大学。『全集』第一巻の見本を入手。知研東京セミナー。ZOOM読書会。

朝:大学で授業の準備など。

15時半:荻窪日本地域社会研究所で、待望の「全集」の見本を入手。完璧な仕上がりになっていて満足。書店に並ぶのは8月上旬。

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 17時半:代々木で知研東京の幹事会。

 18時半:知研東京の7月セミナー。「ZOOMの使い方」。講師は力丸さん。クラウドファンディングで寄付をもらった力丸、根岸の両氏に見本を贈呈。

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 21時30分頃に自宅到着。橘川幸夫『参加型社会宣言』のZOOM読書会に途中から参加。全部で60数人が参加。6グループで感想を述べあっている。私は主宰の田原さん、著者の橘川さんのメイングループにアサインされていた。13人で語り合う。仙台、北海道からの参加者も。新しい形の読書会だ。読書会の時代になるかもしれない。

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「名言との対話」7月22日。都千代「何かしらねぇ。おいしいものを食べることかしら(笑)」

 都 千代(みやこ ちよ、1901年明治34年〉5月2日 - 2018年平成30年〉7月22日)は、長寿者。

 昭和天皇と同年生まれで20世紀の始まりの年に誕生。日本人として田島ナビ田中カ子に次ぐ歴代3位の長寿記録保持者。歴代日本最長寿の田島が2018年4月21日に死去して以来、死去するまで長寿日本一・世界一となっていた。世界最高齢になった時点では孫が理事長をつとめる医療法人が運営する横浜市内の介護老人保健施設に入所していた。

日本抗加齢医学会による雑誌『アンチ・エイジング医学』の2015年10月号において紹介された。好物はうなぎワインクリームソーダ。趣味は夫との海外旅行。ギネス・ワールド・レコーズによれば、会話好きで怒ったことがなかったという。趣味は習字。美味しいものが好物で、寿司うなぎなどをよく食べていた。

 最後の数年は記録づくめだ。イチローなどのスポーツ選手が記録を積み上げるのを髣髴とさせる。2015年12月5日:国内2位の長寿だった石黒喜代子の死去により、日本で2番目の長寿、世界で5番目の長寿となる。2016年5月12日:世界で4番目の長寿となる。2017年4月15日:世界で3番目の長寿となる。9月15日:世界で2番目の長寿となる。10月25日:116歳176日で猪飼たねの死去時年齢を超え、日本人として歴代単独3位の長寿記録保持者となる。2018年3月10日:歴代の世界長寿記録保持者の中で上位10傑に入った。4月21日:田島ナビの死去により、116歳354日で世界及び日本最高齢の人物となった。5月2日:117歳の誕生日を迎えた。5月30日:117歳28日で大川ミサヲの死去時年齢を超え、日本人として歴代単独2位の長寿記録保持者となる。都千代はどんどん長寿者を追い抜いていく。そして、7月22日:117歳81日(満117歳没)で死去した。

115歳時のインタビューでは、「クリームソーダが好きで、お習字は昔から習っていて、今も書いてます」「 何かしらねぇ。おいしいものを食べることかしら(笑)」「うなぎは大好きねぇ」と語っている。

家族談:まるで女神のよう。おしゃべり好きで辛抱強く、怒ったところをほとんど見たことがなかった。話をしていると楽しくなる相手だった。趣味の1つは習字。子どもの頃から習い始め、最近まで字を書いていた。そしておいしい食事が大好きだった。よく寿司やうなぎを食べに出かけていた。

都千代の場合、超長寿の秘訣は、趣味と食事であった。明治、大正、昭和、戦後、平成、そしてあと少しで令和の時代を迎えるところまで生きたこのスーパーセンテナリアンの生涯は壮大な感じがする。

 

 

 

 

資料。メモ。人選。名簿。ヨガ。ジム。講座。

いろいろ準備。

・講演資料作成。

・対談用メモ作成。

・「名言との対話」平成命日編の12名の人選と本の注文。林屋辰三郎。蝋山昌一。溝畑茂。荒垣秀雄山田風太郎。E・H・エリック。コフィ・コナン。牛山清人アンジェイ・ワイダ横山隆一ロナルド・ドーア。安部欣一。もぅひと仕事。

