日本未来学会・理事会

快晴の秋。路上で 絵を描いている人がいた。

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 午前:大学

・入試質向上ミーティング:杉田・金。宮地・森島。

・近藤秘書と打ち合わせ

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14時・目黒の多摩大情報社会研究所で日本未来学会の理事会。

12月15日の「日本未来学会50周年記念大会」の企画会議。林光会長、公文俊平先生、和田事務局長、橘川さん、中川大地さん。

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終了後、和田さんと中川さんと喫茶で懇談。「現代ゲーム全史」の著者の中川大地さんは落合陽一「デジタルネイチャー」の編集者。さっそく、2冊を注文。

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「名言との対話」10月29日。三遊亭圓楽(5代目)「噺家は人生の語部(かたりべ)である」

5代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年昭和7年)12月29日 2009年(平成21年)10月29日)は、落語家

21歳、六代目三遊亭圓生の一番弟子として入門。29歳、真打ち昇進し五代目三遊亭圓楽を襲名。33歳、テレビ放送を開始した「笑点」にレギュラー解答者として出演。45歳、師匠の圓生と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立。52歳、江東区に寄席「若竹」を建設。56歳、若竹を閉鎖。63歳、23年間司会者をつとめた「笑点」を勇退し、桂歌丸に譲る。「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている。76歳で死去。今なお「笑点といえば、圓楽」のイメージは生き続けている。 

修行は嫌いではなかった圓楽は。「ああ、いっぱしの奴だね」と言われるような仕事をしたいと六代目三遊亭圓生に入門をかけあうが、「ざっと五十年は食えませんよ」といわれるが、頼み込んで一番弟子になる。

圓楽は「落語若手四天王」の一人だった。後の3人は以下。月の家円鏡(後の橘家圓蔵1934年昭和9年〉4月3日 - 2015年平成27年〉10月7日)。立川談志1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)。古今亭志ん朝1938年3月10日 - 2001年10月1日。悪口を言われるから談志より先に死にたくないと語っていたが、圓楽の方が2年早かった。『圓楽 芸談 しゃれ噺』には、この3人の仲間・ライバルがよく登場する。20代でロンドン空港で志ん朝のお世話をしたこと、そして仙台で晩年の談志の語りを聴いたことを思い出しながら、この分厚い本を愉しんだ。

 この人は自分で考えたキャッチフレースが多い。「湯上がりの顔」から始まり、「星野王さま」「名人圓楽」「ベルサイユのばら」「落語の宣教師」「正義の味方」「バンビちゃん」、、。ちょっときざでペダンティックなキャラクターとして通した。

落語についてどう考えていたか。「人を笑わせるのが一番むずかしいですからね。一番簡単なのが怒らせること。泣かせるのもそれほどむずかしかないんです」「大衆芸能だから、マジョリティを相手にしなければならない」「これほど面白くて、深みがあって、人情の機微をこれほど細やかに、ときに温かく、時にユーモラスに描いた芸能はない」。

落語界での身の処し方についてどう考えていたか。「焼き餅を焼いていると自分が小さくなるから考えないようにしている」「引き際が肝心。惜しまれているうちに、さっと身を引くのが一番」「世の中ってものはジワジワ変えていくべきだ。人間は極端な変化は好まない」。座右の銘は「得意平然 失意泰然」。

最後に「落ち」(サゲ)がつくのが特徴であるから「落語」というのだが、圓楽はこの言葉を好まなかった。入門した三遊派は人情噺の系統で、人物描写に主眼を置いていた。人情噺は人生観を盛り込んで語っていけるということで、圓楽には合っていた。三遊亭圓楽は、人情噺を中心にした人生の語部(かたりべ)たらんとしたのだ。

圓楽 芸談 しゃれ噺

圓楽 芸談 しゃれ噺

 

 

マリー・ローランサン美術館(ホテルニューオータニ・ガーデンコート)

マリー・ローランサン美術館。

マリー・ローランサン美術館は、高野将弘が蒐集したコレクションを中心に、画家の生誕百周年を記念して、長野県蓼科高原に設立された。2011年に閉館。

ホテルニューオータニ・ガーデンコートに、2017年に再度開館した、女性画家マリー・ロランサンの世界で唯一の専門美術館。油彩、水彩、デッサン、版画、挿絵本その他、600点以上の作品を網羅。写真や書簡なども多い。

