世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展ーー希望へ橋渡しするひとへ」

世田谷文学館で本日から始まった「没後10年 井上ひさし展ーー希望へ橋渡しするひとへ」を妻と一緒に見てきた。10月10日は必ず晴れるという特異日だったが、冷たい雨の日となった。

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井上ひさしは、仙台時代によく通った仙台近代文学館の初代館長だったことを思い出しながら、そして宮城県大崎市吉野作造記念館の名誉館長だったのは、仙台一高の後輩だったからか、などをメモしながら見ていたら、二人の女性から話しかけられた。

仙台文学館の学芸担当マネージャーの中垣理子さんと、河北新報東京支社の橋本智子記者だった。今日が初日だったので、そのニュースとして見学している様子を河北新報に載せるのに、選ばれたというわけだった。いくつかポーズを撮られたので、明日の河北新報にマスク姿が載るらしい。中里さんは私の名刺の名前をみて驚ろかれ、いつもブログでほめてもらっていると感謝された。確かにほぼ企画展は毎回みている。

宮城大時代からの河北新報との縁、そして世田谷文学館の企画力がすぐれているとの話題で楽しく過ごす。企画展は初日にいくと、こういうハプニングがあるということか。

井上ひさしについては、企画展、小説、エッセイ、演劇などで、持っている情報は豊富だと思っていたが、館内をまわると、また新しい情報を得ることができた。

『没後10年 井上ひさし展』に加え、「井上ひさしの創造世界(ユートピア)」特集の『東京人』最新号、そして『自家製 文章読本』を購入した。じっくり読んで、ブログで報告したい。

「没後10年」ということで、昨年末から全国のゆかりの地で「井上ひさし展」が開催されている。鎌倉文学館、遅筆堂文庫、仙台文学館吉野作造記念館、市川氏文学ミュージアム世田谷文学館

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朝9時からメンズヨガ教室。

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夜は20時から橘川さんのYMAI大学の深呼吸学部の講義を聴く。21時半からは「旅芸人一座」のプロモーションの時間だった。以下、橘川さんと座長の平野さんのやりとりから。どういうふうになっていくのか?

家庭教師。劇団。友だちづくり。投げ銭。コンテンツのデリバリー。GO TO クリスマスキャンペーン。みんながサンタ。川から海へ。コロナという世界共通体験。例のない大人。21Cの吉本。楽しませる、喜ばれる仕事。コミュニケーションが最大の産業。それぞれの可能性を追求する。新しいテレビ。月1000円。参加型社会学会。新時代の小谷正一。全部変えていく。新しいものをみせる。、、。

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「名言との対話」10月10日。阿武喜美子「「私の歩いてきた道は、たとえまわりくねった細道としても、それはまさしく私が選んだ道と言えましょう」。

阿武 喜美子(あんの きみこ、1910年2月17日 - 2009年10月10日)は、日本の化学者、専門は生物化学

 山口県生まれ。山口高女を卒業後、東京女子高等師範学校で黒田チカから学び卒業後は教師になるが、研究を続けたいと父に願いをすると「研究者もよいが、教育者になることも大切だ」とアドバイスを受ける。東京文理科大学化学科に入学し、1937年に卒業。男子しか入学できなかった東京帝国大学大学院に入り、修了する。母校の東京女子高等師範学校助教授を経て、34歳で教授に就任。叔父から「権道ではなく正道を歩め」と諭され、研究の場を理化学研究所に移す。1949年、農学博士号を取得した。

1950年にオハイオ州立大学客員研究員として渡米し糖の合成反応を研究。当初1年間の予定であったが、3年半に渡って炭水化物化学の研究に従事する。

1953年に帰国後は、東京女子高師が4年制大学に衣替えしたお茶の水女子大学化学科教授として生物化学を担当した。動物の結合組織からおおくのムコ多糖類を発見し,化学構造を決定した。1973年 理学部長。退官後は北里大学客員教授を務めた。

黒田チカが名誉会長を退いた日本婦人科学者の会(現日本女性科学者の会)の初代会長をはじめ、日本結合組織学会会頭、日本農芸化学評議員なども務め、日本の女性科学者の草分けの一人となり、また、女性研究者の育成にも尽力した。