・クラファンの名簿チェック。

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「ZOOM革命講座」第6回目。本日で終了。動画の作り方、編集方法を学んだ。第2グループは続いていく。

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早朝:ヨガ:1時間。8月からは土曜日。

午後:ジム:スイミング300m

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「名言との対話」7月21日。江上トミ「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」

江上 トミ(えがみ トミ、1899年11月19日 - 1980年7月21日)は、料理研究家

熊本県出身。江上トミはテレビ放送の草創期からNHKきょうの料理』や日本テレビキユーピー3分クッキング』などに出演して、暖かい笑顔と熊本弁で人気を博した料理研究家である。

「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」をモットーとし、家庭料理の普及に尽くそうと江上料理学院を創設した。この学院はトミの長男の嫁の江上栄子と孫の江上佳奈美に引き継がれている。

嫁の江上 栄子1935年9月28日生まれ)は、江上トミの長男と結婚し、トミが創設した江上料理学院院長を継いだ。 日本テレビの「キユーピー3分クッキング」に1981年4月から8年間出演した。「食べ物で人の心は養われる」「人間の基礎は食べ物。相手のことを考えた、心のこもった食べ物が、一番のぜいたく。これはお金を出して食べられるののではない」というトミの言葉に共感して自然に後継者となった。「お子さんにとっては、パパが作ったお料理ってどんなに嬉しいか」は栄子の言葉だ。

孫の江上 佳奈美1959年2月27日生まれ)も、料理研究家江上料理学院副院長をつとめている。佳奈美は義務感からではなく、自分から「やりたい」と学院を継ぐことを志願している。「愛する人とおいしいものを食べる喜びを一人でも多くの人に知ってほしいですね」。だそうだ。

1899年生まれの創業者のトミは「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」、1935年生まれの嫁の栄子は「食を通じての幸せ作りのお手伝い」、1959年生まれの孫の佳奈美は、「家庭料理は家族を思って作るオーダーメイドの食事」、母と祖母の路線を踏襲しながら現代的な分野に挑むなど活躍の幅を広げている。

1930年に始めた東京市ヶ谷の江上料理学院は、すでに90年の歴史がある。男性、女性を問わず、また各年齢層が幅広く学んでおり、のべ10万人以上の卒業生を世に送り出している。トミの情熱と人柄は家族を後継者にし、三代続いており、時間の堆積とともに、歴史を刻んでおり、果たした功績は大きいものがある。

思い出すと、私は市ヶ谷のJICA(国際協力機構)で数年間、研修に関わったことがあり、そこへ向かう急な坂道の右側に「江上トミ料理学院」の看板があり、その都度、トミの笑顔を思い浮かべていた。

「料理」に関わった人たちの言葉を追ってみた。林原一郎(林原コンツェルン創業者)「料理の旨まさというものは家庭料理にとどめをさす」。 王馬 煕純(中国料理研究家 「食事は、家族の健康はもちろん、家庭の団欒と幸福を象徴する場」。 村上信夫(帝国ホテル料理長)「やはり平和が一番だ。うまい料理こそ平和の象徴。もう一度料理をつくろう」。

料理は幸せな家庭をつくりだす平和産業である。「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」というトミの影響を受けた人たちは、100年近い歳月にわたって、料理を通じて日本の多くの家庭に幸せをもらたらしてきたのだろう。ここにも偉い人がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の学部授業アンケートーー<パワーポイントについて><課題について><質問・意⾒><感想など>

