年まで18年間続く。1998年時代劇「剣客商売」の主役・秋山小兵衛役で2010年まで演じた。

CM「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」や、今も頭に残っている「耳の穴から指つっこんで奥歯ガタガタいわせたろうか」という台詞の「てなもんや三度笠」で毎週テレビを見ながら笑った記憶があるから、藤田まことはコメディアンだと思っていたが、次第に本格派の俳優として大物になっていくことに不思議な想いを抱いていた。自伝本を読んだが、どうしてどうしてこの人は人間として尊敬すべき人だった。

以下、藤田まことの言葉などから。

「出世していく男・偉くなっていく男を演じるのは願い下げである」「テレビでチャラチャラしてる人は芸人じゃない。芸を売ってる人じゃない。…呼び名はタレントでええ」「いずれ元のフィルムに戻そうという時代が来るのではないか」「まわりに人をいっぱい置いておくのは嫌い」「大きな絵を描いて、そこから余分なものを削っていって、無駄をそぎ落としていく」、、、。

「芸人は夢を売る商売。派手に遊ばな」と言い、「キタの雄二か、ミナミのまこと、東西南北藤山寛美」と言われるほど遊んでいる。また、テレビのバラエティには出ないポリシーがあり、謎を残した。

長く俳優を続けられたのはなぜか。「周囲に恵まれたことはもちろんですが、逃げなかったこと、ひかなかったこと。そして「だらだらと芸の坂道」をあがってきたこと。平坦な道は歩いたことはないし、70歳を超えた今でも、坂道をあがり続けています」

「後ろは振り返らない。前に進めなくなっちゃうから」とい言う藤田まことは、権威と箔を嫌い、一から次の仕事に立ち向かい、役者として成長を遂げていったのだ。

 

最期

最期

 

 

 

 

『激動の平成史』(洋泉社ムック)

『激動の平成史』(洋泉社ムック)を読了。

 「年表・激動の平成、30年の軌跡」(1989年1月8日-2019年4月30日)。

激動の平成史 (洋泉社MOOK)

激動の平成史 (洋泉社MOOK)

 

日経平均株価: 平成元年(1989年)12月29日史上最高値3万8915円87銭。平成21年(2009年バブル崩壊後最安値7054円98銭。

非正規雇用労働者:1989年817万人(19.1%)。2016年2023年(37.5%)パート988万人・アルバイト415万人・派遣社員133万人・契約社員287万人・嘱託119万人、、。

銀行:都銀13・長期系3・信託7の系23銀行が、5大グループへ再編。

書籍・雑誌:1996年2兆6564億円。2016年1兆4709億円(雑誌7339億・書籍7370億)

不動産:発売時ベルコリーヌ南大沢(4000-7000万)。現在2500-4500万)。

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新宿で橘川さんと新宿「隠れ房」で昼食。e-learning。ブロックチェーン。アクティブラーニング。専門職大学。ビイトコイン。未来フェス。リブライズ。、、、。

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「名言との対話」2月16日。船村徹「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」

船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - 2017年2月16日)は、日本作曲家歌手日本音楽著作権協会JASRAC)会長、日本作曲家協会理事長横綱審議委員会委員。

「別れの一本杉」(春日八郎)「王将」(村田英雄)「兄弟船」(鳥羽一郎)「なみだ船」(北島三郎)「「女の港」(大月みやこ)「東京だョおっかさん」(島倉千代子)「みだれ髪」(美空ひばり)「矢切の渡し」(細川たかし)など、今も歌い継がれる数々の名曲の作曲家である。手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として2016年に初めての文化勲章を受章している。受章理由は「多年渡り歌謡曲の作曲家として、個性的な数々の優れた作品を発表するとともに、関係団体の要職に長くあって、我が国音楽界の発展向上及び後進の育成に多大な貢献をしてきており、その功績は極めて顕著である」とされている。弟子は300人と多く「船村徹同門会」がある。

2015年にオープンした「日本のこころのうたミュージアム船村徹記念館」は3階建てで、道の駅日光街道ニコニコ本陣に併設されている。2017年3月に訪れたが、亡くなった直後でもあり、また場所も行きやすいこともあり、訪問者も多かった。2月16日は戦死した兄の命日でもある。

船村徹の84年の人生を眺めると友人の存在が大きかったことがわかる。大学在学中に知り合い26歳の若さで死んだ二つ上の親友高野公男は船村のヒット作「別れの一本杉」を作詞している。高野が早逝した後、船村は「あいつの分まで生きる」。「高野の無念を思えば、私は彼の分まで生き、二人で誓い合った夢に向かって、歌を書き続けることが、自分の使命だと思っている」と決意した。

この人は社会活動もいい。演歌巡礼。刑務所訪問。作家活動。横綱審議会委員。「山の日」提唱者(日本山岳会会員)。故郷の産廃施設反対運動を支持。、、、。

本日BSで船村徹追悼番組をやっていた。平昌オリンピック羽生結弦の圧巻のショートの演技がくり返し映像で流れる中で懐かしく聴いた。

夭折した親友・作詞家高野公男の「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」という言葉が船村の指針となった。船村徹の歌には栃木弁のアクセントがあり、地方出身者の悲哀や希望を込めた叙情豊かなメロディーが大衆の心をつかんだのである。

 

「名言との対話」3月分を書くための書籍を20冊ほど注文。

「副学長日誌・志塾の風」180215

ラウンジ

・杉田学部長:人事案件

・高野課長:情報交換

研究室

・知研の八木会長来訪。打ち合わせ。

・マグネットの岩澤さん

・「名言との対話」3月を書くための書籍を20冊ほど注文。

 