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マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランス女性画家彫刻家

 第一次大戦前には、繊細でけぶるような色彩やリズミカルで優雅なフォルムを駆使して、愁いを含んだ瞳の少女を描いた。エコールド・パリと呼ばれた時代に、経済的にも自立した最初の女性画家の一人となった。

戦後のパリでは、優雅さと官能性を備えた美しい女性像は圧倒的な人気を博す。マリーは舞台芸術や衣装デザインなどの応用芸術でも高い評価を得て、40歳では時代の寵児となる。1920年代後半からは、色彩も豊かになり、華やかな作風になる。

テレビ朝日系列で放送中の黒柳徹子司会のトーク番組徹子の部屋」では、番組のセット1976年の第1回放送から1990年までは、マリーの作品の絵画をセットの一部に設置していた。

お針子の母の私生児として生まれる。若き日の恋人は私人のアポリネール。ドイツ人男爵と結婚、離婚。  日本人では、澤田美喜と48歳の時に会っている。マリーは、バイセクシャルでもあった。73歳で没。

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「名言との対話」10月28日。松尾孝「生涯一人一研究」

松尾 孝(まつお たかし、1912年7月15日 - 2003年10月28日)は、日本実業家カルビー創業者。享年91。

18歳で家業を継ぐ。戦後の極端に栄養の悪い状態をみて「健康にいい、栄養のあるお菓子をつくること」を志した。1955年、カルシウムとビタミンB1を組み合わせて、社名をカルビー製菓とする。

アメリカからの救援物資の小麦粉と、車エビの餌になっていた小エビであられをつくろうとし、油で揚げて塩をまぶす「かっぱえびせん」が誕生する。1968年「やめられない、とまらない」のキャッチコピーでCMを開始しブランド化に成功、以降爆発的に売れた。1970年には「ポテトチップス」が人気商品となり、3年目には単品で200億円の売上を達成し1980年ごろにはポテトチップス全盛期を極めた。

鮮度にこだわり、菓子業界で初めて商品に製造年月日を表示するなど、日本のスナック食品市場確立の多大な貢献により1976年に藍綬褒章を受章、1980年には農林水産大臣賞を受賞した。

 引退後も、「じゃがりこ」や「じゃがポックル」などの製品開発に取り組んでいた。じゃがりこの製造責任者だった現社長の中村一浩は、世界一のポテトカンパニーを目指すとし、日本のジャガイモ産業の改革を掲げている。中期計画では2020年に売上げ350億円、営業利益20億円だが、創業100年の2080年には売上高を1兆円、営業利益を1,500億円という途方もない数字をあげている。ビジネスマン時代の同僚がカルビーに転職したが、今回初めてこの会社のことを少し知った。

松尾孝の創業理念は「未使用資源の有効活用。農工一体の精神。生涯一人一研究」であった。カルビーは、ジャガイモという未使用資源の有効活用を目指し、農工一体の精神で、生涯を一つの分野の研究にかける。この理念を社員にも説いたが、松尾自身も「健康にいい、栄養のあるお菓子をつくること」という志を具体化した、ジャガイモを用いたスナック食品の研究開発に生涯を捧げている。「生涯一人一研究」は、誰もが心に持ちたい言葉である。

 

 

 

 

 

品川の大学院で教授会、修士論文・実践知論文予備審査会報告。九段サテライトでインターゼミ。

品川の大学院で、教授会:2019年春修了者修士論文・実践知論文予備審査会の報告がメインテーマ。以下、キーワード。日本の産業現場の問題が一望できる感がある。

成長マインド。中国企業の人材流出。外国人労働者受け入れ。ミャンマーの人材育成。成長戦略。留学生の就職。ドラッグストアの中国進出。バイオマス。中国観光客。フィットネスクラブ。台湾福祉用具レンタル。企業見学。構造変革。中国高齢者介護。やりがい。戦略的直感。離職対策。分散型労働。SDGSビジネス。日本港湾の未来。身元保証人問題。介護施設のマネジメント。中国マンジェリコ茶。病院組織。歓楽街。医療サービス大学院。抜擢。祭り。民泊。ヘルスツーリズム。教育研修部門。新規事業創出。ベトナム小売企業。最寄り品。営業マネジャー。中国浙江省中小企業。意思決定。映画コンテンツ。鉄道貨物輸送の生き残り。

