知研50周年記念企画「梅棹忠夫研究」(民博との共同研究会)ー大阪の国立民族学博物館

大阪千里にある国立民族学博物館において、知的生産の技術研究会50周年記念行事とて、民族学博物館との共同研究会を行った。

梅棹資料室の飯田室長から、「知的生産のフロンティア展」の丁寧な解説をいただきながら、梅棹忠夫先生の知的生産の跡を追った。

梅棹先生が残した膨大なアーカイブを10年かけて今後どう発展させていくかを検討してきた結果の展示だ。連想検索によって新しい発見を促す仕組み。ローマ字で書かれたモンゴルとヒンズークシでのローマ字のカードの日本文への書き直し。記録魔と保管魔。手書きの羊の群れのが時間の経過につれての動きなどを観察し丹念に描いたスケッチ。現代ではデジカメなどを使って記録するのであるが当時は手作業だった。アニメ制作ににている。フィールドノートを見た。全体で46冊の探検隊の記録のうち、33冊は梅棹先生のものであった。残りは今西錦司隊長。別に整理したインデックスノートがあった。探検隊ではローマ字によるカードは共有財産になっていた。ローマ字カードに5000枚に集約した後、15の論文になっている。ウメサオクルーズ。8項目に分かれていて写真ノート、カード、スケッチ、写真など。文明の生態史観を発表した、中央公論の表紙には「賢人宰相石橋湛山」と並んで「文明の生態史観序説」が掲載してあった。

 

続いて梅棹資料室を見学した。著作の本棚は圧巻。年代順に左から順番に収めてある。引用、紹介、批評などを保管した棚あって、これもきちんと整理されていた。このアーカイブは生きているアーカイブで、日々成長している。たまたま目についた棚の上には知研フォーラムの最新号があるのが目についた。

この見学の終わりに当たって私の感想を述べた。偉い人とは影響力の大きい人だ。周りに深く影響与え、時代に広く影響与え、そして長く影響与える人だ。そして最も偉い人は死んだ後も長く影響を与え続ける人である。梅棹先生は今後もさらに偉大な人になっていくのではないか。

途中で小長谷夕紀先生に紹介された。小長谷先生は梅棹先生の直弟子で、梅棹先生に関する著作も多い。飯田先生も小長谷先生も私のブログを読んでいるようで驚いた。

 

企画展と資料室の見学の後、セミナー室で、共同研究会を行った。テーマは梅棹忠夫研究である。司会は日経の中沢編集委員

飯田先生のお話の後、知研の福島事務局長から知研50年と民博との関係の説明。

続いて私の発表。テーマは「梅棹マンダラの宇宙を探検する」。梅棹忠夫著作集22巻全体の構造の説明を行った後、梅棹文明学に関する40枚の図解をもとに解説を行った。文明の生態史観。文明の情報史観。日本文明。地球時代に生きる。そして最後に2025年の大阪万博に関する提言で、日本未来学会で7月に行った研究発表のエキス。1970年は万国博覧会。2020年は万民族博覧会。万国博から万民博へ。

終了後は参加者それぞれから今回の企画についての感想をいただいた。

終了後、千里で5人で打ち上げの会を行った。

 

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以下、参加者の感想など。

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鈴木章子。

「知研・民博研究会 ~梅棹忠夫研究~」に参加して
 10月14日の第4講で久恒教授からお話があった、国立民族学博物館での「知的生産の技術研究会(以下「知研」という。)の研究会に参加してまいりました。
 久恒教授のおかげで素晴らしい経験ができました。どうもありがとうございました。
 少し長くなりますが、みなさんに報告させていただきます。(実は、教授にお会いしたら「レポートを出してくださいね。」というご指示があった次第です。)
 とは言え、研究会の全体内容については「久恒教授のブログ日誌 2020年10月17日」で早速公開されていますので、そちらをご覧いただくことにして、私からは主に久恒教授の発表の概要とそれを聞いた出席者のみなさんからの感想などを報告させていただきます。

◇知研の今回の研究テーマ「梅棹忠夫研究」
開催日時:10月17日(土)13時30分~16時
開催場所:国立民族学博物館大阪府吹田市
出席者:知研の会員(コロナの影響で参加人数を絞っての開催)
備考:民博では「梅棹忠夫生誕100年記念企画展 知的生産のフロンティア」が開催中。(偶然とはいえ、今回のテーマにピッタリ! 研究発表は展示会場と梅棹資料室を見学後に行われました。)

◇久恒教授のテーマ:「梅棹マンダラの宇宙を探検する」
 梅棹忠夫著作集22巻をもとに、約40枚の図解資料を使って約30分で発表されました。 発表の流れとしては、梅棹先生の文明学について次のように図解資料を作成され、ポイントを掻い摘んで解説されました。
1)梅棹忠夫著作集22巻の全体の構造
2)文明の生態史観(第5巻比較文明研究:22枚)
  文明の空間論、宗教のウイルス説、比較宗教論など
3)文明の情報史観(第14巻情報と文明:11枚)
  文明と文化、情報産業、情報の文明学など
4)日本文明(第7巻日本研究:2枚)
  日本文明の時空構造、文明の未来
5)大阪万国博覧会(第13巻地球時代に生きる:3枚)
  世界民族地図、大阪万国博覧会1970年など

 最後には、2025年の大阪万博へのメッセージも述べられました。
 なお、今回の発表は今年の7月に日本未来学会のオンライン研究会で発表されたエキスだそうです。

◇出席者の感想
 梅棹先生が残された資料の実物を拝見した後に久恒教授の解説を聞かれたことで、みなさんが一様に「この発表を聞いて、改めて勉強したくなった。」「著作集を読み直したい。」「〇〇について読み込んでみたい。」とおっしゃいました。
 また、著作集作成に携わった方から、「全15巻の予定が22巻になった。各巻に関連をつけて作成したものではないので、バラバラの著作集を関連付けていただき、ありがたいです。」との感想もありました。

◇研究会に参加して
 図解のメリットや文章との違いについては、図解塾のみなさんはよくご存じのところですが、そのことを最も感じたのが、「2)文明の生態史観」の図解でした。
 世界の地理的位置や宗教の比較など、全体の構造と対象の関係性が一目瞭然で、しかも、それを見ながら教授から重要ポイントを解説いただいたので、自分がこれまでに学んだことのあるバラバラの知識がきれいに整理されていく感じがして、解説の途中からワクワク感が生まれて心地よかったです。
 また、梅棹先生が、ご自身の研究がアーカイブになることを前提にして、若い時から詳細な資料を作っておられたことを知り、かつ、久恒教授の発表を聞いたことで、梅棹先生がどれだけ偉大な方なのか、そして実は未来の動きに通じていることを図解から読み解けることが衝撃的でした。
 誤魔化しの利かない、でも正解はないという奥深い図解。私も第三者が見てわかりやすい図解を作成できるよう、訓練していきたいと思います。
 久恒教授、そして図解塾のみなさん、これからもよろしくお願いいたします。
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谷哲也

1969年に発刊されたのが梅棹忠夫先生の「知的生産の技術」(岩波書店)で、この本に触発されてできたのが知的生産の技術研究会。

研究会の発足が1970年なので、今年50周年を迎えます。50周年事業を大阪・京都で2日間にかけて開催予定だったのですがコロナ禍の影響で大幅にイベントを縮小。ちょうど国立民族学博物館で開催されている梅棹忠夫生誕100年記念企画展「知的生産のフロンティア」見学を主とすることになりました。まあ聖地巡礼ですなあ(笑)。

■贅沢な説明
民博前に集合して記念企画展を企画された飯田教授の案内で見学。「知的生産の技術」執筆時のカードや原稿、いろいろな裏話を聞きながら梅棹資料室に移動して、アーカイブをどう扱っているのか等のお話を伺いました。なかなか贅沢な時間でした。本が出た頃はパソコン執筆ではなく原稿ですので出版社から原稿を取り返す必要があり、個人的なアーカイブを作るには、そういった執念が必要なんですね。

■本は100刷に
「知的生産の技術」(岩波書店)は今も発売されていて先日、100刷となり帯が金色になったそうです。後で梅棹先生の元の秘書の方から梅棹資料室には1刷から100刷まで全て棚に揃ってますよという話を聞き、ウーン気が付かなかったなあ。もっとも膨大な資料のなか探すのは大変です。

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「名言との対話」10月17日。鮎川信夫「過去の傑作を恐れよ」

鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年大正9年)8月23日 - 1986年昭和61年)10月17日)は日本の詩人評論家翻訳家。 

