東京国立近代美術館「安田靫彦展」−−品位と気韻生動

東京国立近代美術館安田靫彦展」。

安田靫彦(1884-1978)は、岡倉天真の直接指導を受けた最後の世代の日本画家。
15歳から80年に及ぶ画業をなし、94歳で没する日本画界の巨匠。64歳で文化勲章を受章。
教養と造形力を武器として、武者絵や人物画で構成される歴史画に挑んだ。
「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」として、古典芸術に学んだ。
対象の人間性に迫るために、有職故実や古典の知識を総動員していった。
「国家の力が充実し国民の精神感情の最も高まった時代のものほど、永遠の輝きを芸術の上に遺している」

美しい線(鉄線描)、澄んだ色彩、無駄のない構図。
端正な線描、図と余白による緊密な構成、澄明な色彩。

安田靫彦は、日本画の洗練と成熟を体現した芸術家だった。
「時代性をあたえ、更に近代感覚を盛ることはなかなかの難事である」

戦時中には「昭和聖代を表現するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」として、戦意高揚の絵を多数描いた。
日本画も時に望んで進んで国策の役目を果すことは当然必要と思ひます」という安田は、国の文化行政にたずさわる立場に身を置いた。敗戦によって価値観が一変し、日本画は容赦のない批判にさらされ、多くが主題を変えるなか、安田は動じることなく歴史画を描き続けた。その態度は一貫している。

この人の日本画をみた後にはすがすがしい感覚が残った。気韻生動ということだろう。
「品位は芸術の生命である。気韻生動は、、、芸術に共通の本願である」という主張が実現しているからだ。
同時代の速水御舟は「安田さんの芸術の特色は馥郁たる匂ひにあると思ふ」「ああいふ芳香を放つ芸術」と語っている。

風神雷神図」−−少年のようなはつらつとした姿。鬼になる前を描いた。
「鴨川夜情」−−田能村竹田(1777ー1835)、頼山陽(1781ー1832)、青木木米(1767ー1833)
「花づと」−−長女・えつ子がモデル。
遣唐使
木曽義仲
「守屋大連」
聖徳太子
今村紫紅
項羽
「春暁」
良寛和尚」
「源氏挙兵」
「黄瀬側陣」−−頼朝と義経
王昭君
「大観先生像」
「伏見の茶亭」
源氏物語
卑弥呼
「出陣の舞」−−信長
「倭健命」
山本五十六元帥像」
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「名言との対話」4月3日。小林古径

  • 「音のする盆をかくのは大変だ。写実というものも、そこまで行かなければ本当の写実ではない」
    • 小林古径は17歳から絵画展に出展し一等褒状を連続して獲得する。岡倉天心の紹介で、安田靫彦と原三渓の援助を受ける。67歳、文化勲章、そして翌年に文化功労者を受けているのは珍しい。ほぼ同世代の安田靫彦が94歳の長寿を恵まれたのに対し、古径は74歳で4月3日に永眠。その差は20年あった。
    • 天心からは「モットモット高い所、結局信貴山縁起位まで遡って標準を置いて見よ」と指導を受け、「絵というものの大義」を教えられて、一生の信条となった。
    • 6歳下の弟弟子の奥村土牛(1889−1990年)は、「先生の絵を拝見するとわたしは先生と対座しているような気がします」「古径先生の美しい御人格に打たれて、こんなにも清らかな世界があるものかと驚いた感激は忘れることができません」「先生ほどの高潔な人がこの世に何人いるだろうか」「ご自分に厳しく、人に優しい方であった」と述懐しているほどの人格者だった。また土牛は「今日私の座右の銘としている−−絵のことは一時間でも忘れては駄目だ−−という言葉は、その頃先生(小林古径)からいただいたものです。」と慕っている。
    • 音がでる、馥郁(ふくいく)たる匂いがたつ、確かに岡倉天心がかろうじて守り発展させた日本画の名人たちの絵にはそういう雰囲気がある。どこまでも突きつめていくと、そういう境地にまで達するのであろう。