インターゼミ(社会工学研究会)

インターゼミ(社会工学研究会)。

・新人の自己紹介

・バートル先生(国際交流)・金先生(アクティブラーニング)

・学長講話

薬師寺法相宗。仏教の5識、、。動物と人間。DNA1.04%の違い。機械と人間。2025年シンギュラリティ。認識(recoginaize。記憶・計算)と意識(consicous)。人間は木から落ちた猿。二足歩行。脳の発達(1.5キロ)。1.04%は言語とコミュニケーションに関する部分。人間の不合理・愛情。田舎の高齢は農業と宗教(神社・杜)。7.7万の寺院のうち2万は住職がいない。檀家がいない。廃寺へ。都市郊外型高齢化と宗教。新中間層の精神的支えは何か。ベッドタウン。日本人の拠り所は何か。ネットワーク。多摩の戦後人。中心概念なき人びと。ボウフラ的人生。思想・宗教・哲学。

・各班でのミーティング

f:id:k-hisatune:20180519173538j:imagef:id:k-hisatune:20180519174225j:imagef:id:k-hisatune:20180519173543j:imagef:id:k-hisatune:20180519173556j:image

f:id:k-hisatune:20180519173657j:image

 杉田学部長の車で意見交換しながら帰宅。

---------

「名言との対話(平成命日編)」5月19日。中埜又左エ門「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」

七代目中野(中埜) 又左衛門(なかの またざえもん。本名は中埜政一。1922年11月28日-2002年5月19日)は、日本の経営者。半田市名誉市民。

中野(中埜) 又左衛門は、尾張国半田(現在の愛知県半田市)の醸造家で、ミツカングループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名である。初代は1804年(文化元年)中野又左衛門家を興した。200年以上を経て、現在のミツカンは売上高2486億円(2016年度)、従業員2900名の大企業となっている。

1952年、六代又左衛門の後を継ぎ長男の政一が中埜酢店の社長に就任する。30歳の政一が社長になってまっ先に手がけたのは、酢の全面びん詰めである。そための高額な機械の購入など資金が必要だった。戦後の農地解放などで、資産の大半を失っていた中埜酢店や中埜家には余裕はなく、融資を受けるために複数の銀行を奔走した。

 1954年にはオートメーションによるびん詰めがスタート。さらに1956年には卓上酢びんを開発する。徹底した生産の合理化を推し進めるとともに、東京工場、福岡工場、大阪工場、栃木工場を次々と新設していった。高度成長期には「100%醸造ミツカンだけ」、「この子には、まじりけのないものを与えたい!」のキャッチフレーズで純正食品キャンペーンを展開し、確かな品質と安全性を訴えた。さらに、食生活の変化をいち早く捉えて、味ぽんやドレッシング、中華調味料、おむすび山などの新製品を開発し、次々に世に送り出してヒットさせ、ミツカングループを今日の総合食品メーカーへと押し上げた。

1971年にはサンキストグロワース社との提携をスタート。1977年には「ナカノUSA」を設立。米国の食酢有力企業AICを買収して本格的なアメリカ進出をはたし、東部や中西部でも買収を進め、全米有数の食酢企業となった。七代目は1983年の年頭挨拶で「売り上げ1千億円達成」を唱え、その目標も1993年頃には達成している。創業から200年を超えたミツカンの歴史の先には、“世界”という地平が広がっている。

1960年の七代目の襲名にあたり又左衛門を又左エ門に改めると発表した。「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」という理由だった。歴史的な名前をそのまま受け継ぐのではなく「新しいミツカンを作り上げていく」という決意の表れだった。七代目は自らの名前を書くとき、見るときには、この決意を思い出していたであろう。初心を忘れないように自らを励ます仕掛けだったのだ。その心意気が七代目を「中興の祖」に押し上げたのである。