草津片岡鶴太郎美術館。浅見光彦記念館。ル・ヴァン美術館(西村伊作)。軽井沢草花館(石田功一)。

 草津片岡鶴太郎美術館。

f:id:k-hisatune:20170807191325j:image

片岡鶴太郎は1954年日暮里生まれ。

お笑いから入り、テレビのバラエティー番組、映画などに進出した。テレビでは「俺たちひょうきん族」。1987年には映画「異人たちの夏」。同じ時期にプロボクシングのライセンスを取得した。映画の分野では、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞毎日映画コンクール新人賞、キネマ旬報助演男優賞ブルーリボン助演男優賞などを獲得している。独学の絵画では1915年には初の個展「トンボのように)を開催。

「絵も芝居も拳闘もすべて門外漢。無学なままにその道に身を投げるしかなかった。無学だからそっと小声で教えてくださる方がいた。後は自分の求む気に委ねるだけ」

 

 

 軽井沢

浅見光彦記念館。 浅見光彦シリーズの著者内田康夫がつくった架空の人の記念館だ。

浅見光彦の愛車ソアラがみえる。

f:id:k-hisatune:20170807191430j:image

 浅見光彦は永遠に33歳だえるが、著者の内田康夫は生身の人間だから年を重ねる。

内田は1934年生まれ。現在は、脳梗塞で左半身麻痺で休筆中。 浅見光彦友の会や内田康夫財団等が存在しているとは面白い。

浅見光彦シリーズは現在までに116冊。内田康夫の著書は全部で163冊を数える。内田康夫はデビューが遅く、46歳から36年間の執筆生活である。自身でも遅咲きと自覚している。

f:id:k-hisatune:20170807191545j:image

 

 ルヴァン美術館。

友人の渡辺さんがフェイブックで勧めていたので、急遽訪ねる。浅見光彦記念館の近くだった。ルコルビジェ西村伊作の作品を展示していた。f:id:k-hisatune:20170807193815j:image

西村伊作(1884-1963)は1921年に謝野晶子夫妻、石井柏亭柏亭と一緒に文化学院を創設した。1946年には院長になる。

 日露戦争時には戦争非協力者であった。また住宅革命の旗手であった。そして1923年には林源十郎が中心人物であって推進した倉敷教会を建てている。

「若い時、いろいろ知る。読書、経験、思考。年取ると、勉強しないで若い時に得たものを持って考える。若い時、いろいろなことを知るだけでなく、いろいろなことをするのがよい」

 

 軽井沢草花館。

この小さな館には、天皇皇后両陛下が何度も訪問されている。「かの町の野にもとめ見しゆうすげの月の色して咲きゐたりしが」は美智子皇后が平成15年の年頭に詠んだ歌である。

石川巧一(1937-2007年)は、1000種の自生植物のスケッチ3,000枚余を描いた。

「草花の永遠の命を残したい」

f:id:k-hisatune:20170807191621j:image

自画像。

 

 

 「名言との対話」8月7日。武見太郎「次のような人は順番にかかわりなく、直ぐに診察します。一、特に苦しい人、一、現役の国務大臣、一、80歳以上の高齢の人、一、戦時職務にある軍人」

武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。

 戦後の厚生行政に於いては厚生官僚との徹底的な対決を行うなど、「ケンカ太郎」との異名をとった。また医師会内部では独裁的な権力を手にして、薬剤師会、歯科医師会を含めた三師会に大きな影響力を持ち、「武見天皇」とまで呼ばれた。私もこの人の立ち回りの勇姿は新聞などでよく知っていた。日本医師会会長の25年は歴代1位で、2位は初代会長の北里柴三郎の15年である。どちらも長期にわたって信任を受けていた証拠だ。

戦時中、そして戦後も、銀座4丁目の武見の診療所に貼ってあったのが冒頭の方針を書いた張り紙である。幸田露伴西田幾多郎鈴木大拙幣原喜重郎などもかかっていた。この張り紙のとおり、近衛文麿首相も首相を辞めた後は、行儀正しく順番を待っていたらしい。実際の診療場面では意外にやさしかったらしい。「ぼくがすれば痛くないよ」と声をかけながら診察を進めた。軽いスキンシップをしながら、いつもニコニコして「大丈夫、大丈夫」と声をかけた。患者の質問には丁寧に答えた。ケンカ太郎は、また情けと涙の人でもあったことがわかる言葉でもある。