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金先生・バートル先生とコーヒーをのみながら懇談

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九段サテライト:インターゼミ。

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「名言との対話」10月27日。三笠宮崇仁「人生というものはおもしろいものである。一喜一憂すべきではない」

三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年大正4年)12月2日 - 2016年平成28年)10月27日)は、日本皇族歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人昭和天皇の末弟。

幼少時より「童謡の宮さま」と呼ばれるほど文才があった。学習院中等科終了後、陸軍に入る。陸軍士官学校、陸軍大学卒。戦術と戦史が中心の陸大で、血の通っている生きた人間の肌に触れる戦史に興味を惹かれ、後に歴史学の道を歩む。

戦時中、兄の大元帥陛下に、中国がつくった日本軍の残虐行為をテーマにした勝利品の映画を見せている。日露戦争からわずか2-30年しかたたないのにどうして軍紀がゆるんだのかと考え込む。石原莞爾擁立運動から東条英機首相暗殺未遂事件にも関与した。

1946年、枢密院本会議において、日本国憲法制定の採決が行われた際、GHQによるマッカーサー憲法であり日本人の手によるものではないとして、採決を棄権している。一方で、日本国憲法第九条非武装中立については支持した。

終戦後、「『格子なき牢獄』から解放された」ので生活環境が激変したと述べている。「井の中の蛙」を脱して、人間の情熱をかきたてる根本的な要因を探究しようと、東大文学部の研究生となる。東京女子大などで歴史を講義し、「宮さま講師」と呼ばれた。語学に堪能で、流暢な中国語ヘブライ語を操る。「菊のカーテン」という言葉を最初に使った。

「われわれは歴史のなかから、人間社会がいかに変わっていくかをはっきりとつかみとって、人生ももつれた糸をほぐしていなかければならない」

「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」

歴史を通じて全世界を支配している宗教的思想の基礎が古代オリエントにあり、ユダヤ教が確立され、キリスト教イスラム教、そしてマルクシズムにもその影響があるとし、社団法人日本オリエント学会設立し、会長となる。また、財団法人中近東文化センターが設立された際には、総裁を引き受けている。

『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)。『乾燥の国 - イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)。『大世界史1 ここに歴史はじまる』文藝春秋、1967年。『生活の世界歴史 1 古代オリエントの生活』河出書房新社、1976年 のち文庫。『古代オリエント史と私』(学生社1984年)。『古代エジプトの神々 - その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)。『レクリエーション随想録』日本レクリエーション協会、1998年3月。『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、2002年)。『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)。以上にみるように著書も多い。私は『古代オリエント史と私』を読んだ。

心不全のため薨去。享年102(満100歳)。1915生まれ。明治天皇崩御からわずか数年の第一次世界大戦の真っ最中に生まれて、昭和の士官学校時代には、5・15事件、2・26事件に遭遇し、兄陛下の沈痛な面持ちをみている。そして、大東亜戦争戦後民主主義、高度成長、バブル崩壊、平成時代、そして21世紀の初頭の10数年を生きて、わずか2年前に亡くなっている。「人生というものはおもしろいものである。一喜一憂すべきではない」というセンテナリアン(百寿者)三笠宮の言葉には重みがある。 

古代オリエント史と私

古代オリエント史と私

 

 

授業「立志人物伝」の久米信行さんによる実況中継。戦略会議・大学運営会議。知研東京セミナー。

多摩。

・10時:久米先生と懇談

・10時40分:「立志人物伝」の6回目の授業。以下、毎秋受講してくれている久米先生の実況中継。

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【多摩大 久恒啓一副学長「立志人物伝」持続する志。ベンチャー企業という言葉は中村秀一郎先生が創った】。みなさんご存知でしたか?今、私たちが当たり前に使っている「ベンチャー企業」という言葉は、多摩大学二代目学長である中村秀一郎先生が発明した言葉なのです。惜しむらくは、これからという時に、中村先生は天に召されました。久恒先生曰く、もし中村先生が生きていたら、多摩大学はまったく別の大学になっていただろうとのこと。詳しくは、久恒先生のノートと、初代学長、野田一夫先生の弔辞をご高覧ください。

▼中村秀一郎「ベンチャー企業
https://note.mu/hisatune/n/n32c54db37d33

▼弔辞 多摩大学第二代学長 中村秀一郎氏を偲んで
https://www.tama.ac.jp/topics/news/2007/10/post-776.html

