府中の村野四郎記念館を再訪。

 府中市郷土の森博物館の村野四郎記念館を再訪した。多摩テレビの番組のために事前学習。

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以下、新情報など。

甲州街道沿いの上染屋。調布の布田五宿と府中宿の中間の多磨という部落にあった。

荻原井泉水に師事。俳句からドイツの詩へ。リルケ(1875年ー1926年)を尊敬していた。

「サラリーマン週間」は日曜日にはコダックを持って出かけるという詩。

1939年の「体操詩集」は私と写真の組み合わせと大きな版型で話題になった。

1960年の「亡羊記」。この中で「鹿」と作品が素晴らしい。

「飢えた美食の単独者」。

高校生に「どうしたらいい詩をかけますか」と聞かれ、「良い仲間を持つことです切磋琢磨しながらね」と答えている。

府中市の歌。市内小中学校の校歌。母校の府中第四小学校。旧多摩村尋常高等小学校。創立100周年の歌。「多磨っこの歌」。

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・「全集」第2巻の「まえがき」を執筆。6冊の並べ方は発行順にしよう。

・中沢さん:日経新聞読書欄。リモート読書会。

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「名言との対話」7月28日。辻邦生「死ぬまで続ける」

 辻 邦生(つじ くにお、1925年大正14年)9月24日 - 1999年平成11年)7月29日)は、日本の小説家フランス文学者

1957年から1961年までフランスに留学。1963年、長篇『廻廊にて』を上梓し、近代文学賞を受賞。この後、芸術選奨新人賞を得た1968年の『安土往還記』や1972年に毎日芸術賞を受けた『背教者ユリアヌス』等、独自の歴史小説を次々と発表。1995年には『西行花伝』により谷崎潤一郎賞受賞。他の作品に、光悦・宗達・素庵を描いた歴史ロマン『嵯峨野明月記』、メディチ家ボッティチェルリの生涯を描いた『春の戴冠』等がある。

辻邦生北杜夫の対談本『完全版若き日と文学と』(中公文庫)を読んだ。2人は旧制松本高校以来の気の置けない友人である。辻の発言を追う。

「子供の頃から本を書く人になりたいと思っていた」。「芸術家っていうのは、非常な速度で人生を突っ切っていって、どうもその向こう方に出て行ってしまうんじゃないかと思うわけだ」。「小説家は天国から地獄まで見ている」。「この世の事は結局は有限だと思う。文学者はそれを超えるということが大事だと思う」「保留をつける。知ったことを固定化しないで、さらにより広く広げていく」「いつもストレート球しかほうらないもの」「生命とは歓喜であり、文学はそれを自覚させる手段である」。

「長編には無駄な部分が必要だ」との北杜夫のアドバイスを受けて、2000枚を超える長編『背教者ユリアヌス』で、ガリア統治を成し遂げ皇帝に即位するユリアヌスの生涯を描く。私も長いファンである北杜夫の長編『楡家の人々』は2年半で1500枚だ。どちらも史実にのっとった小説である。私が毎日書いている「名言との対話」は一回6枚とすると一年間で2000枚を超えるから、この半分くらいのペースか。

北杜夫が、2人の極端な資質の差からかえって気楽に読める漫才となっているのではなかろうかと語っているように、 2人の対談は面白く、かつ実がある。2人が共通項はトーマス・マンである。マンの師匠はゲーテだということだ。作品には、著者の性格と気質が出るという結論は二人に共通している。

信濃毎日新聞で連載したエッセイは、「死ぬまで続ける」の言葉どおり、急逝の直前まで続き、『辻邦生が見た20世紀末』として出版されている。それを証明するように 妻の辻佐保子 には『たえず書く人 辻邦生と暮らして』( 中央公論新社)というエッセイがある。北杜夫が全集は15巻なのに対し、躁鬱に悩まされる北杜夫とは対称的に、禁欲的、継続的に仕事をし続けた正統の速球派の端正な顔立ちの辻邦生は、12年も早く亡くなったにもかかわらず『辻邦生全集 』( 新潮社)は全20巻という厚みがある。学習院大学史料館に辻邦生関係資料がある。これを機会に前々から気になっていた代表作『背教者ユリアヌス』を手にしたい。

完全版-若き日と文学と (中公文庫)

完全版-若き日と文学と (中公文庫)

 

 

 

 

 

橘川幸夫(アフコロ総研)。仁上幸治(図書館界のカリスマ)。中沢義則(日経新聞編集委員)。

  橘川さんと図書館界のカリスマ仁上さんと新宿の喫茶で打ち合わせ。YAMI大に参加。全集第一巻を贈呈。橘川さんからは塩崎恭久「真に子どもにやさしい国をめざして児童福祉法等改正をめぐる実記」をいただく。ライオンで昼食。「情報の達人」、、。

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 新宿駅の最近開通した「東西通路」を見学。350万人の昇降客。5分が2分強に短縮される。ここが大動脈になる。