大学:今週のスケジュール調整。以下、先週の学部授業アンケート。

<パワーポイントについて>
・やり⽅を知らなかったので参考になった。・社会⼈として使いこなすことは⼤事。
・だんだん楽しくなった。・図解まで作成できる⼒を持てれば⼀⽣の財産になると思った。・箇条書きのスライドしか作成したことがなかった。・使い⽅をあらためて学んだ。・使⽤技術の幅を広げていきたい。・図の書き⽅も教わり課題が捗りそう。・上達のために課題テーマ以外の事柄を実際に図解してみたい。・「パワーポイントは図解のソフト」という先⽣の⾔葉にとても共感した。・今回のような使い⽅は初めて。・今こそスキルを伸ばしたい。・図解に⻑けた先⽣からご享受頂けるのはとても貴重。・想像よりスラスラと作成できた。・今までの使い⽅とではなく、新鮮であり、楽しかった。
<課題について>
・最終課題は、「⼩池百合⼦はなぜ、再選したのか?〜図解で⽐較する都知事
の公約〜」とする。・全員を⼀回図解に表し⽐べ差が出る⼈にしたい。・⼩池百合⼦と⼭本太郎の⽐較をする。・提出⽇を過ぎないように気をつけたい。・ポップな要素に限らず⽴体的な図解の表現も⼤事。・⼩池さんともう⼀⼈選んで⽐較できる図解を作りたい。・今までで⼀番いいものを作り上げたい。
<質問・意⾒>
・24⽇の⽇本未来学会の研修は必ず参加しないとダメですか?・チャットを⽅を意識してください。・この⾊を使う、⼯夫をしていることを教えてほしい。・パソコンにパワーポイントが⼊っていない。学校で購⼊したパソコンなのになぜ?

<感想など>
・政府は、よくわからないgotoキャンペーンを早急に対応するべきだ。・zoomを⽤いた出版記念パーティが⾮常にユニークな試みで印象的。樋⼝先⽣の講義が久恒先⽣の今の講義スタイルと重なるので合点がいく。・先⼈たちが若者から情報を取り⼊れ、最先端の時代に⽣き抜く姿勢に感銘した。・⽇本のことをもう少し学んで⾏きたい。・指導者も新しいことを常に学び続ける必要があると聞き、私も情報をアップデートし続けていきたいと思った。・先⽣のブログを⾒たい。・コロナ感染者が増えてきて対⾯授業になるのが怖い。・⼩学校の友達と再会し⼀緒に仕事を始めるという少しロマンティックな夢のある話が、とても良かった。・投票率が50%を超えていてすごい。・ZOOMを3年前から使っていてZOOMを作った⼈と関係があると聞き偉⼤だなと思った。・図解をマスターすればどんな場⾯でもわかりやすく話ができる。図解のメモを作る⽅法もあることを知れた。・ZOOMをうまく活⽤すれば図解の汎⽤性を多くの⼈に伝え広めることができると思った。・クラウドファンディングを使って本を出そうとしていることも⾯⽩い。・⾃分の図解⼒が格段に上がった。・ZOOMで宴会が出来ることを知った。先⽣の授業は丁寧でよい。・⼈脈を広げ様々な世代との交流を持つことが⼤事。・先⽣の知り合いの⽅の意⾒など吸収することが多かった。・⾊の使いすぎは良くないと学んだ

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「名言との対話」(戦後編)7月20日。辻正信「我等は何故負けたか」

辻 政信(つじ まさのぶ、1902年明治35年)10月11日 - 1968年昭和43年)7月20日)は、日本陸軍軍人政治家

 ノモンハン事件太平洋戦争中のマレー作戦ポートモレスビー作戦ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 常に最前線に赴き自ら最前線の兵士を鼓舞するなど、人気が高く、「作戦の神様」として戦後も称賛や擁護が絶えなかった。

 一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後戦犯追及からの逃亡などについては批判がある。山下奉文の「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」との酷評もある。

1950年の戦犯解除とともに逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表してベストセラーとなった。戦後は政治家に転身し衆議院議員参議院議員を歴任した。参議院議員在任中の1961年4月に東南アジア視察中のラオス行方不明となり、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。

完全版『潜行三千里』を読んだ。連合軍支配下のタイを脱し、日中連携を企図して潜伏した。ラングーン、バンコクビエンチャン、ユエ、ハノイ昆明重慶、漢口、南京、上海と逃亡の旅を続けた。僧侶、商人、医者となり、幾度かの死線を超えている。中国における国民党と共産党の観察では、毛沢東の先陣訓「借りたものは返せ。買ったら払え。宿営は屋外に。強姦略奪は即時銃殺せよ」を紹介し、志気と戦意に格段の差があるとみている。

この本の最後に、「我等は何故負けたか」という辻の文章が載っている。死後に開封するようにと家族に宛てたもので、没後50年たってこの本で初公開された。大本営参謀がどのように敗戦の原因を総括していたかに興味があり読んだ。