お茶の水女子大の松本勲武副学長は2003年の「サイエンスチャンネル」の「女性科学者のパイオニアたち」という番組で、「 ロールモデル。抜群の管理能力も高い」と語っている。また1958年卒業の3人の教え子たちは「あこがれ。男仕立てのダークスーツ姿。さっそう、、」と述懐している。「一人国費100万円かかっている」とよく語り、後輩を厳しく熱心に指導したそうだ。その番組の中で、94歳の阿武喜美子は、父親はドイツに留学経験のある開業医で男女差別の思想はなかったために、「好きな勉強をしてきた、両親に感謝」と語っている。「私の歩いてきた道は、たとえまわりくねった細道としても、それはまさしく私が選んだ道と言えましょう」。自分で選んだ道を切りひらき、まわりくねった道を歩んできた先達の生涯の延長線上に整備された舗装道路を今多くの女性科学者たちが疾走してるのだ。阿武喜美子の99年の生涯は、後輩たちに今も勇気を与えている。ここにも偉い人がいる。

 

渡辺崋山。横山大観。平櫛田中。童門冬二。樋口裕一。久米信行。木之下晃。橘川幸夫。中沢義則。

「立志人物伝」の3回目の授業。テーマは「仰ぎ見る師匠の存在」の2回目。

渡辺崋山師・佐藤一斎横山大観師・岡倉天心平櫛田中師・岡倉天心

童門冬二師・山本周五郎。師・太宰治

前回講義のアンケートから。この回答から始めた。

・教室が大きいので画面が見えづらい。ズームにしてもらえると助かる。
・もう少し一人一人の話を掘り下げてほしい。・テキストに書かれていないことをかなり話しているので、メモしきれません。
・オンラインの学生のミュートされておらず音声が混ざって聴き取れない部分があった。
・スライドにもう少し内容を書いて欲しい。
・オンラインで、先生側の声が時たま聞こえなくなってしまうなどあった。

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昼休みは樋口先生と久米先生と歓談。

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六本木ミッドタウンのフジフィルムスクエアで「音楽を奏でる写真たち 木之下晃 世界の音楽家」展。木下さんはJAL時代に仕事での知りあったカメラマン。写真集『栄光のバーンスタイン』を購入。

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ロシア料理の「スンガリ」(新宿東口本店)で、橘川さんと中沢さん(日経新聞)との食事会。料理と酒が素晴らしかった。常連らしいお客でいっぱい。

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「名言との対話」10月9日。林房雄「歴史なき民族は民族ではない。言葉を失ったら、、」

林 房雄(はやし ふさお、1903年明治36年)5月30日 - 1975年昭和50年)10月9日)は、日本小説家文芸評論家大分市出身。

 東大法科中退。在学中新人会に入り学生運動家として活躍。その後プロレタリア文学運動の活動家になり、京大事件により下獄。出獄して「青年」を発表。1933年小林秀雄らと「文学界」を創刊。文学の政治への従属を否定し、プロレタリア作家の廃業を宣言した。のち天皇制護持・戦争推進の立場をとり、戦後はGHQから追放処分を受けた。その後、「息子の青春」(1950年)などの中間小説で復活した。

1963年に 三島由紀夫林房雄論』が発表される。林は『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。1966年に 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を刊行。1972年『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。1970年11月25日に、三島由紀夫自衛隊の決起を促し割腹自殺。葬儀の弔辞で「満開の時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼み、「憂国忌」の道筋をつけた。

以上にみるように、林房雄は22歳年下の三島由紀夫との親交が深い。二人の対話を記した『対話・日本人論 林房雄三島由紀夫』(番長書房)を読んだ。

この本の中で林は「自殺の自由」「自殺の能力」を論じ、それに引きずられて、三島は「文士でもできれば非常にドラマチックに、きれいに死ねば、文学も生きるのだけれでも」と言い、太宰や芥川の死に方は文学が生きるような死に方ではなかったと言っている。私は大学時代、三島のファンであり、割腹自殺に衝撃を受けて、様々の論評を読み漁ったが、この言葉に、やはりそうであったかと自分なりに納得している。

林は天皇の人間化によって戦後の空洞化と頽廃が生じたとし、三島が「人間天皇の名において決起できるか、できたら面白い」と問い、林は「決起するときには天皇は再び神となるでしょう」と答えている。

天皇制は日本人の創作で政治的芸術品であり、象徴である限り人間天皇は神であり得る。その神を求める精神を喪失すれば日本人は単なる俗衆に堕落する。それを守るのが文学だというのが林の考えであった。権力の外にあるものが芸術、文学であり、人間の能力と精神の最高のものが集中され、表現される。だから、芸術は政治に関与してはいけないし、政治は芸術に関与してはいけない、ということになる。