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15時: 大手町の日本経済新聞社で中沢編集委員と面談。「全集」を渡し説明。10月の民博でのイベントの現状報告。

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朝:ヨガ1時間

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「名言との対話」7月28日。宮武外骨「露骨正直天真爛漫、無遠慮」

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日慶応3年1月18日) -1955年7月28日昭和30年7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。

讃岐(香川県)生れ。 18歳の頃、本名の亀四郎を「外骨」と改名する。「外骨」は中国の『康熙字典』の「亀」の項に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ骨ヲ外ニシ肉ヲ内ニセル者也)とあることによる。師は30歳年上の成島柳北である。

頓智協会雑誌》《滑稽新聞》《大阪滑稽新聞》、雑誌《此花、日刊誌《不二》、雑誌《スコブル》など多くの新聞・雑誌を創刊。反官的風刺を行い筆禍をたびたびまねいた。大正後半には《賭博史》《私刑類纂》などの著述に専念し、ついで吉野作造らと明治文化研究会を組織し、明治文化史の研究に向かった。1926年、東大に設けられた明治新聞雑誌文庫の主任となり、在任中所蔵目録《東天紅》や《公私月報》を発行した。

吉野孝雄宮武外骨伝』(河出文庫)を読んだ。この伝記は外骨の甥が書いたもので、1980年の日本ノンフィクション賞を受賞した作品である。吉野は8歳から外骨の最晩年をともに生活したから、作品に気迫がこもっている。この本の最後の掲載されている「著者ノート」には、亡くなった時の小学4年生の日記に「おじいさんの知り合いはみんなえらいかたばかりです」との記述がある。吉野にはこの本を書く理由があった。

外骨による雑誌、新聞、単行本の発刊は優に160点を超えたが、筆禍による入獄は4回、罰金刑15回、刊行物の発売禁止・発行停止は14回という隆々たる筆禍の歴史がある。平等思想が反権力となり、獄中生活がその思想に形を与えたのである。

当時、新聞記者の小川定明、学者の南方熊楠と並んで天下の三奇才兼三奇人とされた。外骨の場合には、「優れている者」に限らず、「変人」の意味も含まれていた。 流行や権力が生み出すメインストリームに抵抗する「奇人」の思想家の系譜に属している

吉野作造東大教授が名著と評価している『筆禍史』には、小野篁から始まり、山家素行、貝原益軒山東京伝林子平式亭三馬為永春水平田篤胤渡辺崋山柳亭種彦荻生徂徠、、など約60件を詳述している。これはいつか読んでみたい。

また精力絶倫の 外骨は、房子、八節、末知、和子、能子など多くの女性と関係しており、結婚は正式には何回になるのかこの本を読んだだけではよくわからない。子どもには天から授かったとして「天民」と手なずけているのも外骨らしい。

15歳の少年の頃から新聞、雑誌の収集癖があり、読み終えた新聞や雑誌を1ページずつシワを伸ばして保存していた。その結果、明治期の新聞50,000枚、雑誌2万部510余種、単行本1500冊を中心に明治新聞雑誌文庫東京帝国大学に創設された。博報堂の創立35周年の記念事である。外骨は61歳でその主任になった。その仕事が明日の新しい日本を作る源泉になるとして、その後も資料収集の旅を続けた。83歳の外骨は心血を注いだ明治新聞雑誌文庫をようっやく引退する。それは生涯をかけた仕事であり、墓標に変わる仕事になった。1955年、老衰で89歳で没している。墳墓廃止論者の墓は東京駒込の染井霊園にある。実にあっぱれな奇人の生涯だ。

宮武外骨伝 (河出文庫)

宮武外骨伝 (河出文庫)

  • 作者:吉野 孝雄
  • 発売日: 2012/03/03
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

ZOOMによる講演「梅棹忠夫からのメッセージ」、田原真人さんとの対談の動画。

日本未来学会オンライン研究会。2020年7月24日。
久恒啓一「生誕100年ーー梅棹忠夫からのメッセージ」

www.youtube.com 

田原真人さんとの対談。2020年7月23日。

www.youtube.comniyoru

 

「参加型社会宣言」著者(橘川幸夫)との対話シリーズ第7回に登場。

www.youtube.com

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大学

・杉田先生

・打ち合わせ

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「名言との対話」7月27日。石田礼助「粗にして野だが卑ではない」

石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年明治19年2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本実業家

京商大を卒業し、三井物産に入社。シアトルボンベイ大連カルカッタニューヨークの各支店長を歴任し、1939年には社長になった。1956年に実業界に復帰し日本国有鉄道監査委員長、その後国鉄諮問委員を務める。1963年、財界からの起用を望んだ池田勇人総理は石田を国鉄総裁に指名した。77歳での登板であった。