1.国体の精華を発揮し得なかった(万機公論に決することができなかった)。2.官僚が政治を誤った(上級軍人の驕慢と低能なる官僚の独善)。3.外交を誤った(志那問題の不解決。ヒトラーのドイツと結んだ)。4.科学水準低く工業力薄弱だった(原子力研究の工業化が遅れた)。5.食糧の自給の不可能にあった(「腹が空いては戦争はできん」)。6. 陸海軍の対立があった(制度を凡愚が運用した)。7.天祐思想が蔓延していた(勉めずして神風という天祐を待つ心境の蔓延)。8.軍上層中枢部に問題があった(希望的観測と陸海の不一致)。

大本営参謀は軍中枢部であるのはずだが、上層部の責任となっている。半藤一利は実際に辻に会った後「辻は自分の責任を全く考えていない、絶対悪というものが存在するのならば、この男のようなものを言うのだろう」と厳しくみている。敗戦の原因が辻正信のいうとおりならば、とうてい総合力としての国力からみれば、戦争を起こすことはできるはずもなく、また勝つはずもなかった。 

潜行三千里 完全版

潜行三千里 完全版

  • 作者:辻 政信
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 新書
 

 

 

寺島実郎「日本再生論」第4回ーー「ウイルスとの共生」「専門性の誤謬」「全体知」「新しい産業社会」「時代を考える」

寺島実郎「日本再生論」第4回。東京」MXテレビ。20時から1時間。

「ウイルスとの共生」。覚悟が必要。withコロナ。新しい生活様式。常在菌は数百兆兆、人間は37-60兆。東大の山之内先生「ウイルスの意味」、ヒトに内在するレトロウイルス。チンパンジーと人間のDNAの違いは1.06%、コミュニケーションの分野。人間とは何か?

「専門性の誤謬」。コロナで8割接触減、42万人死亡、医療崩壊の危機。思考停止。新型コロナは感染力が強い、致死率は低い。7月中旬段階で死者は1000人未満。日本人の死亡の第3位はインフルエンザで3571人(2019年)。6月24日の専門家会議の廃止で総合知へ。専門知はオーバーリアクション。

「全体知」。今指導者に求められるものだ。般若心経。ハンニャハラミッタは完全なる叡智の探求という意味、全体知だ。五おん=色・受・想・行・識。色は外、後の4つは心の動き。五おんはつまり、全ては「空」だ。ゼロ、無限大につながる。

「日本のリーダー」。日本モデルのパラドックス、謎。司令塔は弱体だが、死者が少ない。PCR検査もやらない、やったのはマスク2枚と10万円。説明は4つ、中間層が厚い・公衆衛生意識が高い・自己防衛意識・偶然(運がよかった)。日本・韓国・中国は10万人あたりの死者が少ない。

「収束への展望」。100年前のスペイン風邪(1918-1922)の病原体は1995ねんに特定された。今回の新型ウイルスはすでに病原体が特定されている。エボラなどへの備え。国際連帯税など政策科学へとつなぐことが重要だ。「日経サイエンス」8月号がいい。

「日本のとるべき進路」。コロナが問題をあぶりだした。IMFの世界経済見通し。6月:世界マイナス4.9%。アメリカ・マイナス8.0%。ユーロ・マイナス10.2%。日本マイナス5.8%、これは10年前のGDPの水準。中国はプラス1.0%。アセアンはマイナス2.0%、インドはマイナス4.5%。

「株価だけが回復する不思議」。日米の株価はV字回復。緊急経済対策で市中にカネがあふれている。世界GDP81兆ドル、この1割以上を投入している。余ったカネが株に向かたt。これは後代負担になる。今後は「金融インフレ・実体デフレ」に向かっていく。

「日本」。世界におけるGDPシェア。1988年は16%、2018年6%。平成の30年で日本は埋没。円安誘導も影響。安きに流れた。中間層の厚みに変化!

