二宮尊徳---報徳二宮神社「報徳文庫」

k-hisatune2008-08-19

栃木県今市市報徳二宮神社を訪問。

二宮尊徳相模国足柄(神奈川県小田原市)の豊かな農家に生まれたが、父母を亡くし親戚に預けられるが24歳で一家を再興。その後、小田原藩家老服部家の家政を再建。藩主大久保忠真から命じられた分家宇津家の桜町領(栃木県二宮町)の財政再建では、開墾と水利事業を行い税収を倍増させる。その評判を聞いた600以上の大名旗本家の財政再建と農村の復興事業を推進した。尊徳の唱えた「勤倹・分度・推譲」の思想は戦前の日本の模範、倫理観となった。

江戸幕府は日光神領89村の復興を命じ、尊徳は「復興開発方法論」を書く。今市市に報徳役所を設ける。その途上1856年に70歳で客死する。

尊徳を祭った神社にある尊徳の墓の隣に、尊徳の遺言が記された石碑がある。
 我が死応に近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ
ところが、世話になったこの土地の人々や弟子は、そうはいかなかったらしい。すぐさま墓を建て、そしてこの地に神社まで建ててしまった。この地においても業績をあげ尊敬されたのである。

「報徳文庫」は休みで見れないといわれたが、無理を言ってあけてもらう。2階建てで下は尊徳の胸像、言葉、資料などが保管してある。上は、報徳仕法の写本2500冊だろうか、棚にたくさんの書類が並んでいる。

世渡りの秘術は勤と倹と譲の三のみ。
人気風儀を一新するに機会あり。百戸のうち六十戸を制するときは、やがて四十戸もこれに従う
交際の道は其将棋にならえ。強い者の駒を落として相手の力と相応する程度にするのだ。
 (ゴルフのハンディキャップという考え方と同じだ)

「二宮先生真筆選集」という和紙製のを本があった。その冒頭には、編者の言があり「例外なく、反古の裏に書かれたものである」と書かれていた。尊徳の倹約の姿勢は一貫していたようだ。

私の子供のころには一円札がまだ流通していた。この一円札を使って駄菓子を買っていたが、ここの資料によると、一円札の肖像は二宮尊徳だったという。

報徳二宮神社のご利益は、学業成就、経営商売繁盛、立身出世、五穀豊穣だった。私たちは薪を背負った金次郎の姿しか思い浮かばないが、この人物は行政や地域の建て直しのプロである農政家だったのだ。だから経営商売繁盛が入っているし、五穀豊穣が入っているのだ。

二宮尊徳の記念館は、出身地の小田原にあるが、5月17日に栃木県二宮町大字物井2013−2に二宮尊徳資料館が出来たという知らせが貼ってあった。0285−75−7155。