本日の「日刊ゲンダイ」の「ブックレビュー」に「100年人生の生き方死に方」の書評。

愛読紙「日刊ゲンダイ」の本日の「ブックレビュー」に拙著『100年人生の生き方死に方』の書評を発見。渋沢栄一西本幸雄日野原重明を取り上げている。

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100歳近くまで生きた偉人たちには<学び続ける><夢がある><謙虚>など7つの共通項があるという。

 たとえば江戸時代末期に生まれ91歳で亡くなった実業家の渋沢栄一は、元官僚。どんな境遇におかれても進んで学んだ氏は、やがて具体的提案力と優れた実行力を備える人物として知られるようになった。

 そんな氏は「有望な仕事はあるが資金がない」という人に対し「人の信用こそ最大の財産である」と言い、何事かをなさんと考えるなら信用の蓄積が大事であることを説いた。

 ほかにも91歳で亡くなった元プロ野球監督の西本幸雄の「いわしも大群となると力が出る」、105歳で亡くなった医師の日野原重明の「しかし、人間は生き方を変えることができる」など、葛飾北斎(88歳)から平櫛田中(107歳)まで、100歳を生き切った先達81人の箴言を紹介。

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大学:ラウンジ

・下井先生:入試

・中村その子先生:カリキュラム

・渡辺さん(学長室):戦略会議「国際」。統合、共通、共有。

・高野課長:多摩祭

大学:研究室

・講演の準備

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「名言との対話」11月5日。村山雅美「無理はしても、無謀はしない」

村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2006年11月5日)は、南極観測隊隊長で国立極地研究所名誉教授

国際地球観測年1955年に、日本も南極観測参加の意思を表明したが、敗戦直後ということから他国の反発があり、「資格なし」とされた。白瀬隊の実績を挙げて「資格あり」と反論しなんとか認められた。

村山雅美は戦後は商社に勤務していたが、1953年のヒマラヤ・マナスル第一次遠征隊に参加し、1956年には西堀榮三郎に請われて第一次南極観測隊に参加する。

1956年の第一次遠征隊(西堀栄三郎越冬隊長)設営担当。第二次隊副隊長。第三次隊越冬隊長。第五次隊観測隊長兼越冬隊長。第七次観測隊隊長。そして1968年には第9次越冬隊を率いて日本人として初めて南極点に到達した。

1959年に結ばれた南極条約では、第一条一項で「南極地域は平和的目的にのみ利用する」とあり、南極の平和利用のために領土権、領土請求権を30年間凍結し、南極に人類の理想を実現しようとした。

南極越冬隊の生活については、村山雅美『昭和基地』で垣間見ることができる。例えば、第五次隊は16人であり、娯楽といえばマージャンと映画であった。異常な寒さと強風の中での問題は他の国と同様にトイレであった。 1983年公開の映画「南極物語」を監修しているが、この映画では第三次隊が「タロ」と「ジロ」という樺太犬が一年間の風雪に耐えて生き延びていた感動的な物語が展開される。当時のマスコミで大きな話題になった。

 探検家であり、南極のプロフェッショナルの村山雅美は 「追いつめられたときの多数決は、大変危険です。気弱になった集団の多数意見は、往々にして誤る」と語る。厳しい状況下では、リーダーの責任が重大であるということだ。

村山雅美は「無理と無謀」の違いを強調した。これは「探検と冒険」の違いに通じる。探検部員だった私は、「危険を冒すのが冒険、危険を除去しながら探り調べるのが探検」と先輩に教えられた。世界の最高峰登山の経験があり、地球の極地を熟知した村山雅美の危険への対処方針と実績には頭が下がる。起業家は事前にリスクを除去するために力を注ぐから、保守的な人びとである、とドラッカーが喝破していてうなったことがある。探検家はイノベーターと同様に、革新を掲げる保守的な態度の人たちなのだ。

昭和基地―南極に挑む男たちの記録 (1966年) (ブルーバックス)

 

 

 

 

 

 

中川大地『現代ゲーム全史』(早川書房)と落合陽一『デジタルネイチャー』(PLANETS) を読み始めた。

日本未来学会で中川大地さんから紹介された2冊の本を読み始めた。

中川大地『現代ゲーム全史』(早川書房

現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から

現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から

 

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落合陽一『デジタルネイチャー』(PLANETS) 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

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「名言との対話」11月4日。隆慶一郎「歴史家に負けていてたまるか」

隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年9月30日 - 1989年11月4日)は、日本脚本家時代小説作家。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で脚本隆慶一郎ペンネームで小説を執筆していた。

東大在学中、辰野隆小林秀雄らに師事する。同年、東京創元社に入社。東宝、日活などの映画の脚本を書き、1959年、映画「にあんちゃん」でシナリオ作家協会賞を受賞した。テレビドラマ「荒野の素浪人」(1974年)などの脚本を手がけた。作家デビューは1984年の「吉原御免状」。「影武者徳川家康」「捨て童子・松平忠輝」などを次々と発表するが、1989年死去。同年、柴田錬三郎賞を受賞した。

戦後日本のテレビドラマ史においても1970年代まで日本を代表する脚本家の一人だった。隆慶一郎というペンネームは、姓名判断をやる浅草田原町の「十兵衛」という串揚げ屋のおかみ・久我歌子からもらったものだ。隆は恩師・辰野隆先生の隆、名前は三文字がいいと思っていたからすぐに使った。小林秀雄が怖く、隆慶一郎を名乗って小説を書き始めたのは、還暦を過ぎてからと遅く、小説家としては実働はわずか5年だった。

代表作の『影武者徳川家康』。徳川家康は本当は関ヶ原で死んでいた。家康の影武者であった世良田二郎三郎が、徳川家繁栄のために豊臣秀頼を謀殺しようとする秀忠に対抗するべく、甲斐の忍びの六郎や島左近風魔忍者衆を味方につけて、歴史の暗部で戦うという奇想天外のストーリーで、興奮して読んだことがある。