国鉄総裁に就任する際には「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬと言うことだ。それには正義の精神が必要だと思う」との信条で引き受けている。「年間50億人と言う人命を預かる色は、金をもらってやるべきではない」と給料を返上しようとした。月給は10万円からとし、列車事故の際はウイスキー一本(年間)とした。副総裁には「日常の仕事は、すべて君に任せる。君の嫌な仕事は全部俺が引き受ける」と言い、国会対策を引き受けた。「能率を上げるにはね、全体の統制を乱さない範囲において、独断専行をできるだけ許す、と言う事ですね」と仕事のやり方を語っている。

城山三郎の『粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯』(文春文庫)を読んだ。

石田の60代は単なる石田農園主であった。楽しみは旧友たちとの付き合いと、「金儲けの楽しみは、その道行きにあるんだよ」とした株だった。誰かが「野心も私心もない。あるのは素心だけ」と評したが、石田には侠気もあった。「人と作るには一点の素心を存することを要す。人と交わるには須く三分の侠気を帯ぶべし」(菜根譚)にあるような人物だった。

アメリカ駐在中に、政府に頼まれたり、社会事業に手を貸したりして、公職に手を染めるのが理想の老後として記憶された。給与が出ても、形式的に1ドル受け取るだけで、「ワンダラーマン」と呼ばれるそういう男たちがいることを知った。それが理想の老後として記憶されたのである。

国鉄では、切符の持たせ切りをやめさせた。私鉄への顔パス乗車もやめさせた。一等、二等の呼称やめさせ、普通車とグリーン車とした。改革を進めたが「労使の関係だけは何らなすことはなかったな。手に負えんのだ」と述懐している。石田が6年間にわたる国鉄総裁職を辞したのは数え年84歳であった。「勲章を私は老人のワッペンとしか思っていない」と言って辞退している。中山素平、宮嶋清次郎、桜田武、前川春夫などもその系譜の人たちだ。

自宅では「家でとれた間違いのないものを、上手にやりくりして食べる。それでこそ最高の贅沢、最高の醍醐味だ」とした。また屈伸運動20回、体の横ひねり20回など、自分で工夫した体操を10分間行う。さらに木剣の素振りを300回。朝の運動が終わると全身に水をかぶるという習慣を持っていた。

「葬式にはむやみに行くものじゃない。本当に親しい者だけが行くんだ」という考えの石田礼助の遺言は、「死亡通知を出す必要は無い。葬式は家族だけで営む。香典や花は一切断る。祭壇は下から2番目位にせよ。形見分けをするな。戒名はなくてもよい」であった。

「卑ではない」は、卑しくないという意味である。金、地位、名誉などに執着しない。品格を大事にする。筋が通っている。「粗にして野だが、卑ではない」は私の信条に近い。『落日燃ゆ』の広田弘毅など城山三郎の描く人物には私はいつも共感している。石田礼助の生涯は、爽やかな一幅の絵のようだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「参加型社会宣言」著者(橘川幸夫)とのZOOM対話シリーズ第7回に登場。

「参加型社会宣言」著者(橘川幸夫)との対話シリーズ第7回に登場。

思いがけず、がっぷり四つに組んで対話することになった。

www.youtube.com ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月26日。菅野一雄「自分で探していかなきゃダメってことだね」

菅野一雄(かんのかずお 1948年? - 2014年7月26日)は、大相撲の特等床山

床山」とは、大相撲の力士の誇りともいうべき髷を結う人。相撲協会に採用され、相撲部屋にそれぞれ所属する。力士と同様に地位があり、5等~1等、さらに最高位の特等まであって、全員が名前を「床~」と名乗る。常時50名ほどが在籍している。土俵に上がることはない、相撲界を支える陰の職人集団だ。その最高位が、特等床山である。

 新入りの床山は、五等床山と呼ばれる一番下の階級からスタート。その後、勤続年数や技術によって四等、三等と順に階級が上がっていく。トップの特等床山は、「勤続45年以上」や「成績優秀な人」といった厳しい条件があり、たどり着けるのはほんの一握りだ。

現在の床山一覧をみよう。やはり特等は一人だ。相撲取りでは横綱、行司では立行司、呼び出しでは三役呼び出しに相当する地位である。特等床山グリーン車に乗れたりする三役格に相当する待遇だ。

特等床山:床淀(とこよど)。

一等床山:床鶴 (とこつる)。床弓 (とこゆみ)。床平 (とこひら)。床朝 (とこあさ)。床中 (とこなか)。床辰 (とこたつ)。床好 (とこよし)。床貴 (とこたか)。床岳 (とこたけ)。床仁 (とこじん)。床幸 (とこゆき)。床門 (とこかど)。床大 (とこだい)。床誠 (とこせい)。床豪 (とこごう)。床哲 (とこてつ)。床島 (とこしま)。床勝 (とこかつ)。床勝 (とこかつ)。

