朝9時から:自宅での「ZOOM革命」の田原真人(マレーシア在住)さんとのZOOM対談は1時間半の長丁場になった。 とても面白かった。複雑系。ファシリテーション。参加。、、、。
大学。
・11時半から松本先生の「事業構想論」のZOOM講義を聴く。ゲスト講師は橘川さん。
・昼:多摩大総研所長、副所長ミーティング。松本先生、長島先生。
午後:自宅で明日の日本未来学会のZOOM講演の準備。
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「名言との対話」7月23日。東郷茂徳「いざ児らよ戦うなかれ戦わば勝つべきものぞゆめな忘れそ」
東郷 茂徳(とうごう しげのり)1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は、日本の外交官、政治家。
鹿児島県出身。第七高等学校では文芸部に所属し、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。外務省に入る。中国・欧米での勤務の後、欧米局長、欧亜局長、駐独大使、駐ソ大使などを歴任した。東郷はソ連大使として、ノモンハン停戦交渉、国境画定交渉、漁業と樺太利権をめぐる交渉、不可侵条約交渉などを担当した。1941東条内閣の外相兼拓務相に就任、日米交渉の打開に努める。翌年、東条と対立し外相を辞職した。1945年鈴木内閣の外相兼大東亜相に就任し、戦争の終結に努力した。戦後はA級戦犯として20年の禁錮刑を受け、拘禁中に病死した。
東郷は頑強に軍部に抵抗した人物であり、日米開戦に一貫して反対している。敗戦が濃厚になると終戦の実現のために外相に返り咲き努力する。 太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣という特別な仕事をした人物だ。天皇が出席の午前会議では、「外務大臣の意見に自分は同意である」と述べて終戦が決定した。
東郷の実家は豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、島津の軍勢が連れ帰った朝鮮陶工の子孫である薩摩焼の技法を、美山に花咲かせた陶工たちの未裔である。裕福な陶器商だった父が株を買って平民から士族になった。父は「学問をしたものは何千人、何万人の上に立つ。国ば動かすことじゃ」と茂徳を学問の道に導いた。東郷家は鹿児島城下に住む城下士ではなく、分散集落に住む外城士であり、武士の中では下層であった。後に東郷は疑似白人待遇の日本は外城士と似ていると感じることになった。
以下、外交官・東郷の茂徳を描いた阿部牧郎『東郷茂徳 日本を危機から救った外相』(学陽書房)の東郷の発言と心境を記す。
「中国と戦争を始めたのは間違いだった」「スターリンとヒトラーの戦いはソ連が勝つ
」「三国同盟は日本に何の利益もたらさない。アジアに巨大な利権を持つイギリスアメリカとの対立を深刻化するだけである」「満州は発展させて連邦制にでもすれば日本は欧米に負けない位になるはずだ」「アメリカとの国力の差。鉱工業生産の差は一対76であった」「「争には負ける。日本はアメリカに統治される。今の日本の子供たちはどうなるのか。卑屈でこすからい植民地の民になること以外多分道は無いのだろう」、、。
「交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことを考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『51』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ」。これは茂徳の一人娘のいせが、癌を患い死の床にあった時に、息子の和彦(元欧亜局長)に祖父が外交の仕事で何が一番大切かをこのように語っていたと遺言した。長い目で見れば、相手に一歩譲る方が国益になるというのが東郷茂徳の外交哲学であった。孫で外務省の局長を歴任した東郷和彦はロシアとの北方領土交渉で小泉首相の不興を買い、鈴木宗男、佐藤優とともに断罪され佐藤の上司であった東郷和彦はオランダ大使に転出し、2002年に外務省を退任する。
亡くなる4か月前に、獄中と病院中で大学ノート2冊と便箋に書き残すべき事実を書いた完成させている。病気をおしながらの渾身の遺稿である。原稿用紙に換算して800枚に達していた。タイトルは「時代の一面」。その中には二百十首の短歌と2篇の長詩があった。その一つが「いざ児らよ戦うなかれ戦わば勝つべきものぞゆめな忘れそ」である。勝算なく突入した無謀な戦争への悔いである。私は今まで鈴木貫太郎首相らが終戦に導いたとする映画などを見てきたが、東郷茂徳の果たした役割は忘れられているのではないかと感じた。鹿児島県日置市に東郷茂徳記念館がある。