民俗学の視点から農業中心史観を批判して「無縁」の人びとを歴史の主役とする網野善彦の史観に影響を受けている。「渡り」の庶民、具体的には、海人、舟人ら漁業の担い手、山を旅する木地師・金堀り・鍛冶、土地をもたぬ非農民などの視点から歴史小説の世界に新境地を拓いた。司馬遼太郎が「ライバルがあらわれた」と語っていたという。

花火がすきで、向島のマンションの10階に移り住む。テレビドラマで一緒に仕事をした俳優らを思い浮かべながら酒を汲む。一瞬に咲く華麗な花火に賭け、早逝した戦士たちの鎮魂をする。また妻に自分の人生は間違いじゃなかったと思わせるものは、亭主である自分が、俺の人生は間違いじゃなかったと言えることしか無いとも、エッセイ『歴史小説の愉しみ』で語っていて共感を覚える。

 

歴史史料を読み漁りながら、知られざる些細な史実、さりげない言葉に秘められた目くるめくような美しさに感動する隆慶一郎は、「志を立て、それに殉じた。その誇りだけが烈々と私たちに訴えかけて来る。その志について、その誇りについて、解明する義務を持つのは、生きている私たちの方ではないか」と小説を書く自らの志を吐露している。隆慶一郎は、歴史家をライバルとして壮大な人間ドラマを描こうとしたのだが、完結する前に寿命が尽きしてしまった。この人に長寿が授かっていたら、歴史小説の世界の風景も変わっていただろう。

時代小説の愉しみ (講談社文庫)

時代小説の愉しみ (講談社文庫)

 

「多摩祭」:「私の志」小論文・スピーチコンテストは10回目。古本市も人気。

「多摩祭」 。

「私の志」小論文・スピーチコンテストも、もう10回目。

着任直後に「現代の志塾」を教育理念にすることを提案した。その後、入試課の若い職員から「小論文コンテスト」の提案を受けて、始めたイベントだから、私も思い入れがある。始まった頃は責任者として関わったが、昨年から再度、実行委員長になっている。今回の役目は、表彰状を読み上げ渡すことだけだが、個人的には感慨があった。

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 T-Studioの一階では飯田ゼミの「古本市」が開かれている。

私の研究室から出した本も中央にのテーブルに出ている。

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そういえば、「現代の志塾」「多摩祭」「T-Studio」「小論文コンテスト」の命名は私だったなあ。

入試対応でアゴラにいた樋口先生と懇談。

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 「名言との対話」11月3日。桂小金治「「一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲く

2代目桂 小金治(かつら こきんじ、1926年10月6日 - 2014年11月3日)は、東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)出身の落語家俳優タレント

次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三監督の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画テレビドラマバラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。川島雄三は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をついたという逸話がある。

1966年から7年続いたワイドショー「アフタヌーンショー」では、政界、業界など巷に氾濫する不正、悪徳を許さない姿勢で、「怒りの小金治」の異名をとる。1975年から始まったテレビ番組「それは秘密です」で、18年続いたご対面コーナーで感動のあまり涙をよく流すので、「泣きの小金治」といわれた。親しみやすい人柄で、茶の間の人気者だった。

桂小金治の『江戸っ子の教訓』を読むと、「おやじ」の言葉がしょっちゅう出てくる。おやじがつらい修行のなかで、身につけた人生訓。それが自分の人生の支えになっていると語っている。

「いやだなと思った方へいけ。そうすりゃ、人生、苦労は少なくてすむんだ。」「用事を言いつけられてから仕事をするやつは半人前。自分で仕事を見つけて動けるやつが一人前。」「勇気というのは、自分を抑えるためのものだよ。」「一歩抜きん出るためには、努力の上の辛抱という棒を立てる。この棒に花が咲くんだよ。」「いいことがあったら人のおかげ。悪いときは自分のせい、そう思え。」「ほしいものがあったら、自分で作れ。自分で作れないものは諦めろ。」「人に負けるより、自分に負けるときに悔しがれ。自分に負けるな。」「辛抱という字は「立つ木を抱く」と書くんだよ。立っている木に黙ってしがみついていることだ。これが辛抱なんだ。」「足を丈夫に鍛えておくと人間は長生きをする。病気をしないですむ。」「いつでもニコニコ笑っていろよ。笑顔をがある人のそばには人が寄って来る。」「人と会ったときにはいやな噺をするな。いつでも明るい話をしなさい。」「年を取ることは楽しいことなんだ。、、老いるということは美しいことななんだ。」

小金治のおやじは、下町に住む魚屋の江戸っ子だ。そのおやじが折に触れて伝える人生訓は素晴らしい。江戸っ子の精神が脈々と子孫に注がれた小金治の人格はおやじと本人が一体になっている感じがする。冒頭に掲げた「辛抱」についても、おやじの言葉であり、また子の小金治の言葉でもある。おやじは明治生まれだろう。私お師匠・野田一夫先生も「人と比べるな、過去の自分と比べよ」など、明治生まれのおやじの言葉をよく説明してくれた。その名言が弟子の私たちにも強い印象を与える。私たちの世代は、そういう箴言を次世代に語ってきたか?

 

江戸っ子の教訓

江戸っ子の教訓

 

 

 

「持続する志」:牧野富太郎。大山康晴。原敬。池波正太郎。市川房枝。羽仁もと子。社会人大学院生と外国人留学生の感想は?

