世田谷文学館「「山へ! to the mountains」展--日本百名山、世界百名山

世田谷文学館「山へ! to the mountains」展が開催中だ。

展示構成は、山と何かを掛け合わせるという方法をとっている。文学(深田久弥)から始まり、植物(田辺和雄)、建築(吉坂隆正)、日常(田部井淳子)、漫画(坂本真一)、先駆者(小鳥烏水)、そして日本山岳会の歩みもある。

世田谷と縁のある日本山岳史を飾る人々の言葉を拾ってみたい。

名著「日本百名山」を書いた深田久弥(1903ー1971年)が主役だった。深田は金沢から1955年に世田谷区松原に引っ越している。52才から68才で茅ヶ岳で斃れるまで住み「九山山房」を根城とした。深田は百名山を選ぶにあたって3つの基準を設けている。「山の品格」「山の歴史」「山の個性」である。そして1500m以上。

「山のような人間にならねばならぬ。山のような文書を書けるようにならねばならぬ。

「百の頂に百の喜びあり」

「感動的な素晴らしい景色は、易々と手の届く様な所には置かれていない。最も輝かしいっものは、最も困苦を要する所にある。それは人生によく似ている」

山岳写真では富士を撮った岡田紅陽、田淵行男南アルプスの白籏史朗、白川義員があげられている。白川には「世界百名山」という写真集がある。選んだ基準は「品性と格調」「独自の風格」「人類の精神史」「信仰」「標高」「有名」などだった。深田久弥日本百名山」に刺激を受けたのだろう。(品性と格調が「品格」だ)

「近代登山の夜明け」というコーナーでは、1894年に『日本風景論』を出版し、「登山の気風を興作すべし」と呼びかけた志賀重昂、『日本アルプス 登山と探検』を著した英国の宣教師・ウェストン、1905年の日本山岳会の創立に尽力した小島烏水、、、。日本山岳会の年表の中に、2007年12月、松本征夫「カンリガルポ山群の調査と研究」という項目を発見した。松本先生は九大探検部の顧問で可愛がってもらった人である。

建築の吉坂隆正(1917ー1980年)。今和次郎に師事。コルビュジェのアトリエで働く。日本山岳会理事。日本建築学会会長。

「地域の問題は、とにかく人の問題が根本、理論よりも組織よりも、土地を愛する一人の人間が現れること、あるいはそういう人を育て、発見し、盛り上げていくことが肝心だ。やはり愛です。愛がなければ都市は良くなりません」(「建築文化」1981年)

七大陸最高峰登頂者(女性世界初)の田部井淳子

「一番大切なものは、本当にいくんだ、本当にやるんだという意志なんです」

「ヒマラヤ登山に必要なことはマネジメント能力、事務能力、協力精神、ユーモア、そして特技なのだ」

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常設展。

・ムットーニのカラクリ劇場。「夢十夜」「アローン・ランデブー」

・詩と詩論の雑誌「無限」1959ー1983年。最初の編集責任者には村野四郎と草野心平が入っていた。

竹久夢二「私は詩人になりたいと思った。けれど、私の詩稿はパンの代りいはなりませぬでした。ある時、私は文字の代りに絵の形式で詩を画いてみた。それが意外にもある雑誌に発表せらるることになったので、臆病な私の心は狂喜した。」

 

「名言との対話」7月17日。山川健次郎:「己が専門の蘊奥を極め、合わせて他の凡てのことに対して一応の知識を有して居らんで、即ち修養が広くなければ完全な士と云う可からず」

山川 健次郎(やまかわ けんじろう、1854年9月9日安政元年閏7月17日) - 1931年昭和6年)6月26日)は明治時代から昭和初期にかけての日本物理学者教育者男爵理学博士

会津藩の白虎隊から始まり、17歳でアメリカ留学、エール大学に学び物理学を専門とする。32歳で帰国後、東京帝国大学(48歳、52歳)、九州帝国大学(58歳)、京都帝国大学(61歳)の総長をつとめ、東京理科大の創設にかかわる。退官後も、武蔵高校武蔵大学。73歳)、明治専門学校(九州工大)の校長、総裁をつとめた。

「日米戦争などまったくばかげておる。そういうことをいう者は浅薄で思慮のない者どもである。日米双方にとってまったく益のないことであり、両国の識者が話し合うべきだ」

山川は清廉潔白はな人柄であった。住まいは破れ別荘のごとくなっていた。宴会には出席しないし、講演会では報酬を受け取らない。また一つのことを成し遂げると、弟子に譲る。弟子が有名になる。田中館愛橘長岡半太郎などが弟子であるり、その流れがノーベル物理学賞湯川秀樹朝永振一郎につながる。そういう人物だった。会津の「十の掟」と海外留学が山川をつくり、日本の教育界を形づくった。

山川健次郎の冒頭の言葉は、深い専門と広い知識を持つこと、そのために日々精進することが人物たることの条件であることを述べているように思う。「教養と修養」である。