梅雨空のごとくのペシミスト・三島とは反対の青空のごとくの楽天主義の林は、「大衆化社会に対抗できるのは民族だ」、「民衆が歴史をつくるというびは、嘘っぱちです」と持論を語る。「武士道には神道も仏教も儒教も入っているが、中心び天皇があったから、武士道ができた」。そして「人間には仕えないという、高等な精神が日本人にあった」とする日本人論を展開している。

民族のことばの成立には最低1万年、それが文字が生まれる1万年かかる、そこから歴史が始まる。「歴史なき民族は民族ではない。言葉を失ったら、、」とも林房雄は語っている。戦時中の日本のふるまい、現在の多民族国家における少数民族の弾圧など、その中心には、言葉と歴史への攻撃がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リレー講座は「中国」の柯隆先生。多摩テレビで「久恒啓一の名言との対話」が始まる。

リレー講座は柯隆先生(東京財団主席研究員)で、テーマは「ポスト・コロナ危機の中国経済と世界情勢のあり方」。

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中国は内憂外患。中国の統計をみるには個々の数字より「トレンド」が重要。GDP成長率はジリジリ下がってきた。そして2020年は第一四半期▲6.8%、二四半期+3.2%、三四半期+5%半ばを予想。一人当たりGDPも伸び率が下がってきている。人件費が高くなるにつれ経済構造を改革できないと成長が止まるという「中所得国の罠」に陥っている可能性も。

失業率5.7%は都市部の数字。出稼ぎ農民2.5憶人のコロナによる失業者3000万人から4000万人を含めると本当の失業率は20%程度。

担保の無い中小企業(民営)は地下銀行から借りるほかにない。短期で借りる金利は年49%だが、取り締まれない。

人件費の上昇で、中国は技術力で勝負の時代に入り、産業構造の高度化に挑むことになる。日中韓の貯蓄率が高いことが重要。高い失業率と高いインフレが揃うと、スタググレーションに陥る。習金平政権は正念場を迎える。

米中対立。「囚人のジレンマ」。お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマ。

以下への備えが必要:米中関係のさらなる悪化。サプライチェーンバリューチェーン。ウイルス感染の常態化。世界的食料不足。アンチテロリズム

香港は香港ではなくなった。金融センターはシンガポールになるだろう。東京はなれない。英語とハンコ。大英連邦への移民が増えている。

グローバリズムへの疑問。独裁政治か民主主義か。

企業の寿命:平均存続期間(日本)は12年半。中国は7.3年。

サプライチェーン:中国の強みはモチベーションの高さ。弱みは技術力と信用度。

効率化と安定性のバランス。新たなコンセプトはデカップリング(分散)でエクモ・マスクなどの戦略物資と基幹部品。汎用品はローカル化。

中国人の日本への印象が上昇中で、インバウンドの人数と比例している。日本のソフトパワーを知るから。

米中の覇権争いの長期化。米中対立とG7。EUの将来。東アジアの地政学リスク(台湾、北朝鮮南シナ海)。二極化(右傾化と左傾化)する国際政治。国際関係の再編成とガバナンス体制。

これからの日中関係:日本は技術の源。対中包囲網を日本経済との関係強化で突破したい。チャイナリスクの顕在:台湾有事。日中の国民性の違い:日本は理に訴える。中国は情に訴える。

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昼休み:総研ミーティング

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多摩テレビで10月から「多摩大T-JOIN」の30分番組スタート。「久恒啓一の名言との対話」が今日から毎週放映される。今月は梅沢先生との対談。

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「名言との対話」10月8日。山本鼎「自分が直接感じたものが尊い

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年明治15年)10月14日 - 1946年昭和21年)10月8日) は、日本版画家洋画家教育者

数え年10歳で木版工場の丁稚になり、木版刷りを学び、「版画」という新しい単語をつくる。東京美術学校洋画科で油彩技術に頭角を現す。29歳でフランスにわたる。小杉未醒と親交。フランス、イギリス、イタリア、そしてロシア革命直前のモスクワ滞在を経て、33歳で帰国。この間、日本は世界一の版画国であるとの確信を持った。

34歳、北原白秋(3歳年下)の妹いゑと結婚。35歳、日本制作版画協会を設立(会長)。38歳、自由学園美術科講師。39歳、春陽会設立に参加。帝展洋画部(藤島武二ら)、二科会(有島生馬、坂本繁二郎安井曾太郎熊谷守一ら)、春陽会(小杉未醒梅原龍三郎岸田劉生中川一政、万鉄五郎、小山敬三ら)の鼎立になる。