夜は品川の社会人大学院(多摩大大学院)で4回目の「立志人物論」の授業。15人が出席。18時半から21時40分まで。

テーマは「持続する志」。牧野富太郎大山康晴原敬池波正太郎市川房枝羽仁もと子。資料、口頭説明、ユーチューブ。

加えて、松尾孝(カルビー)、笹崎龍雄(サイボクハム)、白川静(東洋学者)、保直次(城山観光ホテル)、中村秀一郎(多摩大学長)、増田通二(パルコ)の人生と名言も紹介した。

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以下、授業の感想。日本人。

・本日の講義で紹介のあった人物達は一つの物事を突き詰める人種であり、故に各々が使命や役割を持っていると感じました。牧野富太郎は草木の精であると言うように植物を解明する事に時間を費やし、大山名人は勝利を重ねて、最後の役割は負けて時代を進める、その為の人柱となる事を役割としているようにも見えます。原敬にしても、功績は偉大なれど、死を持って歴史の中で役割を終える事は幕末や大戦時ではむしろ普通に起こっており、役割に徹したと言えるかも知れません。池波正太郎は現代と江戸時代を繋ぎ、市川房枝は女性の人権確立を進め、羽仁もと子は学校を作り人を排出したと伺いました。皆、使命を果たして歴史に残ったのだと考えました。個人的に興味深かったのは、棋士の名言は言葉を対にして使い、非常に論理だてた文章が多かったのに対して、池波正太郎は情緒的な文章で読者の想起意欲を感化させ、情景に訴える事を目的としていると感じました。又、市川房枝の論は政治腐敗と徴兵を同義として使っていて非常におかしい文章をエネルギーを持って正当化する辺り、政治家として優れていると思いました。現代の政治家の源流であると思いますが、現代のそれに対してまだ、ノスタルジックな雰囲気が残っているのは時代背景ではないかと思います。街頭演説の映像に映っている群衆は若く、市川房枝に聴き入っています。現代の街頭には若者よりも老人が多く、国の文化の推移とは存外この様な論調一つにも現れるのかも知れないと感じました。職業や役割によっても物の考え方が異なり、アウトプットとして文章に残る。立志人物論、面白いです。単なる知識の習得だけに留まらず、時代や文化背景にまで思いをはせる事ができます。加えて、留学生の方の物の見方が日本人と相違しているところも参考になります。本日もありがとうございました。

・持続する志というテーマの中で、登場した各偉人の方々に共通することは、ただひたすらに一つの物事に打ち込んだそのひたむきさにあると感じました。一方で、この志を持続させることに対して、やはりたった一人の力で成し遂げたというよりは、良き伴侶、理解者、協力者の力なくしては成し遂げられないだろうとも感じました。授業冒頭で議題となった「志」。何気なく「志」という言葉を使っていても、いざその意味を問われるとすぐに答えが出ない。とっさに、利他の心と口には出たが、その意味するところをしっかりと理解することはとても重要だと痛感しました。また、「現代の志塾」と称する多摩大学の掲げる「志」という意味についても、゛社会の不条理の解決のために自らの職業や仕事を通じて貢献をする゛という意味が込められており、このことを知ることは、改めて理解を深める良い機会となりました。講義で紹介のあった偉人のように、一つを極めるということは、生半可な覚悟では到底できず、自分自身にこの気概があるかと問われれば、正直不安でもあります。ただ、偉人の足跡は学ぶべきところが非常に多く、少しでも多くを学び、自分の糧になるよう努力を積み重ねていきたいと思いました。本日の講義ありがとうございました。

原敬「無私」。市川房枝「婦選は鍵なり」。「平等なくして平和なし、平和なくして平等なし」現代の志学という多摩大学のキャッチフレーズはグサリと私の心に刺さった。40歳を目前にして、これからの半生(人生100年時代とすると60年!)をどのように生きるか、現代の志学たる多摩大学という場に出会い様々な方々と語り合うことで自分の志を見つめている。今日の立志人物論でご紹介頂いた人物の中では、原敬市川房枝の志に強い感銘を受けた。原敬は平民出身者で始めて総理大臣まで上り詰め、日本の歴史に残る数々の仕事をした大人物だ。爵位の授与を固く拒み、無私の心で志を軸に生きた姿を短い講義の中でも強烈に感じることができた。市川房枝は演説の映像が印象的だった。運動は事務の堆積であるという言葉の通り、自ら行動し、有言実行、言行一致の潔い人物像が映像からも伝わってきた。私は部署がら女性社員と働くことが多く、女性の力を日々感じている。市川房枝が言うように、女性が活躍する社会、世界は人が大切にされ、戦争のない平和な世界であると思う。昨今の男女平等やダイバシティの活動にもつながる「平和への意志」を市川房枝の演説から受け取ったように感じた。私は人事/総務分野を専門として仕事をしてきた。人事の世界ではモチベーションなるワードがもてはやされて久しい。社員のモチベーションを高めるために、評価や報酬、社内環境など様々な面から工夫を凝らす。しかし、モチベーションにはフワフワした一過性の気分のような側面がある。ボーナスが増えるからもう少し頑張ろうとか、社内に気持ちのいいカフェがあるからやる気が出るとか、もちろんそういう面は人間誰しもある。しかし、それで今の社会課題や、企業の抱える課題が解決できるだろうか。壁にぶつかっても悲観せず、必ずやり遂げることができると楽観の意志を持ち行動し続ける人物を小手先のモチベーション論では決して育てることはできないだろう。「社員が(つまり自分自身が)いかに持続する志を持つようになるか」、という問いこそ、いま企業の人事/総務部門が持つべき問いなのではないか。いま日本は少子高齢化、人口オーナス、政府の過大な負債など多くの困難な課題に直面している。企業においては、今までの延長上にある単純な努力が報われる余地は少ない。目の前の人参を追いかけるようなモチベーション論ではなく、一人一人の生き方や信念に根ざした「持続する志」こそ、私たちの直面している今の現実を切り開く心のありようとして相応しい。学科長の徳岡先生の授業では、意志力というワードで表現されていて、今日の久恒先生の持続する志と共通するものだと理解が深まった。今日も、たくさんの学びをいただきました。先生やクラスの皆さんに感謝いたします。