前回シェアした講義メモで「久恒先生の講義はブログなどを活用して効率的」と書いたら、そのココロは、自分が得た「最新情報」を学生にシェアしたい思いから...とのことでした。今週は、久恒先生が聞いた、東京財団 柯 隆(かりゅう)先生の「中国の構造問題」についての講演の話。私が共感したのは、昨日の十六銀行の講演でもお話した「中国は文化大革命で文化を失った」というポイントです。そこに日本のチャンスがある。多くの人が語らない中国の話ですので、詳細は久恒先生のブログをご高覧ください。

▼リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)先生--中国の構造問題http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/10/25/000000

さて、今日の講義のテーマは「持続する志」。久恒先生が選ばれた偉人は、牧野富太郎大山康晴原敬池波正太郎市川房枝羽仁もと子という驚くべき組み合わせ。例によって、名言とYoutubeで、その生き様を紹介します。

私が、特に驚いたのは、将棋の大山康晴名人の言葉です。「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」。将棋という抽象的な勝負事の中にさえ「芸」があること、昔から伝わる定石が数ある中で真似ができない「独創性」を発揮することが大切であること...。私も、経営者向けの講演をする時はもちろん、学生向けの文章を書く時でさえ、常に「自分を芸人」だと思っています。まだうまくできませんが、なんとか他の人ができないこと、それでいてお客様が喜ぶことをできるようにと、自分に言い聞かせております。

大山康晴「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」
https://note.mu/hisatune/n/na9ce8e66dea2

それ以外にも「将棋棋士の名言」というYoutubeを見て宝石のような言葉の数々に感激しました。例えば、谷川浩司永世名人の言葉は重いです。

谷川浩司の名言。 落とし穴がある。 経験はプラスにもなるが、 マイナスになることもあるのだ。どの言葉も、将棋棋士の「Keep On Learning, and Win」という強い志の数々が感じられます。ぜひみなさんも見てください。▼将棋棋士の名言
https://www.youtube.com/watch?v=gfXivWJmTHA

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九段。

・14時:大学戦略会議。テーマは「国際交流」。

・15時半:大学戦略会議。学長から:時代を学ぶ。死生観。哲学。肝。常温社会。人事方針(特任、研究、一定。)、、、、。

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17時45分:代々木で知研幹事会

18時半:ゲスト講師は佐谷恭さん。テーマは「時代の変化とコミュニティの再構築」。

佐谷さんは、旅に明け暮れた京大生活を経て、卒業後に富士通勤務。(株)リサイクルワンの立ち上げ、イギリス大学院で「平和学」を学ぶ。帰国後、ライブドアを経て、(株)旅と平和を創業。

2年半のサイクル。旅の経験を社会に還元。パクチー料理専門店。やめてみる、終わってみる。才能と意志のある人とやる。シャルソン(ランニングイベント)。コワーキングスペースクラウドファンディング。オンラインコミュニティ。地球のことを考える。kindleでの出版、70%。、、、、。

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 ・幹事の根岸さんと話ながら帰る。

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「名言との対話」10月26日。赤瀬川源平「アバウトは健康にいい」

赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本前衛美術家随筆家作家。。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。

前衛芸術家。1962年、25歳、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。 千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表する。1965年、28歳、通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。上告ののち1970年、33歳、執行猶予つきの有罪確定。

朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。34歳、最終回(1971年3月19日号)が問題になり、自主回収された。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動が行われ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊する。

編集者に勧められて純文学にの取り組む。尾辻克彦の名で身辺小説「肌ざわり」を執筆し、1979年、42歳、中央公論新人賞を受賞。短編「父が消えた」で、1981年、44歳で第84回芥川賞を受賞。1983年、46歳、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞。

マンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を49歳で創設。1987年、50歳、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞。1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年、56歳、『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。1998年、61歳、『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞。翌年毎日新聞出版文化賞特別賞。

また、赤瀬川源平は、多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっている。そのリストをみると目がくらみそうだ。

 以下、赤瀬川源平を巡る言葉。--公序良俗をからかう危険な前衛主義者。あらゆる思想信条を笑いのめす得体の知れない不謹慎、反体制ではなく無体制。諧謔に満ちた言語ゲームの遊戯者。永山則夫無知の涙』の装幀者。宮武外骨の「頓知」の復権の主張。

