北海道の命名者-「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展。

京橋のINAXギャラリーは面白い。
一階の書店には建築関係の書籍があるということだが、実際に行ってみると、建築、インテリア、デザインの本以外にも、美術、音楽、旅などのテーマの選び抜かれた良質の本が並んでいる。一般の書店などとは品格が違う。こういう書店は珍しい。ということで目当ての企画展の前に思いがけず時間を使った。
INAXは愛知県常滑市に本社のある建材商品やトイレ、キッチン、ユニットバスなどの住宅機器設備の製造・販売会社であるが、文化活動にも熱心で、INAXギャラリーを運営し、出版やギャラリーの運営も行っている。トステムなども傘下に収める住生活グループが親会社である。どこかで聞いたことがあると思ったら、プロ野球・横浜の買収で名前の出た企業だ。文化活動からスポーツにまで裾野を広げようとしたのだろう。

小ぶりのギャラリーがいくつかあり、展覧をやっていたが、メインのギャラリーでは「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展を開催していた。実に渋い企画である。

松浦武四郎(1818-1888年)は、伊勢松坂で生まれた幕末の蝦夷地探検家で、「北海道」の名付け親である。明治政府開拓使判官であったときに、北加伊道という名前を提案した。それは、「日本の北にある古くからのアイヌの人々が暮らす広い大地」という意味である。それをもとに現在の北海道という名前が生まれたのである。この人物はアイヌに深い共感と同情を寄せており、アイヌからもっとも信頼された人物だった。

この人は興味が広く、そして一日に60キロを歩くという健脚の持ち主であり、日本全国を歩き、その見聞を野帳に書きつけ、それをもとに240冊を超える著作を残した。

同時代の吉田松陰は、この盟友を「奇人で強烈な個性の持ち主」と評した。
三重県伊勢松坂は、お伊勢参りの旅人が通る街であり、そういう旅人に大いに刺激を受けて、諸国をめぐる旅に興味を抱く。16歳の時には家出をして江戸への一人旅を敢行している。後の長崎への旅では、僧侶にもなっており、壱岐対馬にわたり、そこから朝鮮、中国、インドを目指そうとしたが当時の鎖国の中で果たせなかった。
その長崎で蝦夷地をロシアが狙っているとの情報を聞き、自身で蝦夷地を探査することを決意する。まず蝦夷地の様子を明らかにして多くの人に伝えようとしたのだ。熱血漢でもあり、志士として活動をしたということだろう。
28歳で最初に蝦夷地に入り、41歳までの間に6度の蝦夷探検を実行して、151冊の調査記録を残している。この探検を通してアイヌ民族への深い理解と、そして日本として彼らを保護すべきであるといいう信念を持った。
この人の凄さは、伴も連れずにたった一人での探検行であったことに現れている。蝦夷地の南を踏破した伊能忠敬、北を探った間宮林蔵に対して、松浦武四郎は内陸を探検した。そしてまるで空から見下ろす形で頭の中に地形をおさめ、アイヌから聞いた土地の名前を書き留めた。そして、ケバ描法を用いた地図、鳥瞰図、紀行文、地名一覧、アイヌ伝説、アイヌ語一覧、双六などの大量の出版物を刊行している。協力してもらったアイヌの人々の名前も記している。紀行文は11種23冊が残っている。圧政に苦しむアイヌの人々の実情を記した「近世蝦夷人物誌」も書いている。

探検という行為は、計画、実行、報告というプロセスがあり、最後の報告が重要なのだが、松浦武四郎の報告は尋常な量ではない。この人の歩いた足跡を記した地図を眺めると、日本全国を歩いているが、その地方地方では山々をほとんで踏破しているのも驚きだ。「鉄の足」と称されている。71歳の最後の登山は名峰・富士山だった。ものすごいエネルギーの持ち主だったことは間違いない。

松浦武四郎は、神田の住まいを終の棲家とし、この家の東側に8年余りの歳月をかけて書斎をつくりあげた。それはわずか一畳の畳と、これを縁取る畳寄せからなる簡素な部屋であった。宮城県から宮崎県から91の古材を集めで、つくった書斎である。一日中ここで過ごしたのは、全国各地の縁のあった友人たちの協力で集めた古材に囲まれながら、来し方を振り返っていた。

この一畳敷は、自分の死とともに取り壊せという遺言だったが、そうはならなかった。いくつかの持ち主の変遷を経て、現在は国際基督教大学の構内で保存されている。それはこのINAXギャラリーで公開されたのである。

「我若きより一つの行李を肩にし、六十余州蝦夷樺太まで踏?し、後当地に、、」
「是また其友を朝夕に是は誰より、かれは誰よりと其人々を思ひ出る種にして、其友の厚き志を忘れず、其人々の言行ひの目出度ことを人々にも語らまほしき心はかりにて、敢え後々まで伝はれとて作りなせるにはあらずと。」

松浦武四郎という人物は、方々を旅し、探検したが、最後はたった一畳で人生の思い出を抱きながら死んでいった。実に興味深い。もう少しこの人物を追ってみたい。

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星野富弘相田みつを 花の詩画と書の世界」展。

どうでもいいものは どうでもいいんだよ いちばん大事なことに 一番大事ないのちを かけてゆくことだ(みつを)
いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった。いのちより 大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった(富弘)
雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を(みつを)
道は自分でひらく 人のつくったものは 自分の道とはならない。(みつを)
美しいものを 美しいと おもえる あなたの心が 美しい(富弘)
あのねえ 自分に エンジンを かけるのじゃ 自分自身なんだ からね(みつを)

「もし、自分が若いうちに世に認められていたらどうだっただろうか。力もないのにちやほやされて、あっという間にダメになってしまっただろう」(みつをの息子・相田一郎の父の思い出)
禅宗のお坊さんは自分が修行して得た心境を「詩げ」(しげ)という漢詩の形式で表現する。国語版の「詩げ」、これが私の詩です。(みつを)

相田みつをは、60歳で「人間だもの」を処女出版。これが後にミリオンセラーになる。遅咲だ。相田みつをの言葉には若いころの短歌修行の影響があるように感じた。
相田みつをは、書と詩。星野富弘は、画と詩。