・[志]のテーマに関して人物紹介、将棋で活躍する棋士の言葉の引用がありました。若い方や留学生の方々には馴染みがないかもしれませんが、私にとってはリアルに体験した人物ばかりです。池波正太郎は、その作品の多くを読み、かつ映画、テレビで見る事もあり、大変馴染みの深いと作家です。鬼平犯科帳はところどころに食べものの記載もあり、食通の池波ならではの作品です。時代小説で作品の多さでも人気のある作家です。中国からの留学生との会話の中で、中国にも[金庸]という中国国民が誰でも知っている有名作家がおり、広く読まれていることもを教えてもらいました。作品は侠客、外伝など池波作品に近いようですが、中国では格が上の作家と聞いています。日本語訳もあるようですので、今度機会があれば読んでみようと思っています。今回、特筆すべき人物としては、志し半ばで暗殺されてしまった宰相の原敬ではないでしょうか。東京駅で暗殺されたようですが、興味深いことで、そのことを調べている人もおり、暗殺された場所が残っています。今では、もう誰も気に留める人もなく、大勢の人がその場所を通り過ぎています。後に、もっとも優秀な宰相が誰かというアンケートで、第一位になっているくらい人気と実力があったと言われる人物です。暗殺されなければ、今日の日本も大きく変わっていたかもしれません。歴史は時として皮肉な運命を作り出すものです。もう一つのテーマでもあります女性として、その地位の向上に貢献した市川房枝がいます。幸いにして、私は市川房枝市民運動をしていた若い頃の姿を知っていますので、あの正義感と純粋な心に一種の憧れを持ちました。そしてもう一人、学生だった好青年の菅直人も同じ活動を支援していました。後に民主党の首相になるのですが、運悪く震災の影響で政治家としての活躍の場を失ってしまったようです。今回、将棋の大山康晴を取り上げて頂いたことに感謝しております。私自身でも、将棋を長く愛好しており、大山と枡田名人戦の勝負も記憶に留めており、学生の時に仲間と将棋を指したことが懐かしく思い出されます。今と異なり、スマホゲームなどがありませんから、囲碁、将棋、、麻雀のアナログゲームが活躍していた時代です。将棋は、上位者、有段者が絶対優位で序列がはっきりしていましたが、七冠をとった羽生善治に対抗する藤井聡太の出現で将棋の根底をひっくり返すような時代がやって来たのかも知れません。藤井聡太は、100年に一人の天才と言わざるを得ません。そして、大山康晴は、かつて長きにわたり、その頂点を極めた大天才です。惜しむらくは、同じ時代での将棋の対戦が見れないのが残念です。

・「持続する志」。牧野富太郎は植物の研究に80年以上の人生を捧げた。大山康晴将棋棋士として、「一時の栄光よりも、長く続けることが大事」と、1度は頂点を極め、50歳で無冠となりどん底を経験しながらも、将棋の世界において果敢に挑戦をしつづけた。原敬は平民から総理大臣にまで上り詰め、激務の中でも19歳から65歳まで日記を書き続けた。池波正太郎は小説家となってから、自分を段取ることにより膨大な作品を書き続けた。市川房枝は婦人運動家として、亡くなるまで日本における女性の社会的地位向上のための運動を続けた。羽仁もと子は日本女性初のジャーナリストとなり、自由学園も創設。出版と教育に人生を捧げた。今回学んだ人物に共通しているのは、まさしく持続する志である。途中で挫折しそうなことが何度もあったであろう。しかし、それを乗り越えて、名を馳せた方々である。強い思いを持ち続け、意思を貫徹してきた方々、頭がさがる思いです。ひるがえって自分はどうであろうか。転職回数でいえば立派なジョブホッパーであることは自覚しています。しかし、会社・業界は違えど、人事領域に携わるという軸はぶらしていないと考えます。そして今回の講義をうけ、私が尊敬している人から以前もらったアドバイスを思い出しました。「一流のエキスパートというのは、1つの武器を持ちながらも、それ以外のことについても見識がひろい人物のことをいう。それしか知らない・できない専門バカとは天と地ほども違う」。その通りであると考え、私がMBAコースで学ぶ理由もそれです。人事領域しかしらない人事バカになるのではなく、人事という誰にも負けない一芸を持ちながらも、マーケティングや財務等についても幅広い知識を身につける。そうでなければ今後ビジネスの世界で生き残っていくことはできないという危機感を抱えている。だからこそ、MBAコースで今学んでいるのです。そしてやがては、「あいつは本物の人事のプロ。そして経営全般についても造形が深い」と称される存在になることを目標に、近い目標に設定しました。講義で人物伝を学び、過去の忘れていたこと、現在の自分の思い、そして将来の目標を整理することができるようになりました。毎日を漠然と過ごしていたら絶対にできないことです。改めてありがとうございます。「高い志を貫徹する男」と周囲から称されるようになるよう、今後も精進を続けていく所存であります。立志人物伝の講義では非常に多くの刺激をいただいております。次回以降もよろしくお願い申し上げます。
 

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 以下、外国人留学生。

・今日の授業は志をテーマとして、棋士達と偉人の方々の名言や人生のリアリティを感じられました。今日の授業に通って、一番響く言葉が下記です。「努力は裏切らない」という言葉があるけれど、これが真実だ。ただし、[長い目で見ると]という一言が言葉の裏に潜んでいることを知っておかねばならない。成功にたどり着くものは努力があったからこそだという事は知っていますが、やり続けて、根拠強く持続することはもっと大事だっと、瀬川晶司はそう仰っしゃりました。恥ずかしいですが、私は締切に迫られ、目標に精一杯向かうものです。しかし、結局時間厳守を守れないことになりました。それを改善するために、今はもっと前向きの姿勢で行動するけど、これからは長期の目標を実現するために力を注がなければいけないと思います。一方、先生からの質問で、「長い目」って一体どれくらいの長さでいいのですかについて、それは熱意と工夫と共鳴できる友達同士の支えのかけ算です。一人でダメそうな時に助けを求めたり、最初の熱意を思い出したりすれば、努力もきっと長く続けると思います。これは授業に通って勉強になった事です。ありがとうございました。