74歳で出した『個人美術館の楽しみ』を読んだ。「個人美術館というのは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味がある」。必要だから買うのではない、散在するのである。コレクターの愉しみとは、散在の爽快感にある。この本では46の個人美術館を紹介している。私はこのうちまだ15しか訪れていない。人物記念館の一つのジャンルとして全部訪問してみるか。「個人美術館の面白さはコレクターの熱情を見ることにもある」。確かにそうだ。しみじみと作家や蒐集家の人生を思うことにしよう。

物忘れを「老人力がついてきた」と赤瀬川源平はとポジティブにとらえていく。逆説の名人だ。 先輩画家の説明も「実は、内気なアバンギャルド」の安井曾太郎。「ロマンを吹き飛ばす乱暴力」の青木繁など独特である。「アバウトは健康にいい」も、常識を破る爽快なメッセージだ。あくまで「思想的変質者」であろうとした、その暴力的なエネルギーは生き続けている。 

 

個人美術館の愉しみ (光文社新書)

個人美術館の愉しみ (光文社新書)

 

 

 

 

 

「なるほどそうだったのかと思えるのが死の瞬間」と生前語っていた。

リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)先生--中国の構造問題

リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)。

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・米中貿易戦争の本当のの原因は、2018年3月の全人代での主席任期撤廃の憲法改正。これで中国の政治体制に脅威を覚えた。

・中国は経済減速による「雇用」(失業率の高まり)が怖い。2,3億人の出稼ぎは、帰農もできず、戸籍もない。犯罪の勃発状況になり、治安がオボ焼かされ、社会問題に発展する恐れがある。

・もはや大型のインフラ投資はできない。一巡。西部は山だらけ。過剰設備。介護保険がない。輸出しか道がないが、貿易戦争問題あり。2018年後半から2019年にかけて絵経済は減速する。

・習金平主席には二つの課題がある、「信用」秩序が崩れている。政府への信用、反道徳的行動の企業への信用、個人間の信用。これを立て直す必要がある。納税意識が乏しい社会で市場経済が可能であることを証明出来るか。

・製造業の躍進を掲げた「中国2025」計画は達成できるか。技術力がない。知財権保護がないので、品質があがらない。電気自動車(EV)は当面普及しない。まだ未熟な技術だ。電池劣化、専用駐車場なし、道徳・モラルが改善できないと。

・技術は50年。科学は100年。文化は100から200年。

・中国の夢とは何か。中華民族の復興。中身は? 経済はGDP2位だが技術力は弱い、ブランド力が弱い。軍事力は未知数。予算が多いが腐敗もあり、この1000年対外戦争で勝ったことがない。文革で古典文化は途絶えた、モラルは上がらない。文化力・文明力・ソフトパワー築くには100年、200年かかる。

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松本先生:多摩大総研。

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「名言との対話」10月25日。笹崎龍雄「わが輩は豚である」

笹崎龍雄(ささざきたつお。1916年9月3日-2012年10月25日)は、埼玉種畜牧場創業者(サイボクハム)。ニュービジネス大賞(金賞)。渋沢栄一賞。日高市名誉市民。享年96。死因は老衰。

関東大震災、昭和大恐慌、陸軍軍医、戦争、フィリピンの山下奏文軍司令官の参謀、敗戦、公職追放。「この戦争は物量と食糧不足で敗けた」と総括し、「食糧自給と増産が自分の使命である」と考え、養豚事業に邁進する。

育種改良の重要性に早くから着目し、当時は夢物語に近かったランドレース、デュロック等の原種豚を海外から輸入し、全国の養豚家に頒布。卓越した人柄、知性で知られた笹﨑氏は養豚後継者を育てることにも情熱を燃やし、サイボク研修生として「豚と会話ができる人間になれ」というサイボクスピリッツの薫陶を受けた養豚家は、全国の地域の養豚振興を担っている。

現在では、ハム工場あり、レストランあり、こだわり食材を並べたスーパーあり、温泉ありの、「農と食と健康のテーマパーク」に変身を遂げた。1次産業から3次産業全てを融合した理想郷をサイボクファームは実現している。年間来場者数は400万人ほど。

笹崎の薫陶を受けた弟子たちの観察は次のようだ。メモ魔。手帳。金言の人。語録。記録の整理魔。メモ、観察、熟考、整理する習慣。求道者。

1953年に大著『養豚大成』を刊行し、異例のベストセラーになり、その印税で欧州視察を行う。種豚-肉豚-精肉-ハム・ソーセージ-レストラン-調味食品と事業を伸ばした。64ページの文化雑誌、1万部無料配布の「心友」誌には「豚声人語」というコラムを書き続けた。以下、『とこトン人生九六年』から選んだ笹崎語録。