16歳で詩作を始める。鮎川信夫ペンネーム。1937年中桐雅夫編集の詩誌《LUNA》、1938年村野四郎らの《新領土》に参加、1939年田村隆一、森川義信らと詩誌《荒地》を創刊。戦後の1951年に「荒地詩集」を創刊し、戦後詩の中心的役割を担い、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする。晩年は詩作よりも批評に重きを置き、その評価も高いものがあった。鮎川信夫著作集 全10巻。死後に、鮎川信夫全集 全8巻。

この詩人にの詩集『鮎川信夫詩集』を読んだ。「ふとしたことから現代詩という不毛の領土に深入りするようになった」というこの詩人は、詩をどのように考えていたのか。

・詩は知性的なものと感性的なものとから構成された種々なる統一体を作ることであり、モラルの世界と感覚的な世界が表裏をなして連結される一つの新しい経験の世界である。
・詩の言葉の領域は、我々の人生と同様、測り切れないほど広く深いものである。

・詩は、個人と感動というものが訴えたいと思う相手につながるだけではなく、それがさらにもっと大きな共同体へとつながって、ついには人類全体に及ぶというような連関を描いて広がるものでなければならないと思うのです。

「なぜ作品を書いてきたか、と問われれば、他にする仕事がなかったからというのが、一番正直な答えのようである」と謙遜するこの詩人は、「生きた世界との結びつきが、何よりも大切だ」という。表現者は詩、小説、評論など分野を問わず、同じ時代を生きている人々に強く訴えようとしている。そのためには土中に根を下ろして養分を吸い取りながら生き延びている過去の傑作を恐れるべきだ。そして過去から学び、傑作を克服し、何か新しいものをつけ加える。それが創造である。

 

鮎川信夫詩集〈現代詩文庫〉

鮎川信夫詩集〈現代詩文庫〉

  • 作者:鮎川 信夫
  • 発売日: 1968/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

「立志人物伝」の4回目の授業ーー正岡子規と夏目漱石と秋山真之

「立志人物伝」の4回目の授業。今回は、「切磋琢磨する友と敵」というテーマで、「友」を取り上げ、正岡子規を中心に夏目漱石秋山真之を解説した。

下記は前回3回目の授業の課題アンケート。テーマは「仰ぎ見る師匠の存在」で、取り上げた人物は渡辺崋山と師の佐藤一斎横山大観平櫛田中と師の岡倉天心童門冬二と師の山本周五郎太宰治

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新刊の『名言の暦』がアマゾンにアップされた。発刊は来週の22日。

名言の暦 平成命日編

名言の暦 平成命日編

  • 作者:久恒 啓一
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

 

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 ・杉田先生

・中津への帰省の日程と調整と各種予約。

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「名言との対話」10月16日。加藤和彦「同じことは二度とやらない」

加藤 和彦 (かとう かずひこ、1947年3月21日 - 2009年10月16日)は、日本音楽家

作曲編曲音楽プロデュース撥弦楽器鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者実演家として活動したミュージシャン。

加藤は北山修をはじめとする大学生仲間たちとザ・フォーク・クルセダーズを結成し、アルバム「おらは死んじまっただ」「天国いいとこ一度はおいで""酒はうまいしねえちゃんはきれいだ」という破天荒な詩から始まる「帰って来たヨッパライ」は、280万枚を売りあげ、史上初のミリオンセラーとなった。翌年には日本レコード大賞特別賞を受賞。

 1968年末にフォーククルセダーズを解散して、加藤は1972年までアメリカ、イギリスで暮らした。

1970年代初頭から中盤にかけてロックバンドサディスティック・ミカ・バンドを結成し、1970年代の日本のミュージックシーンをリードした。

1977年、38歳のときに8歳年上の作詞家の安井かずみと再婚し、1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、通称『ヨーロッパ三部作』などのソロ作品の他、数々の作品を他のミュージシャンに提供した。

1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からは市川猿之助スーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えた様々なジャンルの音楽も幅広く手掛けた。「自分以上でも、自分以下でもない音楽」を作ることが信条だった。

「アーティストというのはそういう人と違ったことをしてるから、何かしら生み出せるんじゃないかな」

「僕もこうなりたくてやってるわけじゃなくて、ちびちびやってたらこうなっちゃったっていう。根本的に20歳ぐらいのときから変わってないからね(笑)。規模がちょっと拡大したぐらいなもんでね」

 

吉田拓郎は、「加藤の才能は日本では唯一無二なもので、10人の歌手の10通りの歌へのアドバイスが即座にできる」と語っている。それは彼がプロデュースした以下の人々の名前をあげるだけでわかろうというものだ。

トワ・エモア、伊藤ゆかり。ザ・ゴールデン・カップス萩原健一。森山良子。由紀さおり小柳ルミ子かまやつひろし城みちる。鰐淵春子。高田みずえ大原麗子竹内まりやザ・ベンチャーズ岡崎友紀泉谷しげる岩崎良美。多岐川裕美。樋口可南子。増田恵子。梓みちよ柏原芳恵吉田拓郎アグネス・チャン薬師丸ひろ子原田知世田原俊彦沢口靖子神田正輝中井貴一稲垣潤一。少年隊。西村知美加山雄三桐島かれん西田ひかる市川猿之助。、、、、、、

晩年は鬱病となり、自死する。享年62。遺書には「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」。「私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし」とあった。

作詞家であり、後に精神科医となった北山修は、加藤の自死について「後ろを向いたら負けである、という生き方。自分の物語を語ろうとしない。前に倒れるしかない。決して同じことをやろうとしない」と分析している。

「同じことは二度とやらない」とはアーチストらしい厳しい生き方だ。仲間の北山修が作詞し端田宣彦が歌った名曲『風』(1969年2月)にあるように「ただふり返っても そこにはただ風が吹いているだけ」という心象風景だろうか。加藤和彦という希代のアーチストは変化を追い続けた。そして脱皮ができなくなったとき、この世から消えたのだ。 

加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度 (文藝別冊)

加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度 (文藝別冊)

  • 発売日: 2010/02/23
  • メディア: ムック
 

 

 

 

 

 

 

 

 

リレー講座:白井さゆり先生「ESG経営と投資ーコロナ危機以降の世界の潮流」ーーSDGsとESGに向けて行動を変えよう!

リレー講座の講師は白井さゆり先生。テーマは「ESG経営と投資ーコロナ危機以降の世界の潮流」。

ESG(環境・社会・ガバナンス)投資。ガバナンスを効かせて環境問題や社会問題の解決に向けて投資する。

SDGS(Sustainable Development Goals)。持続可能な開発目標。

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 世界は3つの危機の繰り返しだ:経済・金融。気候変動・地球環境。感染症。気候変動によって動物との接触や森林の喪失などが原因で感染症が発生する。気温の上昇と温室効果(CO2。化石燃料由来)は比例していおり科学的に証明されている。近年の自然災害の大きさはこれによる。

アメリカ大統領選はESG投資を巡る戦い:トランプは2015年のパリ協定から脱退。バイデンは富裕層への増税で環境問題へ投資すると言っており、大統領になればSDGsとESGが加速する。産業革命以来気温は1度上昇している。このままいくと3度上昇する。

SDGsとESGへの流れ:2000年に国連が10原則(人権など)からなるグローバルコンパクトを設定し企業に配慮を要請。世界の優良企業が参加。欧中心。アクセンチュア、日本は住友化学1社。中国2社。

2006年にESGという投資責任原則(6項目)を定めた。環境と社会への投資。17の目標。金融機関(年金基金・保険)にESGの観点からの長期投資を要請。2000社以上が署名。日本のGPIF(年金基金)も書名。高所得国は80%程度できているが、低所得国はまだできていない。北欧が達成度が高い。日本は男女平等、環境に問題があり17位。日本政府は2013年基準でマイナス12%というが、3・11の津波でもっとも少なかった年を基準にしているからだ。1990年基準では減っていない。先進国は減ってきている。途上国は増えている。先進国の生産は途上国で行っているという仕組みもある。

2015年にSDGsという目標を設定。国に要請。195ヵ国が採択。

2015年に気候変動に関するパリ協定。先進国だけでなく途上国も巻き込んだ。気温上昇を1.5-2.0度に抑えようという目標。すでに0.5度上昇済み。

企業は最近「サステナビリティレポート」を公開している。SGGs経営とESG投資に向けてビジネスモデルの修正に入っている。VWやFBなどの企業の不祥事はガバナンスの欠如が原因だ。

日本企業は収益力(稼ぐ力)が弱い:ROE(自己資本で純利益を割った数字)のアップが必要だ。日本は5%、3.9%、アメリカは17、18%、欧州は中間。日本は2013年から上昇中で2017年は10.7%。しかしオリンピックや円安の影響もあり、持続可能か。

