星亮一「山川健次郎伝」--「フロックコートを着た乃木将軍」

星亮一「山川健次郎伝」(平凡社)を読了。

山川健次郎伝―白虎隊士から帝大総長へ

「星座の人」「フロックコートを着た乃木将軍」と呼ばれた教育者・山川健次郎の伝記。

会津藩の白虎隊から始まり、17歳でアメリカ留学、エール大学に学び物理学を専門とする。32歳で帰国後、東京帝国大学(48歳、52歳)、九州帝国大学(58歳)、京都帝国大学(61歳)の総長をつとめ、東京理科大の創設にかかわる。退官後も、武蔵高校武蔵大学。73歳)、明治専門学校(九州工大)の校長、総裁をつとめた。1931年78歳で逝去。

物理学関係では、田中館愛橘長岡半太郎を弟子として育てた。その流れが湯川秀樹朝永振一郎につながる。男爵。

山川健次郎は、賊軍の会津出身であったが、人の縁といくつかの幸運に導かれて教育界に大きな足跡を残した。傑物であった兄の山川浩東京高等師範学校の校長をつとめるなど、山川家は教育界に大きな貢献をしている。妹・捨松は大山巌夫人。

 

山川健次郎の人となり。

  • 清廉潔白。住まいは破れ別荘のごとく。宴会には出席しない。講演会では報酬を受け取らない。
  • 一つのことを成し遂げると、弟子に譲る。弟子が有名になる。
  • 全国各地の学校で講演。最多は1年間30回。一日3回。

山川健次郎の言葉。

  • 「およそ世の中で戦争ほど悲惨なものはない」
  • 「日米戦争などまったくばかげておる。そういうとをいう者は浅薄で思慮のない者どもである。日米双方にとってまったく益のないことであり、両国の識者が話し合うべきだ」

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相模湖カントリークラブで弟とゴルフ。

最後に雨が降ってきたが、美しい黄葉・紅葉を楽しみがらラウンド。

調子は悪かったが、18番のパー5で気合いを入れてパー。次につなげたい。

「かぶせる」、ことを忘れずに。

弟はアウト43で90を切るのではないかというほどのスコアだったが、インでは乱れた。

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「名言との対話」11月21日。森信三。

「人はすべからく、終生の師を持つべし。真に卓越する師をもつ人は、終生道を求めて歩き続ける。その状あたかも、北斗七星をのぞんで航行する船の如し。」

森信三(/1896年9月23日-1992年11月21日は、愛知県出身の教育者大学教授哲学者天王寺師範学校(後の大阪教育大学)の専攻科講師を経て、1939年に旧満州の建国大学に赴任。敗戦後の1946年に帰国し、翌年に個人雑誌「開顕」を創刊。その後、神戸大学教育学部教授や神戸海星女子学院大学教授などを歴任。1975年に「実践人の家」を建設。全国各地で講演を行ない、日本民族再生に大きく働きかけた。

  • 例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたらもうだめなんだ。
  • 一日は、一生の縮図なり。
  • 一眼は歴史の彼方を、そして一眼は却下の実践へ。
  • 己を正せば、人はむりをせんでも、おのずからよくなっていく。
  • 結局最後は、「世のため人のため」という所がなくては真の意味で志とは言いがたい。自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。
  • 天下第一等の師につきてこそ人間の真に生き甲斐ありというべし。
  • 一人の卓れた思想家を真に読み抜く事によって、この見識は出来るものなり。同時に真にその人を選ばば、事すでに半ば成りしというも可ならむ。
  • 人間は何人も自伝を書くべきである。それは二度とないこの世の「生」を恵まれた以上、自分が生涯たどった歩みのあらましを、血を伝えた子孫に書き残す義務があるからである。

師を持て。第一等の師を探せ。それが見つかったなら、その師の思想を読み抜き見識を磨け。その師を満天の星空に不動の位置をしめる北斗七星として人生を航行すべきである。教育者・森信三の言葉には感銘を受けるものが多い。

 

「副学長日誌・志塾の風161121」

夜は、多摩信用金庫の長島部長との懇親会。

松本先生と高野課長が同席。

連携を深めるアイデアなどを楽しく語り合う。