1923年、40歳で長野県に日本農民美術研究所を設立。41歳、『アトリエ』誌を創刊、『農民美術』誌を創刊。42歳、『実用手工芸講座』刊行開始。44歳、『工芸時代』誌を創刊。48歳、日本版画協会が発足し副会長。59歳、榛名湖畔で倒れる。63歳、死去。村山槐多(流行性感冒で23歳で死去)は従兄弟。

帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した児童自由が運動を起こす。お手本の模写が主流の図画教に異議を唱え、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達にどれほど大切かを説いた。神川小学校で第1回児童自由画展覧会を開催して好評を博し、自由画教育は全国各地に広がる。「意匠の頭とは、要するに仕事を立体的科学的に考える頭なのである」と考えていた山本鼎は、羽仁もと子自由学園では図案教育も行っている。面白い構成を創作することが目的であり、コンストラクション(構成)に重点を置いたデザイン教育であった。

また農民美術運動を起こしている。冬の農村の副業として、農民が生活雑貨や木彫人形を作り、都市へ向けて販売しようとする運動で、農民美術は人気商品になっていく。しかし民芸運動を展開した柳宗悦からは、日本に根ざしていないとの批判も受けている。

小崎軍司『山本鼎評伝』を読むと「 男の生きがいは仕事をすることですよ。失敗したら恋愛がある。男が仕事に疲れ、傷ついたときは、女が慰めてくれますよ」と語っていた山本は発展家でもあったこともわかる。

誰かが描いたお手本の模写の程度を競うのではなく、自分がみたもの、自分が感じたものを描くべきだ。お手本は目の前にある自然なのだという自由主義的な思想と、農民と美術を結びつけた社会主義的な思想に彩られた大正デモクラシーの時代を息せき切って走った。そしてしだいに皇国史観にもとづいた拡張主義がすすむ時代を迎えながら、山本鼎は膨大な借金と疲労の蓄積に悩みながらも、エネルギッシュに自身の思想を実践していった。山本鼎からは、模倣ではなく創造を行え、というメッセージを受け取ろう。

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大学でひと仕事。多摩大OBの岡俊輔君と夕食。『名言の暦 平成命日編』の見本が届く。

多摩大卒業生の岡俊輔君と食事。

博報堂傘下のIT企業の中国法人の社長として北京に赴任するそうだ。32歳。多摩センターの但馬屋という焼肉屋で歓談。岡君はIT技術と中国語を強みとして、中国の技術を日本に展開することを専門にしている。まず順調にキャリアを積み重ねている様子。大学生時代に彼からはイケダハヤトさんを紹介してもらったことがあり、講義を持ってもらったことがある。赴任前に、寺島学長、樋口先生、そして私に挨拶と報告をしている。『図解コミュニケーション全集』第一巻と『平成時代の366名言集』を贈呈。次は中国で会いたい。

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大学でひと仕事。

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編集中だった『名言の暦 平成命日編』の見本が自宅に届いた。512ページ。プリント・オン・デマンドでの出版になる。今から中身をチェックするが、問題はなさそうだ。

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「名言との対話」10月7日。和田誠「長男に唱と名前をつけたら、歌手になった、次男に率と名付けたら、数学が得意な子になった。やっぱり、何かあるよね」

和田 誠(わだ まこと、1936年昭和11年)4月10日 - 2019年令和元年)10月7日)は、日本のイラストレーターグラフィックデザイナーエッセイスト映画監督。妻は料理愛好家・シャンソン歌手平野レミ。

行きつけの世田谷文学館で「和田誠展--書物と映画」を2011年にみた。名前を聞いてもピンとこないが、丸谷才一井上ひさしなどの著書の表紙の絵を描いている人と言えばイメージが湧くかも知れない。その丸谷才一が、「イラストレーター、装幀家、デザイナー、似顔絵画家、漫画家、エッチング画家、エッセイスト、映画監督」とあげて、インタビューや対談もうまい、パロディスト、俳人、作曲家、、、と並べながら、むしろできないものは何かというふうに移っていくエッセイを書いている。それほどの多彩な才人だった。

装幀の仕事としては、丸谷才一の本の一連の独特の絵を見て、ああそうか、この絵を描いている人かと納得した。井上ひさし村上春樹谷川俊太郎などの人の本のかなりの部分もこの人の仕事だ。
著作の欄を見ると、1960年から間断なく本が出ている。1936年生まれだから24歳からだ。2011年までの著作数を数えると、188冊だった。それ以降、2018年まで著書は18冊積み上がっているから、200冊を超えている。