日本企業が資本効率が悪かったのはなぜか:内向き体質(取締役・執行役員への内部昇進、男女差別)。社外取締役は監視・モニタリング機能をもっと発揮しなければならない(年金基金等からのプレッシャーも)。株式の持ち合いで外国人投資家がなかなか入れない。差別化された企業はガバナンスがしっかりしており、変化を恐れない。コーポレートガバナンスコードでEとSへの投資情報開示を。株主(特に少数株主)の権利に配慮が必要。川上から川下まで株主以外にも注意を向ける。年金基金などとの直接対話が必要。社外取締役の独立化も必要。

現在はカタチができてきたところだ。しかし女性比率の少なさ、2014年からのROEの高さは本当の実力か? 実行性の段階に入っている。

国連のSDGs:これに寄与する。ステイクホルダー資本主義(取引先、従業員、、、)SDGsとESGは企業の生き残りそのものだ。

投資家(カネを出す)の目線:機関投資家(年金基金、保険、金融、、)は長期的視点でESG投資を意識している。できていなければ名前に傷がつくから死活問題となる。企業の株主総会で反対や提案をすることも増えている。建設的対話(エンゲージメント)が必要だ。資産保有者(GPIFなど)は資産運用会社を選ぶ。運用会社は企業と対話を。国連のPRIに署名したから行動が必要になる。

G20の2017年安定理事会で気候変動を含めた行動を要請する目標(「ガイドライン)がでた。TCFDの賛同。情報開示をする企業が増えてきた。

日本の金融庁は2014年にスチュワードシップコードを作成。機関投資家は方針を出す。投資先が持続可能な成長となるような対話を。サステナブル、、。

アメリカには意識の高い企業が多い。日本は3分の1と小さく真ん中あたり、これから大きくなる。株、債券、不動産、、、。世界では30兆ドル(3200兆円)規模だがまだ10%未満。行動を変えよう! でなければ、持続できない。

日本の株主総会みずほフィナンシャルグループに、株主NGOから「気候変動」について脱炭素を定款で明示せよとの提案があり賛成は34%あった。こういう時代だ。きちんとした計家が必要だ。報酬、資本コスト、総会で社長が議長でいいのか、、。変えていかなければ相手にされない時代になってきた。気候変動、政府も企業も変わらなければ持続できない。コロナ危機によってこの流れは強くなってきた。行動を変えよう!

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・松本先生・長島先生

・杉田先生

・電話:中沢さん

・帰宅後、11月分の「名言との対話」用の人選と本の注文。

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「名言との対話」10月15日。横松宗「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした」

横松 宗(よこまつ たかし、1913年大正2年7月19日- 2005年10月15日)は、近代中国思想の研究者教育学者

八幡大学(現九州国際大学学長魯迅の研究者、および同郷の福沢諭吉研究の第一人者である。

大分県中津市生まれ。旧制中津中学、広島高等師範を卒業。埼玉青年師範学校講師、中支那振興株式会社社員として中国へ赴任し、農村政策・管理の仕事に就く。帰国後、1956年九大大学院を修了後、八幡大学講師、教授、法学部長。1958年ロンドン大学に留学。1975年から八幡大学学長を二期つとめる。中津市在住。

中津に住む横松宗先生とは、帰省する旅に訪問する関係となり、四半世紀に及び指導をいただいた。以下は、亡くなった後の「追悼集」に投稿した私の文章である。タイトルは「宿命を使命にかえて」。

横松宗先生と初めてお会いしたのは英国のロンドンだった。昭和五三年か四年だった。当時私(昭和二五年まれ)は日本航空の派遣員としてロンドンヒースロー空港に勤務していた。私はまだ二十代だった。あれから既に四半世紀以上の時間が経っているから、当時の先生は六十代の後半だったことになる。中津在住の父や母からの情報で横松先生の学識や人柄については既に知識があったから、初対面という感じはしなかった。郊外のウインザー城を案内したり、ロンドンで観劇や食事をしたりして、当時の英国事情や私が関心を持っていることをお話した記憶がある。夜になって食事を済ませた後、私のボロ車が動かなくなって、先生に押してもらう羽目に陥った。「航空会社にいるのに自動車の整備が悪い、あれで腰が悪くなった」とおっしゃっていたと後で聞いて申し訳なく思った。
帰国後、ほぼ同時期に結婚した私と弟の中津での披露宴にお招きした時、先生からは「なんだか、恩師になったような気がするなあ」との言葉をかけてもらった。
東京勤務の私は年に数回、帰省する折、父や母と一緒に横松先生ご夫妻を訪問することが決まりのようになっていった。父はなかなか語り合う知己を持てない人だったが、横松先生とは肝胆相照らす仲だったようだ。
一度父が「横松先生が、お宅のお子さんは気宇壮大でいいですなあと言ってたぞ」と愉快そうに伝えてくれたことがあって、恐縮したおぼえがある。
毎度、訪問する度に、中津の歴史、中国や魯迅研究のこと、時事問題に対する考え、人物論、福沢諭吉論などを聞いて、その学識とものを見る眼に、私は自然に熟成するように尊敬の念を抱くようになった。
私は高校卒業と同時に中津を出ているから、中津という町のことは何も知らなかった。先生との交流の中から、福沢諭吉への関心が湧いて福沢諭吉協会にも入ったり、多くの偉人の出た郷里・中津という町の不思議さなどに目が開かれていった。このことはいくら感謝してもし過ぎることはないと思っている。
先生は『大正から昭和へ---恐慌と戦争の中を生きて』(河出書房)という自伝を昭和六四年に上梓された。私は『魯迅--民族の教師』(河出書房新社)という先生の著作も読んで、四半世紀以上の歴史を持つ中津の優れた同人誌「邪馬台」百一号に「福沢・魯迅そして横松」という小論を書いた。以下、その一部を引用する。
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横松は福沢を高く評価する一方で、その限界にも言及している。しかし、明治という時代の中で生きる福沢の限界には優しい目で対応している。
横松は批判的精神の旺盛な人物であるが、本人が背負う組織などの制約や生きる時代の空気、時節の中にある限界などには暖かい目を向けている。福沢の場合も時代の子である部分、後世において批判の対象となった言説、行動などについては、それもある程度仕方のないものとして容認する度量を持っている。
横松が福沢にひかれたのは、福沢は学者は政権に従属すべきではなく、むしろ政治の指導と診断に当たるべきだという信念をもっていたことに共感を覚えたからであろう。
横松は、権力というものに常に深い懐疑を持っている立場を補強する考えを、福沢の著作に見出したからである。
そういう意味では横松は自分の人生を福沢に重ね合わせているといえよう。
福沢にとっての中津への郷土愛と較べると、横松の場合はその深さが深刻であることは間違いないであろう。十七、八才まで中津で育ったという点では同じだが、生涯を通して七回しか中津に帰ることのなかった福沢と、その後四十年以上にわたって郷土の政治、思想、文芸、教育などにかかわった横松とは愛憎の深さが違うと思う。自分を育てた郷土への愛着とそしてそれ以上に自分を絡めとっている郷土への憎悪の量はケタ違いにおおきいと推測できる。
その横松は郷里から脱出できない横松自身の生き方の回答を、福沢や魯迅の著作や実践に求めようとしたのだと思う。
横松がこの本の中で指摘している福沢の原点ともいうべき「郷土愛のパラドックス」は、より以上に横松に当てはまるキーワードなのである。
また、横松は自身の思想形成に大きく影響を与えた二人の巨人、福沢と魯迅の共通点を『魯迅--民族の教師』(河出書房新社)の中で次のように指摘している。
魯迅の故郷である紹興と中津は社会環境が酷似していた。水田工作の田園的風景に囲まれた旧い城下町。そしてその中で、封建的人間関係の強く残っている旧い街並み等など。
魯迅にとっての紹興はふる里であり中国そのものであったのと同じように、福沢にとって中津はふる里であるが、それはまた日本そのものであったのである。
そういった育った社会環境に加えてさらにふたりの共通点として合理的科学精神をあげている。それは個人の自覚、個人の確立に大いに関係がある。また官僚主義反対という点でも両者は符節を合している。
まさに魯迅と福沢は横松の鏡である。

