「40文字でわかる! 今さら聞けないあの企業のビジネス戦略35」(久恒啓一、多摩大・図解アルチザン)が、kindle総合ランキングで1位を獲得した。
多摩大の大学院OBと一緒につくった電子本で、紙の本としてもオンデマンドで入手できる。総合トップとは素晴らしい。
「名言との対話」10月26日。伊藤博文。
「不断にあらず、容易に断ぜずなり」
- 伊藤 博文(天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。幼名は利助(りすけ)、後に松下村塾で師の吉田松陰から俊英の俊を与えられ俊輔と名乗った。大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代(44歳。史上最年少)・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させた。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された。享年68。
- 師の吉田松陰の無残な死骸を江戸回向院で引き取る体験は、死生観に大きな影響を与えた。
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慶喜に生涯仕えた渋沢栄一は、明治34年頃に伊藤博文との交わした会話を記している。伊藤は、「今にして始めて其非凡なるをし知れり」といい、慶喜公に「維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問い試みたり」、「唯庭訓を守り氏ひに過ぎず。、、、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわすること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、、」。慶喜の行動はこのような教えに基づいていたならば理解できる気もする。慶喜は水戸藩の後継者だったのである。
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山口県萩市の伊藤博文旧居は伊藤は14歳から28歳までの14年間を本拠とした家。萱葺きで7室。89.52へーべ。典型的な下級武士の家。出生石。伊藤別邸は、土地1309.76へーべ。荏原郡大井村、今の品川区にあった家を移築したもの。伊藤が明治天皇から下賜された恩賜館が憲法記念館となり、現在の明治記念館となった。
- 伊藤は吉田松陰、高杉晋作、大久保利通等の薫陶を得ながら、明治国家の建設に関わる数々の仕事をこなしていった。自分がものごとを容易に決めないのは、決断力がないということではないのだ。政治には熟慮が必要であり、血気の中にものごとを簡単に断定してはならないのだ。冒頭の伊藤の言葉には、決断に細心の注意を払った姿がある。師と仕事に恵まれ、時代とともに成長を続け、明治日本の大立て者になった伊藤は、熟慮断行の人であった。
「副学長日誌「志塾の風」161026」
午前
- 奥山先生
- 学部運営委員会:教授会打ち合わせ
- 教授会
- 金先生
- 松本先生:スケジュール調整
- 酒井先生
午後
- プレゼミ:多摩祭準備
- 杉田先生
- 森島課長:志入試センター会議
- 杉本係長:戦略会議
- 高野課長