・持続する志とは彼らのように一つのことに生涯をかけて打ち込み続けることである。牧野富太郎は草木の精である。子供のころから植物に関心を持ち、大人になったのちも妻による経済的支援の中植物についての研究をつづけた。牧野にとって植物の研究に没頭するようになったきっかけの本草綱目啓蒙の元は中国の本草綱目だ。本草綱目の元は中国の本草綱目だ。本草綱目は李時珍によって明の時代に書かれた。李時珍は中国で药圣と呼ばれており、李時珍の家族も薬に関係した仕事をしており、父は宮廷につかえる先生であった。そうしたこともあり、李時珍は宮廷の試験を受け先生となった。宮廷では様々な薬草を検閲しており、これが本草綱目の基礎となった。この仕事を辞めたのち、薬草を検閲するための旅に出た。当時61歳で27年を経て本草綱目の初稿を完成させた。そののち10年間で3度の修正を経て完成させた。本草綱目を完全に完成させるまでに40年かかった。李時珍は家族の影響で生涯薬学に専念した。本草綱目は中国薬学の発展に大きく貢献しただけでなく、世界の医学、植物学、動物学、鉱物学、化学の発展に大きな影響を与えた。李時珍は彼の実家の湖北省蘄春県に記念墓地が建てられている。是非行ってみることを勧める。

・本日のテーマは持続する志です。授業に出てきました人物の共通点は持続的な志を持っていることです。失敗しても心が折れない、やり続けることが成功の秘訣と感じました。植物学者の牧野富太郎は自分の生涯において標本を60万点を採集し、新変種を1500種以上を発見し、日本植物名を命名しました。日本植物分類の基礎を独学で築きました。牧野富太郎のように、一つの目標を決めたら、自分の生涯をかけて、続いて研究し最後までやり遂げることがすごいと感じました。自分は志を持っているが、持続する力が足りないことなのだと感じました。授業中に将棋棋士の名言の映像も流してくれました。山崎隆之棋士がおっしゃっていた「真剣な思考は前進を生み、深刻な思考は停滞を招く」という言葉が心に残っています。真剣な思考は自分が何かを始めようと思う時、本当にやりたいことは何か、自分に向いているかなどを考えることです。一方、自分が何かを間違っていた時に、自分はダメ人間とか考えてしまったのは深刻な思考なのだと思います。考えれば考えるほど、出口が見つからないし、悲観的な気分に陥ってしまいました。その時に、深刻な思考を抑制し、折れない心で楽観的に考えることが大事だと思います。羽仁もと子は日本で女性初のジャーナリスト、自由学園創立者、また家計簿を作った人です。段取りを整えることが如何に気持ちに潤いができるかがわかりました。効率よく仕事を進めす手段とは段取り力を身につけることを勉強しました。段取り上手な人になりますように頑張ります。本日はありがとうございました。

・今回の講義は「持続する志」について、偉人のことを勉強しました。様々な将棋名人から、いろんな名言を習得しました。例えば、「大切なのは『年齢』ではなく、『熱情』。それさえ失わなければ、きっと、何歳になっても新しい発見があり続けるに違いない」や「努力は裏切らない」、「前進出来ない駒はないんだ」など。中国語から通訳する「死にまで持続して勉強しなければならない」という言葉とある程度には同じ意味です。向上心を持って、一生に新たな自分を発見します。偉人・有名人・成功者達には共通点があります。それは、多くの失敗を繰り返し、辛く苦しい思いを何度も経験してきたということです。今の生活が辛く苦しいと感じる事はありますか?あるいはとんでもない大失敗をしてしまった事はありますか?もしそんな経験があるなら大いに喜ぶがいいです。何故なら、それは成功者への道を順調に進んでいる証拠だからです。

・今日は「持続する志」を持った偉人について学びました。興味があること又はやりたいことを最後までやる人は本当に偉くて、心から尊敬します。人生の目的を明確であっても、色々苦労したり、失敗したり、落ち込んだりする時もきっとあったと思います。しかし、あきらめず長く続けることは言葉でうまく説明できないぐらいの素晴らしさだと思います。特に先生が紹介してくれた人物の中で感動したのは牧野富太郎です。彼は「日本の植物学の父」といわれ、若い時からなくなるまでずっと植物学を研究していましたが、なんと全ては独学でした。やはり、情熱さえあれば、何でもできることを教えてくれました。あと、市川房枝も素晴らしい方でした。自分のためだけ戦うことではなくて、日本の女性たちが男性と同じ権利や平等な状態になるため努力してきて、感謝します。私も早くやりたいことを見つけて、一生懸命頑張りたいです。

・成功するには、生まれもった才能よりも、努力を持続的に続けるのが大事だと思われました。しかし、志を立てるのが簡単ですが、それを持続させるのことは難しい。私はなかなか持続できないタイプですが、多分情熱を注げるものが見つからないからです。これから、色々勉強して、世界を体験して、熱情あるものを探して、松尾孝みたいに「生涯一人一研究」ができればいいなと思います。そして、「着眼大局 着手小局」という言葉を勉強しました。私はこれがまさに禅のような言葉だと思っています。偉人達が物事を長い目で見るこそ、小さなことから実践するこそ、偉人になったではないでしょうか。