以下は、2011年までの業績を挙げてみる。
映像作品は、1957年の21歳かのテレビCMのアニメーションから始まりNHK「みんなのうた」のアニメーションなど35本。
音楽は、1964年28歳から、映画やラジオ、テレビ、ミュージカルなど30本。
個展・グループ展は、1965年の「ペルソナ展」を皮切りに55本。
2011年の時点でも仕事のペースは落ちず、むしろ後半になるにつれて、しり上がりに増えている感じもある。
丸谷は、日本デザイン史の三大デザイナーは歌麿竹久夢二に続き和田誠を挙げ、「この天才的な三人を持つことは、われわれの文化史の花やかな光栄と言っていいでせう」とまで言っている。

文学館で買った「5・7・5交遊録」(和田誠)を読むと、人柄の面白さと、それがゆえに多くの友達を持っている愛すべき人柄がみえてくる。出て来る友人たちをあげてみよう。横尾忠則篠山紀信立木義浩永六輔小沢昭一黒柳徹子渥美清植草甚一草森紳一小松左京野坂昭如寺山修司色川武大阿佐田哲也)、角川春樹、、、。

40年以上続いている「話の特集句会」。メンバーは、黒柳徹子中山千夏下重暁子山本直純中村八大色川武大吉行淳之介吉行和子小室等山本容子南伸坊横尾忠則妹尾河童中村桂子阿川佐和子佐藤充彦、小田島雄志井上ひさし俵万智三谷幸喜、、、、。
小沢昭一の俳号は変哲、永六輔は並木橋吉永小百合は鬼百合、渥美清は風天、田村セツ子はパル子、岸田今日子は眠女、黒柳徹子は桜蘭、中山千夏は線香、山本直純は笑髭、、、。「青リンゴ点となって海に落ちた」(並木橋)、「妖怪のふりして並ぶ冬木立」(眠女)、、。人に宛てて俳句を読むのも面白い。「梅雨空に「悲槍」流れくれゆけり」(岩城宏之あて)、「国語辞典版新しき夜長かな」(井上ひさしあて)

和田誠の句をいくつか。「月冴ゆる大河に小舟出しにけり」「朝粥に汗ばむ街の広東語」「「もう春」と弾みて淹れし紅茶かな」「戒名を拒否せし父に夏花摘む」「早世の友想ひけり帰り花」。

この人は人生を謳歌した人だ。読書界の巨人の谷沢永一渡部昇一との対談で、和田誠『お楽しみはこれからだ』を読むことを勧めている。この本も手にしたい。

2020年4月4日の日経新聞では、「長男に唱と名前をつけたら、歌手になった、次男に率と名付けたら、数学が得意な子になった。やっぱり、何かあるよね」とも語ったと紹介されている。

確かに人は名前のとおりの人になることがある。政治学者の朝河貫一は一筋の道を歩いた。羽田孜首相の「孜」という名前は、孜々としてひたすら励むという意味、その通りの人柄だった。政治家の田川誠一は誠実な人であった。パイオニアの創業者の松本望はいつもひと筋の希望を持ち続けていられた。川喜多長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとり、その名のとおりに「映画」をテーマに世界に雄飛した。小説家の 大西 巨人(のりと)は「きょじん」と読ませてその名の通りの巨人になった。日清食品の安藤百福も、人に幸せを与えるようにと命名されて、チキンラーメンカップヌードルを世に出した。、、、、

筆名、四股名、芸名、俳号、筆名、四股名なども面白い。大鵬命名された力士は不世出の大横綱になった。尊敬する先達の名前を自分でつけるケースも多い。谷啓ダニー・ケイ江戸川乱歩エドガー・アラン・ポー久石譲クインシー・ジョーンズ。花登筐は、バーナード・ショー

和田誠の観察のとおり、「名前」には、やはり、何かある。

紀田順一郎『生涯を賭けた一冊』ーー田中菊雄『現代読書法』。松崎明治『釣技百科』。山下重民『新撰東京名所図会』

紀田順一郎が1年一冊のペースで積み上げている「書物のノンフィクション」の一冊。本は単なるメディアに過ぎず、人間とつながる契機を積極的に求めていかなければ、先へ先へと開く読書は不可能である、が動機となっている。