横松の自伝『大正から昭和へ』(河出書房新社)には、『福沢諭吉 中津からの出発』(朝日新聞社)で述べている福沢論を解く鍵があるように思う。
中津の山国川と金谷の土手、白堤防、水源地を愛する横松、気分のふさいだ時など、寸暇をみて金谷の土手のクローバーの上に仰臥する若き横松。こういった環境は私たちの時代(筆者は昭和二五年生まれ)とはすっかり変わってしまったと聞いてはいるが、同郷の私にも同じような体験がある。この本には実際に中津で育った者として望郷の思いを強くする記述がちりばめられている。
この『大正から昭和へ』は、大正デモクラシー、軍部の台頭、太平洋戦争などが横松の人生とオーバーラップしており、まさに生きた大正史、昭和史という内容になっている。
驚くべきことにこの本には書物や歴史の中に登場する偉人・賢人・豪傑などがきらめくように多数登場する。歴史上の人物が横松の人生行路にぞくぞくと現れてくる。この書を読み終えて、私は大正から昭和の時代を横松という一人の知性と一緒に旅した気持ちになった。読者としての私は、横松を通して中津を中心に歴史の中を紀行しているという感慨を持った。
歴史というものは本来こういう学び方をすべきものだろう。大正から昭和にかけての激動期に、これだけのひとかどの人物達に会いまくった横松には感嘆するのみだが、本人も言っているように「何でもみてやろう」という野次馬精神が旺盛な人である。書物で考え方を知るだけでなく、実際にその人に会うことによって理解をきわめようとする好奇心多き態度は参考になる。自分と異質の人物、はるかに優れた人物と会い続けるには多大なエネルギーが必要であるから、その総量も横松の場合多いのであろう。
その意味で横松の学問は書斎主義と現場主義を兼ね備えているのが特徴であると思う。自分より優れた国はないという不遜さが見えかくれする国家としての精神の鎖国、知的怠惰にも警鐘を鳴らし続ける横松の原点には、このような精神と行動がある。
また、同時代の人物だけでなく、ありとあらゆる書物をひもとき過去の時代の偉人や思想家と対話し、エッセンスをコンパクトに説明してくれている点もこの本の価値を高めている。
横松は自分の信念と相反することに煩悶をいだきつつ、しかしその中で自身の考え方を通していこうとする。常に自分の環境を利用、活用し知識を増やし、本来あるべき姿を模索し続けている。
横松は中国大陸においては侵略者の側に結果的に手を貸すことになるのだが、福沢の晩年における朝鮮、中国への強硬姿勢、日清戦争への支援などの行動は、時代の背景や空気、限界を考慮すべきであるといっている。
福沢の脱亜論の弁護は、自身の弁護でもある。

同人誌の使命は商業ベースをはみ出したものの中にいい質のものがあり、そういうものを育てることにあると横松は自伝『大正から昭和へ』の中で語っている。横松が四半世紀の歴史を持ち百号を迎えた地元の同人誌『邪馬台』に力を入れているのもうなづける。このすぐれた同人誌への関わり方は横松の中津への関わりかたの一つの象徴でもある。
また、横松は、数年おきにあらわれる飛躍のチャンスを自分以外の要因のため見送ってきた。可能性をひたすら捨て続けた人生であったといえよう。
まことに無念であろうと思うと同時に、その環境の中でもくさることなく精進、努力した点は見習いたい点だ。それは人間・横松宗の特徴でもある。
「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした。」と横松は自伝の中でその真情を吐露しているが、ここに横松の壮絶ともいえる心構えが見て取れる。
人間の一生は短い。しかし、その人間の書いた文章の寿命は長い。その寿命を信じて横松はこのような表現をしたのであろう。
書物を著す目的は、人のためではない。自分の疑問点を晴らすため、自分と対話するため、自分を説得しあるいは自分で納得するために書くのである。私は『魯迅』『大正から昭和へ』『福沢諭吉 中津からの出発』という三つの横松の著作を読む中で改めてそういう思いを強くした。
今大きく地殻変動を起こしつつある世界、ひとり繁栄の極みにありながら歴史への参画にためらいを見せている日本、そのような状況の中で「福沢が生きていたら大正、昭和(そして平成)を何と見たか」という横松の問いは、いまこそ大きな意味を持つのである。
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この小論を先生が読まれて「自分をこれほど理解してくれた人はいなかった」と、当時住んでいた千葉の家に電話までもらったことも思い出深い。

いつの頃からか、先生は私にしきりに「研究者になりなさい」と勧めるようになった。企業に勤めながら本を書いたりしている私の動きを見ておられてそう勧めていただいていた。その頃はそういうことができるのかどうか半信半疑で聞いていた。その後、四十代の半ばになった頃、思いがけず宮城県の県立大学創立に当たって声がかかり、平成九年に早期退職して仙台で宮城大学に奉職することになった。このことを先生はことのほか喜んでくれた。そして、折に触れて、教育・研究のことや大学での役職の心得や処世術について学長経験者としての有益なアドバイスをいくつもいただいた。

平成十三年に父(久恒照智)が亡くなった時は、弔辞を読んでいただいたことも忘れられない。父の数少ない友人として、父のことをよく理解された弔事は本当にありがたく思い、その内容はすべて私のホームページに入れてあり、時折読んでいる。(http://www.hisatune.net/html/05-career/private/titi.htm
以下、その一部を引用する。
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そのうち久恒さんは、生来持っていた向学の意欲おさえがたく、私たちの集まりにも出て、八六年(昭和六一年)からは「福沢諭吉を英語で読む会」に参加するようになった。この会は、福沢先生の唯一人の孫(当時)の清岡瑛一氏が、福沢の著書を英訳したものを学ぶ会で、まず福沢の教育論を学び、ついでに女性論を終え、十五年を経た今日は『福翁自伝』を輪読している。久恒さんは、始めて間もなく加わっていたように思う。
やがて、約二十人の仲間たちは、会合のあるごとに、久恒さんの博学と見識の深さにひきつけられるようになった。
だが、不幸にして、中途で突然脳こうそくにかかり病の床に臥すこととなった。その後は、夫人の看護を受けていたが、ときどき夫人の介助によって私の家にも訪ねてくれていた。私達のことばは十分に聞きとってくれていたが、みずからは自由に話すことができなかったことが残念であった。
久恒さんは、もともと多くの書物を読破されていながらも寡黙で、かつ文章を発表することもきわめてひかえ目であった。その中で、夫人も編集委員として協力している同人誌「邪馬台」に二度だけ文章を寄せている。その一つは七三号(八四年冬号)で、他は七九号(八六年夏号)であった。実はこの二つとも私の著書と論文に関する貴重な感想であった。その中には、中国文学中最も難解とされている魯迅についてのものもふくまれている。それは矛盾多きがゆえに、それだけ深い人間性をもつ久恒さんでなくては不可能のことであるといえる。
ここに私自身の文章にふれることは、いささかおこがましくもあるが、久恒さんの評論を今改めて読み返してみて驚いたことは、私の文について語っているところが、そのままご本人自身を語っていることである。文中にはしばしば私のことばを引用してくれているが、それらは、一つづつ久恒さんの人間理解の深さと広さをもって私の文の意味を補ってくれているとさえいえる。しかも久恒さんを知っていなかったということを教えられたのである。
「人生、一の知己を得れば足る」という諺がある。まことに人間にとって、己を知ってくれる友を得るほど尊いことはない。これからこそもっと深いお付合いをしてもっともっと互に啓発してもらいたいと念願していた矢先、かけがえのない友を失ったということは、何という悲しいことであろう。
久恒さんが役所でどんな生活をしていたかは、私はほとんど知らない。だが、少し立ち入ったことにふれることを許してもらえば、職場の中では、久恒さんの人間性をほんとうに理解してくれる同僚は少なかったのではないかと想像される。それだけに、その余命を十分に花咲かせてもらいたかったと思うのは私だけであろうか。
だが人間の運命というものは、予め考えていたシナリオ通りに進められるものではない。人びととの別れもまた同じであろう。とくに肝胆相照らす人との出会いは、それ自身すばらしいことだが、別れることは、それにも増して何と苦しいことであろう。
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平成十六年に、先生の九十歳の卒寿のお祝いの会が中津で催され、私も仙台から駆けつけた。そのとき先生は一時間ほどの講演をされて、その中で長寿の秘訣のようなものも話された。それは、仕事や人との交際を続けること、そして軽い運動と適度な飲酒というようなことだった。当日、新刊本『福沢諭吉 その発想のパラドックス』(梓書院)を参加者に配ったのには心底驚いてしまった。九十歳で著作を世に問うということの凄みを感じた。かくありたいものである。
その記念講演で「丸山真男君らと一緒に研究会をやっていた」という君づけ発言があり、丸山氏よりも年上であるということも大変驚いた。丸山真男といえば日本の政治学の最高峰で、私自身すでに歴史上の人物として認識した。横松先生は、一九一三(大正二)年生まれだが、激動の二十世紀を生き抜き、平成の世の中のいま、高い峰にあって見晴らしよく歴史の流れをみているのだと感銘を受けた。
当日のお祝いの会には中津の各界の名士が多数参加されて、その影響力の大きさを改めて感じることとなった。この会では思いがけず乾杯の挨拶を頼まれた。
『人間の偉さは、人に与えた影響の大きさの総量で決まるのではないか。横松先生は、広く影響を与え、深く影響を与え、そして卒寿のお祝いの会が示すように今日まで長く影響を与え続けているから、もっとも偉い人である。先生が中津にずっと留まったことは先生ご自身にとっては良かったかどうかはわからない。しかし中津という町にとっては明らかに僥倖とでも言うべきことだった。今後もお元気で自伝の続編の「昭和から平成へ」を書いていただきたい』と挨拶をした。
昨年(平成十七年)の秋に中津に帰る機会があった折、母とともに金谷の新居に先生を訪ねた。体調が思わしくないと聞いていたが、当日はややお疲れの様子はあったものの、いつものように話の輪に入ってくださり、夕刻になった帰り際には玄関の外までわざわざお見送りいただいた。それが最後のお別れという予感が私にはあった。先生ご自身もそのように感じておられたのではないだろうか。
そして先生は十月に永眠された。私は仙台から弔電を打った。
『横松先生のご逝去の報に接し、巨星墜つ、の感を深くしております。先日の帰省の折に、母ともども先生の謦咳(けいがい)に接することができましたが、今となっては最後のお別れができたとの想いがあふれております。奥様には、心からお悔やみを申し上げます。遠く仙台より先生のご冥福をお祈りいたします。』