以下、二等床山三等床山四等床山五等床山と続く。最後に床竣という名前がある。宮城野部屋に所属する床山「床竣」は、横綱白鵬に、床山にならないかと誘われ、中学卒業後1年間、部屋で見習いとして経験を積み、2019年2月、日本相撲協会に正式に採用された。大銀杏を結うには10年かかる。定年は65歳。

最高峰の特等床山だった床蜂は、白鵬の大銀杏をずっと結ってきた名人だ。優勝時の後の髷結が晴れの姿だ。床山研修会の動画を見たら、床蜂が指導していた姿をみることができた。髷は顏の真ん中にくるようにする。「自分で探していかなきゃダメってことだね。俺も基本は教えてもらったけど、あとは自分で研究した。見て覚えるというけど、ただ漫然と見ているだけじゃ見てないのと同じ。しっかり頭に入れて、それをやってみて、自分なりの大銀杏を作ってほしい」

菅野一雄の言葉は見つからなかったので、特等床山の先輩である床蜂の言葉を採用した。ちょうどコロナの影響で、久しぶりに観客を入れた大相撲の中日で、横綱白鵬と新大関朝の山が無傷の勝ち越しを決めた日であったので、あまりなじみのない大相撲の裏方の床山を取りあげた。床山の世界でも、基本は教えてもらうが、あとは自分で研究し、自分独自の作品をつくっていくしかないのだ。やはりどの職業も同じようだ。

 

日経新聞に『久恒啓一図解コミュニケーション全集』第一巻の広告。

本日、7月25日の日経新聞に『久恒啓一図解コミュニケーション全集』第一巻の広告

。見本ができたばかりなので、書店には8月上旬に配本される。

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本文の冒頭の寺島実郎さんの推薦文は以下。それの一部を使って表紙に載せている。

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久恒啓一氏の「図解コミュニケーション」の本質

           一般財団法人日本総合研究所会長 

                    寺島実郎

 「図解」は知的生産の技術の柱であり、この体系化と深化に久恒啓一氏はライフワークとして取り組んできた。その集大成がこの全集である。 

 私は久恒氏と40年近い年月にわたって親交を深めてきた。 

 彼の人生の前半はビジネス現場でコミュニケーション能力を磨くことに集中し、所属企業の改革に実績を挙げた。

 後半は大学の教壇に立って後進に図解による意思疎通の高度化という実学を教えるとともに、大学経営に図解を持ち込んで成果を挙げた。

  そして、一貫してNPO法人知的生産の技術研究会の中心的リーダーとして、社会人の知の再武装とその社会的実装に心を配ってきた。 

 この全集の意味は、論点を図解する技術論にあるのではなく、図解によって意思疎通を深め、時代の課題の解決のために行動しようという愚直なまでの情熱にあることに気付く。

  一隅を照らす人生に、こういうアプローチもあるのかと心が熱くなる。

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強調すべきところが違うなあ。

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「名言との対話」7月25日。花菱アチャコ滅茶苦茶でごじゃりまするがな

花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 - 1974年7月25日)は、大正・昭和期の漫才師俳優である。

実家から何度も養子に出されたり、小学校を途中でやめさせられて、父親からも勘当されるなど、苦労が絶えなかったが、役者に興味があり、これも紆余曲折を経験している。役者には不向きであることを自覚し、大柄な体と取り柄のない顔を喜劇で生かすことになり、17歳で転向する。

1926年落語にかわる演芸を探していた吉本興業に入社し、1930年に横山エンタツとふたたびコンビを組む。まだプロ野球がない時代に人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博した。

正月を祝うのが「萬歳」だった。太夫と才蔵の二人組が正月に家をまわり踊りなどを披露する芸だ。明治時代中期に、近代万歳の祖・玉子屋円辰が祝い事の要素を排除した演芸としての「万歳」を始める。歌や踊りの間に「喋り」が入るのが普通だったが、天才エンタツは、低俗で下品な万歳を嫌い、新聞などをヒントにした時事ネタを盛り込んだ漫才をつくった。エンタツアチャコは会話だけの新しい「漫才」をつくったのである。「きみ」「ぼく」という標準語、背広姿など新味を出した。二人のインテリ万歳はサラリーマンに人気がでる。ラジオ時代の幕開けにもあたり、エンタツアチャコのコンビは人気は全国的になっていく。

アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えている。1952年長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化され、アチャコはスターになっていく。漫才時代はエンタツが売れていたが、舞台・テレビ時代はアチャコの独壇場になった。

テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期に「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」の台詞で一世を風靡した。このセリフは私もよく覚えている。久しぶりに二人の漫才をユーチューブで聴いたが、話題がどんどん変わっていく。テンポがいい。

資料を調べるとアチャコの生涯は有為転変、波乱万丈である。その中をしぶとく生き残っていく。現代に続く漫才の創始者の一人となったアチャコはドケチで有名で財産も築いた。そして最後は喜劇界の大スターにもなった。辞世の句は「負けはせぬ、夢は舞台で見得をきり」だった。