『生涯を賭けた一冊』(新潮社)の中で、3人の部分を読了した。紀田節に痺れる。

田中菊雄『現代読書法』。田中菊雄は1907年生まれ。本が好きな少年は高等小学校卒業前に列車給仕となり、代用教員を経て、中等学校英語科教員検定に合格、つづいて高等学校教員検定に合格し高校教授となり、『岩波英和辞典』(共著)を完成し、ついには山形大と神奈川大の教授になった苦学の人である。盲目になるまで読み続けよう。和漢洋の第一流の書物をまっしぐらに取りくもうとした生涯の読書法を披露した名著だ。自分と同じ若き独学者のために書いたのが『現代読書法』だ。「読書の方法」では、精読、多読、摘読、抄読、書き入れ、目録、カードなどのテーマとなっており、カードの稿は実戦的価値を高めた。実戦性と実用性が特色だった。著者の狙いは「読書百科事典」であった。

松崎明治『釣技百科』。1898年鹿児島県生まれ。早稲田大学美術科卒、朝日新聞美術部で「朝日グラフ」を担当、その後に学芸部で釣魚欄を担当。900ページで1ページも無駄のない本。2270枚。絶版。釣りの学者。釣を「釣技」にイメチェン。釣愛。、、、。

山下重民『新撰東京名所図会』。山下重民は1857年生。「風俗画報」を舞台とした15年間の事業だ。足で書く江戸東京地誌。現状のルポであり、歴史ジャーナリストとしての仕事だ。96歳で没。

このような名著の復活本の刊行もいいテーマではないか。

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2年前に閉じた近所の温泉が、「森の彩」という名前で復活したとのことで、浸かってきた。体が軽くなった気がする。

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「名言との対話」10月6日。牛山純一「時代を撮れ!時代を記録しろ」

牛山 純一(うしやま じゅんいち、1930年2月4日 - 1997年10月6日)は、日本のドキュメンタリー映像作家

早稲田大学卒業後、開局したての日本テレビに入社し、報道記者として活躍。日本テレビの後輩の池松俊雄の回想がある。1959年の皇太子明仁親王と正田美智子さんのご成婚パレードでは、準備が整った後で「今のカメラ位置は間違いだ! 国民が見たいのは美智子さんの顔だろう! 屋上のカメラは全部沿道に下ろせ。国民が見たいのは美智子さんのアップだ!」と言ってその通りにしたそうだ。また、企画力は抜群だったが、実は優れた営業マンでもあった、とのことである。「事実の並列とその解説に終わることを避け、ひとりの人間の目によって貫こう」とした「ノンフィクション劇場」、「すばらしい世界旅行」などを制作していく。テレビの中に「ドキュメンタリー」というジャンルを築き上げた人であり、また「映像人類学」という新分野の開拓者だった。

 牛山は「現場にじっくり腰をすえ、内側からえぐっていくドキュメンタリーの手法は、調査報道につながる側面があると思います。そこには、つくる側のメッセージがあります。力があります。これが私のテレビについての原点です。ところがテレビは報道機関ではなく、興行機関になってしまいました。「娯楽-視聴率-金もうけ」の道具です。ワイドショーは細切れの情報を伝えますが、メッセージはありません。精神が不まじめです。日本のテレビは、世界の中でとても特殊ではないか、と思っています。「志がない」という点です。戦後、日本という国が志を失い、その鏡としてテレビにいちばん鮮明に映し出されているのでしょうか。それともテレビが、この国の志を失わせてしまったのでしょうか」と嘆いている。

 有楽町読売会館8階に「日本映像カルチャーセンター」を設立し、世界の優れたドキュメンタリー作品を収集保存し定期的に公開するスペースとしていた1983年川崎市が「現代映像文化センター構想」を発表し、牛山純一が映像資料の収集委員を委託され、1988年開館の「川崎市市民ミュージアム」(2019年の台風19号の被害で休館中)として結実した。牛山が手がけたテレビドキュメンタリー800本が寄贈され、ビデオ上映会が催されている。また、小学6年生から旧制中学卒業まで住んだ茨城県竜ケ崎の市立中央図書館には牛山ライブラリーがある。

「テレビはアップだ!」「アップで勝負!」とはっぱをかけた牛山の口癖は「時代を撮れ!時代を記録しろ」だった。作家性と署名性を抜きにした映像記録はあり得ない、が牛山の思想であった。表現者のテーマの多くは「時代」である。樋口一葉も、「あの源氏物語は立派な作品ですが、書いた人は私と同じ女性です。彼女が仏の生まれ代わりだとしても、やはり人間である以上、私と何の違いがありましょう。あの作品の後に、それに匹敵する作品が出てこないのは、書こうと思う人が出てこないからです。今の時代には今の時代のことを書き写す力のある人が出て、今の時代の事を後世に書き伝えるべきであるのに、そんな気持ちを持った人が全くいないのです」と書いている。