ワーキングプア問題」。21世紀の20年で日本の貧困化がっ進行。製造業。建設業は412万人が減少。広義のサービス業は715万人増加。失業率は低い。広義のサービス業の年収は394万円で、91万(100万近く)低い。雇用者のうち年収200万円(生活保護水準)以下は全雇用者5995万人に対し1927万人で、32.1%。加えて生活保護は206万人。65歳上の年金世代は3600万人。こういった分配構造の変化の中で新型コロナ問題が発生した。

「気づき」。DX(デジタル。トランスフォーメーション)による生活様式の変化。リモート・オンラインでいいいという風潮。デジタルとリアルの融合! こコロナ禍で食糧パニックは起こらなかた。物流、ロジスチックス、スーパ=、コンビニ、EC、宅配のリアルの現場を支えた人たちのおかげだ。もっとリアルに目を向けよ。ふぁだメンタルズへの回帰。

。工業生産モデルだけではやっていけなくなった。2017年現在で、GDPは1次産業1.2 %(人口3.4%)、2次産業26.5%(人口23.8%)、3次産業72.3%(人口71.2%)。「生活・生命・安全・幸福」を見据えた産業構造へ。

「自分に何ができるのか」。医師会との連携。マスク、防護服、人工呼吸器の調査。マスクは8割が海外依存。こういうものは安全のために国内でも。工業でも医療産業、防災産業を重視。

「時代を考える」。芭蕉「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」。生身の認円、地頭。何ものも見逃さない感受性を大事に。

「番組の未来」。第5回は9月26日。国際関係。日本の社会構造。

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ジム:スイミング700m。

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 大相撲。

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「名言との対話」7月19日。吉良竜夫「どのような研究もその拠り所とする基礎科学のフィルターにかかる」

吉良 竜夫(きら たつお、1919年12月17日 - 2011年7月19日)は、日本生態学者。理学博士大阪市立大学名誉教授。

 京都帝国大学在学中に今西錦司梅棹忠夫らと大興安嶺ポナペ島調査隊に参加する。大阪市立大学在任中に日本各地、中国東南アジアの調査を行い植物地理学の研究に取り組んだ。温帯における植生分布を説明する指標として「温量指数」という考え方を提案した。植生の変化と気温の相関関係を表す指標である。

日本および世界における森林帯の気候区分体系の解明と確立を行うなど、いち早く生態学的な事象を地球規模で捉えるという広い視点を持ち、日本の生態学のその後の発展の礎を築いた。1982年 - 滋賀県琵琶湖研究所の初代所長に就任(1994年まで)。日本生態学会会長。初代日本熱帯生態学会会長。南方熊楠賞を受賞。吉良のコスモス国際賞受賞を記念して日本熱帯生態学会は1998年に「吉良賞」を創設した。

大阪市立大学で同僚であり、講義が死ぬほど嫌いであり、日本をよく留守にしていた梅棹忠夫の講義の代行をつとめていたそうだ。梅棹は兄のように慕っていた。

1976年発刊の『生態学入門』(梅棹忠夫・吉良竜夫編)では、 梅棹忠夫が「まえがきを書いている。生態学の体系化を目指した本で、卒業論文として人類学、比較文明論に踏み込んでいったとある。

生態学」について学んでみよう。 世界には3つの秩序がある。物理的秩序(物理科学)・生物的秩序(生物科学)・社会文化的秩序(社会・文化科学)である。物理科学と生物科学の間のフロンティアは生化学・生物物理学・分子生物学であり、生物科学と社会文化科学のフロンティアは生態学・生物社会学・動物心理学などである。

生態学のポイント。温度の高低と乾湿の度合いで植物生態系が決まる。草原ーマツ林ーカシ林と大型の群落に置き換わっていくというサクセッション(遷移)、最後は安定した群落に達するクライマックス(極相)になる。

「どのような研究もその拠り所とする基礎科学のフィルターにかかる」という吉良の言葉が残っている。梅棹忠夫の「文明の生態史観」は今西錦司が主宰する共同研究会で、川喜田二郎が発想し、吉良竜夫が綿密に計算し地図に描いた成果を会得した結果の成果だったのである。

 

 

ZOOM勉強会。平成版「名言」の補充の人名。藤原先生から電話。

2019年版の「名言との対話」で欠けていた日の人物を選んだ。蝋山晶一。溝畑茂。荒垣秀雄山田風太郎。E・H・エリック。コフィ・アナン。牛山清人アンジェイ・ワイダ横山隆一ロナルド・ドーア米倉弘昌。以上11人。

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京都の藤原先生からコロナの見舞の電話をもらった。10月に京都で会う予定。