 

 

 

午前:「大学生はコロナ生活をどのように過ごそうとしているか」(授業)。夜:日本未来学会のオンライン研究会で発表「梅棹忠夫からのメッセージ」。

学部授業。12回目。授業後の課題アンケートから、「大学生はコロナ生活をどのように過ごそうとしているか」という視点でピックアップ。

コロナウイルスでまだ中々外に出られない状況だが、その状況をどう有効に活用するかが自身の生活を変えるかだと感じた。

コロナの自粛って不便だと思うことが多かったのですが、本日の授業を通してコロナの自粛であるからできる勉強であったり、オンライン授業になったから時間を有効に使えるようになったりと、自身の時間の使い方で、とても有意義な時間になることを確信しました。何か私も勉強して身に着けたいという気持ちになりました。

新型コロナウイルスによって世界がどのように変わっていくのか、また自分がどう成長するべきか、どう変化していくのかを考えるきっかけになりました。

本学の学生は比較的選挙に積極的に参加している様子ですが、久恒先生や寺島学長が簡単なことを小難しく教えず、それでいて自力で考えさせる問題定義をされている影響はかなり大きいと思います。

ほとんどの人がコロナ禍で出来ることが限られた生活を強いられていってしまった中、何が出来るのか、何をすべきなのかと考えて行動する事が重要であると思います。また、誰よりも先に着目し、それを始める事で新しい事の発見になるのかなと思えます。

新型コロナウイルスによって世界がどのように変わっていくのか、また自分がどう成長するべきか、どう変化していくのかを考えるきっかけになりました。

今回の講義で印象に残ったことは、新型コロナウィルス時代になってしまったからこそ、出来ることなどを明確にするべきということです。出来ることは人それぞれだと思います。私はこの新型コロナウィルスの期間自分の進路に向けた勉強を頑張ってきました。内容としては、TOEIC、SPIを中心として勉強して自分の苦手意識があるものを就職するまでに減らしていこうと思いました。

今回の講義で学んだことは活動する前に自分がどんなことを一日でやるのか決めるといいということです。自分で計画を立てて実行することがとても苦手ですが時間を無駄にして何もやらないよりかはやることを決めておいてやってみるのもいいと思いました。計画を立てればなにをやればいいかすぐにわかることができ、今のステイホーム時間を無駄なく過ごせると思うので同じ時間でも過ごし方によっては怠けてしまうので怠けないためにも何かをやるのはいいと思います。

多摩市の選挙管理員にまで、反響があるのはすごいと思った。この講義で選挙に少しでも興味を持ったのは、確かである。

読書会の話について、意見を述べ合うだけではカオスになるが、図解を利用する事でカオスと秩序の問題は解決されると話していてそんな場面でも図解が活躍しているんだと感心した。私もオンラインで勉強会・セミナーに参加しているため、そこで図解を利用してみようと思う。

コロナ後の時代であってもzoomなどのオンラインによるアプリの使用は広がっていくので、大学生の段階からzoomを使い授業を受けることは授業の質が落ちるといったデメリットばかりではなく、将来的にzoomやオンラインアプリが広がった時の練習と考えればとても大きなメリットであることを実感した。またコロナ流行を悲観するばかりではなく読書や勉学など時間を有効に使い自分のためになるように時間を有効活用していきたい。

今回の授業では自分のコロナの自粛期間の行いを見直すことができた。自分はコロナの自粛期間に英語の学習やパソコンについて学んだり動画編集などこれからの時代に求められるスキルの上達に力を注げたのでとても有意義に送ることができたと振り返ることができました。

今回の授業でzoomあ今後発展していくとかかなりこの先のことについて学ぶことができました。現在このような状況でかなり衰退しているような企業また業界は数多くあると思います。しかし、逆も然りで発展または新たに出てくるような業種もあると思います。今日はそんな未来的に発展していくかもしれない業種や先生なりの意見も交えて聞くことができたのでとても貴重な授業でした。

新型コロナウイルスの流行により、周りの環境が大きく変わった。withコロナ時代を生きていくために、時代や社会の背景をしっかりと考えていきたい。

先生がおしゃっていたようにウイルスと共生していくことがこれから生きていく中で大切になってくるのではないかと学ぶことが出来ました。

今回の授業で学んだことは、図解したことにより誰かの興味をそそり、対談をすることになったというのを聞いて、図解の持つ力は図解がまだまだできない自分からすると未知数・無限大だなと感じた。
また、図解を使えるようになれば、新しいモノや人に出会えるのだと思い図解を覚えて損は絶対にないと思った。

今回の講義を受けて学んだことはこの時代にこそできることは何かと日々見つめ合うことが重要ということを学んだ。ただ見つめ合うのではなくそこからどう自身で計画し行動するかが周りと違う発見ができる要素などではないかと思う。コロナ時代で人と接触が難しい中どう人と触れ合い新たな発見することが今後に生かされると思う。学生だからこそ様々なものに参加できると思う。