文学、映画、写真、演劇、音楽、絵画、、、という芸術作品の多くは、時代を書く、時代を描く、時代を写す、時代を撮る、をテーマとしていると言ってもいい。テレビというメディアで、時代を撮り、時代を記録した牛山純一の仕事は残る。自分が生きている「時代」を強く意識しよう。

 

 

 

 

荻窪。東銀座。神保町。

荻窪:秘書の近藤さんと打ち合わせ。

東銀座:仙台時代からの七十七銀行の口座の解約。3つの口座の手続きでで50分かかった。ハンコ文化の極致だ。

神保町:古本街で本を物色。3冊で1500円なり。昼食。コーヒーはブラジルにて。

紀田順一郎『生涯を賭けた一冊』 

 北原晴夫『川柳博物誌』 

川柳博物誌

川柳博物誌

 

尾藤三柳『川柳の基礎知識』 

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「名言との対話」10月5日。岡義武「性格は運命をつくる」

岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日- 1990年10月5日)は、日本政治学者。専門は、政治史日本政治史

東大助手時代は吉野作造に師事する。1928年助教授、1939年から教授。吉野の政治史講座を継承。1955年から1957年までは法学部長を務める。1977年文化功労者、1986年文化勲章受章。『国際政治史』で第10回毎日出版文化賞を受賞。 緒方貞子伊藤隆らが弟子。日本近代政治史研究の創成者の一人である。

岡義武『近代日本の政治家』(岩波現代文庫)を読んだ。1960年に刊行された古典的名著との評価の高い本で、「彼らの政治的生涯を辿りながら、嘗ての日の彼らの面影を再現」しようとした。

伊藤博文大隈重信原敬犬養毅西園寺公望という5人の政治家を対象に、それぞれの「性格」と政治行動、役割、運命を跡づけようとした。この本を読むと、政治における個々の人間の軌跡を追う中で、日本の近代の姿が生々しく見えてくる感じがある。

「酔って枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」を生きた名誉欲の塊・伊藤博文大名趣味の民衆政治家・大隈重信。政治を趣味とした実務家の平民宰相原敬。最晩年で得た総理の座で暗殺された挫折の政治家・犬養毅。軍部の独走に敗れた自由主義者で最後の元老・西園寺公望。それぞれの説明は以上のようにまとめられるだろうか。

伊藤博文大隈重信。どちらも親分肌ではなく派閥をつくらなかった。山県と原との違いである。

伊藤博文山県有朋。反目した伊藤と山県は対照的だった。「藤公は冬日の如く愛すべし、隈公は夏日の如く畏るべし」。

犬養毅尾崎行雄。憲政の神様といわれた犬養と尾崎。謀将が思いがけず大将となり暗殺された東洋趣味の犬養、ハイカラ趣味で華やかであったが次第に消えて行った尾崎。

西園寺公望近衛文麿。世界的視野を持ち、名門出身らしく「時流に逆らいもしなければ時流に従いもしない」スタイルを貫いたが、「種種やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね」と嘆いた西園寺。陸軍に押され続けた人気取りの近衛。

 5人の政治家の、人格と個性、長所と欠陥、価値観、政治手法が、具体的な政策や事件とのからみで記述されており、よくある乾燥した政治史とは一線を画している。まるで歴史講談を聴いているような感覚になる。

原敬内閣が誕生したのは大正7年だ。先日訪問した町田ことばランドで見かけた大正7年の「作家原稿料一覧」は、原稿用紙1枚の原稿料番付だ。 2円:坪内逍遥三宅雪嶺。福本日南。吉野作造堺利彦。1.5円~2円:島崎藤村正宗白鳥田山花袋谷崎潤一郎。1円~1.5円:泉鏡花中条百合子。1円:芥川龍之介森田草平小山内薫徳田秋声。50銭~1円:武者小路実篤鈴木三重吉有島武郎。有島生馬。80銭:与謝野晶子。70銭:与謝野寛。50銭:佐藤春夫。文壇の様子がみえる資料だ。人々は様々な政治状況の中で、このような作家たちの文学を楽しんでいたわけだ。