先生は私が中国東北部吉林大学(長春市)の客員教授になるなど中国に関心が傾斜していくこと、福沢諭吉を中心に中津という町に関心が深まっていくことを喜んでおられたように感じている。
先生はさまざまな文化活動を実践したが、素晴らしいのはそれぞれの分野に後継者を育て上げたことだろう。包容力があって暖かい人柄の先生の市民への教育活動は、「塾」のような趣きがある。先生に薫陶を受けた多くの「横松塾」の塾生の存在は、文化の香りを強みにすべき中津という町にとっては、かけがえのない大きな財産だろう。
「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」とは福沢諭吉の偉さを語った当時の人々の言葉だが、横松先生は同じような存在だったのではないか。
私はここ一年以上、主として明治生まれで、明治から大正、昭和にかけて各界で活躍した人物を顕彰した人物記念館を訪ねる旅をしている。具体的には明治維新の前に生れた後藤新平から大正生まれの司馬遼太郎までというイメージだが、大分県では、朝倉文夫・瀧錬太郎・重光葵広瀬武夫といった人物群である。全国各地を訪ねてみると、風土が育んだ人物を風化させることなく、その仕事や精神を地域の財産として残そうとする動きも多いように感じている。
金谷の居宅の隣に建った先生の研究生活を支えた蔵書を収納した重厚な書庫は、中津の文化の光を消さないために、横松宗先生の点した松明(たいまつ)を引き継ぐための基地として残す手立てをいずれ考えるべきだろう。

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以上は先生への弔辞であるが、この「名言との対話」では、もっとも真剣に書いたものともいえる。ここに記して長く先生の遺徳を偲びたい。

「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした。」と先生は自伝『大正から昭和へ』の中でその真情を吐露しているが、ここに先生の壮絶ともいえる心構えが見て取れる。人間の一生は短い。しかし、その人間の書いた文章の寿命は長い。その寿命を信じてこのような表現をしたのであろう。
書物を著す目的は、人のためではない。自分の疑問点を晴らすため、自分と対話するため、自分を説得しあるいは自分で納得するために書くのである。私は『魯迅』『大正から昭和へ』『福沢諭吉 中津からの出発』という三つの著作を読む中で改めてそういう思いを強くした。横松宗先生が亡くなってから、すでに15年経った。 

魯迅―民族の教師

魯迅―民族の教師

 
大正から昭和へ―恐慌と戦争の中を生きて
 

 

「久恒啓一の図解塾」入門の第4講(YMAI大学深呼吸学部)ーーテーマは「SDGs」

図解塾第4講を行いました。テーマは「SDGs」で、「17の項目を図解せよ」。さて、結果は?