寺島実郎先生の番組の解説の図解で内容理解ができた。録画をしているので見直して深堀りしていきたい。今までの寺島実郎先生の番組も録画をしているので、改めて見直して考えていきたい。人脈を広げることは、今後にとって大変重要なことであるなと思った。計画していること、やらなければならないことを書き出すことは忘れず、時間を無駄にせず取り組むことができるため、実践したいと思った。

今回の授業で橘川先生の「参加型社会宣言」の本について触れていたことに関してが、その本には木曜二限の事業構想論でも触れていて内容の一部を教えていただいたり、橘川先生の今後ポストコロナ社会で計画している企画の視野の広さに驚かされた。

家にいる時間が増えます。その時間の中に図解を生かした生活を少し心がけていこうと考えました。そして、こんな状況だからこそ周りとの差をつけるチャンスとも感じました。

今の新型コロナウィルスがある時だからこそ自分で出来ることをする人としない人ではやはり差が生まれると私も思います。今の時期だからこそインターンシップを積極的受けるだとか自宅にいる時間が長いのでパワポの練習をするだとか今までの生活では出来なかった発見できなかったことが見つかるかもしれない、そういったことを自ら見つけ改善しまたそれを自ら行っていくという行動力が今の時期だからこそすることであると授業を聞いていて強く思ったことです。

今回、コロナ期間中の行いが、どのように差となって表れてくるのかが少しわかった。コロナ期間中に、これからの未来について考えることによって、成功の仕方が少し見えてくると思った。

コロナウイルスによって大学やアルバイトなどがなくなっているが、今自分ができる最大限のことをすべきだと感じた。特に本を読んだり、何かに関心を持って勉強をすることは時間がある今しかできないことだと思う。私は今何をすべきか考えてはいたが、行動に移せていなかったのでこれから時間を無駄にせず、始めようと思った。

私は授業を聞いてコロナになってしまったという事実は変えられたいので今後は、なってしまったことに柔軟に対応していくべきだと思った。私は、多摩市に住んでいるので多摩市の投票所行ってきたが、多摩市の投票率や誰にナンパーセント入っているかを気にしていなかった。でも去年衆議院選挙の投票率は東京全体よりも高かったのが印象的で覚えている。

今回の授業で学んだことは、読書会などもオンラインでやるようになって意外と新型コロナウイルスに対応してきているという印象を受けた。

終息の目処も立たないままだとこのまま新型コロナウイルスと共存していかなくてはならない未来もあるかもしれないと感じた。しかし、その中でもできることを自分なりにやるべきだと思った。久恒先生がおっしゃっていたように、その日やることを紙に書き出して実行できなくても自分の中でそれを決めることが大事だと感じた。な

何事も見て納得するのではなく、書いて意識を高めるべきだと学んだので、先生がおっしゃっていたように夏休みなど長い計画を立てる時に、実際にやってみようと思う。

私たちにには選挙権があって、意見をいうことができる立場にある。いまのコロナもそうだけど、なんの問題に対してもまずその課題に対して自分が理解することが大切だと改めて感じた。内容が分からずただ投票するのだと投票してないのと同じだから、このコロナでの自粛期間を通してだからこそできる学びを深めたいと考えた。

今回の講義ではzoomの授業の取り組み方を知れた。現在、コロナが流行し、対面での授業があまりできないからこそこの機会をチャンスだと思ってしっかりとzoomでの授業に取り組んでいきたいと思った。また、授業の中で紹介された本も読んでみたいなと思った。

本講義でコロナ禍の現状について、自分の意見を持ちこの時期に行動する人こそ変われるといったことを再確認できた。

今コロナの影響がひどい中自分ができることを見つけて、目の前のことを全力でやるようにする。また、他の授業でのレポートや課題を一生懸命やり、頑張っていこう思う。

メディアによって切り取られた一部の情報だけを鵜呑みにするのではなく個人個人一人一人が新型コロナウイルスに興味関心を示し、正しく恐れ、正しい付き合い方を見定める必要があると感じました。

先生の話が面白くて見入ってしまった。体験談や例を上げてくれるのでわかりやすい。今回初めて図解のパワポというものに挑戦してみたのですが、思っていた以上に難しかった。図を作るのは簡単なんですが、適切な形に着地するまでに多くの時間を要しました。作業の9割くらいは考えることですね。考えているうちに自分の中でより理解が深まっていくのを実感できると思います。誰かに何かを伝えるという目的以外にも「深く理解する思考法」としても有用だと思いました。

コロナの時に自分は何をできたかと振り返ったり今からでもできることは、ないのか少し自分なりに考え直して、行動しなくてはいけないと思った。 

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夜:19時半から2時間。日本未来学会オンライン研究会で、「生誕100年ーー梅棹忠夫からのメッセージ」というテーマで1時間15分の講演と質疑応答。13人が参加。気合を入れてしゃべった。 