・自分の人生を創造できる人間、そして自分の職に希望と夢をもって全身全霊を打ち込んで働き、毎日の生活に情熱を燃やすことのできる人は幸せである。

・自分の人生は自分で脚本をかき、誰にも拘束されずに演出し、自分で納得のできる仕事に、全力を傾倒できる人は幸せである。

・どんな仕事でも永遠に未完成である。矛盾と問題だらけである。これを解決していくのが人生である。自分の天職に全情熱を打ち込み、その仕事とともに生きる人は幸せであり、魅力のある人である。

・私は、自分の人生(天職・事業経営)について、自分で脚本を書き、自分で演出し、自分の創った舞台で、思う存分に全情熱を傾倒し、そのなかに人間としての生きがいと、人間らしさを、自分でつかみとっていける人が、この世で一番幸せな人だと考えている。すなわち、自分の心に、しっかりした人生の羅針盤を持っている人間が、一番幸せな人だと思っている。

・豚の命をいただいて我々は生活できているから、商品になるものは、無駄なく、お客様(人間)に食べていただくことによって、豚の命に報いることができる。

・記録(メモ)を確行せよ。数字と思考で毎日の生活を科学すること。

豚のことは豚に聞け!仕事は道楽、勉強は趣味だ。農業は脳業だ。楽農。毎日が自己開発である。

以上にみるように、漢学の素養と東洋哲学に裏打ちされた金言の数々と人柄に接した人たちは大きな影響を受けた。

龍雄の息子の静雄は私と同世代で、「知的生産の技術」研究会の仲間であり、互いに30代の頃、会で埼玉のサイボクハムを集団で訪問したことがある。もしかしたら、その時に、父上にも会っているかも知れない。

 無数の金言の中で「わが輩は豚である」という言葉を発見したときは、思わず笑ってしまった。笹崎龍雄の人生はこのこ言葉に極まれりだ。植物学の牧野富太郎が「私は草木の精である」と言った境地と同じだ。笹崎はリーダーに必要なのは、「愛敬と運だ」という。厳しい指導をする人ではあったが、この人には皆が愛する愛敬もあったのだろう。高い志、食糧事業のパイオニア、そして96歳という老衰での天寿の全う。一世紀に及ばんとする人生で笹崎龍雄は、最終的に完全なる自分自身になったのではないか。

 参考:『とこトン人生96年』(サイボク文庫)

 

 

社会人大学院生の論文のインタビューを受ける。人事委員会、学部運営委員会、教授会。

・9時20分:人事委員会:教員公募

・10時:学部運営委員会

・10時40分:教授会:再任1名。昇格3名。

・松本先生:多摩大総研の運営

・13時半:学長室の渡辺さん:戦略会議

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14時:岩下賢作さん来訪。

2003年に出した『図解で考える40歳からのライフデザイン』(講談社)で編集をしていただいた方。久しぶりに再会。岩下さんはJICAで仕事をしていたが、最近、東京経済大学の社会人大学院に入学し、「キャリア」をテーマに論文を書くということで、私を取材にみえた。

「志」「中年の危機」「100年時代」「豊かさ」「定年」「キャリアデザイン」「完全な自分」、、、など持論を語る。

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 岩下さんが編集した萩本欽一さんの本をいただいた。「ボクは73歳で大学生になった」。萩本さんは2015年から駒澤大学仏教学部に在学中。

人生はおもしろがった人の勝ち

人生はおもしろがった人の勝ち

 

 

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 「名言との対話」10月24日。岡本愛彦「私は貝になりたい

岡本愛彦(おかもと よしひこ、1925年10月11日 - 2004年10月24日)は、日本の映画監督テレビドラマ演出家ジャーナリスト

朝鮮黄海南道生まれ。NHKをへて、ラジオ東京(現東京放送,TBS)に入社。テレビドラマ「私は貝になりたい」「いろはにほへと」を演出し、芸術祭大賞を連続受賞。フリーとなり,「愛の化石」「ボク,走りたい」などの映画や社会派ドラマを制作。明星大教授、大阪経済法科大教授。著作に「テレビよ,驕(おご)るなかれ」など。女優森光子の才能を見いだし、1959年に結婚し、4年後に離婚している。