以下、受講生の感想から。

  • SDGsについては日頃から少し触れており、テーマに沿って分かっていたつもりでしたが図解にして自分に落とし込もうとした際に自分がいかに分かった振りをしていたか恥ずかしく思いました。図にする前にグループ化し、共通点などを見ていく中でいかにピクトグラムが大雑把なものかと、言葉の曖昧さが見て取れました。自分なりに理解を含めて図案を深掘りして行こうと感じました。今回の講座も含めて、自分の今後のプロジェクトに活かしていきたいと思います。
  • 本日のテーマ―「SDGs」は貴重な話題でした。皆さんの捉え方、図解への認識など等学ばせて頂き大変有意義でした。全員参加の趣旨に反して発言には至らなかったのは残念に思っています。質問を投げかけて下さった猪俣さん次回は答えられるようにいたします。気軽に久恒先生の塾に組み入れて頂きましたので気が付くのが遅いのですが、事の貴重さに気が付き、事前の取り組みが必要だと認識を新たにしている処にいます(笑)。また、今回の当方の不安定な環境は、どうやらカメラ設定にあるかと思っているので、こちらも整備して次回も参加したいと思っています。本日は久恒先生及び皆さんの貴重な意見を拝見拝聴できて楽しくありました。
  • 本日のテーマは久恒先生の選定が良く、非常に面白く、勉強になりました。冒頭に久恒先生が指摘されたように国連はSDGsの17のテーマを単に網羅しただけで、その背景も、目的も相互間の関連も何も表現されておりません。逆に、そのことが、今回の受講者の理解の仕方の違いになって出てきており、面白かったです。私は、世界の現状がこのまま進行していけば、地球と人類は危ないと思ってます。後進国では人口爆発が進み、現状の世界人口約70億人は2050年には140億人(諸説あり)にも達すると想定されております。金魚鉢で言えば、金魚が増え、濾過器を付け、酸素補給をしている状況が現在で、それ以上増えると金魚は全滅する状況です。人口爆発によるエネルギー資源不足、水資源不足、地球温暖化、森林破壊、環境汚染、海洋汚染、漁業資源の枯渇等は、地球規模で真剣に取り組まなければ解決出来ない課題として、人類の前に立ちはだかっています。後進国は飢餓、貧困であえぎ、先進国は経済格差が拡大し、教育格差の連鎖を生み、又、価値観の多様化に対応出来ない国内の対立を生み出しております。世界は連携し、真剣に取り組まなければ人類滅亡の危機に直面します。このような状況と17のテーマテーマを図解で表現したかったのですが、図解の実力不足と時間不足で中途半端に終わりました。
  • 本日の講座は受講生全員の作図を拝見することができました。40分間で手書きからデジタルへまとめるのは、久々にコンサル時代のタイトな仕事を思い出し、結構な集中が必要でしたし、かなり自分の能力が以前よりも劣っているなあと感じた反面、以前よりも「情報の構造」に関する気づきは上がっているなとも実感しました。久恒先生が講義内でおっしゃった「空の豊かさはどうなっているのか」という視点はさすが!と感嘆し、そこから空=宇宙、という論点はますます凄い!と思いました。国連自体は「空の豊かさ」とは言わないまでも、それは「気候」という捉え方もできるかも知れないし、構造にしてみると、人類全体で抑えなければいけない共通課題は「気候変動」に関しての事かもしれないなあと自分なりの理解ができたのはとても良い発見です。来週からのテーマはいよいよ自分の仕事。ある意味SDGsの図解より大変かも(汗)
  • 皆様本日もお疲れ様でした。まず17個の目標を前に面食らってしまいましたが整理の為4象限に振って関係性を見いだそうと各ワードを並べた迄は良かったがそこ迄。根本欲求と支える方法論との関係性をもっと判り易く表したり、何よりも肝心なメッセージが書けず大そう残念な結果で猛省。
  • ・こんだけ考えて考えて考えぬかないと、まともに図解することができないとは、SDGsのまとめ方って役人的でクソだと思いました。・図解するときって、最初に見えるビジョンを描いている間に、考えれば考えるほど、図が変わってくる。・タイムトライアル的な作業をしていると、「最初に考えて」見えたビジョンを紙に適度に下書きをして、「これでイケる」と思ったら、それをデジタルツールを使って清書をし始めると、「さらに考える」ってプロセスを促進できるような気がしました。・試しに、Facebookのウォールに図解をあげておいたら、なかなか盛り上がって、なるほど、コミュニケーションを呼び起こすものなのだなと実感しました。<図解について>企業の統合報告書とかに使われている「資本の概念」を援用して、社会的な価値が生まれるプロセスとして組み立ててみました。作っている間に、「と」でつながっている項目はたいてい分解しないとダメだなと思い、割ってしまいました。二つのグループに渡るものじゃので、中間に置きましたが、いま考えてみると二つに割りたかったです。下書きがとんでもなく読めないものになっちゃったので、マッハで清書しました。
  • SDGsについての皆様の図、皆様の説明を聞いて、とても勉強になりました。それぞれの地域で各項目の大きさが違う。というのは納得いたしました。また、短い文の中でも、”と”、”も”などの接続の言葉についての裏を読む。そこを、矢印や〇で表現する、関係性を表す。とても深く難しかったです。発表にとても苦手意識を持っていますがが、図で示しながら説明できるよう頑張ります。
  • 図はマズローの欲求のようなイメージで描きました。今日の感想。文章を抜き出し丸で囲むとわかりにくくなる。キーワードのみが良い。それぞれの図の説明を聞くと、その方の大切にしている物が見えてくるように思う。図が国によって異なるという視点に驚かされました。時間をかけて完璧と思える図を作るより、短時間で描くのが良いと感じる。意見をもらいながら図を成長させると共に作っているという仲間意識が強くなる。
  • 国連さん、デザインをおしゃれにすることで綺麗に描いている風ですが、さっぱり頭に入りません~。みなさまの想いを知ることができるのが面白いです。みなさまありがとうございます!
  • 項目を付箋で書いて配置していく技が良さそう。真似してみます。(17個もあるからとタブレットで書き出したが手書きには及ばず)全員参加の空間でありながら、質問がなかなか浮かばず。気付いたのは、限られた時間の中で作成された図には、作成者にも気付き足りない部分や書き足りない部分があったはず。そんな中で、「質す質問」になってしまうのが怖かったのかもと思った。図に対する質問の方法はもう少し考慮を続けたい。SDGsについて、単語は知っていても17個の項目について深掘りをするのは初めてでした。「目を背けていました」と言ってもいいかもしれない。今では、図解にしないでどうやって理解できるんだ、と思ってしまう。次回は自身の仕事の図。まずはキーワード抽出から着手します。
  • SDGsは、知ってるけど知らないみたいな感じで、あまり見ないようにしてきてしまっていました。今回、図解してみて、地球人として、ちゃんと考えなきゃいけないと改心しました。皆さんの図解を見れるのも、とても有意義で勉強になります。私の図解は、分類までしかできていないので、関係性、大きさ、矢印などをプラスして、ブラッシュアップして、ブログで公開できるところまでしたいです。
  • 【第4回の感想】・久恒先生の一言一言が熱い!・みなさんの個性の振れ幅が半端ない!・小酒井さん、力丸さんのファイル化超速度かつその速度でのクオリティ、凄まじい!(さん付け共通とさせてください)・自分自身はやはり思考がどこかで止まってしまう。 自分なりのラベル付け、タグ付けの次にいけるように、 図解的思考、関係性を掘り下げ、構造化すること、など、 図解を使って自分なりの思考を、試行し、 掘り下げることを習慣化出来るようになりたいと思いました。・SDGsについては、貧困、飢餓、教育の関係性のところは、 エステール・デュフロの著作(『貧乏人の経済学』『絶望を希望に変える経済学』等)を読み込んで更に深めたい。[今日の授業で印象的だった言葉など]久恒先生の言葉。「図解することで、知の巨人も、自分の視点で論じられる」「図解することで欠けているものに気づくことが出来る」 (SDGsでいえば、海、陸があって空は?など)「見ているだけでは負けてしまう。図に取り込むことで自分なりに考えることが出来るようになる」久米さんの言葉「知のバディシステム」
  • 大目標、中目標、個別に分けて階層化表現をして見ました。こんなパターンで17項目を全て網羅したい。
  • 今日の図解塾の課題は、今話題のSDGs。17のゴールをわかりやすく図解せよとのミッションです。そもそもこの課題に取り組んで気づいたのは「ミッション・インポッシブル」だということ。マジカルナンバー7で、頭脳明晰な人でも、7つ以上のことを理解できないのに、17も箇条書きで並べるなんて無茶な。色とりどりでごまかしてはいますが、分類し、重みづけをしつつ、それぞれの関係性を図解しようとすると「なんじゃこりゃ?」というのが、みんなでやってみての印象でした。それを証拠に、メンバーのみなさまの図解でバラバラになりました。つまり、国連で伝えようとしていることが、図解塾に出ているような大学の先生やら第一線のビジネスパーソンでも、きちんと伝わっていないということですね。もちろん、私の図解もムリヤリ創ったもの。マズロー欲求段階説に倣って、最も根本的な地球環境問題を第一層に。13気候変動、14海の豊かさ 15陸の豊かさですね。ここがこけたら全人類がこけてしまうので優先順位は高いです。ちなみに17のゴールは、ゴールといいつつ手段と目的が混在しているので、ゴールの5層ピラミッドの横に、特に先進国が取り組むべきTO DOを並べました。地球環境問題解決のTO DOとして、7エネルギーのクリーン化、8つくる責任つかう責任を挙げました。続いて、第二レイヤーには、生存の最低条件として、2飢餓をゼロに、6安全な水とトイレを挙げました。そして、第三レイヤーは、より豊かな生活を求めるとして、1貧困をなくす、4室の高い教育、3健康と福祉を挙げました。その実現のために、9産業と技術革新を挙げました。DX革命で、より安価で広範に教育や健康福祉サービスを広められるからです。
    第四レイヤーは、精神的な満足で、8働き甲斐と経済成長、11住みやすいまちづくりを挙げました。こうした暮らしが実現すると、より利他のこころがはぐくまれるので、17パートナーシップを組もうという地球市民的マインドが発動するかもしれません。それにより、5ジェンダーの平等が進み、10 人や国の不平等をなくして、、16平和で公正な社会が実現するのではないでしょうか?
  • 汗かきました。
  • 「SDGs(持続可能な開発目標)」の17項目を図解するにあたって、まず、項目を仲間分けした結果、その目的を「人を笑顔にすること」と考え、これを軸に図解を組んでいきました。人がどんな状況になれば幸せか、それを妨げる課題や助ける取組み、課題を解消するための取組みというふうに関係性をまとめていきました。作成後、メンバーのみなさんからご意見をいただいたり、図解の発表を拝見したりすることで、「図解に正解は無い。」ということを改めて実感しました。どこに向かってまとめるのかで、項目の関係性が違ってきたり、流れが異なったりするのを作者の説明を聞きながら発見できたので、講義の時間中、すごく楽しかったです。私の図解は初歩的な段階ですので、これからもどんどん学ばせていただきたいと思います。久恒先生、メンバーのみなさん、よろしくお願いいたします。
  • 「 S D G s を図解で考える」お友達の皆さん知ってたSDGs!!久恒啓一先生のzoom図解塾での今日のテーマでした。日頃から住環境について等環境には敏感なのですが…一方で小々企業には縁遠いと考えていたんだなぁ…今夜はチト脳の違う部分を刺激してみました。
     

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「「名言との対話」10月14日。葉室三千子「身についたものは忘れない」

葉室三千子(はむろみちこ ?    2017年10月14日)は、マスターズ水泳世界記録保持者。97歳の長寿の人。

夫は日本競泳界黎明期の選手で、1936年ベルリン五輪の200m平泳ぎ金メダリスト・葉室鉄夫(2005年に88歳で没)。鉄夫は引退後は毎日新聞社に入社し、運動部記者となってアメリカンフットボール甲子園ボウル創設に携わるなど、第一線記者として活躍した。1990年国際水泳殿堂入り。2011年に功績を讃えられて高石市ふれあい健康増進センターに記念コーナーが設けられている。

 妻の三千子は、2013年にイタリア・トリノで開催され た世界マスターズ水泳長水路(200m平泳ぎ)で、85歳で5分35秒82の世界新記録を出したスイマーだ。

マスターズ水泳」とは何か。市民スイマーの祭典で、日本では18歳から100歳までが参加できる。生涯スポーツとしての水泳競技で、年齢区分は5年ごとだから、年齢が上の区分になったときがもっとも若いので、記録がでる可能性がある。葉室三千子の世界新記録は、85歳から90歳の区分に上がった85歳だった。

