衆院選ドラマと主役たちの「出処進退」

今回の衆院選はドラマチックだった。

結果は与党の安定政権の継続であったが、対抗軸としてもう一方の旗が明確に立った。

首相への疑念、突発的解散、希望の党の出現、民進党の希望の党への合流、排除と選別、立憲民主党の立ち上げ、希望の党の失速、そして自公大勝・希望完敗・立憲大躍進、、、。

この過程で私たちが目撃したのは、政治の舞台で踊る人々の「出処進退」の姿であった。誰が本物で、誰が偽物か。巧言令色で見えていなかった本当の心や精神が白日のもとにさらされたのである。

利己、野心、奢り、離反、打算、、、、。疾風怒濤の嵐の中で、主役たちの覚悟と決断が透けてみえた一大ドラマであった。リーダーのあるべき姿、フォロワーシップのあり方、人間としての器量の大小、志の固さ加減、誠実さの程度、情勢分析力、そして決断力と実行力、次に向けての戦略と戦術、、、、、。

このドラマと今後の展開には、人の生き方を考えさせる材料が満載となるだろう。

 

「副学長日誌・志塾の風」171023

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「名言との対話」10月23日。「天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ 嗚呼荒城のよはの月」

土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日明治4年10月23日) - 1952年昭和27年)10月19日)は、日本詩人英文学者

質屋という商売には学問は要らぬという祖父から進学を止められた晩翠は、日本最初の和英辞典をつくった斉藤秀三郎の仙台英語塾に入る。その後、第二高等学校から東京帝大文学部にすすむ。30歳で故郷に帰った晩翠はその後3年間のヨーロッパ留学期間を除き、仙台で生活をする。64歳で定年になるまで続けた優れた教師としての仕事と、影響力のある著作の執筆にその生涯を費やした。1949年には仙台名誉市民、1950年には詩人として初めての文化勲章を受章している。2005年に晩翠草堂を訪れたとき、仙台には晩翠の教え子たちで構成されたこ晩翠会という会がまだ健在であると聞いて驚いた。事務局は仙台近代文学館にあるとのことだ。

晩翠草堂に掲げてある写真の中で、もっとも惹かれたのは「晩翠と教え子たち(二高教室にて)」という写真だ。壮年の晩翠を真中に50名ほどの高等学校生が笑顔で取り囲んでいる。敬愛された素晴らしい先生であったことをうかがわせる写真である。「教師・土井晩翠(吉岡一男)」というエッセーには「全国から来る学生の面倒を見たり、卒業してからの相談にのるなど学校内外でも尊敬される先生でした。」「人生を教えてくれる名物先生でした」とある。晩翠の自宅は太平洋戦争の空襲で3万冊の蔵書とともに焼けてしまった。それを見かねた晩翠の弟子たちがお金を集めてつくってくれたという曰くつきの家で今日の晩翠草堂である。

晩翠草堂には二部屋あり、ベッドのある寝室には「酒という文字を見るさえうれしきに のめといふ人 神か仏か(読み人知らず)」という自ら書いた書があった。酒好きだったのだろうと親しみを覚えた。築館出身の白鳥省吾の書いた額が飾ってあり晩翠に「詩聖」という言葉を贈っている。晩翠は求めに応じて200以上の校歌の作詞もしている。昭和35年からは、晩翠賞と児童賞(東北6県)が続いている。

案内のおじさんは的確な知識とあふれる熱意で説明してくれて感心したが、この草堂は仙台市の持ち物でもあり、「窓口サービスアンケート」の結果を張り出してあった。5点満点で4.87という高得点であり、そうだろうと納得した。

晩翠には第一詩集「天地有情」、「曙光」「暁鐘」「那破翁」「東海遊子吟」などの優れた作品がある。一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞だろうか。その4番を自分なりに訳してみよう。

「空の月は永遠にかわることなく存在している。栄枯は盛衰するという人の世の姿。月はそれが真の人の世の姿であると示そうとしているのであろうか。今は荒れ果てた城には栄えた時代の光はなく、ただ夜半の月だけがみえる。」