・今日の授業は「持続する志」のテーマでした。「日本の植物学の父」と言われた牧野富太郎の生涯に多数の新種を発見しました。又、将棋の才能の大山康晴は「私は、小学校時代から将棋の師につき、木見門に入り、永世名人になって百二十四回の優勝をかさねてきた。そのためには自分なりに努力をしたつもりだが、ひとつには運に恵まれていたと感謝する。ことに軍隊では幸運をつかんでいなければ、沖縄戦に参加して、おそらくは生きて帰れなかっただろう」と言った。成功するために、才能よりも努力を持続するのが大切な事だと思います。今日の授業に偉い名物のおかげで、自分ことについてよく分かったので、尊敬して、感謝したいと思います。ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。

・講義に牧野富太郎のことを勉強になりました。彼は小学校2年で中退、植物の採集などをして過ごし、家の資産を植物研究に全て注ぎました。東京大学理学部植物学教室へ出入りし、助手、非常勤講師を歴任。しかし、学歴のないことなどから他の研究員たちからは冷遇されました。それでも、彼は志を持って、苦しいながらも、妻の助けで研究を続けていきました。ついに、採集や雑誌の発刊など成果をあげて、50歳の時に大学講師となります。講師を辞任後も「牧野日本植物図鑑」、「植物記」、「続植物記」、「牧野植物随筆」など著書を数々残す。日本人は彼のことを日本の植物学の父と呼ばれました。たくさんの人は仕事やチャレンジなどのことを始めた時に、希望に胸膨らませ、キラキラした瞳で飛び込んできます。ところが、チャレンジや難しいこと長く続けると、やはり多くの人は短い間に夢を諦めて辞めてしまいます。持続する志は成功するために、どんな時代でも、どんな状況でも重要なことだと思います。

・先生、本日の講義非常に面白がった、ありがとうございます!まずざまざま記念館行って実践経験を共有して教えてくれて柏谷さんと李妍さんに感謝しておきます。そして、皆さんに名人記念館行く前に、できればこのgroup で予定と日程をupを願うと呼びかけたいです、外国人留学生の私は日本の有名人記念館に訪って行きたいが、場所と日本歴史に詳しくない。そうなったら納得的な勉強になれると思う。本日先生から紹介のあった大人物達は成功の模範である。保値次さんの「夢を見、夢を追い、夢を食う」。「夢を見」について、個人的に興味深かったのは、「大切なのは年齢ではなくて情熱を続けて」、目標方向を決めたて、情熱を込めて、本気を投入して、人生はいつでも遅くならないと思う、今日先生が紹介してくれた白川静は74歳で初めての賞から94歳(没っしあた前年)まで受賞記録を絶えず更新する、だから、かつての私は、年を取って、生計を立てて、結婚の大事さを口実にして、自分が挿絵を学ぶことをあきらめていたが現今で見ればどれほど愚かだな!又は、「夢を追い」と言えば棋士の名言「もし僕に才能あったら、折れない心だけなんだろ、」はまさにこの言葉の写照である。夢の実現の途中には、環境変換による消極的な影響がある、挫折に直面せず、立ち上がらず、簡単に諦めてしまい、中途半端の私は逃げ犬と区別がつかないと思う、今回の持続志の講座から、原敬首相が暗殺されたという脅威に対しても、右派の旧勢力との闘うことは命を奪取されたまでに日本の新たな政治を堅持した事件に感動している、大人物は夢の追求に命をかけて保護することができる。挫折して、倒れて立ち上がれない。失敗と成功と言えば瞬間の念願の差じないかな?最後、「夢を食う」について、夢を実現する為には手段的な事である。今日の授業で、私の気になるのは「一方堅ければ、他方に弱点ができるものです」という名棋士の名言である、それは私なりの人が人生の中で、勉強しても、ゲームにしても、仕事にしてもこの言葉は私にとって非常に重要な座右の銘になる、すなわち、ライバルに対する姿勢を示して、勝ちたいばかりの欲念を持って強くて攻めて、寧ろ、心を静かになっると柔軟な姿勢を迂回すると相手の弱点を捕まって、勝ちになれると思う大人物の志を習うのは面白いです。単なる知識の習得だけに留まらず、ますます日本の歴史を好きになってきた。加えて、日本人と一緒にgroup でdiscussions して、勉強になる、今日の持続な志についての講座では、自分の過去の人生を客観的にみることができた。

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 多摩キャンパスの研究室で通信教育のテキスト作成プロジェクトの会合。

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 「名言との対話」11月2日。杉本文雄「ええ音やないか!」

橋本 文雄(はしもと ふみお、1928年3月14日 - 2012年11月2日)は、日本録音技師である。

マキノ雅弘川島雄三井上梅次中平康今村昌平舛田利雄蔵原惟繕らの監督映画作品を次々に手がけ、「日活の音」の礎をつくったとされる人 。 西河克己監督の『生きとし生けるもの』がデビュー作となった。日活アクション、日活ロマンポルノなど、 映画録音担当作品は計274本。私が見た作品は、『にゃんちゃん』『太平洋ひとりぼっち』『敦煌』など。

日本映画の半世紀の「音」を支えつづけた録音技師の第一人者であり、音の魔法使いだった。橋本は、旅と日常生活でこつこつ集めた膨大な音のサンプルを蓄積していた。その技術の高さは、 毎日映画コンクール録音賞を5回受賞、日本アカデミー最優秀録音賞3回、優秀録音賞9回、日本映画・テレビ技術協会日本映画技術賞3回。文化庁映画賞受賞などにあらわれている。

 「録音の仕事はセリフ、音楽、効果音、アクションイズが合わさったすべての「音を設計する」事や」「映画の録音は「画にあった音を録る」というのが基本なんだ」「生きた音を録れ」「音の山場はその映画の山場」「台本の読める録音技師になれ」、、。