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 先ほど、このオンライン研究会に参加してきました。1970年に出版された「知的生産の技術」(何と現在100刷!)の著者、梅棹忠夫さんの思想について、しばしば引用させていただいている「偉人の誕生日366名言集」などの著者である久恒啓一さんが2時間弱、語ってくださいました。梅棹忠夫氏は「文明の生態史観」を書かれました。日本と西欧を東西の端に置いた見方を基軸にして世界を見ると、世界史や現代社会、文化が読み解け、今でもその価値は失われていないことがよくわかりました。さらに進んで、世界の見方として「国家」単位でなく「民族」で見ること。日本は2つしかない(大和、アイヌ)のでぴんと来ないが例えば中国は漢民族の他に55もある、といったことも自分には非常に新しいことでした。そして、大阪で行われる万博も、国単位でなく民族単位やったらどうか、という提案もだされました。今、コロナ禍と来年の開催も危うい東京オリンピックのことで一杯でほとんど話題になりませんが、大阪万博も国の威信発揚の場になったり広告代理店などのもうけの場になったりすることなく、どうせやるなら適正規模で多様性(民族、生物、人々)を最大限尊重したものを企画して欲しいと思います。全国各地から様々な分野の方が集まりコミュニケーションできるオンライン会議の楽しさを味わうことができました。(都築功さん)

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寝る前にBSで酒を飲みながら養老猛先生の番組を見る。「現在の自然は35億年の回答です」。

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「名言との対話」7月24日。 黒田 正玄茶杓はその人の人柄を象徴します」

第十三代黒田正玄(くろだ しょうげん。(1937年(昭和11年)? -  2017年(平成29年)7月24日)は、千家十職の一つで、竹細工柄杓師。

代々襲名している。柄杓の他、台子香合花入など竹を使う茶道具を製作し、千家に納めてきた家系である。

初代正玄は、元々武士丹羽長重に仕えていた。しかし関ヶ原の戦いで丹羽氏は西軍に付き改易、浪人となったために剃髪して大津に移り住み、竹細工職人となった。評判の竹細工師となった正玄は小堀政一遠州)からの注文を受け、茶道界・江戸幕府とのつながりを作る。以後明治維新に致るまで、歴代三千家・将軍の御用達柄杓師となる。

初代 正玄(天正6年(1578年) - 承応2年8月8日1653年9月29日))

二代 正玄(寛永3年(1626年) - 貞享4年4月14日1687年5月24日))。初代の三男。27歳の時に家督相続。

三代 正玄(明暦5年(1656年) - 享保2年10月2日1717年11月4日))。二代の長男。

四代 正玄(元禄5年(1692年) - 享保16年7月26日1731年8月28日))  。三代の長男。

五代 正玄(宝永5年(1708年) - 安永7年7月15日1778年8月7日))。四代に子供がいなかったため、二代の妻の実家・勝見五郎兵衛家から養子。

六代 正玄(延享4年(1747年) - 文化11年6月2日1814年7月18日))。五代の長男。

七代 正玄(明和5年(1768年) - 文政2年12月7日1820年1月22日))。六代の養子。

八代 正玄(文化6年(1809年) - 明治2年10月15日1869年11月18日))。七代の長男。

九代 正玄(天保8年(1837年) - 安政6年10月20日1859年11月14日))。八代の長男。

十代 正玄(文政8年(1825年) - 明治33年(1900年12月22日)。八代の婿養子。九代の急死のため、急遽師匠の命により呼び戻されて後継者となる。その時に妻子を離縁したという秘話が伝わっている。

十一代 正玄(明治2年(1869年) - 明治44年1911年8月15日)。十代正玄と八代正玄の娘の間に生まれた長男。

十二代 正玄(明治13年1880年) - 昭和48年(1973年))。十一代正玄の妻。

十三代 正玄(昭和11年1936年) - 平成29年(2017年7月24日

現在の十四代正玄は、十三代正玄の長女。

黒田正玄(くろだしょうげん)」という名は、千家十職(せんけじっしょく)のひとつである。 千家十職というのは、三千家の茶道具の製作を任されてきた職人の名。そのなかで黒田正玄は、竹細工や柄杓師を務める家だ。茶杓、柄杓のほか、台子(だいす)や香合(こうごう)など、竹を使った茶道具を千家に納めてきた家系である。に400年も続く名前である。その十三代をサッカーの中田英寿が取材しているブログをみつけた。「茶杓はその人の人柄を象徴しますね」の後に、「豪胆な性格の型は茶杓も太いですし、繊細な型は細い茶杓ですし。中田さんは、やはり茶杓の幅も広めの形はどうでしょう。」とアドバイスをもらっている。(中田英寿「に・ほ・ん・も・の」)

この連綿として続く14人を擁する家系をあげてみたが、実子の男女、養子、婿養子、妻などが、家を守り続けているのには、感銘を受ける。幕府の崩壊、戦中・戦後の苦難など、この家を継いでいく「家系」にはドラマがありそうだ。

『ZOOMオンライン革命!』の田原真人(マレーシア)さんとZOOM対談。

朝9時から:自宅での「ZOOM革命」の田原真人(マレーシア在住)さんとのZOOM対談は1時間半の長丁場になった。 とても面白かった。複雑系ファシリテーション。参加。、、、。

Zoomオンライン革命!