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21時からZOOM革命講座の受講仲間との勉強会を開催。「ブレークアウト」機能を学び合う体験会。授業で使っていはいたが、ホスト、共同ホストのできることなど、いくつか進歩した。24時近くまで。マイク付きヘッドセットを午後に買ったが、沖縄のたまきさんが使っているマイク付きイヤホンも注文することにした。ZOOMを使った勉強会はなかなかいい。

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「名言との対話」7月18日。砂押邦信「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」

砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2010年7月18日)は、茨城県出身の野球選手投手)、コーチプロ野球監督

立教大学監督時代に米メジャーリーグ流の指導法でミスタープロ野球長嶋茂雄を育てた人物である。1950年に母校・立大監督に就任し、「鬼の砂押」と恐れられたスパルタ練習で、1953年春季に20年ぶりに東京六大学リーグ優勝を果たす。第2回日本選手権にも優勝した。1954年に入学した「立教の三羽ガラス」長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾を鍛え上げ、後の立教大学野球部黄金時代の基礎を築き上げた。

石灰を塗ったボールでの「月夜の千本ノック」などの猛練習が有名だ。一方で米国の技術書を翻訳し、高価な映写機を合宿所に持ち込みながら、フォームの研究に生かす革新的な指導も行った。長嶋には、ヤンキースジョー・ディマジオの連続写真を見せつつ、打撃術を伝授している。後に長嶋は「厳しかったけれど、砂押さんには愛情があった。なんとか鍛えてものにしてやろうと。愛情のない厳しさはしごき、いじめだけれど、愛情のある厳しさは、しごきやいじめではないんです」と感謝している。

社会人野球日本鉱業日立監督(1956年 - 1959年)を務め、1956年の都市対抗では第1回小野賞を受賞。 1960年からは国鉄スワローズ一軍コーチ、監督に就任した。

数々の名選手を育成したことから「選手づくりの名人」と呼ばれたが、やはり白眉は長嶋茂雄を育てたことだろう。愛弟子の長嶋には「これからの若い世代は、メジャーを見習わなくてはならない。それは個性の重視だ。プロに行っても君はどういうプレーヤーになりたいのか、お客さんに評価される自分の野球スタイルを自分でつくることだ。それがメジャーのやり方なのだ」と教えた。米国流の「個性の重視」、「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方を長島は叩き込まれた。私も含め日本中が熱狂した長島茂雄の強烈な個性と観客を喜ばせようとする独特のスタイルは砂押の作品だったのである。それが日本のプロ野球の全盛期をつくったともいえる。「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」。傑出した才能を育てることの功績は、なにものにも代えがたい価値がある。

 

 