「画」にかかわる撮・照・美スタッフの後陣に構えるスタイルであり、現場で新人俳優に活を入れるなど、監督たちからも一目置かれていた。育てた錚々たる録音技師たちは、「橋本一家」と呼ばれる。「皆が育ってくれて、映画界の第一線で活躍している事が一番嬉しい事やな」と語っているように、映画界には人材育成面でも大きく貢献している。

俳優の科白と生活音、自然音が渾然一体となった「音宇宙」の創造者であった橋本文雄は、 1996年(平成8年)、映画批評家上野昂志との共著『ええ音やないか - 橋本文雄・録音技師一代』を上梓している。「やたらめったら面白くて、結局最初から最後まで読みとおしてしまった」とブログ書いている人もいた。名著なのだろう。

映画における「音」というジャンルを突きつめた人生がここにある。今後は、映画やテレビドラマなどをみるときには、「画」だけでなく、「音」にも注目しよう。

誰をロールモデルにしますか? 志賀直哉。藤原⽞信。ダ・ヴィンチ。大山康晴。夏目漱石。⽯塚運昇。ナイチンゲール。ファルカン。ナポレオン。⾦⽥⼀京助。

志人物伝6回目のアンケートから。「誰をロールモデルにしますか?」。

志賀直哉に決めた。「網⾛まで」「或る朝」「菜の花と⼩娘」読んで、⽩樺派と呼ばれていた作⾵を感じつつレポートにつなげていきたい。
・新免武蔵守藤原⽞信について調べようと思った。

ダ・ヴィンチにしようと思う。

・「⼈が真似できない芸を持つことが⼀流の条件である」この⾔葉が⾮常に気に⼊ったので、⼤⼭康晴について書こうと思う。
・夏⽬漱⽯について書くと決めた。

・尊敬している⼈は⽯塚運昇さん。世界的有名な作品ポケットモンスターのオーキド博⼠を始めとし⾊々なキャラクターの吹き替えを担当し、様々な役を演じていた。突然死去されてとてもショックを受けた。⽯塚さんを忘れません。

・⼀番尊敬しているのはナイチンゲール

秋元康にする。

・フットサルブラジル代表の「ファルカン」にしようと思っている。
・レポートはナポレオンを書こうと思う。

・主に動画を⾒てメモを取った。野球選⼿についてレポートを書こうと思っている。

・⾃分の出⾝地などから有名⼈を探していきたい。

・⾦⽥⼀京助についてレポートを書く

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「名言との対話」11月1日。二上達也「ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」

二上 達也(ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日)は、将棋棋士

二上は若いときには「函館の天才」と呼ばれた。また、その容姿から「北海の美剣士」とも呼ばれた。

大山康晴将棋記念館の入り口に、一代の覇者は先輩・同輩・後輩を負かすは、後に後輩に破れ、天命として位を禅譲するという考え方が記してある。1952年に47歳の木村義雄名人が29歳の挑戦者・大山康晴に敗れた時、「よき後継者を得た」と語り、多くの人に感銘を与えている。大山康治は、木村名人から禅譲を受けたのである。

その大山康晴十五世名人が、自分の地位を脅かす存在だと認めた棋士、それが二上達也加藤一二三だ。二上は絶頂期の大山のタイトル独占を王将戦棋聖戦で二度阻止しているのだが、タイトル戦では奪取2回、敗退18回と分が悪く、禅譲はされなかった。

一方、12年続いた大山康晴会長の後任として1989年に日本将棋連盟会長となり、2002年にかけて歴代最長の14年間、その役をつとめている。女流棋士戦の活性化と将棋の国際化に功績があった。棋士としては禅譲されなかったが、組織人としては禅譲があったといえるかも知れない。

将棋界では、神武以来じんむこのかたの天才加藤一二三藤井聡太の関係にも感じられる「禅譲」という思想があるが、大相撲では「引退」についての伝統があるようだ。千代の富士横綱昇進が決まった日の夜、九重親方北の富士)は自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。栃木山栃錦、千代の山北の富士、と同じ言葉が引き継がれたという。千代の富士は、貴花田との初の対戦で寄り切りで敗れて、潔く引退を決意する。

二上達也の弟子に羽生善治がいて、この天才と公式戦初対戦で完敗する。「ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」。二上は引退の決意は妻だけに告げて指し続け、年度が変わったときに引退届を提出している。育てた弟子に敗れて、自身の限界をみて、引退を決意する。この物語も美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久恒啓一共著『自分伝説』を、文藝別冊増補新版『幸田文』の中に発見!

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 ラウンジ

・バートル先生

・学科長会議:コミュニティ機能と施設問題。

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「名言との対話」10月31日。幸田文「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」

 幸田 文(こうだ あや、1904年明治37年)9月1日 - 1990年平成2年)10月31日)は、日本随筆家小説家。

幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。

父・露伴のことにはどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。

「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった。」である。

「このよがくもん」の始めは、「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」である。

今回、文藝別冊増補新版『幸田文』を読んだ。中では女性作家の見方に興味をそそられた。幸田文の姿は「ふいに何処か下り立ったような薄藍色の着物の女人(にょにん)」と森茉莉が書き、「幸田文の文章「まっ直ぐに立ち真正面から当たるしか出来ない作者の、凛として少し哀しい潔さ、、」とは、高樹のぶ子の言である。

この本の中で金井景子早稲田大学教授)という人が私の名前を挙げているのに驚いた。「自分史作成のための数ある指南書のなかで、就職活動をする若年層をも射程に収め、CD-ROM版の支援ソフトを同時発売して話題になった久恒啓一・沼田芳夫共著『自分伝説』では、自分史を執筆する際に、「人生キーワード」として次のような六領域を想定している。「家族・家庭」「生活・住居」「交遊・恋愛」「趣味・嗜好」「学校・職歴」「資格・表彰」。それぞれの領域において自分が如何なる状況に取巻かれていたか、また何をなしえたかを追想するかたちで、自分史執筆のためのデータが蓄積されてことになる」と紹介している。1999年、もう20年前の著書とCD-ROMだ。