国際水泳連盟FINA)が主催する水泳のマスターズ世界大会の1986年の第一回は東京だった。2年ごとに世界のどこかで開催されている。2017年大会では96カ国から9,000人を超える元選手や水泳愛好家が参加し、最年長97歳のアスリートも参加するなど、話題となった。

葉室三千子は2012年に娘・広瀬カヤ子とインタビューを受けて、「92歳&64歳親子女性スイマーの夢」という発言記録が残っている。「孫たちからお転婆をもじって<おてんばあば>と呼ばれている」「葉室は本当に素敵だった」「結納は金メダル」「年齢に限界はない」、、。、

そして「50年ぶりに泳いだマスターズ水泳日本記録。身についたものは忘れない」と発言している。三千子はその翌年に世界新を出したのだ。覚えたものは忘れる。しかし身についたものは忘れない。それが言えるのは自転車の運転技術や、わかい頃に取り組んだスポーツだけではないのではないか。身につくということは身体に刻みこむということだ。カラダだけでなく、アタマも同じだと思う。

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

横浜デーーー友人。弟。企画展。

 今日は、横浜で一日過ごした。

11時から横浜駅東口にてJAL時代の友人の浅山氏と懇談。

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12時から横浜西口の新しいビルの「蘇芳」で、弟と食事。

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16時から、港のみえる丘公園の神奈川近代文学館で開催中の「大岡昇平展」。

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成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

  • 作者:大岡 昇平
  • 発売日: 2019/08/22
  • メディア: 文庫
 

夜は日本未来学会のZOOM理事会。

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「名言との対話」10月13日。ラーマ9世(プミポン国王)「そんな事でタイ国民のためになると思うか、双方ともいい加減にせよ」

ラーマ9世タイ語: รัชกาลที่ ๙1927年12月5日 - 2016年10月13日)は、チャクリー王朝第9代のタイ王国の国王(在位:1946年6月9日 - 2016年10月13日)。

 スイスローザンヌ大学を卒業。1946年タイ国王の即位。1950年に王族と結婚。 若い時代の象徴的役割から、民政移管と軍事クーデターの繰り返しの中で、軍政と市民運動に硬軟両様の対応をとった。アセアン諸国連合の発展につれ、官僚、軍部、市民運動などの調停役をつとめるようになり、失墜していた王家の威信を回復した。

1992年の「暗黒の5月事件」では、軍部を背景とする首相と、対立する市民運動指導者と対坐し、両者を「そんな事でタイ国民のためになると思うか、双方ともいい加減にせよ」と叱りつけて、騒乱をおさめた。1997年のアジア通貨危機では「足るを知る経済」の概念を提唱した。2003年のカンボジアとの小競り合いでは、暴徒を鎮めた。2006年には下院総選挙のやり直しを実現させている。

国内政治に対して直接の干渉をせず、利害関係の調停役として采配を振るい、困難な情勢の打開収拾に手腕を見せ、国民に高い人気があった。2016年6月9日は在位70年を迎え、存命中の最も在位年数の長い君主となった。

以下、国王としての発言から。

・我々は、タイの人々の利益と幸福のため、義に支配されよう。

・国の繁栄は、最優先に農業の繁栄を保証することに依存する。

・新しい道はみんなが十分に食べていけるものだ。決して裕福ではないが、空腹になることはない。

・水を飲み、水を使うことは生きるのに重要だ。水があれば生き残れる。電気がなくてもやはり生きられるが、水がなくては生き残れない。

・良い人は他人をも良く出来る。つまり、良いことは社会の良いことを引き出す。他の人もまた良いと感じることを。

・自然とは自身の外の何かだが、精神は自身の内にあるそのもの。

・即位50年を過ぎた今、もう50年後のお祝いを期待している。

・現在の50年に渡る治世を記念して、統治が始まってから現在までタイ王国が経験した変化について、将来的にそれが未来の私たちの行動に教訓として生かすべく研究が存在しなけばならない。

・国民の働く意志は、国家存続にとって最良の保証だ。

・多くの外国人がタイに行き来しているが、タイを愛する人々は同じく旅行にたくさん行く人々、と主張できるだろう。

・タイの歴史の中で次から次へと不和があったが、総合的には団結が打ち勝った。

・現在まで振り返ってみれば、いかなるときも変化を経て前進した。その変化は自分によるものではなく、国のすべての人の所業から来ています。

・誰もが自分自身を正す必要があります。対処することはより困難なものであるが、それは不可能ではありません。

・良さとは、人を穏やかで幸福にすること。それは素晴らしいとです。良さのない人間は悪です。

・自然災害により困窮することもあるが、軽減または対処してきた。必要なのは時間だけ。

・タイ社会の生存に重要なことは、政府と民間の両方で働く人々の多くが、依然として同じ方向を目指して努力していくことです。だからこそタイはまだ生きています。

・この世界の多くの国々は困難な状況にあり、おそらくタイの人々の全てが国家の運命を心配している。国が生き残れるかかどうかだ。

タイ王国の達成は、国のすべての住民の能力と行動に依存します。

・多くの悪い人がいて、昔よりも増えたことは確かだ。しかし国民は3倍になったのだ。悪い人も3倍増えるにちがいない。

70年という長い期間、王であった国王に匹敵するのは、 25歳で即位し、在位期間は62年で歴代最長となった日本の昭和天皇と、同じく1952年の25歳での即位から、2020年現在で68年になる英国のエリザベス女王くらいだ。

タイは 長く独立を保ち、現在も君主制を採用しており、日本の皇室とも縁が深い。プミポン国王はホンダ・アコードオニツカタイガーなどの愛用者であり、日本製品のファンとしても有名だった。キヤノン製の一眼レフカメラを長年愛用していた。地方視察時には必ず持参した。一眼レフカメラを首から下げた姿の写真はメディアでよく目にしたものだ。

プミポン国王はその威徳によって国民を統合し国民の敬愛を集めた。国王は折に触れての発言からうかがえるように名君であり、20世紀半ばからの70年にわたり、タイの安定と発展に大きく貢献した国王であった。

 

 

 

 

 

 

 

世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展」ーー読む。考える。書く。

世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展ーーー希望へ橋渡しするひと」。

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以下、会場でメモした言葉と、会場で買った『井上ひさし展』から、井上ひさしの言葉をピックアップする。

・本の読み方十箇条:「オッと思ったら赤鉛筆」「索引は自分で作る」「本は手が記憶する」「本はゆっくり読むと速く読める」「目次を睨むべし」「大事な事典はバラバラにしよう」「栞は一本とは限らない」「個人全集をまとめ読み」「ツンドクにも効用がある」「戯曲は配役をして読む」。

・作文教室:文章とは何か。これは簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人氏しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。

・文章を書くときの心得:1なによりも一つ一つの文を短くすること。2一般論は絶対に書くな。常に自分を語れ。だれにも書けないことを、だれにも分かるように書く。3主語(S)と述語(V)はなるべく近くに置く。4文の基本形は次の三つしかない。何がどうする(犬が歩く)。何がどんなだ(海は広い)。何がなんだ(彼は会社員だ)。文章を書くときに、この三つのどれにあたるか、つねに確認する。

・演劇そのものが、つまり舞台のそれ自体が絵画であり、音楽でもあり、彫刻でもあり、詩でもあると感じました。演劇はすべてを備えている表現のこと。

・言葉を選ぶときも、私は主に大和言葉を使っています。「洗う」「洗濯する」「クリーニングする」、、自分の皮膚感覚に訴えてくる大和言葉で話し、考えたほうがいいと思います。

・まだ調べのついていないところを空想力と想像力でがばと押しひろげて芝居にする。

・大問題の前に、周縁部の人間や市井の普通人を立たせると、一気に喜劇の要素が立ち上がる。

・「平和を守れ」というかわりに、「この日常を守れ」という。

・日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。

・自分の好きなもの:「大根おろしをのせた炊きたての御飯」「湯呑から立ち上る煎茶の香」「洗濯物を嗅いだときの陽の匂い」「雨上がりの木々のあざやかな緑」「わが子の寝顔」「なにか食べているときの妻の顔」「なにも書いていない原稿用紙の束」「稽古場に差しこむ光の中に浮かぶ埃」「成功した芝居の休憩ロビーのざわめき」「自作新刊本の手ざわり」。

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多摩:大学にて打ち合わせ

神保町:神保町ブックセンター。

九段下:寺島文庫:寺島学長と面談。

荻窪日本地域社会研究所:「図解コミュニケーション全集」第2巻のスケジュールの相談。社長と懇談。自分史本、富士山、FUJI、集合、、、、、。

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「名言との対話」10月12日。佐田稲子「言葉は不完全と、思うようになって、一層、表現することの、大切さを思う」

佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904年明治37年)6月1日 - 1998年平成10年)10月12日)は、日本の小説家である。

18歳の中学生と 15歳の女学生の恋愛の結果として誕生。母親を結核で亡くし、小学校を中退し、神田のキャラメル工場で働く。そして中華そば屋、料亭、メリヤス工場などを転々とした。

上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。芥川は「十七にしては小造りな、むしろ弱々しい体の持主」「形の好く整った鼻と切れの長いきれいな眼と、濃い眉」と書いており、また小島政二郎は「しじゅうニコニコ笑っているかわいい少女」と描写している。

日本橋丸善書店の女店員を志願し店員になる。本が読めると思ったからだ。模範店員であった稲子は資産家の息子である慶應大学の学生と結婚するが、夫の親に反対され、二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚している。

「私の青春は、子どもひとり生んでそこからようやく輝き出すようであった」と後に書いている稲子は、東京本郷のカフェーにつとめる。そこで中野重治堀辰雄たちと知り合い、文学への目を開かれていく。1926年、『驢馬』同人の窪川鶴次郎と結婚(のち離婚)。佐多と窪川は中野に女優の原泉を世話している。中野重治は稲子の額の美しさを「edel Stirn」(高貴な石、宝石)と得意のドイツ語でほめている。美人という評判が高かったが、中野重治は「一人の女窪川稲子を見つけたのは窪川鶴次郎であるが、そのなかにすぐれた小説家を見だしたのは私であったといっていいと私は思う」と言っている。

1928年「キャラメル工場から」を発表し、プロレタリア作家として出発した。日本共産党へ入党し、逮捕、転向、再入党、そして除名されている。戦後も長く旺盛な執筆活動を重ねた。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。また、婦人民主クラブを創立し、女性の地位向上や平和運動に力を尽くしている。

多作な作家であり、受賞歴も豊富だ。1962年、『女の宿』により第2回女流文学賞受賞。1972年、『樹影』により第25回野間文芸賞受賞。1976年、『時に佇(た)つ(十一)』により第3回川端康成文学賞受賞。1983年、『夏の栞』により第25回毎日芸術賞受賞。1983年、長年の作家活動による現代文学への貢献により朝日賞受賞。1986年、『月の宴』により第37回読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞。

プロレタリア文学出身者らしく、「自由にモノが言えることを大事にしたい」と語っていた佐田稲子は、ものを書く中で言葉というもの不完全さを知り、かえって表現の奥深さを思うようになり、小学校中退から、93歳で没するまで自分の入る場所で精進を重ね、作家としても人間としても成長していく姿には感銘を受ける。

 

 

 

 

 

「音楽を撮る」写真家・木之下晃のこと。次の著書の最終チェックが終了。

先週金曜日。六本木ミッドタウンのフジフィルムスクエアで「音楽を奏でる写真たち 木之下晃 世界の音楽家」展をみてきた。

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木之下は「音楽写真」というジャンルを切り拓いた写真家である。彼の写真は「音楽が聴こえる」とまでいわれた。アナログ表現にこだわり、フィルムカメラで撮り続けた。その理由は「シャッターチャンスの緊張感がもつ精神性にある」と語っている。写真家のマエストロ(巨匠)である。年間250回近くの演奏会に通っていた音楽通だ。

木之下をみる人たちは「対峙するエネルギー、シャッターチャンスを逃さない集中力。抜群の反射神経。生まれながらの資質、あくなく探求心、豊富な音楽体験」などと語っている。

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日本福祉大学で学ぶ。中日新聞社博報堂を経てフリーに。木之下晃は、1960年代から半世紀にわたり一貫して、「音楽を撮る」をテーマに撮影を続けた。木之下が撮った写真からは「音楽が聴こえる」と、カラヤンをはじめ、バーンスタインなど音楽関係者から高い評価を得ている。

会場ではマリア・カラスの写真集とバーンスタインの写真集の二つの写真集を売っていた。買うのはバーンスタインにした。

 オーケストラを指揮する神々しい姿と、亡くなった後で訪れたニューヨークの自宅の写真が中心。バーンスタインユダヤ系ロシア人の子としてアメリカで生まれた。この人は出会いと幸運に恵まれて、英雄となっていく。ハーバード大学・カーチス音楽院を卒業後すぐにンニューヨークフィルの副指揮者に就任した直後に急病となった客演指揮者の代役として大成功する。その幸運な人との幸せな出会いをしたのが木之下だった。

作詞家のなかにしれいは、バーンスタイン平和運動に熱心と語り、木之下が聞き手となって「佐渡裕バーンスタインを語る」で、バーンスタインに見込まれた佐渡裕からいろいろ聞きだしている。

1980年代後半のJAL時代に私は仕事で海外取材のお手伝をしたことがあり、以下の本を手に取って素晴らしい写真と文章を楽しんだことがある。

木之下晃の写真集では、新潮社の「とんぼの本」シリーズが私は好きだった。『モーツアルトへの旅』では、30都市以上に及ぶヨーロッパ各国のゆかりの地を豊富な写真で辿り、伝記を読みながら、天才の偉業を振り返っている。定評のある新潮社の「とんぼの本」シリーズの中でもよく売れている本だ。『ベートーベンへの旅』の旅では、ボン、ウィーン、プラハなど、ゆかりの地を写真で辿りながら振り返り、その偉業を検証している。

木之下晃は写真集など約45冊以上を刊行、写真展約80回開催以上開催した。そして海外政府からの招聘も、アメリカ・イギリス・スイス・フィンランドチェコスロバキア東ドイツ・カナダなど15回以上を数える世界的な音楽写真家だった。

次女の木之下貴子によれば、「「音を撮る」ことに全精力を注いだ人生でした」と総括している。木之下晃は「音楽を撮る」「音を撮る」がテーマであったが、映画の録音技師・杉本文雄は「映画の録音は「画にあった音を録る」というのが基本なんだ」「生きた音を録れ」と後輩を指導していたことを思いだした。「音を録る」杉本に対し、音楽写真家・木之下晃は「音を撮る」ことに生涯をかけたのだ。

2006年にはミニ文化勲章といわれる紫綬褒章を授与されている。そして3万本に及ぶフィルムは、2010年から木之下晃アーカイブスを設立しデータベース化に取り組んでいる。2015年に木之下晃はなくなったが、生涯をかけた作品は残った。佐藤一斎のいう「死して朽ず」とはこのことだろう。

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次回作「名言の暦 平成命日編」の最終チェック。本の形になっているものをチェックするので、修正箇所がずいぶんと多く見つかった。

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ジム:ストレッチとウオーキング30分。

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「名言との対話」10月11日。秋野不矩「作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」

秋野 不矩(あきの ふく、1908年明治41年)7月25日 - 2001年平成13年)10月11日)は、静岡県出身の日本画家

 19歳で石井林響、次いで西山翠嶂に師事する。28歳、1936年文展鑑査展で選奨を受賞するなど、早くから官展で実績を積み重ね、画家としての地歩を固めた。戦後間もなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現:創画会)の結成に参加すると、官展時代の作風から脱却し、西洋絵画の特質を取り入れるなどして、人物画に新境地を開いた。東京の山本丘人、京都の上村松皇らと「在野精神を尊重し、自由と独立をかかげ、真に世界性に立脚する新しい日本画」をめざしたのだ。秋野は日本画沢宏靱との間に6人の子を儲けている。

京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)において後進の指導に当り、助教授・教授職を25年勤続して定年まで勤めた。35歳で夭折した三橋 節子は、教え子だ。

50歳で離婚し、4年後に赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。そして定年後には、長期のインド滞在を重ねる。その歳月を記した素敵な装丁の『画文集 バウルの歌』を読んだ。84歳のときの著書である。

故郷の浜松市秋野不矩美術館がある。そこには秋野不矩の次のような言葉がかかっている。「絵を描きつづけて八十余年 それでもまだ満足のいく作品が描けないのが現実だが、私もそれ故に生きてゆく甲斐があるというものであらう絵とは何であらうか。作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」。その言葉どおり、世界性に立脚する新しい日本画の世界をつくりだした。その評価が91歳での文化勲章を受章である。享年93。

「創造美術」において、画家としての自らの使命を自覚した。それは秋野不矩の40歳の時のことだった。まさに四十にして立ったのだ。それから、50年以上創作の道を歩んだことは本望であっただろう。 

画文集 バウルの歌

画文集 バウルの歌