二大政党制の結末--「日本近代史」(坂野潤冶)

坂野潤冶「日本近代史」(ちくま新書)。

日本近代政治史が専門の東大名誉教授が文字通り丸一年をかけて執筆した1857年から1937年までの80年間の歴史である。原稿用紙600枚を超える労作である。

日本近代史 (ちくま新書)

日本近代史 (ちくま新書)

公武合体の「改革期」、尊王倒幕の「革命期」、殖産興業の「建設期」、明治立憲制の「運用期」、大正デモクラシーの「再編期」、昭和ファシズムの「危機期」、大政翼賛会の「崩壊期」がこの80年間の著者による時代区分である。崩壊期は1937年の日空戦争から始まり、1941年から1945年の太平洋戦争で終結する。

西郷隆盛の戦略は有力藩主間の協力と各藩有志の横断的結合を「勤王」の旗印の下に実現しようとしたものという見方は説得力がある。長州など「尊王攘夷派」を味方につけながら、そこから「攘夷」が落ちるのを待つという方針だったのだ。攘夷とは外国との戦争をするという意味ではなく、国民の志気を指すものだという横井小楠と同じ考え方である。攘夷と開国の問題を棚上げにした「尊王倒幕」勢力を結集しようとした。

全藩主が上院を形成し、家臣層が下院、つまり衆議院を形成する。これが西郷の唱える合従連衡だった。
王政復古後に定められた議定と参与は、議定が上院、参与が下院だった。有力藩の藩士たちで構成する参与は観兵式で行進した薩長土芸の実質的な指揮者だった。この人々が参与として政府に入ることになり、軍事力を背景に実権を握ろうとした。ところが徳川家が議定筆頭の地位につけば政府の主導は上院が持つ可能性がでてくる。
幕府と薩長が武力対決をしなければ新政治体制は決まらない。そこで西郷は、江戸無血開城で官軍が勝利した後も、半年間におよぶ東北戦争が起きるように仕向けた。その勝利によって幕府支持勢力の一掃をはかり、領地を没収した。

これが改革期から革命期を指導した西郷の戦略の筆者の見立てである。

再編期以降では二大政党制についての分析が興味深い。
ここでは平民宰相と呼ばれた政友会の原敬が主役である。
1901年に星亨の後を継いだ原敬は、政友会を一貫して与党・準与党の地位に付けてきた。藩閥の桂太郎と政友会総裁の西園寺公望の二人の政権のたらいまわしだ。この協調路線の本質は政友会以外の政党を政権につかせないことであり、むしろ一党優位の方針だった。
1913年に留学を終えて帰国した吉野作造は、時代の要請を「普選」と「二大政党制」に絞って大きな影響を与え、民本主義を唱えた。原敬は、その二つに敵対し勝利を収めていく。

1925年以来、憲政会(民政党)と政友会は外政と内政の双方で違いが明確になってきた。
「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と「侵略と天皇主義」の政友会である。
1925年の第二次加藤高明内閣から30年代にかけてこの二大政党は政権交代を繰り返した。
外交・憲法問題、経済政策の争点は明確であったから、政友会が政権につけば積極政策、憲政会(民政党)が政権につけば健全財政と言う変更が二年毎に起こっていたのだ。

二大政党が争っている間に、大恐慌が起こるなど経済は疲弊し、混乱した。
この間隙をぬって二大政党は想定外の第三勢力に直面した。
陸軍、海軍、民間右翼の間での横断的結合が生まれたのである。昭和維新である。
1931年の満州事変、1932年の上海事変と5・15事件(犬養首相暗殺)、1936年の2・26事件(斉藤実内相暗殺)、など軍部のクーデタが起こり、1937年の盧溝橋事件から始まった日中戦争につながっていく。1936年の2・26事件以降1945年の敗戦まで、政党内閣は一度も成立していない。
この間、政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界、などはまったく異議申し立てをしない状況になった。まさに、崩壊が始まったのだ。昭和維新は危機を深化させ、崩壊をもたらした。

毎日少しづつ時間をかけて読み進めてきたが、日本近代の姿の全体像が見えた感じがある。
「日本近代史」は、明治から敗戦にいたる過程を興味深い仮説を軸に検証している著書のライフワークだろう。3・11以降の日本への警世の書である。

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