 『私は貝になりたい』は、元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」の遺言部分をもとに、橋本忍の脚本で制作された架空の物語で、テレビドラマおよび映画となった。日本のテレビ史に語り継がれている名作である。

第二次世界大戦中、清水豊松は、気の弱い平凡な理髪師。赤紙が届き内地のある部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカB-29の搭乗員が裏山に降下。山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。隊長から搭乗員を銃剣で刺殺するよう命じられたが、怪我をさせただけに終わる。終戦後、無事に帰郷。ある日、特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯として彼を逮捕し、理不尽な裁判で死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残す。

フランキー堺主演のこの不朽の名作を1958年に演出したのが岡本愛彦である。1994年版は所ジョージ、2008年版は中居正広が主演している。岡本愛彦は日本統治時代の朝鮮半島生まれであり、「朝鮮分断の最大の責任は日本帝国主義にあった。その歴史的責任を考えるなら、日本人と日本国は、南北の統一の為に率先して努力すべきだ」と考え、告発 在日韓国人政治犯レポート』、『ボク、走りたい!』、『世界人民に告ぐ!』などの、日本における在日朝鮮人をテーマにした映画の監督を担当した。

子どもの頃、この『私は貝になりたい』が話題になり、映画を見たような記憶がある。その時は、この作品の意味がわからなかった。今回調べてみて、主人公の「私は貝になりたい」の真意がよく理解できた。戦争に巻き込まれる庶民の運命の理不尽さへの怒りが、人間という愚かな存在はまっぴらだ、深い海の底で静かに暮らしたいという願いになったのだ。深い海の底とは、海面の激しい波に影響されない静かな場所だ。庶民の平和な日常の幸せの大切さを訴え、戦争を弾劾する物語とわかった。この作品を改めて鑑賞しよう。

 

 

 

 

文庫リレー塾:鼎談「東アジアへの知的三角測量--どう安定させるか」。柯 隆・磯崎敦仁・寺島実郎。

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文庫リレー塾。鼎談「東アジアへの知的三角測量--どう安定させるか」。

東京財団政策研究所主席研究員:中国)・磯崎敦仁(慶応義塾大学准教授・北朝鮮)・寺島。

・6/12の米朝首脳会談以後?

柯 隆:改革開放から40年。今週の安部首相訪中でODA終了。今の中国?2018年3月のトランプ政権は全人代で主席の任期撤廃の憲法改正が許せない。貿易の不均衡に着目し「貿易戦争」へ。中国の官僚が素案を作らない、中国からのレスポンスがない。自動社はマイナス。雇用が問題で外国企業が海外へ逃げると農業もできない労働者が犯罪に走る怖れ。 これからの中国? 3つのワナに直面。中所得国のワナ(1万ドルから2万ドルへは「技術」(知財権)の壁)。タクトゥスのワナ(政府への信用の危機)。ツキディディスのワナ(挑戦すると必ず戦争が起きる)。

磯崎:1.北朝鮮はサミット外交の国・トップの方針転換で変わる。首脳会談が不可欠。金正恩はリスクを取り勝負に出た。実用主義、抜き打ち視察。核を持つデメリットもある。体制維持と高度成長。米朝融和という大きな方向は不可逆。非核化は進むだろう。2.国内に向けてはかなり説明。4月20日、核と経済の併進という恒久路線から、経済集中の高度成長路線へ転換。専軍政治という言葉も使わなくなった。国防委員会を国務委員会に変える。軍服からスーツへ。非核に進む。

柯 隆:中国にとっての北朝鮮? 中国は核ドミノを心配(南、日本、台湾)。中国は南北統一を心配(緩衝地帯がなくなる)。米中関係? 中国はプラットフォームが強い(8億人のユーザー)。5G/チップなど「技術」に弱い。

磯崎:経済制裁は効いているのか? 影響はあるが独裁の北は中枢を守るカネはある。「高度成長を目指す」。物価は安定。ドン底が脱した。 南北湯和の先に反日になるのではないか? その徴候あり。アメリカ批判はなくなった。日本批判が強まっている。反米から反日へ。

柯 隆:アメリカとの関係?中国はトランプ政権に対してどうしていいかわからない。周近平はリークワンユー(終身独裁者)を目指している。「下放」世代の特徴は破壊力はあるが、つくる力はない。どういう中国をつくるのかが、夢がはっきりしない。米欧のバランス戦略。ロシアという変数あり。