この5人のほとんどは私の「名言との対話」で取り上げているが岡が書いた人物像は違う面もあり、面白く読み進めた。「性格は運命をつくる」という日本の古い諺を強く意識している岡義武は、性格は個人の運命を司どり、時代と課題を通じて、国家の運命を変えるとの信念を持っていたようだ。5人を語った最後にはそれぞれ、以下のように戦後日本への示唆を述べている。「乾坤不変、古今相通、魚躍淵水、鶯飛太空」「歴史の審判」「戦後政党政治の切実な問題」「戦後わが国政治の実態」「近代日本の悲劇」。

明治から戦前までの近代の歴史とそこで主役を演じた人々の軌跡から、戦後日本への教訓を引き出そうとする姿がみえる。「性格」という観点から人物を観察するようにしている私は、人物から歴史をみようとする岡義武の研究方法に共感を覚える。

近代日本の政治家 (岩波現代文庫―社会)

近代日本の政治家 (岩波現代文庫―社会)

  • 作者:岡 義武
  • 発売日: 2001/08/17
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

「亀田武嗣の地域と食べ物塾」

YAMI大の新学科「亀田武嗣の地域と食べ物塾」の開講講義をZOOMで聞く。

肉、魚、果物、菓子など、地域との関連でものすごい情報量だ。真珠をつくるあこや貝が輸入のウイルスで危機となり五島列島で新機軸。醤油の味は違うのに量をいうレシピは疑問。日本独自の釣り文化を観光化、、、、。

note.comーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ジム:ウオーキング30分3キロとバス。

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「名言との対話」10月4日。今村均「勝ち目のない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」。

今村 均(いまむら ひとし、1886年明治19年)6月28日 - 1968年昭和43年)10月4日)は、日本陸軍軍人

宮城県仙台市出身。陸軍士官学校、陸軍大学を経て、第16軍司令官、第8方面軍司令官となり、大将に進級。ラバウルで敗戦を迎え、戦犯として禁錮10年の判決を受ける。「武将は戦術・戦略の研究と、将に将たる徳の修養のいずれも欠いてはならぬもの」とした温厚で高潔な人柄は、旧占領国の現地住民のみならず、敵国であった連合国側からも称えられた。

第16軍司令官としてジャワを攻め、9日間でオランダ軍に勝利し、1605年から300年以上続いた圧政を終了させた。北から同一種族が追い払ってくれるという現地のジョヨボヨ予言が実現したことになる。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。 かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」として政治犯スカルノとハッタを釈放した。そして学校の建設など民生に配慮した善政を敷いた。

1942年には、第8方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウ ルに赴任。米軍の攻撃を見越して田畑を整備し、自給体制を構築。また、5000人収容の病院を擁する広大な地下要塞を建設した。島への攻撃は損害が大きいとみて米軍は手出しをしなかったため、孤立無援ではあっても自給体制を整えた7万人の将兵は生き残った。ラバウル駐留軍だった漫画家の水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と後に述べている。

戦後の裁判で、オーストラリア軍に対して、「日本の将兵のなかで戦争犯罪人として処罰するものがいるならば、私一人だけを裁けばよい。将兵はみな私の部下で、私の命令を忠実に実行したにすぎないからだ。全責任は第8方面軍令司令官としての私にある」と述べた。死刑の可能性もあったが、善政の評価があり、禁固10年となった。

1950年に巣鴨へ移送されるが、「(部下 は南方の監獄なのに)自分だけ東京にいることはできない」GHQマッカーサー元帥に三度の直訴の手紙を送り、マヌス島へ戻る。マッカーサーは、「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった」と語ったという。

1954年に釈放されると、自宅の庭に三畳の掘立小屋を作り、自主幽閉生活を送った。軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら「今村均回顧録」を4年かけて出版し、印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に拠出した。若い頃住んだことのある山梨県韮崎に謹慎のした小屋が移築されている。

敗戦時に決起にはやる部下たちに「勝ち目のない戦争で部下将兵の命を失うことほど大きな犯罪はない」と考え、「君たちは、ラバウルに難攻不落の要塞を見事に築き上げた。そんな優秀な人材たちが、ここであたら命を失っては、日本の再起は覚束ないじゃないか。ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、帰国して国の復興にこそ役立ててほしい」と言い、部下の命を守った。そして戦後には部下を死地に送った責任を取ろうとした。「歎異抄」と「聖書」を座右の書とした今村均は、名将であったが、真価はむしろ戦後にあるともいえる。こういう立派な軍人もいたことを忘れてはならない。