Zoomオンライン革命!

  • 作者:田原真人
  • 発売日: 2017/10/24
  • メディア: 単行本
 

 

大学。

・11時半から松本先生の「事業構想論」のZOOM講義を聴く。ゲスト講師は橘川さん。

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・昼:多摩大総研所長、副所長ミーティング。松本先生、長島先生。

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午後:自宅で明日の日本未来学会のZOOM講演の準備。

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「名言との対話」7月23日。東郷茂徳「いざ児らよ戦うなかれ戦わば勝つべきものぞゆめな忘れそ」

東郷 茂徳(とうごう しげのり)1882年明治15年)12月10日 - 1950年昭和25年)7月23日)は、日本外交官政治家

鹿児島県出身。第七高等学校では文芸部に所属し、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。外務省に入る。中国・欧米での勤務の後、欧米局長、欧亜局長、駐独大使、駐ソ大使などを歴任した。東郷はソ連大使として、ノモンハン停戦交渉、国境画定交渉、漁業と樺太利権をめぐる交渉、不可侵条約交渉などを担当した。1941東条内閣の外相兼拓務相に就任、日米交渉の打開に努める。翌年、東条と対立し外相を辞職した。1945年鈴木内閣の外相兼大東亜相に就任し、戦争の終結に努力した。戦後はA級戦犯として20年の禁錮刑を受け、拘禁中に病死した。

東郷は頑強に軍部に抵抗した人物であり、日米開戦に一貫して反対している。敗戦が濃厚になると終戦の実現のために外相に返り咲き努力する。 太平洋戦争開戦時および終戦時の日本外務大臣という特別な仕事をした人物だ。天皇が出席の午前会議では、「外務大臣の意見に自分は同意である」と述べて終戦が決定した。

東郷の実家は豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、島津の軍勢が連れ帰った朝鮮陶工の子孫である薩摩焼の技法を、美山に花咲かせた陶工たちの未裔である。裕福な陶器商だった父が株を買って平民から士族になった。父は「学問をしたものは何千人、何万人の上に立つ。国ば動かすことじゃ」と茂徳を学問の道に導いた。東郷家は鹿児島城下に住む城下士ではなく、分散集落に住む外城士であり、武士の中では下層であった。後に東郷は疑似白人待遇の日本は外城士と似ていると感じることになった。

 以下、外交官・東郷の茂徳を描いた阿部牧郎東郷茂徳 日本を危機から救った外相』(学陽書房)の東郷の発言と心境を記す。

「中国と戦争を始めたのは間違いだった」「スターリンヒトラーの戦いはソ連が勝つ

」「三国同盟は日本に何の利益もたらさない。アジアに巨大な利権を持つイギリスアメリカとの対立を深刻化するだけである」「満州は発展させて連邦制にでもすれば日本は欧米に負けない位になるはずだ」「アメリカとの国力の差。鉱工業生産の差は一対76であった」「「争には負ける。日本はアメリカに統治される。今の日本の子供たちはどうなるのか。卑屈でこすからい植民地の民になること以外多分道は無いのだろう」、、。

「交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことを考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『51』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ」。これは茂徳の一人娘のいせが、癌を患い死の床にあった時に、息子の和彦(元欧亜局長)に祖父が外交の仕事で何が一番大切かをこのように語っていたと遺言した。長い目で見れば、相手に一歩譲る方が国益になるというのが東郷茂徳の外交哲学であった。孫で外務省の局長を歴任した東郷和彦はロシアとの北方領土交渉で小泉首相の不興を買い、鈴木宗男佐藤優とともに断罪され佐藤の上司であった東郷和彦はオランダ大使に転出し、2002年に外務省を退任する。

亡くなる4か月前に、獄中と病院中で大学ノート2冊と便箋に書き残すべき事実を書いた完成させている。病気をおしながらの渾身の遺稿である。原稿用紙に換算して800枚に達していた。タイトルは「時代の一面」。その中には二百十首の短歌と2篇の長詩があった。その一つが「いざ児らよ戦うなかれ戦わば勝つべきものぞゆめな忘れそ」である。勝算なく突入した無謀な戦争への悔いである。私は今まで鈴木貫太郎首相らが終戦に導いたとする映画などを見てきたが、東郷茂徳の果たした役割は忘れられているのではないかと感じた。鹿児島県日置市東郷茂徳記念館がある。