磯崎:トランプの苦境(中間選挙の結果・サウジの問題)になると、何か動きもあるかも。

柯 隆:日本人の好きな「共存共栄」は存在しない、通用しない。飲み込まれるか対抗するか。日本は極端。真ん中がない。安定した関係のキープが必要。政治にリードさせると不安定。民間の関係構築を。

磯崎:北は「対外の多角化」と宣言。中国、ロシア、韓国。

柯 隆:民間主導の日中関係。日本は右と左にどうしてこうもぶれるのか・日本には多様性のあるシンクタンクが少なすぎる。分析し、戦略を立てる必要がラある。

磯崎:日本は感情の先走りは危険。希望的観測は国益を損なう。

寺島:東アジアにおける日本の立ち位置? 技術力のある成熟した民主国家。

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始まる前に、赤坂のニューオータニの「マリー・ローランサン美術館」を訪問。

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「名言との対話」10月23日。山本夏彦「表向きは迎合に見せて、実は見る人が見れば分かるように言いたいことを言うように心がけている」

山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本随筆家編集者

東京下谷根岸生れ。詩人・山本露葉の三男。少年期に渡仏後、1939年24歳のとき「中央公論」に「年を歴た鰐の話」(L.ショボー原作)を発表する。1955年雑誌「室内」を創刊。1984年に菊池寛賞を受賞。1990年に『無想庵物語』で読売文学賞を受賞した。「室内」に「日常茶飯事」、「週刊新潮」に「夏彦の写真コラム」、「文藝春秋」で「愚図の大いそがし」、「諸君!」で「笑わぬでもなし」を連載した。著書に『私の岩波物語』『世間知らずの高枕』『「社交界」たいがい』『寄せては返す波の音』『オーイどこ行くの』『一寸さきはヤミがいい』など。2002年、胃ガンの転移により87歳で逝去。死の直前までコラムを書き続けた。

弟子である安部譲二の『堀の中の懲りない面々』は、山本創刊の『室内』に連載された、獄中の体験談から生まれた本である。うるさ型の保守である藤原正彦阿川弘之山本夏彦のコラムの愛読者だったというのは、本を読むとよくわかる。

以下、『ひとことで言う 山本夏彦箴言集』(新庁舎)から。

この世はやきもちから成っている。人間の知恵は古典に尽きている。人はこの世にニュースがないのに耐えられない。表向きは迎合に見せて、実は見る人が見れば分かるように言いたいことを言うように心がけている。我々は大々的に騒げと指図されると騒ぐ、指図されなければ騒がない。食べられる限り国民は怒らない。記事は給料をもらっている記者が書くから信用できない、広告は一字千金という大金を払う広告主がつくるから分からないことは書かない。私の本は売れるほうなのに店頭で買っている人をついぞ見たことがない。三十年四十年友に似たものならそれは友である。一冊を熟読玩味すれば人間のたいがいは、ここにふくまれていること男女のようである、一人のなかに千人の女ははいっている。風俗の変化は天災地変によることが多い。たいていのことはせ詮じつめると税制に帰する。繰り返せば人は信じる。新聞で読まれないのは小説と社説である。ギリシャ人は税金を納めて一旦緩急あったとき武器をとって国を守る意志と能力のある壮丁にしか選挙権を与えなかった。没書になる原稿を送る特派員はない。新聞の「天声人語」「余録」のたぐいは現代の終身なのである、あれには書いた当人が決して実行しない、またするつもりもない立派なことが書いてある。ニュースも天気予報もローカルがいい。新聞に出なければそれは存在しない。我々は我々以上の国会も議員も持てない。

山本夏彦は、政治とマスコミと世相と人間について、一見世論に迎合しているように見せて、あとで「ははあ」と批判が分かる人には分かるように異端の説を述べる。このテクニックがコラムを書く要諦だというが、世論に迎合せずに本音を吐露しているように私にはみえる。箴言には教訓という意味と戒めという意味があるのだが、山本夏彦箴言コラムは上段に振りかぶった教訓ではなく、控えめな書きぶりの「戒め」的要素が強く苦笑を招来するから読者の心のすき間に入り込むのだろう。

 

ひとことで言う―山本夏彦箴言集

ひとことで言う―山本夏彦箴言集