朝は学部授業(多摩)。午後は出版打ち合わせ(市ヶ谷)。夜は大学院授業(品川)。

朝:学部授業:「参加型社会宣言」との2週間。都知事選の公約図解の総括。パワーポイントでの図解の描き方。最終課題に説明。実習。

午後:市ヶ谷でP出版社の編集者らと打ち合わせ。勝見さんと久しぶり。来春に刊行。

夜:大学院授業:「参加型社会宣言」との2週間。本日のテーマは「日本文化」。和歌・能・歌舞伎・相撲・茶道。

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以下、授業後の書き込みから。

  • 久恒先生 本日はありがとうございました。気づいた点として■講義中も申し上げたが、先生のご友人の「出版記念会でのスピーチ」を拝聴して、「図で考えることによる、思考の広がり、思考のモーラ性、結びつける力」を感じた。具体的には「コロナの渦⇒関係性の渦へ」「最先端⇒最前線」と広がっている。一つの言葉が、図を描くことにより、広がりを持つようになる可能性を認識した。■日本の古典芸能の図解のパートでは、各々の「現在の状況」vs「過去の成り立ち」を図解で整理することで、その違いが鮮明に理解できた。文章では分かりずらい、というよりもほとんどわからない。それが図により、焙り出されてくる。だぶん、ビジネスにおいても、現状事業モデルの「変化」「差別化」は図解での比較が一番適していると考える。■尚、私が担当した「能」であるが、一度読んでも要点が分からず、図解することが使命と考えて初めてよく理解できた次第である。キーワードの抽出、不要なものの切り捨てによる図解化が書籍や論文の理解にも有益だと認識した。*ちなみに、日本橋の「水戯庵」という新しいスタイルのレストランで、「能・狂言」を鑑賞し、食事をできるので、何度か利用している。コロナが落ち着いたら又行ってみようと思った。
  • 本日もありがとうございました。・本日のワークについて。短時間にも関わらず、歌舞伎について色々な角度から知識を深めることができました。図解化することは、一点集中ではなく、関係性や様々な観点に意識が向くため、自然と理解を促進させる効果が生まれます。本日のワークを通じて改めて図解の力を感じることができました。最初に図解は固めれば旗艦船のようなもので、そこから派生してスピーチ、書評、動画など色々応用可能ということが分かりました。図によって関係性を考えたり1つの言葉を派生させていくことで、オリジナリティに繋がるとお話が印象に残っています。オリジナリティは今後ますます必要になると考えます。図解化により、オリジナルな切り口を見出せるよう今後も努力していきたいと思いました。
  • 本日の学び。今日は、日本の古典芸能について、それぞれのメンバーが様々な書き手による古典芸能の文章を図解にすることを行った。以前はどうやったら図にできるかということで頭がいっぱいだったが、何回も授業を続けているうちに、どうしたらもっとうまく表現できるか?という壁にぶつかるところまできた。とは言ってもまだまだ。先生は毎回、生徒のレベルに合わせて問題を出してくださる。今回は、図解に自分の知っていることや分からないことを調べて書き込むことを図解をするプラスアルファで課題として出してくださった。先生がおっしゃる、研究の大原則を自ら実践した回になった。まだ、自分の論文は図解にできる前段階の情報収集で、その取捨選択もできていないが、今日は図解で一人で考えることだけでなく、その議題について他者と話して自分の視野を広げるということも実践できた。一人でばかり悩まないで、たまには先輩に論文のことを連絡してみようと思った。本日も先生、ありがとうございました。
  • 本日は日本文化について図解しました。とても面白かったです。みんな分かりやすい図をかきいただき、大変勉強になりました。私の担当は相撲でした。文章によると、昔女相撲がいることが分かりました。でも、現在、女は土俵に入らないというルールがありまして、どうしてだろうかという疑問が出できました。後、相撲について歴史を詳しく調べたいです。感想:今回、図を提出する前に、三回書き直しました。その過程は自分の考えが整理されていると思います。文章の理解に役に立つと思います。そして、図解はいろいろなところに活用されることができることが分かりました。例えば、スピーチ、スケジュールなどです。私もほかのところにやってみたい。(中国人留学生)
  • 本日の学び。今日は、日本の茶道について、図解でこの文章を理解した。以前は全体像の理解はうまくできなかったので、何回練習したら、うまく表現できるポイントを捕まった。まった、先生がおっしゃった研究の原則としての自ら実践することによって、理論を作ったことも感銘した。他のクラスメイトとディスカッションしているうちに、視野を広げていて、想像つかない知識と日本文化の理解も深まってきた。本日も先生、皆さま、ありがとうございました。(中国人留学生)

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「名言との対話」7月17日。市川雷蔵「若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」

八代目 市川 雷蔵(いちかわ らいぞう、1931年昭和6年)8月29日 - 1969年昭和44年)7月17日)は、歌舞伎役者・日本の俳優

1958年市川崑は『炎上』(三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作)の主役に雷蔵を抜擢した。キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞し、市川雷蔵はトップスターとなった。市川崑監督によれば、素顔はサラリーマン、銀行員のよう、、、、。めがねをかけた普段の写真を私もみたが、平凡な印象だった。ただ、台詞は全部覚えてくると監督は感心していた。

1963年に始まった『眠狂四郎』シリーズ(柴田錬三郎原作)は、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。日本映画がもっとも充実した時代のスターであり、溝口健二衣笠貞之助市川崑山本薩夫という名監督と仕事をしている。

1954年から1969年までの15年で、「花の白虎隊」から「関の弥太っぺ」まで約160本の映画に主点している。毎年10本以上という計算だ。時代劇から現代劇までこなした。演じた人物を挙げてみると、平清盛月形半平太光源氏日蓮、弁天小僧、織田信長山田長政酒天童子安珍机龍之介、沓掛時次郎、釈迦、始皇帝眠狂四郎鞍馬天狗霧隠才蔵華岡青洲、、。足が弱かったので立ち回りに難があった。同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったがうまくいかなかったそうだ。

市川雷蔵とその時代』(徳間書店)という大部の書物をひも解くと、同時代の監督、俳優らの回顧談を楽しむことができる。要領がいい。つくり顏ができる。本当の役者。剣舞。天下一品の立ち姿。どんな演出にも応じることができた。、、ともに大映の2枚看板であった勝新太郎は「雷ちゃんは眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな」と語っている。優れた役者だったことがわかる。

私の子ども時代には、市川雷蔵はスターであり、映画もみているが、いつの間にか名前を聞かなくなった。37歳でガンで早逝していたのだ。死から5年後の1974年には、ファンクラブ「朗雷会」が発足し、現在も活動が続いている。「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている。

 市川雷蔵は「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ」といい、「若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている。もともとは歌舞伎役者だったこともあり、年をとったら歌舞伎に戻ろうという考えだったのだ。それはかなわなかったが、永遠の美男俳優のまま歴史にその姿をの残すことになった。

 

 

市川雷蔵とその時代

市川雷蔵とその時代

 

 

 

 

カルガモの親によるその子どもたちへの水泳指南に感動

朝の散歩中。カルガモの親が、その子ども達たちに泳ぎを教えている。感動してカメラを向ける人たち。彼らと同じ心境になってスマホで一枚。いいものをみた。

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大学

・授業準備:学部と大学院。

・多摩大総研の定例ミーティング

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NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史ーー田中角栄」1・2・3。保阪正康さんの解説で、池田弥三郎慶応教授の田中角栄総理インタビュー。保坂によれば総理61人の中で、田中総理の評価は「A’」だった。

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岡本嗣郎「孤高の棋士 坂田三吉伝」(集英社文庫)を読了。

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「名言との対話」7月16日。井植歳男「いま開発した商品が、一品も売れなくなる研究をせよ」

井植 歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本実業家三洋電機株式会社の創業者。
井植家は淡路島が故郷。次姉・うめのは松下幸之助に嫁いだ縁で、松下幸之助の 松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)会社で活躍する。19歳、外で他流試合をするが、再び松下に戻る。戦後、軍需会社の生産責任者の公職追放で、専務取締役となっていた井植は43歳で退社し、弟の祐郎、薫と3人で「どこにもまねのできないような仕事をしよう」として創業した三洋電機は、自転車の発電ランプからはじまり、ラジオ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、扇風機、暖房機と事業を広げ、総合家電メーカーに雄飛していく。

2011年5月に神戸の垂水にある井植記念館を訪ねたことがある。瀬戸内海が見下ろせる気持ちのいい建物だ。三洋電機の創業者である井植歳男、祐郎、薫の三兄弟を輩出した井植家の記念館である。ロビーには三洋電機の社員で工業デザイナーの彫刻家富永直樹製作の井植歳男像が設置されている。太平洋、大西洋、インド洋の三洋という社名の通り海外展開も活発だった。1960年に制定した社是の三本柱は、人間、技術、サービスである。
井植学校と呼ばれた勉強会からは多くの事業家が出ている。太陽工業の能村龍太郎、ダイエー中内功サントリーの佐冶敬三、ダイキン工業山田稔、、。またジャーナリストの佐藤正忠は井植歳から実の息子のように可愛がられた。記念館の一室が長男の井植歳男記念室となっている。

  • 私は、無である。ハダカである。知恵も、財産も、信用もない。この心境に立って考えれば、おのずと活路が開けてくる。
  • 困難にあわない人生はあり得ない。もしあるとすれば、それは怠けている証拠である。
  • 私はかつて失望落胆したことがない。
  • 与えられた仕事を命じられたままトレースするのではなく、自分の持つ知識・能力・技術・アイデアをプラスし、自分の足跡を残せ。

1963年に連載された日経新聞私の履歴書」では、「自分がいなけりゃ」とうぬぼれを持ち、天職を全うするところに、大往生が遂げられる」と結んでいる。歳男の死後40年たって、リーマンショックを乗り切ることができずに、三洋は松下に吸収された。その原因の一つは、主力商品であったデジカメの単価下落だった。井植歳男の「いま開発した商品が、一品も売れなくなる研究をせよ」という遺訓は生かされなかったようである。企業がながく存在するということは難しいものだと改めて感じた。