荻窪の「地研」で飲み会を兼ねたミーティング。18時から21時まで。

・『偉人の誕生日366名言集』の原稿442ページを落合社長に渡す。5月発刊か。

一般社団法人ザ・コミュニティについて。

 

 

「名言との対話」2月15日。武田豊「皆からリーダーは見つめられている」

武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日-2004年2月15日)は、日本の実業家宮城県高清水町出身。新日本製鐵新日鉄代表取締役会長、経済団体連合会経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した。

以上のようなオモテの経歴よりも、脳の研究を仕事や生活に生かすやり方の実践者や論客としてビジネス雑誌で見かけることが多かった。東大の碩学・時実利彦博士に脳について長く学んでいる。人事部長、社長などの肩書きで、前頭連合野前頭葉と創造性の関係などを解明する「大脳生理学」を土台とするこの人のエッセイは仕事をする上でヒントになった記憶がある。

大脳生理学研究者の武田は大脳のカラクリを実際の仕事に応用した。人事部長時代には課長以上2000人を越える人々の顔と名前と経歴を覚える努力をしていた。ZD運動もQC運動も大脳生理学から説明していた。「人生は一日一日が、勉強の連続だ」を信条とする武田の師匠はカラッとしたネアカな、戦後の財界のドンとなった上司の永野重雄である。若い頃「スクラップ掛りで日本一になれ!」と言われて歓迎し「なります」と答えたというエピソードもある。

小学校2年から始めた弓道では、旧制山形高校時代には全国インタカレッジの個人で全国制覇。範士十段。全日本弓道連盟会長。雑念、邪心を持たない心になることが上達の極意であり、それは前頭連合野の意志力を鍛えることが有効だという。弓矢は一期一会なのだ。日本の武道は肉体だけでなく精神の鍛錬になるのだ。

大脳生理学からみてリーダーは6つのことを身につける修練が必要だそうだ。「活力」「意志力」「責任力」「包容力」「知識力」「説得力」。戦いの時、リーダーは全員から見られている。いや、見つめられている。リーダーの弱気や逡巡や迷いは、すぐにフォロワーに伝染し、志気が衰える。武田豊のいう「皆からリーダーは見つめられている」は、そのような立場にある時には常に心したい言葉だ。

 

全体方針共有会

 毎年行っている全体方針共有会を開催。経営情報学部の「全体の構造と部分同士の関係」が分かる貴重な時間。教職員の情報共有による結束が一段と増す機会。

10時:杉田学部長:2018年度着任教員紹介。経営情報学部の現状と今後について。

1020:2017年度の8委員長による実績報告:以下、私の感想メモから「数字の壁。下と上。高大接続改革。離学は入試と教務の課題へ。多摩大出版会の活用。多摩大式高大接続アクティブラーニング。大いなる多摩学会と産官学民連携センター。長期留学と地域拡大。研究ブランディングから大学ブランディングへ」

1130:昼食

1240:2018年度委員会での方針策定及び討議。

   主要委員会とサポート委員会の2回。

1515:2018年度委員長からの発表:以下、私の感想メモから「質の向上の具体策。入試改革元年・大手術。数字への執念。入試改革と教育改革。出版会の活発化。アクティブラーニングセンターの範囲の変更。産官学民協創センターへの準備。留学の質の向上。教育ブランディング

16時半:杉田学部長の全体総括:以下、私の感想メモから「グローバルはアジアダイナミズム。地域はジェロントロジー。ICTはIOT」

 

17時:教授陣全員で撮影。

 

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 18時半:多摩信金の長島部長を囲んで。松本先生、杉田学部長。

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 「名言との対話」2月14日。中島嶺雄「日本だけで通用した東大を頂点とする身分属性の「学校歴」よりも個人が国際社会で渡り合える知的経験、「学習歴」が大事です」

中嶋 嶺雄(なかじま みねお、1936年5月11日 - 2013年2月14日)は、日本政治学者、国際社会学]社会学博士。専門は現代中国政治。東京外国語大学学長、国際教養大学学長、公立大学法人国際教養大学理事長をそれぞれ務めた。

東京外語大学中国科卒。60年安保の活動家で左翼系の研究所、現代思想研究会などで仕事をしていく中でマルクス主義に幻滅。東大大学院で国際関係論を専攻し教員の道へ。大学紛争に巻き込まれ左翼思想から完全に転向。保守派の論客として頭角をあらわす。

1995年東京外語大学長を経て、2004年秋田の国際教養大学初代理事長・学長に就任しリベラルアーツ教育など、大学改革のモデルとなり話題になった。

文化大革命批判など中国を冷徹にみる論客であり、若い頃から私も『現代中国論』などの著作を読んでいた。2008年に大阪で開催された梅棹忠夫先生の米寿を祝う会での発言も印象に残っている。2012年に日経新聞社「大学トップマネジメント講演会」で、飛ぶ鳥を落とす勢いの国際教養大学中嶋嶺雄学長の講演を聴いた。「英語と教養」「英語で授業」「寮生活」「教員は国際公募」「教授会自治の解消」「図書館は365日24時間開館」「教員は3年任期」、、、、。終了後、挨拶「多摩大はユニークな大学」と励ましてもらった。

キャリアについては「職歴ではなく仕事歴。経歴ではなく経験歴。学歴ではなく学習歴」という考え方を私は持っているが、国内のみで通用する学校歴よりも国際社会で渡り合える学習歴が大事だという中嶋嶺雄の思想に親近感を持つ。