2010年に映画「おとうと」をみた。山田洋次監督が描く可笑しくて哀しい物語だ。山田監督はパンフの挨拶に「家族という厄介な絆」というタイトルをつけている。主演の姉吟子役は吉永小百合、弟役は鶴瓶だ。原作は、幸田文だった。

2013年に世田谷文学館でやっていた「幸田文展」で幸田文の人生を考えたことがある。露伴の死後に露伴の思い出を書くようにとの要請にこたえて文章を書き始める。43歳だった。86歳で死去するまで名随筆を書き続ける。

幸田文の本をまともに読んだのは『きもの』だけだ。人生の転変を、着物をめぐる変化とともに描く逸品だと感心した。

斎藤茂吉が「先生」と呼んだのは鴎外と露伴だけだったが、その露伴の『努力論』の中に「努力して努力する」---これは真によいものとは言えない。「努力を忘れて努力する」---これこそが真によいものである、との記述がある。また「惜福、分福、植福」論もいい。

大野晋が、「言葉の数が少なくなってくると、事の判断のしようが浅くなる」と嘆いたときに、幸田文は「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」と対応している。戦後の漢字制限で、文章のきめが粗くなり、言葉と事柄の間柄のとらえようが雑になる。このことを警告しているのだ。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という「おもう」は使われなくなった。幸田文は、こういう漢字を思い浮かべ、心をまわしながら文章をしたためたのだ。日本語の素晴らしさに感銘をうける、こういう随筆家はもうでない。 

 

 

ポッドキャスト配信の今後。ZOOMの実験。「シン・知的生産の技術」。歴代天皇のお言葉。

・「こえラボ」の岡田社長来訪。私のポッドキャスト配信、登録は3000人、毎月のダウンロードは15000。ポッドキャスト配信の今後について協議。スポンサー、アレクサ、中国、、、、。

・知研の八木会長来訪:「シン・知的生産の技術」の進捗。フォーラム編集。

・高野課長:近況

・佐保君:ZOOMの実験。山本さんも立ち合い。

日本地域社会研究所の落合社長から電話:歴代天皇のお言葉、、。

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「名言との対話」10月30日。白川静「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本漢文学者東洋学者

若き日に「一生、読書をし続けよう」と決心する。崩壊し続ける「東洋」の源像を求めようとし、世界で最もふるい歌謡集『詩経』と、日本の『万葉』は希有の古代文学、この比較研究を行う。中国と日本の古代文化に共通する東アジア的特性に、わが国で発明された「東洋」の出発点を求めた。20歳前後の時である。

約3000年前の甲骨文字や金文という中国の古代文字を、トレーシングペーパーを使って写し取り、何万枚も写す作業をコツコツと続けた。45歳のとき、「口」が「くち」ではなく、神への手紙を入れる器「サイ」であることを発見する。1954年に教授になるが、人より10年遅かった。大学卒業が10年遅いのであるから、人より10年長く仕事をする以外にないと考える。

60歳になった頃には、100本を超える研究論文を発表していたが、「学問の成果は、普通の人にもわかるものでなくてはならない」と、初めて一般向けの本『漢字』(岩波新書)を書いて、多くの読者を得ている。

65歳で定年になる。その後、70歳まで特任教授。73歳まで大学院で教える。そして73歳でやっと自由の身になる。「一歩ずつ運べば、山でも移せる」と考え、『字統』(6800余字)、『字通』(上代語1800余語)、はそれぞれ2年、『字通』(見出し漢字総数約1万字の漢和辞典の最高峰)に6年、合わせて10年計画を立てる。毎日毎日、同じペースで書き続け、5万枚を超える原稿を一人で書き上げ、13年半かけて3冊の字書を完成させる。ページ数の合計は、3,000ページを超える。これによって毎日出版文化特別賞、菊池寛賞、三部作の完成で朝日賞を受賞。

89歳の時の計画がある。著作集12巻をまとめる、いくつかの出版物を再編集する。月1冊の割合でも5年はかかる。仕事の継続には適度の緊張を保つことができる定期的な企画を持つのがいい。年4回、5年で完結する「文字講話」を企画した。

「愚かしい戦争」で負けた戦後の国語政策では1950字に制限されたことを批判している。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という字に「おもう」という訓は与えられなくなった。努力しないで習得される程度のものでは優れた文化は生まない。漢字の活性化による過去の豊かな文化の回復を目指すべきだ。源泉としての古典を大事にすべきだ。「衰えている漢字を復活させれば、漢字を使い続けてきた東洋の国ぐにも復活できるはず」との考えだった。

74歳で初めての賞である毎日出版文化賞特別賞(1984年)を受賞。以後、菊池寛賞1991年)。朝日賞1996年)。京都府文化特別功労賞(1996年)。文化功労者1998年)。勲二等瑞宝章1999年)。第8回井上靖文化賞(2001年)。福井県県民賞(2002年)。94歳では最高峰の文化勲章2004年)を受賞している。

志を決めて、不断に計画する。 構造的、体系的に見る、歴史的に展開するとして見、その上で解釈学的に問題を考えるという方法が白川静の研究だった。「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」は菊池寛賞授賞式での挨拶である。中津の「青の同門」を題材にした菊池寛『恩讐の彼方への』の主人公・禅海和尚に自身をなぞらえた。250年ほど前に、人びとの往来のために、岩をノミだけで約30年かけて掘った。白川静はその禅海和尚の心境で、コツコツとノミを振るう96年の人生を全うしたのだ。高齢化社会に生きる人びとに勇気を与える生き方だ。

回思九十年

回思九十年